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2008年1月

2008年1月31日 (木)

「 幽霊を捕まえようとした科学者たち」

 すっかり忘れていたのだが、コンビニで「週刊文春」を立ち読みしていたら、以前スクラップした雑誌の記事を思い出した。茂木健一郎が「週刊文春」に書いたデボラ・ブラム著「 幽霊を捕まえようとした科学者たち」のレビューである。昨日書いた記事にも絡むので、ここで取り上げてみる。

 自分たちが二十一世紀という時代に生きているという考えにも大分慣れてきた今日、「幽霊」はますます居場所を失っているように見える。
 存在するかしないかというのは、認識の問題でもある。身近な人の死。不慮の事故。身の回りで起こること自体は、そんなに変わりはしない。ただ、私たちは死後に霊が存続したり、その霊たちが私たちと交信したりするという類のことを容易には信じなくなっただけである。
 特に、現代の「公式的世界観」の何たるかを把握している「インテリ」たちの間では、「幽霊」はすっかり人気がなくなった。そんなものを信じている場合はもちろん、興味を持っているという素振りを見せるだけでも、たちまちマトモに扱われなくなり、学会からは追放されるのがオチである。
  かつては、違っていた。

 この後、茂木は同書の内容を紹介し、次のような文章でレビューを締めくくる。

 本書の何よりの醍醐味は、安易な決めつけや判りやすい図式化を避けて、あくまでも「史実」に語らせている点にある。
  一部の人たちにとっては、あのウィリアム・ジェイムズがここまで心霊研究にかかわっていたこと自体がスキャンダルだと思われるかもしれない。「正当派」の学問はオカルトとは無縁だと信じたい人にとっては、まさに「不都合な真実」である。それでも明らかにされる歴史的真実の重みは、かえってより深いレベルでの人間性の本質を照射する。
  霊媒たちの中には、手品まがいのトリックを用いる「いかさま」師も多かった。現在においても、心霊現象が存在するという確証はない。結果的には、ウィリアム・ジェイムズは「幻」を追っていたのかもしれない。
  たとえ幻だとしても、精神世界の広がりを信じたジェイムズを軽蔑するか、それとも尊敬するのか。科学文明を生きる現代人の知性の深みが問われている。

  実に曖昧で姑息な書き方である。文章の前半では、「幽霊」の類をまともに扱おうとしない「インテリ」たちに対して皮肉っぽい書き方をしておきながら、後の方では、「一応」「幽霊」を否定する書き方をしてみせる。だが、その「否定」も全て留保つきなのだ。

  霊媒たちの中には、手品まがいのトリックを用いる「いかさま」師多かった。現在においても、心霊現象が存在するという確証はない結果的には、ウィリアム・ジェイムズは「幻」を追っていたのかもしれない

  結局のところ、茂木自身が「幽霊」を信じているのか、信じていないのかは、最後まで明らかにされない。「なんとなく」否定的な書き方をする一方で、「なんとなく」その手のものごとにも理解のありそうな素振りをしてみせるのだ。だから「姑息だ」と言うのである。
  挙句の果ては、傍観者的な態度で「たとえ幻だとしても、精神世界の広がりを信じたジェイムズを軽蔑するか、それとも尊敬するのか。科学文明を生きる現代人の知性の深みが問われている」などと、大仰で、いかにも深い意味がありそうだが、その実、全く何も言っていないに等しい言葉でレビューをまとめてしまうのだ。「科学文明を生きる現代人の知性の深みが問われている」だってさ。何をエラそうに。
  いかにも茂木らしい文章ではある。

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福岡伸一批判 「生物と無生物のあいだ」を中心に(3)

3.「動的平衡」という言葉について

 ここで「動的平衡」という言葉について、もう少し調べてみよう。
 福岡の言う「動的平衡」とは、生命の特質を実現する生命固有のメカニズムであり、シェーンハイマーの発見した生体の構成成分の絶えざる入れ替わり(シェーンハイマー自身の言葉では「身体構成成分の動的な状態」)である。
このような概念を最初に提唱したのは誰だろうか。私は、一つの候補としてルートヴィッヒ・フォン・ベルタランフィ(1901-1972)の名を挙げたいと思う。
 ベルタランフィは、漁獲予想のための「ベルタランフィ成長方程式」、癌早期発見のための「ベルタランフィ・メソッド」などで知られる生物学者であるが、生物学の分野を越えた活躍をした人物であり、「一般システム理論」の創始者でもある。「一般システム理論」とは、システム一般に共通した法則を探し出し、科学統合を図ろうとする分野である。
 M・デーヴィッドソンによる評伝「越境する巨人 ベルタランフィ」(原著1983)には、以下のような記述がある。

【引用】
 ベルタランフィは、生命の謎に取り組むなかで生物を開放システムと規定した。彼はそのような結論に達した科学者の一人である。開放システムとは、従来の物理的、化学的限界をはみ出して機能するシステムである。彼は、この言葉を一九三二年に出版された「理論生物学」第一巻で初めて使い、自己を取り巻く環境との間で物質とエネルギーを継続的に交換することで、動的状態を維持するシステムと定義した。 (略)
「越境する巨人ベルタランフィ」M・デーヴィッドソン p98
【引用おわり】 

ここで書かれている「開放システム」が、福岡の言う「動的平衡」と同様なものであることは明らかだろう。年代の記述に注目してもらいたい。ベルタランフィが「開放システム」という言葉を使ったのは1932年、シェーンハイマーの発見は1935年である。ベルタランフィの方がシェーンハイマーの発見に先行しているのである。
 さらに、同書の記述を見てみよう。

【引用】
 生物学の分野では、ベルタランフィは開放システムの先駆者でありつづけた。細胞から生物圏に至る生物のあらゆるレベルで、彼は開放システムが「絶え間ない物質の流れ」によって維持されているのを見てきた。この点では、ギリシャの哲学者エペソス王家の出のヘラクレイトス(紀元前およそ540-480)を頻繁に引用して、「あらゆるものは流れの中にある.......。同じ川に二度足を踏み入れることはできない。新たな水が絶えず自分に向かって流れているからだ」と言っている。さらに彼は、生命は単に流れのなかにあるというヘラクレイトス的イメージを、生命は流れそのものであると主張することによって、人間認識の範囲まで広げようとした。「生命の形態は単に存在しているのではなく、成るのだ。生物とは、生物を構成し同時に生物を通過している物質とエネルギーの無限の流れの表現である」と書いている。
「越境する巨人ベルタランフィ」M・デーヴィッドソン p100 
【引用おわり】

【引用】
  余談だが、母国語のドイツ語で論文を書きながら、この生物の定常状態という概念を提唱したとき、彼は長たらしいフリースグライヒゲヴィヒト(Fliessgleichgewicht 流動平衡)という言葉を作りださねばならなかった。彼は、従来の物理的化学的平衡状態の受動的性格とは異なる、定常状態の能動的な正性格を明らかにするためにこの新しい言葉が必要だと考えた。
「越境する巨人ベルタランフィ」M・デーヴィッドソン p101
【引用おわり】

ベルタランフィ自身の著作からも引用しよう。

【引用】
(略)それゆえ、たえず連続的に仕事ができる能力は、できるだけすみやかに平衡に達してしまおうとする傾向のある閉鎖システムにおいてはありえず、開放システムにおいてだけありうる。生物体に見いだされるみかけ上の「平衡」は仕事のできない真の平衡ではない。それは真の平衡から一定の距離をつねに保っている動的平衡である。それゆえ仕事をすることはできるが、他方、真の平衡から距離を保つためにエネルギーの流入をたえず必要とする。
「一般システム理論」フォン・ベルタランフィ p123
【引用おわり】

【引用】
生きている細胞と生物体は、多少とも永続的な「構築材料物質」からなっていて、その中で「エネルギー産生物質」がこわされて生命過程のエネルギー要求を満たしているというふうな、静的なパターンないし機械類似の構造ではない。それはいわゆる構築素材物質もエネルギー産生物質も(古典生理学でいう建築物質と駆動物質bau-and Betriebsstoffe)ともにこわれてはまた作られるような連続過程である。しかしこの連続的なたえまない崩壊と合成はよく調整されていて、細胞と生物体はいわゆる定常状態(流動平衡Fliessgleichgewicht, von Bertalanffy)の中でほぼ一定に保たれる。これが生物システムの一つの根本的神秘である。代謝、成長、発生、自己調節、増殖、刺激-反応、自律的な活動などのような他の全ての特徴は結局のところこの基本的な事実からの結果である。
「一般システム理論」フォン・ベルタランフィ p151
【引用おわり】

上の文章で書かれているのが、福岡が繰り返し強調する「秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない」という認識と同じものだということは、容易に見て取れるだろう。
 ベルタランフィの「一般システム理論」の邦訳書の中では、「流動平衡」と「動的平衡」という二つの単語を見つけることができる。「動的平衡」に対応するドイツ語が分からないので、二つが同じ言葉であるのか確認できなかったのだが、どちらにせよ、この二つが同じ意味合いで使われていることは明らかである。前節で引用した文章の中では、福岡は、シェーンハイマーの「生命の動的な状態」という概念を「拡張」して、福岡自身が「動的平衡」という新たに作り出したかのように書いているが、すでにベルタランフィがこの言葉を使っていたのである。もちろん、上に引用した文章からも分かる通り、ベルタランフィは自身の唱える「動的平衡」が「真の平衡ではない」ということを知っているのである。
 「生物と無生物のあいだ」と他の著作との比較をもう一つ。

【引用】
よく私たちはしばしば知人と久闊を叙するとき、「お変わりありませんね」などと挨拶を交わすが、半年、あるいは一年ほど会わずにいれば、分子のレベルでは我々はすっかり入れ替わっていて、お変わりありまくりなのである。かつてあなたの一部であった原子や分子はもうすでにあなたの内部には存在しない。
(p162)
【引用おわり】

「生物と無生物のあいだ」では、上の部分が読者に受けたようだが、同じようなことは、前に挙げたベルタランフィの評伝書の中でも書かれていてる。

【引用】
さらに「定常状態」は、開放システムが単に流動状態にあるのではなく、流動そのものであることを意味する。その結果、一般意味論学派が使う便利な記述法を借りれば、フランス人Aはフランス人Bではないばかりか、昨日のフランス人Aは今日のフランス人Aであるとは限らない、と言うことになる。
「越境する巨人 ベルタランフィ」M・デーヴィッドソン P154
【引用おわり】

全く別な本からも似たような記述を見つけ出すことができる。脳の情報処理の研究者D.M・マッケイの著作から見てみよう。

【引用】
低いレベルでは、私たちの細胞や他の脳構造を作る分子は、私たちのアイデンティティに影響なく生涯のうちには何度も入れ替わるわけですから、この種の独立性は一層明白です。このレベルで変化する具体にかかわらず連続性が保たれるというのは、川に似ています。ギリシヤ人が言ったように、内容はつねに変わりながら川はいつも同じ川です。
  おかしなことと言って
    これほどおかしなことはない
    何を食べても
    T嬢はT嬢になる
   
    (註・Walter de la Mare の "Miss T"より)
   
「ビハインド・アイ」D.M.マッケイ p349
【引用おわり】

 ベルタランフィ以外で、「動的平衡」と同様な概念を提唱した人物として、アメリカの生理学者W・B・キャノン(1871-1945)が挙げられる。キャノンの「からだの知恵」(1932)から引用してみよう。

【引用】 
  われわれのからだの構造がきわめて不安定であること、きわめてわずかな外力の変化にも反応すること、そして、好適な環境条件が失われたときに、その分解がすみやかに始まることを考えると、それが何十年にもわたって存在し続けることは、ほとんど奇跡的なことであるように思われる。
  この驚きは、からだが外界と自由な交換をしている開放的な系であり、構造そのものは永久的なものでなく、つねに消耗され破壊され、修復の過程によって絶えず築き直されているのだということを知ったとき、さらに強いものとなる。
  「からだの知恵」W・B・キャノン p22
【引用おわり】 

【引用】 
  さらに、1900年フランスの生理学者、シャルル・リシェは、この驚くべき現象を強調してつぎのように述べた。
  「生物は、安定なものである。それを取り囲んでいる巨大な、そしてしばしば生物にとっては不利な力によって破壊され、分解され、あるいは崩壊してしまわないよう、生物は整然と秩序だてられていなければならない。一見矛盾するようだが、生物は刺激に反応しやすく、外部からの刺激に応じて自身の体を変化させ、その反応を与えられた刺激に適応させる能力を持つことによって、はじめてその安定性を保っている。ある意味では、生物は、変化しうるがゆえに安定なのである-なにほどかの不安定性は、個体の真の不安定性は、個体の真の安定性のための必要条件である。
  「からだの知恵」W・B・キャノン p24
【引用おわり】

【引用】 
  からだのなかに保たれている恒常的な状態は、平衡状態と呼んでよいかもしれない。しかしこの用語は、既知の力が平衡を保っている比較的簡単な、物理化学的な状態、すなわち、閉鎖系に用いられて、かなり正確な意味を持つようになっている。
  生体のなかで、安定した状態の主要な部分を保つ働きをしている、相互に関連した生理学的な作用は、ひじょうに複雑であり、また独特なもので(略)私はこのような状態に対して恒常状態(ホメオステーシス homeostasis)という特別の用語を用いることを提案してきた。
  この用語は、固定し動かないもの、停滞した状態を意味するものではない。それは、ある状態-変化はするが相対的に定常的な状態-を意味するものである。
  「からだの知恵」W・B・キャノン p28
【引用おわり】

 要するに、福岡の書いているようなことは、生物学の知識の乏しい文系の読者には新鮮なものに感じられただろうが、理系の読者にとっては全く目新しいものではなかったのである。「生物と無生物のあいだ」が理系の読者からは厳しい評価を受けている理由がこれで分かるだろう。   
 「動的平衡」について書いたのがベルタランフィが最初かどうかは分からない。ベルタランフィ以前にも同じようなことを書いているものがあるかも知れないが、それについてはここではこれ以上議論しない。私は、ベルタランフィの再評価などを意図しているわけではない。単に私の知識の範囲内にたまたまベルタランフィの名前があったというだけのことだ。ここでのポイントは、シェーンハイマー以前に、「動的平衡」に類する概念を提出した人間が存在したということなのである。

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2008年1月30日 (水)

江原啓之 & 茂木健一郎(2)

 前の記事でコメント欄でのやり取りがあったので、再度書いておく。

クオリア日記

 「面白かった」というのは文脈によってどうとでも取れる言葉だが、何の文脈もなければ「肯定的」なものだと考えるのが普通だろう。すぐ後で「江原さんがなぜ今のような活動をされているのか、その個人史的必然性を受け取ったように思った」などと書いていれば、なおさらでそうである。「一定の距離を持って、対談に臨んで」いたなどといっても、そんなことは当たり前だ、というしかない。いくら茂木といえども、「霊視」や「前世」をあからさまに肯定したら科学者としてマズイということが分からないほどバカではないだろうし、おそらく本気で信じてもいないだろう。では、なぜ茂木が江原啓之などと対談するかと言えば、それはおそらく「イメージ戦略」のためだろう。つまり、自分は、「霊視」や「前世」などの不可思議なものを頭から否定してかかるような頭の固い偏狭な科学者とは違うのだ、「霊能者」を名乗る人間に対しても、オープンな態度で接することができる、心が広く頭の柔らかい、一味違った科学者なのだ、科学だけでは割り切ることのできない心の問題にも理解のある人間なのだ、ということを世間にアピールしたいからである。ようするに、意味もなく審査員やコメンテーターとしてバラエティ番組に出演するのと同様、お茶の間に対する「営業活動」なのだ。
 問題は、茂木が「霊視」や「前世」を本気で考えているか、などということではない。茂木の態度が世間一般の人間に、どう受け止められるか、ということなのだ。「霊能者」と対談して、自分のブログで「とても面白い話だった」などと書けば、科学者が「霊能者」にお墨付きを与えたと思う人間が出てくるに決まっている。そのような社会的影響を考慮しない態度が軽率だと言いたいのである。

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「オーラの泉」2/2(土) ゲスト 宮藤官九郎

ゲストは、宮藤官九郎。70年宮城県生まれ。大学在学中に劇団「大人計画」に入団。食べられない時代を乗り越え、人気脚本家としてドラマ、映画でヒットを連発している。その型破りな発想に支持が集まる。スピリチュアル初心者という宮藤は、好きな言葉は「低姿勢」というままに小さくなりながらも、「心の人間ドック」の結果に神妙に耳を傾ける。

「未来講師めぐる」をやってるから断れなかったんですかね。気になるのは「壇れい」事件が発覚する前に収録されたのか、後に収録されたかだな。クドカンにも実の父と義理の父がいた、とかだったら面白いのだが。とりあえずチェック。

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「夜のロックスタジオ」オカムラちゃん出演

「夜のロックスタジオ」

2008年2月3日(日)26:45~27:45
※地域によって放送日時・内容が異なる場合あり

<出演者および演奏曲>
・岡村靖幸「年下の男の子」(キャンディーズ)
・キリンジ「喝采」(ちあきなおみ)
・夏川りみ「秋桜」(山口百恵)
・斉藤和義「キャンディ」(原田真二)
・カジヒデキ「ジェニーはご機嫌ななめ」(ジューシィ・フルーツ)
・つじあやの「お世話になりました」(井上順)
・松本素生(from GOING UNDER GROUND)「初恋」(村下孝蔵)
・Leyona「時の過ぎゆくままに」(沢田研二)
・ザ50回転ズ「飾りじゃないのよ涙は」(中森明菜)
・坂上弘「卒業」(尾崎豊)

去年の10月10日に放送したものの再放送だそうですが、全然知らなかった。
岡村靖幸目当てで観ます。

(追記)なんか、岡村靖幸の部分はカットされちゃったみたいでガッカリ。YouTubeでがまんするか。

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福岡伸一批判 「生物と無生物のあいだ」を中心に(2)

2.「動的平衡」とは何か

「生物と無生物のあいだ」は、どのような書物なのか。同書のプロローグから、福岡自身の説明を見てみよう。

【引用】
 私は先ごろ、シェーンハイマーの発見を手がかりに、私たちが食べ続けることの意味と生命のあり方を、狂牛病禍が問いかけた問題と対置しながら論考してみた(「もう牛を食べても安心」文春新書、2004)。この「動的平衡」論をもとに、生物を無生物から区別するものは何かを、私たちの生命観の変遷をとともに考察したのが本書である。
【引用おわり】

この記述からも分かるように、「生物と無生物のあいだ」の中心となるのは「動的平衡」という概念である。(同書の1章から8章までは、同書のテーマとは関係の薄い、生物学の裏面史ともいうべきエピソードの記述が中心なので本稿では議論せず、9章以降を議論の対象とする。)
では、「動的平衡」とは何か。まず、これから検討してみよう。
 福岡は、生命の本質とは何かという議論を、シュレーディンガーの古典的著作「生命とは何か」(1944)の紹介から始める。増大するエントロピーに抗するために、生物体は、周囲の環境から負のエントロピーを取り込み、自分自身が作り出したエントロピーの増加分を相殺し、低いエントロピー状態に保っている。シュレーディンガーは、これを、生物は「負のエントロピ-」を食べて生きている、と表現した。だが、シュレーディンガーは具体的な仕組みを提出することはできなかった。ここまでの記述は特に問題はないだろう。
 福岡独自の説明となるとなるのは、これ以降の記述である。生命の特質を実現する生命固有のメカニズムの意味と機構を明らかにしたのは、シェーンハイマーの発見である。重水素をトレーサーとしたネズミの実験で、それまでは使用されるまでは体内に蓄積されていると思われていた脂肪が絶えず入れ替わっていることを発見した。シェーンハイマーは、このような身体の構成成分の入れ替わりを「身体構成成分の動的な状態」( The Dynamical State of Body Constitutents)と呼んだ。
(以降の引用文は、特に断らない限り、「生物と無生物のあいだ」からのものである。)

【引用】
現在、私たちは、脳細胞のDNAでさえも不磨の大典でないことを知っている。脳細胞は発生時に形成されると一生の間、わずかな例外を除き、分裂も増殖もしないとされている。つまりここにはDNAの自己複製の機会はない。
 ならば脳細胞のDNAはまったく不変で、ヒトが生まれてから死ぬまで、同一の原子で構成されたまま不動なのだろうか。そうではない。脳細胞のDNAを構成する原子は、むしろ増殖する細胞のDNAよりも高い頻度で、常に部分的な分解と修復がなされている。(略)
  DNAの発見者であるオズワルド・エイブリーも、その構造を解き明かしたジェームズ・ワトソンとフランシス・クリック、そしてロザリンド・フランクリンも十分に意識していなっかたDNAの動的な姿がここにある。原子の乱雑なふるまいと秩序の維持を考え続けたエルヴィン・シュレーディンガーの省察もその地点には達していなかった。ただひとり、ルドルフ・シェーンハイマーだけがその秘密を感得することができた。
  秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない。
 (p165)
【引用おわり】

【引用】
 エントロピー増大の法則は容赦なく生体を構成する成分にも降りかかる。高分子は酸化され分断される。集合体は離散し、反応は乱れる。タンパク質は損傷をうけ変性する。しかし、もし、やがては崩壊する速度よりも早く、常に再構成を行うことができれば、結果的にその仕組みは、増大するエントロピーを系の外部に捨てていることになる。
 つまり、エントロピー増大の法則に抗う唯一の方法は、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろその仕組み自体を流れの中に置くことなのである。つまり流れこそが、生物の内部に必然的に発生するエントロピーを排出する機能を担っていることになるのだ。
 私はここで、シェーンハイマーの発見した生命の動的な状態(dynamic state)という概念をさらに拡張して、動的平衡という言葉を導入したい。この日本語に対応する英語は、dynamic wquilibrium(ダイナミック・イクイリブリアム)である。海辺に立つ砂の城は実体としてそこに存在するのではなく、流れが作り出す効果としてそこにある動的な何かである。私は先にこう書いた。その何かとはすなわち平衡ということである。  自己複製として定義された生命は、シェーンハイマーの発見に再び光を当てることによって次のように再定義される。
 
生命とは動的平衡にある流れである。
 
  (p167)
【引用おわり】

これが、「動的平衡」に関する福岡の説明である。
 しかし、いくらかでも熱力学や化学の知識を持つものなら、福岡の「平衡」という言葉の使い方に疑問を持つだろう。
熱力学的な意味での「平衡」とは何か。それは、エントロピーが最大に達した状態、熱力学的な駆動力がゼロの状態である。これは、生物で言えば死んだ状態のことである。これでは、福岡の「動的平衡」とは合わないだろう。
 それでは、化学的な意味での「平衡」とは何か。化学では、化学平衡のことを動的平衡と呼ぶ場合がある。化学平衡とは、反応は起こり続けているが、進行する反応と逆向きの反応とがまったく同じ速度で起こっているため、系の化学的性質に変化が起こらない状態である。つまり常に動いていながら、どこにも変化していかないという状態である。(*1)これは一見福岡の「動的平衡」と同じものに思えるが、落ち着いて考えれば似て非なるものだと分かる。生体内における化学反応は、多くの場合一方向に進んでいるのであり、状態が変わらないように見えるのは、物質が外から流れ込んでくるからである。このような状態は、通常、「平衡」とは呼ばず、「定常状態」という。
 熱力学的な平衡でも化学的平衡でもないとすれば、福岡の言う「動的平衡」とは一体何なのか。注意深く読んで見ると、福岡は「動的平衡」という言葉を明確に定義していないことに気づく。再度、福岡の文章から引用してみよう。
「海辺に立つ砂の城は実体としてそこに存在するのではなく、流れが作り出す効果としてそこにある動的な何かである。(略)その何かとはすなわち平衡ということである」
非常に曖昧である。「動的平衡」とは、「流れが作り出す効果」であり「動的な何か」であるということなのだが、その「効果」や「何か」とは一体何なのか。「その何か」を「平衡」という言葉に置き換えたところで何の説明にもなっていない。福岡の言う「動的平衡」は 熱力学的な「平衡」にも、化学的な「平衡」にも正確には当てはまらない。単に、体を構成する物質が出入りしていることを「平衡」と呼んでいるように見える。
 実は、エントロピ-を外部に排出するということ、福岡の言葉では「動的平衡」は、熱力学的には「平衡」ではなく「非平衡」なのである。散逸構造理論によりノーベル化学賞を受賞したプリコジンは、「開放系の非平衡状態」から動的秩序が生み出されることを明らかにした。

【引用】
 平衡から遠く離れた条件のもとでは、われわれの観察する構造は、コンプレクション数の最大に対応しないという意味で、ボルツマンの秩序原理の根底にある確率の概念は、もはや成立しない。そればかりか、平衡から遠く離れた条件は、自由エネルギーF=E-TSの最小にも関係付けることができない。均質化し、初期条件を忘れようとする傾向は、もはや一般的な性質ではない。この文脈では、生命の起源という古くからの問題に、今までとは異なる光があてられる。確かに、生命はボルツマンの秩序原理とは相容れないが、平衡から遠く離れた条件化で起こりうるような振舞いとなら相容れなくもない。
  (中略)
  このように、系と外界との相互作用、つまり非平衡状態に系をおくことこそ、物質が新しい動的状態-散逸構造-を形作る出発点となる。
  「混沌からの秩序」I・プリコジン/I・スタンジェール p204
【引用おわり】

物理学や生物学の分野では、「非線形非平衡系」や「自己組織化」といった言葉で、自然界に見られる動的な秩序について広く議論されている。 (誤解のないように書いておくが、「非線形非平衡系」に含まれるのは生物だけではない。)この分野では、プリコジン、アイゲン等の先駆的な研究が有名である。日本では清水博、蔵本由紀などの名が挙げられるだろう。両者の著作から引用しよう。

【引用】
 結晶の形態が最も安定なのは、その構成要素である原子や分子の位置ができるかぎり動かないときですが、このことは生体の形態には当てはまりません。生体の形態は、生体を構成している原子や分子が運動したり、反応したり、入れ替わったりすることができるときだけ、すなわち生体が生きているときだけ、安定であるからです。この理由から結晶構造が持っているような秩序を静的秩序と名づけたのに対して、生体の形態にみられるような秩序を動的秩序と呼ぶことにしましょう。
  ここで、これまで考えてきたことをまとめてみましょう。
  (1)生きている状態は、特定の分子や要素があるかないかということではなくて、多くの分子や要素の集合体(マクロな系)が持つ、グローバルな状態(相)です。
  (2)生きている状態にある系は、高い秩序を自ら発現し、それを維持する能力を持っています。
  (3)その秩序は結晶にみられるような静的秩序ではなく、動的秩序であり、これから説明していくようにその秩序を安定に維持するためには、エネルギーや物質の絶えざる流れを必要としています。
「生命を捉えなおす」清水博 1978  p98
【引用おわり】

【引用】
単調な坂道の途中にやや複雑な迂回路や起伏構造を作ってエネルギーの流れを制御し、そこに秩序だった運動を実現するようなシステムは、振り子時計以外にもいろいろあります。次章以後でもその多くの例を示します。それらは、外部からもらった分だけのエネルギーを放出し、発生したエントロピー分と等量のエントロピーを排出する非平衡開放系です。ごく大まかに見れば、そうした点では、本物の生きものも時計と共通した装置であるといえます。生物をこのような非平衡開放系として明確にとらえた人として、量子力学の創始者の一人エルヴィン・シュレディンガーが挙げられます。もちろん、生物は進化によって獲得された途方もなく複雑精妙な「起伏構造」をもっていますから、デカルトが考えた動物機械のようなものとはわけが違いますが。そして、この起伏構造の詳細についての膨大な知識を今日の生物学は蓄積しています。
「非線形科学」蔵本由紀 2007   p47
【引用おわり】

(福岡は「週刊現代」の「'07年「私の選ぶ年間ベスト3」」という記事で、上に挙げた蔵本由紀の「非線形科学」を選んでいる。福岡のコメントは次のようなものである。「生命とは絶え間なく交換される分子の流れにすぎないと考える私が、なぜ秩序を維持できるのか。それを解く鍵がある。」(どうでもいいことだが、この文章は主語と述語の関係がねじれてしまっていて変である)福岡は、非線形科学について本書を読むまで知らなかったのか、それとも知っていたのか、疑問である。)
また、次節で見るように、生物に見られる動的な秩序については、ドイツ人科学者のフォン・ベルタランフィによって1930年代に既に論じられているのである。
 つまり、福岡の書いているようなことは、古くから論じられてきていて、現在では科学の一分野として、既にある程度確立されているのだ。福岡は、これらの議論に全く触れようとしない。あたかも、シェーンハイマー(と福岡自身)だけが、他の科学者たちが到達できなかった認識にたどり着くことができた、という風に見えるストーリーを作り上げてしまっている。このような福岡の態度には疑問を持たざるを得ない。既に「非線形非平衡系」や「自己組織化」といった言葉で、広く議論されているものに、なぜ別の名前をつけて議論する必要があるのか。「生物と無生物のあいだ」の読者は「動的平衡」という言葉を覚えても、それに関連した広大で活発な学問領域があることを知ることができないのだ。
 「生物と無生物のあいだ」においては、個々の記述は正しいものだとしても、実際の学問の姿が公平な態度で伝えられていない。福岡は、シェーンハイマーの埋もれた発見を自分が再評価した、というようなストーリーを作り上げるために、現実を歪めて描き出してしまっているのである。

(*1)化学平衡については以下を参照のこと。 
  ボール物理化学 David. W. Ball(クリーブランド州立大学教授) 著
  www.kagakudojin.co.jp/pdf/c1542/Ball05.pdf

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モギケン監視報告 1週目

ヨミウリ・ウィークリーの連載確認しました。
「オーラの泉」騒動には触れていませんでした。
「クオリア日記」の方も、今のところ言及なし。

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2008年1月29日 (火)

「プリンス 戦略の貴公子」ブライアン・モートン

本書の購入を検討しているプリンス・ファンに心からの忠告。

お止めなさい。

 原著は「Prince:A Thief In The Temple by Brian Morton」。
アメリカとイギリスのamazonのレビューを見てほしい。そこに書いてある通りである。
すなわち「A complete waste of time and money」。
 短所はいくらでも挙げられる。
 まず、記述量のバランスの悪さ。
全280ページのうち、「Batman」までで228ページ。つまり、90年代以降は52ページだけで、イマンシペイション以降に至っては、たった2ページ(!)で片付けられている。
NPG名義のアルバムやマッドハウスや名のアーティストのプロデュース等のサイド・プロジェクトは、内容には全くふれず、一行程度で片付けられる始末。
 内容のほうも、情報的に新しいものは何もなく、ファンなら知っているような話ばかり。謝辞のページでは、プリンスの側近であるメンバー、元メンバーにインタビューをしたようなことが書かれているが、中身には全く反映されていない。
「限りない量のプリンスのアルバム、シングル、ブートレグを延々聴きつづけ」と書いている割には、未発表曲で言及されているのは、「Can I Play With U?」のみ。「Electric Intercourse」とか「In a Large Room with No Lifght」や「Crucial」のエリック・リーズのサックスが入っている方のバージョン、とかを持ち出したなら、オッ、分かってるねえ、という感じになるのだが。
 また、ライブについても、実際に観ているのは、「LOVESEXY」ツアーと「NUDE」ツアーだけではないか、と疑わざるを得ないような書きぶりである。
 個々の作品の評価についても、ファンからすれば、全く納得できないものが多い。「4 The Tears in Your Eyes」を「可もなく不可もない曲」としているあたりまでは、「見解の相違」として我慢できても、先を読むにつれて、とてもじゃないが我慢できなくなる。
「サイン・オブ・ザ・タイムス」について、「 それはプリンスの最も審美的な-官能的とは正反対な-アルバムで、聞いているうちに確かな喜びを感じられる賛美歌である」と書いておきながら、個々の曲の評価は、

  「Housequake」-「中身のない」!!!
  「The Ballad of Dorothy Parker」-「その音は風変わりで、海底まで沈んでしまうような気分にさせられる。おそらく、まだオープン前のペイズリー・パークで、調整前の卓を使って録音したためだろう」!!!!
  「Strange Relationship」-「拍子抜け」!!!!!

といった調子で、一体どうしてこのアルバムを「傑作」と考えているのか、まったく理解できない。結局のところ、一方的な感想が述べられるだけで、音楽的な洞察はほとんど見つけることができない。
 前書きで、「プリンスはいったい何のために、自らを謎めいた存在にしたかったのか?その答えは、ビジネスとして非常に都合が良かったからである」と書いているくらいだから、ビジネスの面からの分析が加えられるかと思えば、「Crystal Ball」のネット販売も、NPGMCを通じての音楽配信も、アルバムからライブへの活動のシフトも触れられていない。解説の丸屋九兵衛の6ページの記述のほうが、よっぽど内容があると思えるほどである。
 まえがきで「彼はまるで、音楽史のなかの重大な時期を象徴しているかのようだが、1978年や1979年やその後の十年を考えてみれば、それらの時代を代表したのはプリンスではないし、多くの後継者を残したのもプリンスではない。」などと書いているのを読むと、そもそも、この著者はプリンスに本気で興味など持っていないのではないかと思われる。「かつてわたしが半公式的に彼と会ったとき、意味の取れる言葉はまったく得られなかったが、ただマイルス・デイヴィスへの賞賛の念だけは共有できた」と書き、何かとマイルスのキャリアとプリンスのキャリアを比較するところを見ると、著者とプリンスの接点はマイルス・デイヴィスだけなのではないかと疑わざるを得ない。
  一体どうして、こんな駄本を翻訳しようなどと思ったのか。こんなものを出すくらいなら、Per Nilsenの「DANCEMUSICSEXROMANCE PRINCE:THE FIRST DECADE」を出してもらったほうが、はるかに良かった。

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福岡伸一批判 「生物と無生物のあいだ」を中心に(1)

1.イントロダクション

 福岡伸一の「生物と無生物のあいだ」は、科学書としては異例のベストセラーとなっている。各種メディアで絶賛され、福岡自身、テレビでは爆笑問題と対談し、ラジオにも多く出演して人気を博している。とくに文系方面からの同書の評価は高く、高橋源一郎、よしもとばなな、大岡怜といった作家たちから賞賛され、「サントリー学芸賞 2007年度 社会・風俗部門」も受賞している。
 これらの評価は妥当なものなのだろうか。文系方面からの高い評価に対して、理系の読者からは批判も多く出ている。「タイトルが内容とかけ離れている」「本筋と無関係な挿話が多い」「生物の知識があるものなら知っているようなことばかり」といったものが目に付く批判だが、私は、もっと本質的で体系的な批判が必要であると考える。一般向け啓蒙書に多くを求めても無意味だという意見もあるだろうが、「生物と無生物のあいだ」という本は、一般向け啓蒙書としても質の高いものではないのであり、ベストセラーとしての影響力の大きさを考えると、しかるべき批判が必要だと考える。
  本稿では、「生物と無生物のあいだ」を中心に福岡伸一批判を試みる。
 本稿は、全部で10節からなる。
最初の1節は、イントロダクションである。 
2から4節は、この本における学説や人物の記述が正確で信頼できるものなのかを検討する。
5から7節は、福岡の考え方や論理展開が妥当なものなのか、批判的に検討する。
8から9節は、「生物と無生物のあいだ」をめぐる状況について論評する。
最後の10節は番外編である。福岡の文章について批評する。

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「福岡伸一批判」開始

 予告していた「福岡伸一批判」を今日から開始します。実はまだ全部は書き終わってないのですが、全10節のうち、とりあえず、前編として4節までを1日1節ずつ公開します。中・後編は、あまり間を置かずに開始したいと思います。
  今回は「生物と無生物のあいだ」が中心となりますが、実は、後から読んだ「もう牛を食べても安心か」の方がもっと問題が多い本だと気がついてしまったので、そちらの方は、こっちが終わってから手をつける予定です。
  内容に関するツッコミは歓迎しますが、何分こちらはアカデミシャンでもなければ生物学の専門家でもないのでお手柔らかにお願いします。
  今日公開の第1節はイントロなので、本論に入るのは明日からになります。
  それでは、スタート。

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2008年1月28日 (月)

リニューアル

 ブログのタイトルを変更してデザインも一新、カテゴリーも整理しました。
 新しいタイトルは、寺田寅彦の随筆の連載タイトルから持ってきました。ラテン語で「自由画稿」という意味だそうですが、「こんなラテン語の名前などつけるものの気が知れない」と言って非難されたという、いわく付きのタイトルです。
実は、前のタイトルはブログを始める際に割と投げやりに決めたものだったので、自分でもブサイクなタイトルだなあと思って気になっていて、やっと変更することができてスッキリしました。
 リニューアル記念として、前から予告していた「福岡伸一批判」を明日から開始します。実はまだ全部は書き終わってないのですが、とりあえず、前・中・後編の3つに分けて前編のみを先に公開することにしました。
  と言うわけで、当ブログを今後もよろしくお願いします。

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2008年1月27日 (日)

「名短篇、ここにあり」北村薫 宮部みゆき 編

ベストは「冷たい仕事」と「少女架刑と「考える人」。
つまらなかったのは、「網」と「誤訳」と「鬼」。それ以外は結構面白かった。
ヒット率は9/12か。この手のアンソロジーとしてはまあ悪くないかな。
個々の作品の感想を書く前に本の作りについて苦言を。この本は「小説新潮」の「創刊750号記念名作選」のテクストを元にしていて、それは別にかまわないのだが、初出の情報がないので、いつ頃の作品なのかも分からないし、同じ作者の同傾向の作品を読みたいと思っても、どの本を探せばよいのか分からない。(ちなみに、私が同じような作品を読みたいと思った「少女架刑」は新潮文庫の「星への旅」に収録されている。)ちょっと不親切なんじゃないかと思った。

以下、作品ごとにコメント。
若干ネタばれ気味の記述を含みますので、まだ読んでない人は以下はとばしてください。

「となりの宇宙人」半村良
下町的な庶民の描写とSF的なモチーフの組み合わせが楽しい。
これを思いっきりヘビーにすると「岬一郎の抵抗」になるわけですね。

「冷たい仕事」黒井千次
読後、「なんじゃこりゃあ!」と叫びたくなる作品。出だしを読んだ時点では、あんな展開になるとは、まず予想できない。だけど、心理的な説得力はあるんですよね。二人で協力し合って「あんな作業」をする姿には笑ってしまう。ほんとに変な話。

「むかしばなし」小松左京
半ばまでに薄々オチの予想がつくのだが、むしろ予想された結末に向かっていくのをニヤニヤしながら楽しむのが正しいだろう。
オチは某外国作家の某有名短篇と同じですね。

「隠し芸の男」城山三郎
怖い話。サラリーマン残酷物語って感じですかね。

「少女架刑」吉村昭
これは素晴らしい。
死体の一人称と言うのは、それほど珍しいものではないと思う。解説では乙一の作品をあげているが、ブラッドベリの短篇にもそういうのがあったような気がする。
16歳で死んだ少女は、解剖のため病院に運ばれる。少女は自分が死んだという事実に動揺することもなく、生前よりもむしろ鋭敏になった感覚で自分の周りの出来事を観察している。描写の視点が、死体から見たものだったり、体から離れて見たものだったりと一貫しないのだが、それがかえって奇妙な効果をあげている。死体にかまきりがとまるシーンと最後の骨の崩れる音が響くシーンに戦慄を覚える。なぜかウォルター・デ・ラ・メアの短篇を思い出した。

「あしたの夕刊」吉行淳之介
未来の日付の入った新聞を手に入れて、そこに書かれている通りのことが起きるという設定は珍しいものではないが、予想外の方向でオチが付いて新鮮だった。

「穴 -考える人たち-」山口瞳
冒頭近くの「ドストエフスキー」とのかみ合っているのかかみ合ってないのかよく分からない会話に頭がクラクラした。

「網」多岐川恭
解説では「変なユーモアがある」とされているが、私はサスペンスは感じてもユーモアは感じることができなかった。 

「少年探偵」戸板康二
3つの紛失事件を少年探偵が次々と解いていく。最初の二つの事件と少年の心理が最後の事件の伏線になっているところが上手い。

「誤訳」松本清張
このタイトルで、出だしの文章を読めば、どんな「誤訳」なのだろうとワクワクするのだが実につまらないオチだった。文学を卑近なレベルに引き降ろす結末には、清張自身の純文学に対するコンプレックスを感じてしまう。語り手が真相に気がつくきっかけも、何の工夫も芸もなくつまらない。
やはり私は松本清張を好きになれないようだ。

「考える人」井上靖
これはとても良かった。 断食をして自ら木乃伊になったコウカイ上人。その木乃伊の調査に向かう新聞記者の主人公達4人が、取り憑かれたように次々と上人の人生を語り出す。4人によって紡ぎ出された上人の伝記は、奇妙な実在感を持って読者の脳裏にイメージを結ぶ。

「鬼」円地文子
鬼に憑かれた母と娘の話。全く面白くない。なんでこの作品が選ばれたのか理解できない。「鬼に憑かれた」ってなんのことよ?って感じ。「鬼」を信じるような人が現実にいるからそれを描いたのだということならそれでもいいが、だとすると作品の中で起きた出来事は現実的に感じられないし、純然たるファンタジーとして読もうとしても、やっぱりつまらない。

Book 星への旅

著者:吉村 昭
販売元:新潮社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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大阪府知事選 橋下徹氏当選確実

橋下徹、当選確実なそうで。大阪府民の皆様。ご愁傷様です。東京都民に差をつけるせっかくのチャンスを逃してしまったんですね。「横山ノックでは失敗したけど、同じミスは二度としない!」って言えるようになるチャンスだったのにねえ。この調子だと、日本は紳助とかそのまんま東とかお笑い芸人に牛耳られそうだな。サイアクだ。

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Dachambo 2008.1.26 LIQUIDROOM

  Dachamboを観に、LIQUIDROOMへ。4時半開演でkaoru inoue のセットをはさんでの2部構成だったのだが、体力的にもちそうにないと思い、第一部はとばして途中から観に行った。2階の出店を少しながめてから、フロアに観にいくとkaoru inoueのDJが始まっていた。フロアの横ではサイケデリックなペインティングを描いている。天井からはミラーボールとすだれ(?)がぶら下がりカラフルな照明が当てられている。
  kaoru inoueのセットの終り間近、にステージ上になぜか笠を頭にかぶってDachamboのメンバー登場。DJが終了すると間髪を入れずに演奏開始。そのまま途切れなしに演奏が続く。最初のうちはフロアの一番後ろで観ていたが、周りの客が黙ってみているので気分が盛り上がらず前の方に移動したのだが、今度は音響が悪くなるのでまた後ろの方に戻り、定位置を探す。中盤、エコーをかけまくったドラッギーなコーラスがかっこいい。終盤のクライマックス、ステージ上には光の粒が猛スピードで流れ、演奏とあいまってかなりの酩酊感。最高潮で演奏終了。十分堪能したのでアンコールは待たずにサッと帰る。9時半終了。あとから知ったけどアンコールには佐藤タイジが出たんですね。見逃した。ま、いいか。
  サイケな気分で、この寒い中、汗ばみながら駅に向かう。渋谷のタワレコに寄り道。「HARUOMI HOSONO STRANGE SONG BOOK」とブライアン・モートン著「プリンス 戦慄戦略の貴公子」を買って帰宅。本の内容をパラパラと見てみると....こ、これは...。内容については後で書きます。
  来月観にいく予定のライブは以下。
 
  2/5 星の行方 (寺本綾乃 (ダンス)、Gutevolk (音楽)、植野隆司 / Tenniscoats (音楽)、生西康典 (演出)、掛川康典 (映像)、稲葉まり (アニメーション)、せきやすこ (アニメーション) )
  2/16 BOOM BOOM SATELLITES
  2/17  バート・バカラック
  2/29 STEVE JANSEN

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「江原・茂木」関連

 「江原啓之の件については、これでおしまいにしよう」と書いたのだが、前言撤回。まだ続ける。とくに茂木健一郎がらみで。「モギケン」ウォッチャーとしては、こんな面白いネタを見逃すわけにはいかない。しつこくやります。
 江原と茂木に関連する話題をまとめておこう。
 
(1)江原編集の「A・NO・YO (あのよ) 2006年 12月号」で、「脳とスピリチュアル」というタイトルで対談。内容に関しては、残念ながら私は未確認。さすがに金を払って買う気にはなれないし、第一、レジに持っていくのが恥ずかしい。

(2)前にも書いたが「クオリア日記」で江原との対談の感想を。

http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2006/08/post_9d31.html

(3)2007年11月22日「エンジン01文化戦略会議」で対談。内容は不詳だが、「クオリア日記」には写真が載っている。

http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2007/11/post_c349.html

(4)直接江原関係ではないが、2007年1月12日「 NHK視点・論点」で「スピリチュアリズム・ブームの背景」のタイトルで出演。残念ながら、「NHK解説委員」のブログは2007年12月までのアーカイブしか残っていないので、原稿は見ることができないが、幸い、以下で大雑把な内容を知ることができる。

sociologbook 「蔓延する脳科学」

しかし、

・スピリチュアリズムが正しいとか間違ってるとかいうのは間違い
・それを通じて現代社会の姿がみえてくる

って...。確かに、江原を持ち上げるような「現代社会の姿」は見えてくるでしょうけどね。だからといって、なんで「スピリチュアリズムが正しいとか間違ってるとかいうのは間違い」ということになるんだ?茂木は、「あるものごとが存在する理由の説明」と「そのものごとの存在を正当化すること」の区別がついていないようだ。

 とりあえずは、これくらいかな。
  これからの注目は、茂木が今回の事件に関してどんな態度をとるかだ。「表現者はいいわけをしてはいけない」って言ってるくらいだから、言い訳はしないでほしいんですけどね。
  私の予想は以下。
 
(1)「スピリチュアリズムの流行を通じて現代社会の姿がみえてくる」と一般論にすりかえてごまかす
(2)「霊視とか前世とか言うのは、脳が作り出した仮想なのです」と、例のごとく脳科学に結びつける
(3)「江原さんにはクオリアを感じた」と、得意の「クオリア」で煙に巻く
(4)斎藤環との「往復書簡」同様、知らんぷりを決め込む

たぶん(4)だな。
当面、月曜発売の「YOMIURI WEEKLY」の連載と「クオリア日記」に注目しよう。

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2008年1月26日 (土)

緊急地震速報"不発”

“不発”続き…緊急地震速報発表されず 予測震度、基準より低く(産経新聞)

相次ぐ“不発”は、速報の信頼性にも影響しそうだ。

感度が良過ぎて逆方向の誤報を出しても、「信頼性にも影響」するだろうが。下の記事を見ろ。

緊急地震速報 ラジオ6社が啓発特番

速報することで、揺れが強くなる前にガス器具を消すなど、防災面での効果が期待できる。その半面、ラジオで速報を耳にしたドライバーが驚いて急ブレーキをかけたり、橋やトンネルを通り過ぎようと焦ったりして、事故につながる危険性も心配されている。

安易な書き方するなよ。

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「オーラの泉」問題 所感

 江原啓之の件については、各所で盛り上がっているので、これでおしまいにしよう。
 ちょっと気になったのは、「ニセ科学批判」の人たちの反応が案外鈍かったこと。一段落ついてから振り返って冷静に議論しようということなのかも知れないけど、せっかくのチャンスを見逃しているように見える。「ニセ科学批判」方面の人たちからすれば、江原啓之なんかインチキなのは明らかだから、かえって興味が薄いのかも知れない。江原のホット・リーディングなんて陳腐なものだしな。一人ひとりが批判的な見方を身に付けなければ江原一人を叩いたところで大して意味がないと思っているのかも知れない。「ニセ科学批判」の人たちは上品だから「溺れた犬は叩け」という態度は趣味に合わないのかもしれないけど、たちの悪いペテン師に対してはこういう態度も必要だと思うよ。

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未来講師めぐる 第3回

 今回は絶好調。1,2回は子供が中心のストーリーだったので、他愛ない話を無理やり盛り上げてる感じがしてイマイチのれなかったが、今回は設定やストーリーの不自然さが感じられなくて面白かった。この後も、この調子でいってほしい。
 しかし、東北出身だからって、今どきあんなに言葉のなまった高校生いないぞ。クドカン、宮城出身なんだから分かってるくせに。私の学生時代には、本当になまりのある英語の先生(おばさん)がいたけど。「サンフランシスコ」が「サンフランスコ」になっちゃうの。

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2008年1月25日 (金)

江原啓之 & 茂木健一郎

で、「江原啓之」といえば「茂木健一郎」なのだ(笑)。

クオリア日記

江原啓之さんにお目にかかる。
 とても面白い話だった。
 江原さんがなぜ今のような
活動をされているのか、
 その個人史的必然性を
受け取ったように思った。

 下町生まれという江原さんは気さく。 
 思い出すと、落語家のヒトと話した
ような印象へと変貌している。

 楽しみにしていたのだが、
部屋の中を言い当ててもらう機会がなかった。
 もし、江原さんが次のようなことを
言っていたら、
 私の世界観は大いに揺れ動いていたこと
だったろう。

 「茂木さんの部屋ね、開封しないで
積まれている沢山の郵便物が見えますね。
 本も置き場所がなくて床の上にどーんと
積んでありますね。
 仕事で使う本を探すとき、いつも
必死で横ばいになっているでしょ?
 読み終わったファックスは、
捨てましょうね。
 あれ、用紙の端が赤くなっていますよ。
そろそろ交換ですね。」

茂木って、やっぱりバカだと思うわ。

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『オーラの泉』「霊視のカラクリ」

 昨日の記事のアクセス数が多いので、調子に乗って、続けて江原啓之ネタ。
 先週発売の「週刊大衆」から、「美人女優Sがバラしちゃった江原氏『オーラの泉』「霊視のカラクリ」」。

  (略)
 時を同じくして、本誌が入手した”重大疑惑”の火元は、なんと、実際に『オーラの泉』にゲスト出演し、江原氏から霊視してもらった、連ドラ主演級の女優Sなのである。 件の女優Sから直接、話を聞いた雑誌記者が明かす。
 「Sは江原氏の大ファンで、『オーラの泉』の出演依頼がきたときは、すごくうれしかったそうです。ところが、収録が始まると、"最初は私の過去や家庭環境を当てていくから驚いたけど、途中でアレ?と思った”というんですよ。」
  (略)
  「Sがいうには、収録の1週間ほど前に番組スタッフがやって来て、”プライベートを根掘り葉掘り、3時間近くかけて聞き出された”そうです。
  ただ、そのときは他番組の打ち合わせも重なっていたので、気にしなかったそうですが、『オーラの泉』収録中に、ふと”江原さんの霊視する内容とスタッフが私から聞き出した話は、まったく同じだ!”と気づいたそうです。」
  (略)
  「江原氏と会うのを楽しみにしていたSは、よほどショックだったんでしょうね。悲しい顔で”ちょっと、ガッカリしてしまいました”と、ポロリとこぼしたんですよ。」 (略)

  昨日の「裏モノJAPAN」の記事に比べると、つっこみ不足かな。「裏モノJAPAN」の「ゲストが誰に可愛がられていたかが肝心」とか「厳格なお祖父さん」のくだりなんか、内部の人間ならではの暴露という感じで説得力あったし。
  壇れいの件といい、この「女優S」の件といい、ここにきて『オーラの泉』にボロが出始めたのは、視聴者が簡単にだまされるから江原とスタッフが慢心しちゃったのかな。前の記事だと2ヶ月前から地元の聞き込みをしていたのが、今度は1週間前に本人から直接プライベートを聞き出すという手抜きぶり。江原自身もスタッフが聞きだしたことをそのまましゃべってゲストに気づかれる始末。細木数子に続いて江原もテレビからサッサと消えてもらいましょう。

  なんて書いていたら、江原啓之がフジテレビを批判、ですってさ。

  江原啓之がフジを痛烈批判 「虚偽の提案でだまされた」

   死んだ人間のことは分かるのに、テレビ局の人間には「だまされ」ちゃうんですな。マヌケだなあ。

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2008年1月24日 (木)

美輪と江原の霊視はすべてスタッフが事前調査したものだった!

江原啓之の「霊視」に矛盾 霊視した父はご存命だった
「スピリチュアル・カウンセラー」として今やバラエティ番組の顔となっている江原啓之氏(43)の「霊視」に対して週刊文春が矛盾点を指摘した。(アメーバニュース)

いい機会だから、スクラップしておいた雑誌の記事から、関連するものを取り上げよう。
「裏モノJAPAN」2007年7月号の「特集 スピリチュアル現象のウソを暴く」から、「「オーラの泉」元スタッフが明かす人気番組のカラクリ  美輪と江原の霊視はすべてスタッフが事前調査したものだった! 」という記事である。

(略) 
鈴木卓也氏(仮名29才)は05年の番組スタートから今年3月まで「オーラの泉」に関わった元制作スタッフである。
 本人の意向により社名は明かせないが、大学卒業後、テレビ朝日系の番組制作会社に就職。主にドキュメント番組やバラエティ番組を担当し後、04年秋、上司にある特番の担当を命じられた。「翌年2月のドスペ(レギュラー番組への登竜門とも言われる単発番組枠)で、芸能人の前世占いをやるって企画でした。江原さんは今でこそスピリテュアル・カウンセラーを名乗っていますが、そのころは朝の番組で[霊障(霊的な原因で起きる災い)]や、死んだ子供と交信するとかいうコーナーをやってて、霊媒師って紹介されました。」
  この特番は『オーラの泉』のパイロット版というべきもので、鈴木さんの仕事は出演者の下調べをすることだった。
  「ゲストのことを調べるのは当たり前のことなんですよ。普通のトーク番組でも、その人がどんな仕事をして、誰とスキャンダルを起こしたかなんてことを把握しとかないと上っ面の話しかできませんから。最低でも、大宅文庫(東京世田谷にある雑誌の図書館)へ行って過去の雑誌記事をコピーしたり、一緒に仕事をしたスタッフに話を聞くぐらいのことはする。ボクを含め、数社の制作会社から駆り出されたスタッフがそれぞれのゲストの出身地まで出向いて、家族の生活ぶりや小さい頃のエピソードなんかを集めたんです。」
  両親や祖父母、兄弟、姉妹がいればその人となりや体格、話し方。中でも肝心なのは、ゲストが誰に可愛がられていたか、だ。
  「なくなられたお祖父ちゃんにかわいがられてたゲストなら『守護霊として見守ってくれてますよ』って言えば本人は納得する。正解はないんですから。前世だって、小さい頃にバレエを習っていた相手なら中世のバレリーナだったとか、手作業が好きな相手には職人とか、よく考えると当たり前なことを言ってますよ。でも、最初はそれでよかったんです」
  スペシャル番組は、好評を収め、05年4月からレギュラー放送(テレビ朝日系月曜24時46分~25時16分)が始まった。
  「放送の2ヶ月くらい前に出演者が決まりますから、出身地や学校関係、友人関係というように分担して調査にかかります。当然、聞き込みのときは『オーラの泉」って名前は出しません。例えば『故郷バンザイ』ってスペシャル企画を考えているんですが、××さんはこちらのご出身ですよね。思い出に残ってるお話はございませんか、って具合ですね。局のノベルティなんかプレゼントして、こっちが誘導尋問していけば案外、話してくれるもんなんですよ」
  実際のところ、地元1人有名人が出ればテレビ局から新聞、雑誌まで、記者が詰めかけ根掘り葉掘りの取材合戦が繰り広げられる。調査段階で口にした特番が放映されずとも、改めて問い合わせてくる人間などいないという。
  「ボクたちが集めた情報を項目ごとに整理して渡すと、美輪さんと江原さんで念入りに打ち合わせが行われる。つまり、番組で江原さんが話すことはボクたちが集めた情報を元にしているんです。
  具体的な名前を合えるのは差し障りがあるので勘弁してほしいんですが、例えば、代々木御領地の鷹場を守ってきた家系に生まれたゲストがいたんですよ。聞き込みをかけると、そのタレントさんは厳格なお祖父さんにしつけられたって話が出てきた。
  それを江原さんは番組の中で、ゲストの後ろに誰かいるような素振りで『あなたのおじいさんだって方が心配そうに見守ってますよ。昔は相当、厳しかったんじゃないかな。人望があって豪快な方ですね』と例の口調で言う。
  と、ゲストの顔付きがサッと変わった。江原さんが霊視したと思ったんでしょうね。いつものおちゃらけたキャラが真剣な表情になった。テレビの前の視聴者は話の真贋は判断できないけど、その様子はわかる。<あのゲストがこんな風になるなんて凄い>と、間接的に江原さんの能力を信じるんです」
  『オーラの泉』といえば、スピリテュアルブームの代名詞であり、江原啓之がメインの番組と思われがちだが、鈴木さんによると番組の主導権を握っているのは美輪明宏だと断言する。
  なるほど。当初の番組タイトルは、「国分太一・美輪明宏のオーラの泉」で、江原の名前が加わったのは時間が45分に拡大された05年10月以降のこと。番組が美輪明宏を中心に考えられてスタートしたことは推察できる。
  「オンエア中に、江原さんが言葉に詰まったりすると美輪さんが耳元でささやいたりするじゃないですか。みなさんは互いが霊視したことを相談してると思うんでしょうが、あれって、美輪さんがキーワードを言って軌道修正してるんですよ」
  実は鈴木氏がそこまで言い切るのは、彼の処遇に美輪さんが深く関わっているからだ。
  「ボクがこの3月までいたのは元の制作会社じゃないんです。時期を言うと身元がバレちゃうんで勘弁してほしいんですが、美輪さんに言われて会社を辞めたんですよ。で、別の会社に入った。ボクだけじゃなく、番組開始から調査にかかわった制作会社の連中がまるごと移ったんです。そこは番組制作とは関係ない物販会社で、美輪さん自身が経営しているのか、タニマチの方の会社なのか知りませんが、ボクらの仕事は変わらない。『オーラの泉』のゲストの下調べです。反響が出るに連れ、表面的なことばかりじゃなくて深く調べるよう言われました。イジメられてたとかグレて悪さしてた過去などを探り出してこいと。こういうのって、多少は強引なことをしないと調べられないじゃないですか。だから、万が一のとき、制作会社の人間がやってるとバレたらマズイと判断したんじゃないでしょうか」
  (略)
 
 

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2008年1月23日 (水)

福岡伸一は統計学の基礎を理解していない

 前から書いている通り、「生物と無生物のあいだ」の批判を書いているところなのだが、行きがかり上、読むつもりのなかった「もう牛を食べても安心か」に目を通すはめに陥ってしまった。パラパラ眺めているうちに、以下の文章を発見し、唖然とした。福岡伸一は「帰無仮説の棄却」の意味を理解していないらしい。
 少し長いが、「もう牛を食べても安心か」86ページのコラムをまるごと引用する。統計学のごく初歩的な知識がある人間なら、これを読んで唖然とするだろう(そういう私も、前に書いた竹内久美子の記事で「第一種の誤り」と「第二種の誤り」を取り違えて書いてしまったのだ