2008年5月17日 (土)

佐藤優と<左派の崩壊>

「「もう牛を食べても安心か」と「疑似科学入門」」の続きを書く前にネットを巡回していたら、kom’s logで

金光翔さんはこの論文を書いたことで勤め先の岩波で叱責を受け、編集から校正に左遷されているようである

ということを知り、ビックリしている。

左派の失策と<佐藤優現象>

金光翔の論文はこちら。

金光翔「<佐藤優現象>批判」(『インパクション』第160号(2007年11月刊)掲載)

実は、佐藤優に関してはちょっとだけ取り上げようと思っていて、『インパクション』もネタとして買ってあったのだが、このブログは政治的な話題をメインにしていないし、茂木健一郎やら福岡伸一やら江原啓之やらのせいで、そちらにリソ-スを食われてしまって、まだ準備が整っていない。

アンチナショナリズム宣言(cocolog) 続X12 週刊新潮に援護される岩波書店『世界』 佐藤優という泥沼

佐藤の言説は、難解な言葉と権威者からの引用に溢れている。たいした考えもなく行き当たりばったりで言葉を吐きまくる。更に検証不能な体験談などで埋め尽くされている。だから多弁な割に中身は陳腐で平凡。対談相手も見かけだけの佐藤に似たバカだからぼろが出ない。それを編集者や取り巻き達が隠したり賞賛したりして成り立っているのだ。

佐藤優に関しては、上の評言につきると思う。

こんな男と<連帯>しようとするなんて馬鹿げてる。

佐藤優批判に関しては、ネット上の言説も追いかけ切れてないし、私以外に適任の方がたくさんいらっしゃると思うので、あまり力を入れて書こうとは思わないのだが、<自称左派>としては黙ってもいられないので、取り急ぎこのエントリを書いてみた。

岩波書店に関しても、いくつか悪口を書こうとしていたところだったので(政治とは関係ない小ネタですけど)、そちらの方は近日中に。

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2008年5月16日 (金)

「もう牛を食べても安心か」と「疑似科学入門」(1)

「やさしいバイオテクノロジー」で 池内了の 「疑似科学入門」が批判されている。

「疑似科学入門」(岩波新書)はニセ科学? その1 遺伝子組換え

「疑似科学入門」(岩波新書)はニセ科学? その2 BSE

私も、この本を本屋で手にしたのだが、結局買わなかった。私にとっては、池内了というのは全く魅力の感じられない書き手なのだ。
しかし、読まなくても、この本がダメな本であることは分かる。

この本の中で展開されているBSEの話題はすべてと言い切っていいくらい「もう牛を食べても安心か」(ブルーバックス)に依存しています。

福岡伸一の「もう牛を食べても安心か」については、以前少し書いたことがある。(「福岡伸一は統計学の基礎を理解していない」)。

実は、「もう牛を食べても安心か」もちゃんとは読んではいないのだが、ちょっと目を通しただけでも、これが駄本であると断言することにためらいは感じない。

駄本に依存して書いた本が駄本になるのは当たり前である。

(ところで、「もう牛を食べても安心か」はブルーバックスではなくて、文春新書ですね。ブルーバックスから出ているのは「プリオン説はほんとうか?」の方)

 以下、「やさしいバイオテクノロジー」の記述と、「もう牛を食べても安心か」に書かれていることを並べて見てみたいと思う。
福岡の文章の論理性の欠如ぶりを堪能していただきたい。


まずは、BSEのリスク分析について。

p160にもおもしろいことが書いてあります。

まずは、BSEのリスク分析について。

『アメリカの農務長官が「BSEの牛を食べてクロイツフェルト=ヤコブ病に罹るリスクは交通事故に比べて圧倒的に小さいのだから、あまり神経質になるのはおかしい」と述べたことがあった』

まっとうなリスク評価だと思うのですが、著者は『何かおかしいのではないだろうか』と疑問の投げかけています。
なんでなんかなぁ?

「もう牛を食べても安心か」の方を見てみよう。

では、リスク分析がいうところのリスクの数値化とは一体何か。それは端的にいって、死者の数である。狂牛病の問題に際して、食品安全委員会の専門調査会は、日本で汚染狂牛病肉を食べて死ぬ人間が出るとしても最大〇・九人と見積もった。これがリスクの数値化である。この数字自体、イギリスの狂牛病発生数、潜在的感染者数、日本で見逃されたかもしれない狂牛病数など極めて誤差の範囲が大きい推定数値を掛け算して求められた全くの概数でしかない。

死者の数の見積もり値が概数なのは当たり前である。
福岡は、それ以上の何を期待するのだろうか?
「極めて誤差の範囲が大きい推定数値」と言うが、その根拠は何なのか?
「極めて大きい」「誤差の範囲」とは一体どの程度の誤差なのか?
福岡は具体的な根拠は何一つ示さない。 (*2)
全ては福岡の主観的な判断でしかない。

しかし、議論はこれをもとに進むアメリカ産牛肉輸入解禁派はもっと小さい推定値を採用している)。そしていきなり、フグ毒と比較される。フグ毒に当たって死ぬ人間は、今でも年間数十人いる。それに比べると狂牛病のリスクは圧倒的に小さい。リスクの大きさからいって狂牛病はそれほど心配すべき問題ではないのだ。安全対策として危険部位の除去を行えばリスクは低減する。フグの卵巣を取り除くことと牛の特定危険部位を取り除くことは、安全対策上同じである、と。

「いきなり、フグ毒と比較」というのは、全く理解できない言い方だ。
なぜフグ毒と比較してはいけないのだろうか? (*1)
一体、福岡はBSEと何を比較すれば納得したのだろうか?

 フグ毒と狂牛病病原体が同列に扱いうる"毒"ではないことは明らかである。プリオンは可変的で可動的で増殖を行うのだ。しかし、ここで驚かざるを得ないのはリスク分析思考が不可避的に体現しているある種の感性の欠如だ。それは政治的なものが示す感性の欠如と同種のちのである。歴史性や原因をすべて捨象して死者の数を比較する。ここにリスク分析の本質が如実に現れている。

  「フグ毒と狂牛病病原体が同列に扱いうる"毒"ではない」ことは、(少なくとも私にとっては)全く「明らか」でない。(*1)
  プリオンが「可変的で可動的で増殖を行う」からといって何だと言いたいのだ?

 つまりリスク分析は極めてポリティカルな方法論なのだ。限られた予算をどのように分配するか、対立する利害をどのように調整するか。このような政治的問題を前に、本来甲乙つけがたいものに優先順位をつけ、本来線引きできないところに強引に線を引いて白黒をつける。それが政治であり、月齢で判断できる問題ではないにもかかわらず二〇ケ月齢以下の牛は全頭検査から除外してもリスクは増えないとした判断の正体がここにある。

リスク分析というのは政策を決定するための考えなのだから、「ポリティカルな方法論」なのは当たり前で、まさにそうあるべきなのだ。

「優先順位をつけ」「線を引いて白黒をつける」のが政治だというのは全く正しい。
政治の存在意義は元々そこにあるのだ。
それで、何がいけないのだろうか?

 死者の数を比較し、フグ毒と狂牛病を比較する。死者の数だけを比較して物事を論ずるのであれば、年間一万人が死ぬ自動車事故に比べてすべてのリスクはたいしたものではなくなるだろう。リスク分析はあらゆる死者をフラットな数値に浄化してしまう。しかし、フグ毒で死ぬ人と狂牛病で死ぬ人は同じではない。これは実質的に同等ではない死者である。フグはある意味で時間の試練をくぐり抜けて私たちに納得されたリスクである。対して、狂牛病は人災であり、人為的な操作と不作為によって蔓延した、全く納得できないリスクなのだ。

  一億数千万人に対して最大〇・九人ならば、自動車事故と比較するまでもなく、きわめて確率の低いものではないか?
 
また、「あらゆる死者をフラットな数値に浄化してしま」って何が悪いのだろうか? 
国民の安全に関わる政策を考える人間が、死者の数を重視するのは当たり前ではないか?

「フグ毒で死ぬ人間は昔からいるのだから、重く考える必要はない」ということだろうか?
福岡は、フグ毒で死んだ人間の家族の前で、同じことが言えるのだろうか? (*1)
 
人間が見慣れたものより未知のものの方により恐怖を覚えるのは自然なことである。
そのような性質は人間の性質が形作られた過去においては淘汰上有利だったのであろう。
だが、人間は科学によって合理的に判断する術を手にしているのだから、いつまでも原初的な感覚のみに従って判断をしているわけにはいかないのである。
個人個人が自分たちの死についてどう判断するかはともかく、不特定多数の人間のための政策を考える立場にある人間ならば、合理的な判断を第一に優先すべきなのだ。

 リスク分析は現状を受け入れてその順位づけと線引きを行うことしかできず、リスクのもつ歴史的な意味を解読する力はない。リスク分析は現状を改革する熱意もその力も待ち合わせてはいない。
 しかし、狂牛病が私たちに問いかけているものはまさにこのことなのである。いかに現状を改革し、いかに損なわれた平衡の回復を求めればいいのか、それを狂牛病は問いかけているのである。

  結局、福岡は死者の数よりも、「平衡の回復」の方に興味を持っているのだ。

  福岡が「平衡の回復」に興味を持つのは勝手だが、我々が福岡の趣味に付き合わなければならない義理はないのだ。


(追記 2008.5.16)
(*1)フグに関しては、個人が危険性を承知して食べるのだし、フグ毒に対して国が何か積極的に対策をとる必要はない。
そういう観点からすれば、「フグ毒で死ぬ人と狂牛病で死ぬ人は同じではない」と言えるかもしれない思う。
だが、BSEを「人災」扱いするのは、やはり不適切だと思し、BSEを過剰に危険視するのも不合理であると思う。

(*2)前の方のページで、いくらか根拠を述べていたので(説得力があるかは別として)、削除。

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ライフハックと精神主義

それにしても、「ライフハック」が「やる気第一」の精神主義に変質してしまうのはなぜなんですかねえ。

ライフハックが好きな人達って、やる気さえあればバリバリ仕事をこなせると思い込んでいるような。

「ナルホドッ! これなら能率が上がるぞ! やる気出た!」と喜ぶところで終わっちゃってるような。

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2008年5月15日 (木)

「知識」と「情報」

そもそも、「キーワード」で検索してすぐ見つかる情報なんて大したもんじゃないと思うんだけど。

重要なのは、情報それ自体よりも、情報と情報の関連であって、体系化された情報を持っているということが「知識を持っている」ということだ。

本当は、「知識」がなければ、適切な「情報」を検索することだってできない。

「知識」がなければ、何が「キーワード」であるかすら判断できない。
知らない言葉が出てきたら、それを検索して説明を見つけるのは簡単だ。
だが、同じ言葉違う概念を指していることもあるし、逆に、違う言葉同じ概念を指していることもある。

適切な「キーワード」を判断して、自分が求めている「情報」を見つけるには、あらかじめ自分の頭の中に、ある程度の「体系」が存在しなければならない。

グーグル自体は、アクセス数やリンクの数などの体系化された統計情報や有用な情報を見つけ出すための論理を持っているかもしれない。だけど、検索する人間に与えられるのは、結果だけだ。

統計的な情報は、情報の間の外的な関連を教えてくれるだけで、情報の内的な関連を教えてくれない。
私たちが知りたいのは情報の内的な関連なのだ。

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グーグルでフラット化する世界? んなこたぁない

アンカテ(Uncategorizable Blog)  グーグルによってフラット化される世界の唯一の例外

あらゆるジャンルのあらゆる「知」が「万人に開かれ」て、梅田さんが書いているような知的生産術の効率のみによるフラットな競争によって全てが決まるようになっていくのは間違いないでしょう。具体的な知的生産術の方法論には異論があるかもしれません。でも、これが全ての人に平等にオープンになってきていることに反論する人は少ないと思います。

「知的生産術の効率のみによるフラットな競争によって全てが決まるようになっていく」なんて思いませんけどね。

「グーグルで検索すれば、どんな情報でも見つかるから、みんな平等だ」なんていうのは、「みんなが英語の辞書を持てば、自由に英語の読み書きができるようになるから、英語を学習することなど無意味になる」って考えるようなもんだと思うけど。

仮に、今まで専門家が独占していたような情報にも一般の人間が簡単にアクセスできるようになったとしても、それで専門家と素人の違いがなくなるわけじゃない。

専門家が素人と違うのは、特殊な知識や大量の知識を持っているということではなくて、その分野特有の考え方や体系的な知識を身につけていること。それを身につけるのには、それなりの投資が必要だという平凡な事実は、グーグルがいくら発達したところで変わらないだろう。

知の世界は、これまで山や川や平原といった多種多様な地形があって、その地形の変化は目に見ることができないほどゆっくりなものでした。それがこれからは、海のようにフラットになるのだと思います。海は、近くで見れば平らではなくて、大小さまざまの波がありますが、その波の作り出す地形は目まぐるしく変化します。一瞬だけ屹立する大波はありますが、次の瞬間にはその波は消えさってしまいます。

いくら情報検索の手段が発達しても、それは「平地」を速く遠くまで走ることができるようになるというだけの話。
「山」がなくなるわけじゃない。
グーグルによってなくなるような「山」は、もともと「山」なんかじゃなかったのだし、グーグルによって淘汰されるような「専門家」は、もともと「専門家」じゃなかったのだ。

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ライフハック(笑)

My Life Between Silicon Valley and Japan   グーグルに淘汰されない知的生産術

「何か読んだら、自分で要点をまとめとけ!」
「まとめたやつはネットで共有しとけ!」

という程度の「知的生産術」

啓発された!
元気をもらった!
気づきだ!
ライフハック(笑)だ!

と感激する人間がこんなにたくさん存在するというのは、どうも理解に苦しみますな。

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盲目の時計職人

あけてくれ - おれカネゴンの「算数できんのやっぱり気にしすぎとや」日記 

「オルガスムスのウソ (文春文庫)」という本の冒頭で見かけた「盲目の時計職人」という言葉の意味がどうしてもわからず、たまらずググるとあのリチャード・ドーキンスの本のタイトルだった。

ドーキンスはどうやら「目的を持たないのにものすごく精密なものを作り出す」進化というものを比喩で表そうとしているらしいのだけど、カネゴンの中では「盲目」と「目的を持たない」がどうしてもつながらないどころか、「盲目のハガキ職人」という全然関係ないことを思いついてしまう始末【いつでも迷走おれカネゴン】。

「盲目」ではなく「盲滅法」ならわかる。「盲滅法な時計職人」の方が賑々しくてカネゴンこっちの方がよいと思うのだけど、ドーキンスとしてはこういうのは許し難かったりするのだろうか【無礼で討たれるおれカネゴン】。

それとも本当は「白痴の時計職人」とか「自閉症の時計職人」としたかったのだけど、ちょっとしたことでキーキー騒ぐ世間の目を欺くためにしぶしぶ半端な比喩を選んだのだろうか。それなら無難なところで「ちょっとタリない時計職人」というのはどうだろう【激しく足りぬおれカネゴン】。

それともドーキンスを含む西欧の南蛮人たちは、数千年も続いた目的論(=あらゆるものには目的があるという考え方)にすっかり毒されてしまっていて、30年ほど生物学を研究したぐらいでは「目的を持たないのものが精密で壮麗な生命システムを構築する」という不気味な様を的確に比喩で表すことができず、生物機械論っぽいたとえから離れたくても離れることができなかったりするのだろうか。

「盲目」で何がまずいのか、よく分からないな。

 ペイリーは、生命のからくりにメスを入れ、美しくも敬虔なる記述で描写することによって自分の論点を明確にしている。彼は、ヒトの眼の話から説き起こしているが、それは後にダーウィンのお気に入りの例となり、本書でもあちらこちらに顔を出すだろう。ペイリーは眼を望遠鏡のような設計された道具と比較し、「望遠鏡が視覚を助けるためにつくられたということが自明であるのとまったく同じように、眼が視覚のためにつくられたということが証明できる」と結論する。望遠鏡にデザイナーがいたのとまさしく同様に、眼にもそのデザイナーがいたはずだというわけである。
 ペイリーの議論には熱意のこもった誠実さがあり、当時の最良の生物学的知識がこめられている。
にもかかわらず、それは間違っている。みごとなまでに完全に間違っている。望遠鏡と眼、時計と生きている生物体とのアナロジーは誤りである。見かけとはまったく反して、自然界の唯一の時計職人は、きわめて特別なはたらき方ではあるものの、盲目の物理的な諸力なのだ。本物の時計職人の方は先の見通しをもっている。心の内なる眼で将来の目的を見すえて歯車やバネをデザインし、それらを相互にどう組み合わせるかを思い描く。ところが、あらゆる生命がなぜ存在するか、それがなぜ見かけ上目的をもっているように見えるかを説明するものとして、ダーウィンが発見しいまや周知の自然淘汰は、盲目の、意識をもたない自動的過程であり、何の目的ももっていないのだ。
自然淘汰には心もなければ心の内なる眼もありはしない。将来計画もなければ、視野も、見通しも、展望も何もない。もし自然淘汰が自然界の時計職人の役割を演じていると言ってよいなら、それは盲目の時計職人なのだ。

『盲目の時計職人』リチャード・ドーキンス

ついでに言っておくと、「白痴」だって「自閉症」だって、ちゃんと「目的」を持ってると思うけどね。
(「盲目」だって目的を持ってるだろ、と言われたらその通りであるが、まあ、これは比喩だしなあ。)

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2008年5月14日 (水)

統合失調症と「被害者意識」

これはヒドイ。

内田樹の研究室 被害者の呪い
                                           

「被害者意識」というマインドが含有している有毒性に人々は警戒心がなさすぎるように思える。
以前、精神科医の春日武彦先生から統合失調症の前駆症状は「こだわり・プライド・被害者意識」と教えていただいたことがある。
「オレ的に、これだけはっていうコダワリがあるわけよ」というようなことを口走り、「なめんじゃねーぞ、コノヤロ」とすぐに青筋を立て、「こんな日本に誰がした」というような他責的な文型でしかものごとを論じられない人は、ご本人はそれを「個性」だと思っているのであろうが、実は「よくある病気」なのである。
統合失調症の特徴はその「定型性」にある。

まるで、「統合失調症は被害者意識のせいで病気になったのだ」とか「統合失調症は被害者意識があるからダメなのだ」と言っている様に読めてしまう。
統合失調症患者の「こだわり・プライド・被害者意識」は病気の結果であって、「こだわり・プライド・被害者意識」が亢進して病気になるわけではない。
また、統合失調症患者は、「オレ的に、これだけはっていうコダワリがあるわけよ」というようなことを口走り、「なめんじゃねーぞ、コノヤロ」とすぐに青筋を立て、「こんな日本に誰がした」というような他責的な文型でしかものごとを論じられない人ではない。

    症状は患者ごとにかなり多種多様であるし、なかには表面的な症状をほとんど示さない場合もあるので、臨床症状だけから分裂病の診断を下すことはほとんど不可能に近い。しかしよく注意してみると、どの症例にも例外なく認められる共通点が一つある。それは、患者の自己が確実な自己性を有してしないという点であって、これはもちろん彼の幼児期以来の対人関係の持ちかたと関係がある。この不確実な自己性という特徴は、種々の精神症状にも、患者の日常的な意識や行動にも現れて、そこに独特の分裂病的な雰囲気を作り出す。
      
『時間と自己』木村敏 P68    (*1)
 
  これらの本質的に非特異的な臨床症状以上に、自己性の不確実さという分裂病性の特徴をはっきり反映しているのは、患者が日常の対人関係の場面で示す意識の持ちかたや行動の仕方である。それは、一言でいえば「独特の不自然さ」と言ってよいだろう。あるいはブランケンブルクの症例アンネの表現を借りて、「自然な自明性が失われている」と言ってもよい(木村敏地訳『自明性の喪失』、みすず書房)。患者はその対人関係において、相手とのあいだに特有のぎこちなさを感じており、しばしばそれを「間がもたない」、「流れに乗れない」、「なにかずれている」などと表現する。患者は、周囲の人たちや事物の動静を自然にあるがままに受けとることができない。ビンスヴァンガーはこれを「事物のもとに気楽に逗留することができない」という意味での「自然な経験の一貫性の解体」と表現した(新海安彦他訳『精神分裂病』I、みすず書房、七頁)。ミンコフスキーのいう「現実との生命的接触の喪失」(村上仁訳『精神分裂病』、みすず書房、七〇頁)も、結局はこれと同じ事態を指している。
 このような分裂病者のありかたは、彼と個人的に親しく交わろうとするわれわれの心に、それ以外ではまず見られないような特別な印象を呼びおこすことが多い。(略)具体的な印象は患者によってかなりさまざまなニュアンスをおびるが、最も多いのは一種の接近遮断感、あるいは心の不通感とでもいうべき印象だろう。それからまた、患者の中でなにかが絶えず出ずっぱりの本番態勢にあって、つねに一種の近よりがたい緊迫感をただよわせている、という印象もある。患者はいつも真剣で、遊びや余裕に乏しい。仕事や勉強がうまく行かなくてぶらぶらしている患者でも、どこか思いつめて緊張しながら無為の時間を送っている、という感じがある。
 この不自然でゆとりのない内面的世界が、分裂病特有の自己性の不確実さを反映したものだということは、次のような患者たちのことばからも容易に理解できるだろう。例えばある患者は、「自分というものから一刻も眼を離すことができないのです。すこしでも眼を離したら自分がバラバラにこわれてしまいます」と言う。彼は美しいもの、自分をうっとりさせるものを極端に怖れる。それに夢中になると自分が消えてなくなるからである。別の患者は、「いつも気を張っていないと、他人がどんどん私の中に入って来て、私というものがなくなってしまう」と言うし、また別の患者は、「いつも先手先手で考えることに心掛けています。相手に先に読まれたら敗けですから」と言う。
 この先手先手の防禦的姿勢という患者の処世訓は、分裂病者の生きかたを時間的観点から考えて行く上で大きな示唆を与えてくれる。いずれゆっくり考えなければならないことだが、ここですでに、いささかの誤解を覚悟の上で公式化して言ってしまえば、分裂病者はいつも未来を先取りしながら、現在よりも一歩先を生きようとしている、と言ってよい。
 
  同 P70

  統合失調症患者の「こだわり・プライド」は、むしろ「自己性の不確実さ」に対する防衛機制である、とも考えられる。

 分裂病者は一般に現在の自己に対して否定的な態度を取る。
  (略)
 分裂病者の現状否定と未来希求のもう一つの現れとして、その日常的行動における性急さを挙げることができる。分裂病者は待つということを苦手とするようである。入院中の患者が外泊や通院を要求するときの説得困難ないらだちや、しばしば医者の助言を無視して結婚や進学を希望するときの思いつめたあせりぱ、精神科医のだれもが知っていることだろう。ここで患者が真に望んでいるのは、具体的な退院や結婚などのような、予定された将来ではない。むしろ彼らは、未知なるものとしての未来に対して激しい愉悦を示す。結婚しさえすれば、進学しさえすれば、いままでの人生とは根本的に追った未知のなにかが開けてくるだろうと考える。
 未来は、願望や憧れの対象となるだけではなく、もちろん恐怖の対象ともなる。分裂病者が他者を恐れるのは、相手が危険な人物に決まっていて、その手口がわかっているから怖いというのではない。相手がなにをするかわからないから怖いのである。他の精神病にも見られる迫害妄想とは追って、分裂病の迫害妄想では、他者は徹底的に未知なるものとして、未来の化身として怖れられている。
 
  同 P72

  統合失調症患者の「被害者意識」が、内田の言う「被害者意識」とは全く別物であることは明らかだろう。
 
  何にしろ、内田の文章の文脈で統合統合失調症を持ち出す必要性はどこにもない。それどころか、統合失調症を、文脈上ネガティブなものとして利用しているのだから極めて悪質である。

(*1)「分裂病」の語は、原文のままとした。

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2008年5月12日 (月)

『進化論と倫理』内井惣七

内井惣七の『進化論と倫理』のウェブ版が公開されている。

http://homepage.mac.com/uchii/Papers/FileSharing83.html

読みたいと思っていたのだが、入手困難になっていたので、これはうれしい。
読むべし!

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2008年5月10日 (土)

「熱血!天才アカデミー 世界をひっくり返した男ダーウィンの進化論」観賞記

例によって、茂木の発言をチェックしてみる。

番組開始。

そもそも、茂木健一郎が長谷川眞理子の隣に座っているっていうのが納得いかない。

茂木は山本梓の隣でいいだろ!

大してレベル違わないだろうが。

まずは、ダーウィンは子供のころ落ちこぼれだった、という話。

ダーウィンね、別になまけものだったんじゃないと思うんです。
自分の興味あること以外やらない。
当然学校の成績よくならないですよね。
でも、興味あることは徹底的にやるっていうところは、将来天才になる種なんじゃないですか。
ボクも子供のころ虫取りしてましたけど、すごく気持ち分かる

フーン。

遺産が約80億、その遺産で研究に没頭したという話。

すぐに役に立つようなことばかりやっていたら科学は進まないんですよ。
余裕が大事なんですよ、余裕が。

フーン。

結婚するメリット、結婚しないメリットをノートに書き出したというエピソード。

イギリス紳士独特のユーモアなんですよ。
愛情も情熱もあるけれど、あえてこういう風に言うっていうのがユーモアなんだよねえ。

フーン。

今までのところ、科学者らしいこと、一つも言ってないな。

「余裕が大事」とかいうのは、茂木が最近よく言ってる「セキュア・ベース」ってやつだな。

結局、茂木って全部自分の持ちネタに絡めようとするのな。

宮崎美子「パンダの模様はどうしてできたの?」

僕は、元々、昆虫や生物のパターンがどうやってできるかって色々研究をしてたんですけど

そうなんですか?初めて知りました。

やっぱり、できちゃうんですよ、形って

だからさぁ......(ため息)。

全然説明になってないって。

胚発生がどうとか、制御遺伝子がどうとかっていう説明はないのかよ。
一体生物のパターンの何を研究してたんだよ。

それを、どう使おうかって、生きものが工夫するんです

そういう擬人化した表現は誤解を招くよなあ。

人間が二本足で歩くようになったのも、歩くようになっちゃったんでしょ
そしたら手がフリーになったから、じゃあこれなんか使おうと

何か、今西理論が混ざっちゃってるような。

進化って本当に複雑なんですよ

最後まで不得要領な説明でした。

南原「20年間ひとつのことに没頭し続ける脳ってどういう脳をしているんですか」

逆に言うと、20年くらいやんないと、そういう大きなことをできない。

何でいきなり逆にしちゃうんだよ!

南原がせっかくの話に引きつけて質問してるのにさ。
思いっきりスルーかよ。

前頭葉がどうとか、ドーパミンがどうとか、いつもの調子で答えりゃいいじゃないか。

アンタは、いつも質問されたことに対して答えないよな。

習慣化しないといけない、筋トレだってそうでしょ、脳も同じなんです。
習慣化しないとダメなんだけど、それができるのはやっぱり、やってることを愛している人ですね。

脳を鍛えるのが好きだねえ。
で、最後は愛ですか。陳腐だねえ。

「どうしたらダーウィンみたいな天才になれるんですか?」
 
ダーウィンはハッキリ言ってホント天才です。

それは分かったから、さっさと天才になれる方法を教えろ。

なぜかって言うと、ダーウィンまでは何で地球にこんな色々な生物がいるのか分からなかったですよ、
ダーウィンは、色々な生きものがいるけれども、その背後にはちゃんと普遍的な性質があるんだよ、と。
天才だね。

何、一人で納得してるんだよ。 

さて、ダーウィンがなぜ天才になったと思いますか?
これが大事。
日本の社会の中で、何がダーウィンから学ぶべき一番のレッスンかというと、ズバリ言いましょう、変人になる自由。

だからあ。

「天才になれる方法」を教えてくれって言ったんで、「天才を作る方法」を教えてくれって言ったんじゃないんだよ。

何で、質問とずれたこと答えるんだよ。

ボクねえ、ケンブリッジに行ったでしょ

学歴自慢ですか。

ケンブリッジ大学って、卒業生からからノーベル賞(学者)を71人。
どうしてケンブリッジ大学、みんなノーベル賞とれるようになるかっていうと、変人になる自由があるんですよ。
日本人だとちょっと違うと、みんなと同じになれよってプレッシャーかかるじゃないですか。
ケンブリッジの人はみんな変人。
そういう空気の中からダ-ウィンも生まれてきたわけですねえ。

これも、茂木が最近あっちこっちで言ってることだな。

変人が増えたからって天才も増えるとは限らんと思うが。

だから、ちょっと変わっていたら、どんどん煽り立てるような感じ。
それをやんないと日本は天才が生まれないんですよ。

 
南原「(茂木を指して)そういえば、ちょっと変わってますよね」

ナイスつっこみ。

さて、エンディング。 
 
ダーウィンみたいな、こういう生き方魅力的じゃないですか。
とにかく家の近くの自然に行って小さな虫からでいいから観察しましょう。

「小さなことからコツコツと」って

西川きよしかっ!

相変わらずのモギケンでした。

 

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