« 2008年1月 | トップページ | 2008年3月 »

2008年2月

2008年2月28日 (木)

これも脳、あれも脳、たぶん脳、きっと脳

「日経サイエンス」2008年4月号「茂木健一郎と愉しむ科学のクオリア」より。

 山岡さんとのお話で心に残ったのは、地震や噴火は日本列島に住む私たちにとって災厄であると同時に、土地を住みやすくする恵みでもあるという点だ。火山灰が降り積もった土地は、平らで耕作しやすくなる。地震が起きやすいような土地条件が、人の住みやすい平野をつくる。自然の営為は実に奥深い。
  脳の研究では、ある欠点が見方を変えると長所になるという事例にたびたび出くわす。「天才」と呼ばれる偉人たちは多くの場合、普通の人と比べて欠落した部分を持つ。人間の脳においても、マイナスとプラスはそう簡単には分けられない。

 

「たむたむの自民党VS民主党」より。

 しかし、他人のために何かをやることでドーパミンが出る。これは人間だけが持っている、本当に不思議な性質なのです。その中で人と人とが利害が対立するときもあります。理想というのはお互いに相手に対して思いやりがあって、相手のために働いて、それが自分の幸せになる。
 マザー・テレサは、ああいうふうに一生貧しい人のために尽くしたわけですけれども、あれは脳科学的に言うと、マザー・テレサの脳の中でドーパミンが出ていたことは間違いありません。ものすごい快感を感じていたと思います。

  だからぁ、もう何回も言ってるけどぉ、どうしてぇ、ケンイチロウくんはぁ、なんでもかんでもぉ、脳の話に結びつけるの?
  「マイナスとプラスはそう簡単には分けられない」という程度のことを言うのに、なぜ脳を持ち出す必要があるの?マザー・テレサの脳の中でドーパミンが出ていたからって、それに何の意味があるの?
  いくらかでも見る眼がある人間なら「茂木はなんでもかんでも脳に結びつける」ということに気づいちゃってるんだから、ケンイチロウ君は自分が陰で笑われているということに気づいたほうがいいと思うよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「論文の新しい書き方」戸坂潤

  戸坂潤の「読書法」から、もう少し。  
「5 論文の新しい書き方」より。

 一読して、つまりごく不注意に読んで、何だか判ったように思われる論文でも、少し疑問を持ちながら注意して読むと、一向取り止めのない判らない論文がよくあるものである。その人間の云いたいことがさっぱり判らないのは論外としても、云いたいらしいことは大体常識的に見当はついても、さてその云いたいことがその論文によっては一向特別な根拠を与えられないようでは、その論文は要するに何の役にも立っていないのであって、ただ、こうだああだ、と主張だけを書いた方がまだしも正直なことで、論文の体裁などはコケおどしの見せかけに過ぎなくなる。つまり既知の常識を常識として反覆するだけで、その常識を掘り起こすでもなく、糾明するでもなく、高めるでもない。こういう論文はアタマの悪い論文である。そしてアタマの悪い論文は、往々歓迎されるものであるのも忘れてならぬ事実だ。つまり読者の既知の世界に抵抗して行くだけの骨のない論文は、一種の人間的弱さから来る好意を以て迎えられる。――アタマの悪い論文に堕さぬためには、論文は作文でないことを注目してかかる必要があろう。勿論アタマのよい論文で、作文としても修辞的で愁訴力に富んでいたり扇動力を持っていたりすれば、それに越したことはない。

  この辺り、茂木健一郎とか福岡伸一とか養老孟司とかには、壁にでも貼って毎日読んでほしいですな。

 論文の生命は、あくまで分析を通しての総合という手口にあるのである。分析とは大体区別を明らかにすることだ。同じ言葉や意味の近かそうな言葉を区別して、夫々の通用範囲をハッキリさせ、それを使って事物を解明して行くことである。総合とは之に反して、連関と対立物の統一とを明らかにすることである。お互いに無関係に見えるもの、お互いに違っているものの間に、或る同一性に帰する関係を発見することである。そして、二つの相違し又無関係に見えた事物をこういう風に関係させるためには、二つのものの夫々について、さっき云った分析が予め必要なのである。充分に分析されないものは、決して満足に総合はされない。充分に分解されて初めて確実な組み立てが出来る。論文の主張はこの時初めて成り立つ。云って見れば、之が論文の書き方の方式の唯一のものであるかも知れない。アタマの悪い論文とは、この方式を実行出来ない論文のことだ。それをゴマ化すために、作文などに努力をする。

  それにしても、本当に頭のいい人の明晰な文章を読むと気持ちがいいねえ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年2月27日 (水)

「学校へ行こう!MAX」江原啓之出演

 江原啓之の「大学教授」就任が問題になっていますが、

江原啓之「大学教授」就任 スピリチュアルではなく「生命倫理」教える(J-CASTニュース)

追い討ちをかけるような情報が。 3/4(火)放送予定の「学校へ行こう!MAX」(TBS)に江原が出演予定。「TVガイド」によると内容は以下の通り。

江原啓之が坂本昌行、三宅健とともに看護専門学科のある都内の高校を訪問。
江原が看護師を目指す生徒達の相談に乗る。一行が実習中の教室を訪れると生徒たちから大きな歓声が上がる(予定)

番組のホームページには、まだ情報は出ていませんね。もちろん、私は録画してチェックしますよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「読書量と教養の高さは比例しない」の続き

 前に「読書量と教養の高さは比例しない」と書いたのだが、同じようなことは既に戸坂潤が書いてましたね。
 「読書法」の「2 読書家と読書」から。

 本が如何に人間を馬鹿にするかということについては、昔から色々の人が述べているが、それは決して逆説ではなかったのである。いわゆる読書子には、案外特色のある思想家はいないというのが、事実ではないだろうか。本を読まない人間の無教養は今問題でない。本を読む人間の内で、読書子や「読書家」は決して信頼すべからざる文化人である。彼等は雑誌の投書階級のような特色を、一般文化の上でもっているようにも思われる。一種の謙遜な弥次馬でなければ、不遜な能無しである。
 こういう読書子は決して「読者」の代表者ではあり得ない。真の読者は読書主義には陥らぬものだ。というのは本を読むと同時に、それだけの分量の時間を、自分自身で物を考えるのに使う義務をみずから課しているのが、本当の読者である。本を読んだかどうかを記憶する人ではなくて、本を読むことによって何を考えたか、を記憶する人が、本当の読者である。

 「4 如何に書を選ぶべきか」も面白い。

 皆んなが読むものを、是非自分も読まねばならぬというのは、あまり賢明なこととは思われない。大変価値のある本とか、自分が読んだら特別の意味があるとかいうなら別だが、他人が読むからという理由で、読むのはヤキモチの一種である。本というものはなるべくなら他人に読ませて、その読者にその本を紹介させたり批評させたりして、その要領で大体の見当をつける方が、正しい勉強(?)のように思う。自分は自分の本を読むべきであって、他人の読む本を読むべきではない。
 何でも読んでやるという太肚と野心とが絶対に必要だが、読む順序には自我流の見識がなくてはならぬようだ。一頃猫も杓子も騒ぎ立てた本で、その後全く声も聞かなくなったような本を悠々と読んで見るなどは、中々痛快なものである。之は他人の知らない本をコッソリ読んで、種本にしたりするよりも、公明な心境だろう。読むのは凡てを読め、読む順序は独断的であれ、と私は思う。
 読む順序のシステムは、教程のように初めから人工的には決らない。次から次へと自然に導かれるべきである。次の本を選ばせるだけの暗示を与えない本は、その当座は自分に役に立たぬ身に添わぬ本と思えばよい。そして次のは、割合あてズッポーに選べばよい。問題にひっかかって来ると、本の選択などは本自身が教えて呉れるだろうと思う。

  関連して、「思想と風俗」  「12 教育と教養」から。

 関心興味の範囲が狭小だということは、同時に関心興味の偏頗であることをも意味する。当然関心を持つべきものに対して全く無関心であるということは、とに角人間として重大な欠陥でなくてはなるまい。尤も当然関心を持つべきだ、とか何とかは、どこで決まるのかと問われるかも知れないが、夫が取りも直さず教養という一つの規範から決って来るのだ。――一体なぜ関心上の不感症が生れて来るか。それは関心の体系[#「体系」に傍点]が貧弱であるか歪んでいるか、それとも全くシステムの態をなしていないか、だからだ。その結果、関心が偏ったり関心閾とも云うべきものが発達しないで狭小だったりすると共に、他方に於ては逆に、関心が無原則に散逸して観念狂奔症の類にさえ近づくことも生じて来るのである。何に、どこに、関心を持つかは教養の徴候だ。子供や未開人がつまらぬ物を珍しがったり驚いたり喜んだりするのには、それ相当の関心のシステムの生長が想定されているのであって、そこに未熟なものの持つ一つの完成とでも云うべきものが見出され、とに角何か優れた真実があるのであり、子供らしく優れた性格というものもあるのだが(本当の児童文学はこれがなければ出来る筈がない)、併し大人がくだらぬ[#「くだらぬ」に傍点]ものを面白がるのは、何と云っても醜いものだ。
 この醜さは関心のシステムがなっていない[#「なっていない」に傍点]ことを表現しているわけで、教養の欠如は正に之によって測定出来るというような次第だ。だが、くだらぬ[#「くだらぬ」に傍点]ものへの関心と、新しい関心対象として価値あるものの発見[#「発見」に傍点]との間には、ごく似た現象が見られることを注意しよう。新しいものの発見は、大抵の場合、くだらぬものへの関心という廉で、教養の欠乏であるかのように軽蔑されるものだ。発見は初の内はなくてもがなの好事や堕落とさえ云われるものだ。だが新しいものを発見し得ない人間は、決して自分の内の関心の発展的なシステムを持っていない人間だろう。もしこの人間が関心の組織的発展力を持っているなら、当然現われるに相違ない健全な連想力[#「健全な連想力」に傍点]によって、関心と関心との間の関係が追求されるに相違ないから、関心体系の振幅は自然と肥りながら拡大して行く筈だ。そうすれば未知のものに就いても、夫々の体系に相応しい見当づけ[#「見当づけ」に傍点]が行なわれるに相違ないのである。この見当づけの探照燈の下に照らし出された新しいものは、新しい関心対象に値いするものとして、初めて発見[#「発見」に傍点]されることになるわけだ。情意上の見当づけ・見透し・(予見・先見)というものが、新しい意欲を動機するのである。夫が新鮮な関心・興味というものだ。
 だからつまり、教養のあるなしやその程度は、持たれる関心の徴候によって、物の着眼点のありかによって診断出来そうだと私は考える。之は問題の取り上げ方や取り扱い方一つにも明らかなことだ。関心の質的特色は教養のバロメーターとなるだろう。たとえ教養の実質そのものが何であるかはまだ判らぬとしても、このバロメーターは実際的な利用価値を有っているだろうと思う。
 
(略)
 
 一を聞いて十を知るということは単に素質のよさを意味するには限らないので、教養に於ける関心・意欲・思想・の体系の働きだと考えてもいい。眼光紙背に徹するのも判りの良さも、共感の大きな能力も、理知的な自信も、皆ここから来る。文化上の本物とインチキとの見分けもこのシステムという生きた尺度から事実出て来る。システムのない者は性格がないものだから、人の真似でもしない限り、この見分けはつかない。――で良い感覚=良識という意味に於ける常識[#「常識」に傍点]は、教養の一つの内容だと云っていいだろう。之は所謂通俗常識を否定して而もその常識の壇に立ち帰ることによって、通俗常識を良識へ高めるものだ。民衆の意識を高め得るものが之だ。吾々は文化的理解についても見識[#「見識」に傍点]とか識見[#「識見」に傍点]とか、優れた見解とか卓越した意見とか云っている。教養の実質はこの辺りに横たわるだろう。
 今この教養を便宜上一つの心理的能力と考えると、感覚の良さ[#「感覚の良さ」に傍点]というものになる。感覚は意欲の体系の夫々の断層だ。吾々は断層を見て或る程度まで教養という地殻を推定することが出来る。感覚はただの生れつきの素質とは考えられない、正に教養される[#「教養される」に傍点]ものだ。それには知識[#「知識」に傍点]の基本的な訓練[#「基本的な訓練」に傍点]が、最も大切な条件であることを、声を大きくして主張しなければならぬ。知識の基本的訓練は教養にとって全く宿命的なものだ。だがそれにも拘らず之は教養の条件[#「条件」に傍点]であって教養そのものではない。丁度感覚が知識そのものではないのと同じに。この感覚の印象の響き方を聞いて、教養の立てる音を知ることが出来る。この音によって教養の質を判断出来る。――教養とは教育があったり物知りだったりすることでもなければ、物やわらかな品のいい好みや心構えのことでもない。そういう教養の観念は少なくとも今日では、甚だ教養に乏しい[#「乏しい」は底本では「之しい」と誤記]通俗観念に過ぎぬ。教養は認識的営養を摂取する能動的な感官をもつものだ。健康な人間の営養機関のようなものを有っている。

思想と風俗 (東洋文庫) Book 思想と風俗 (東洋文庫)

著者:林 淑美,戸坂 潤
販売元:平凡社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「現代科学教育論」戸坂潤

kom’s logkikulogでの議論を見て、確か戸坂潤も科学教育について書いていたな、と思い探してみたら、ありました。 青空文庫でも読めます。

「現代科学教育論」   

 大して長い文章でもないので、直接読んでもらえばよいのだが、とりあえずポイントを抜粋しておく。 

(略)

 教養乃至素養としての科学の教育と、専門技術としての科学の教育とが、夫々独自の役割を持った処の、上下関係とは云い切れない処の、区別に置かれているというわけだが、処が、一体こう一旦区別された教養乃至素養としての科学の教育とは何か、ということになると、又色々のわなが用意されているのだ。教養ということについては問題があまり沢山あるから後まわしにして、素養としての科学の教育が、専門学術としての科学の教育と別であるというと、それでは科学の基本的な知識とでもいうようなものをそううまく教え込むことが素養としての科学の教育だろう、ということにもなりそうだ。そうなると、要するに科学について最も要領よく生徒を教える処の教授法上の優秀さに問題は帰着しそうである。例えば或る程度の専門的な記憶力と推理力と、その知識の教授法とを、掛け合わせた数値の一等高い人が、素養的科学教育の最も優れた先生になるというわけだ。自然科学の先生が専門の学識と人格者であることとを要求される、というような事情を少し好意的に解釈すれば、こんな処かも知れない。
 だがこういうようなものは科学教育に於ける師範教育的迷信なのである。素養教育乃至普通教育は、大体教科書を使うことが出来るものだが、処が実は教科書というものほど条件のムツかしいものはないのである。優秀な教科書を書ける人は、実は一流の専門科学者以外にはない筈だ。科学は教科書から出発するのではなくて、教科書が科学的研究の一つの要約でなくてはならぬ筈だからだ。教科書は師範教育的には決して本当の編纂を許さないもので、之は専門の大家の老練な作品でなければならぬ。処でそういう教科書は決して実際に多くはない。大抵の教科書は教科書的マンネリズムの惰性的所産でしかない。そこから、教科書は一般に学術的に無価値なものだというような俗見も発生する。――之は学術研究と学術教育とが別々にバラバラに考えられていることに他ならぬ。而も之は却って、学術の専門教育と普通教育とをダラしなく混合させることから来たのであり、教養乃至素養としての科学教育の独立の意義を充分に認め得ないということから来るのであった。科学的素養の教育と科学的専門教育とは、あくまで区別されねばならぬ。科学と云うものの本性上之が必要なのだ。それが区別されることによって、却って初めて両者の真に生きた連関、お互いに欠くことの出来ない相互条件が見出されるだろう。
 そうしない限り、例えば専門学者が大衆的な教科書をかくことを潔しとしなかったり、科学を教材としか心得ていない先生達が我とばかりに教科書を編集したり、それから素人はどこへ行っても科学はムヅかしいものだというような無責任な常識に安住したりする、こうした日本文化全般に於ける科学的低能性を、是正する方針を立てることは出来まい。

併し私が最も興味を有つのは、専門科学教育よりも寧ろ、普通科学教育、つまり素養乃至教養としての科学の教育についてである。専門科学教育に関した問題も、この興味の観点から問題にするのが唯一の正当な道だと考える。その逆のコースは事実上色々の無理を産むだろう。専門科学教育の壇上から科学的教養を考えて行くと、一切の衆生は専門家の下に立つ極めて至らない不完全者に過ぎなくなる。夫はまるで現役の将校が、一切の国民を自分の部下の兵卒に過ぎぬと考えるように妙な事で、職業意識の戯面[#「戯面」はママ]なのだが、こういうアカデミシャン意識のカリケチュアは、色々と尤もな形のナンセンスとなって現われるだろう。例えば科学的啓蒙と云えば科学を易しく素人に教えるためのポプュラリゼーションだと思い込んだり(之は何と退屈な通俗化ではないか)、或いは逆にそういうジャーナリズム(!)は科学の敵だと思ったり。――専門の科学という存在がもし民衆のためのものなら(アカデミシャンの神聖文化でないなら)、科学教育の問題は大局に於て素養乃至教養としての科学の教育から考えられて行かねばならぬ。

(略)

 男の中等学校には物理や化学の好きな生徒が多い。彼等の興味は勿論大切である。興味がない生徒に何を強いても、夫が興味自身を作興するに成功しない限り、まず無益だろうからだ。だが彼等のこの興味をあまり高く評価することは要心する必要があるだろう。彼等は物理や化学の書物や書式や実験装置や実験的行動や、つまりそういう科学的な風物に審美的に感動することも出来るのだ。又偶々夫が成績の上で得意であるというだけで、好きにもなれるものだ。興味がなければ駄目だが、併し興味を有つ者が皆真に科学を愛していると即断することは出来ぬ。物理や科学が一人前以上に出来て、一人前以上の興味を有っていた中学の秀才も、二十年も経つと多くはどこかの県庁の部長などにおさまっているというような世情を参照すべきだ。問題は科学的精神である。横好きではなくて理解から来る科学への尊敬、要するに自然科学なら自然科学が探究する真理に対する尊敬、ということだ。自然の観察・考察・と之とは深い関係がある。こういう心情を誘掖することが、普通教育としての、素養・教養としての、科学教育の第一条件だろう。
 但し科学的精神というと実は漠然としすぎている。自然科学に就いての深い興味も科学的精神ならば、一般に社会科学や哲学や又文学についてさえの関心も、科学的精神だろう。今まで云って来たのは、前者の方だ。するとただ科学的精神・科学的識見・というのでは困るようだ。だがその際問題は科学的精神にあるのではなくて、素質の如何によって生じて来る科学的精神の区別にあるのである。科学的精神は一つの人間的教養の問題であり、人類の素質の問題だ。之を欠いたなら詩人になろうと政治家になろうと、ロクな奴にはならぬ。だが素質の方は或る限度まで先天的なもので、凡ゆる人間に凡ゆる素質を要請することは無論出来ない相談だ。自然科学的直覚能力の秀でた生徒は、この科学的精神をば自然科学への興味の形で育てるのである。   
   博物学的な直覚とか、物理学的直覚とか、化学的な直覚とか、数学的直覚とか、という区別を便宜的に仮定してもいいだろう。読書的な理性と観察的な理性のタイプを区別してもいいだろう。とに角素質とその発達としての性向の区別がある。だがこの区別にも拘らず、一般に科学的精神の形成は、最も大切な科学教育なのである。大体に於て素質が専門を択ばせる、少なくとも成功した選択ではそうだ。だが今は専門としての科学の教育の話ではなくて、教養としての・素養としての・科学の教育の話だった。するとつまり、この科学的精神なるものは、所謂「科学」にだけ固有な精神ではなくて一切の事物に就いての科学的態度を意味するのであり、まして自然科学にだけ固有な精神ではない、という事になる。科学の広範な意味は所謂「科学」から一切の芸術的認識を含めての、認識ということだ。科学的精神の訓練とは、要するに認識――実在の反映としての――の訓練のことでもいいのだ。

(略)
 
   科学的精神というものはごく一般的なもので、決して科学者の専売ではない。ただ科学教育とは、この科学的精神を、所謂「科学」に就いて誘導開発するものの謂いだというのである。従って所謂科学教育(普通教育としてのだ)が生きた意味を有つなら、夫は必然に、一切の社会・歴史・文化・の問題に就いての考察にもその科学的な態度を浸潤させ得るはずなのだ。処で実際はそうは行っていない。日本人程科学的精神を教育されていない文明人はない様だ。科学は西欧の精神であるなどと云い出す盲蛇におじぬ文化人が充ち満ちている。日本では生活に就いての科学的認識が極めて薄弱なのである。と同時に、他方日本では科学が文化的な玩具か生活のデコレーションのようなものになっている。だから「知育偏重」反対論などを耳にしても、驚くには値いしない。科学というものの意味が、殆んど全く理解されていないのだから。
 でここに科学教育の使命の重大さが、露骨に現われて来るだろう。この場合科学教育をただの「科学の教育」だなどと見ることは、事柄をゴマ化すことだ。科学的精神の教育こそが科学教育の目標でなければならぬのである。――だが一体その科学的精神とは何なのか、と問われるだろう。併し限定は極めて簡単で事足りる。事物の歴史的転化に就いての理解が夫である。事物そのものは歴史的に転化して来たし又転化しつつある、之を因果的に説明し、之に合理的な根拠を与え、之を検証し、そして之を初めて実際的に(実地に実践的に)解釈する精神のことである。尤もクロード・ベルナールの生物学を文学的に直訳したゾラなどは、恐らく多少拙劣な科学的精神だろうが。

(略)

 最後の辺りは、いかにもマルクス主義者という感じかな。
  戸坂潤全集はHTML版があるので、青空文庫にまだ入っていない文章も読むことができます。
 
  戸坂潤全集
 

| | コメント (2) | トラックバック (2)

I am Robot and Proudインタビュー

 渋谷のタワレコで、I am Robot and Proudのインタビューが載っているフリー・マガジン「schole」を入手。

"I am Robot and Proud" という名前の由来はアニメ『鉄腕アトム』からきています。高校生の時、カセットリリースをする際に、このフレーズを名前として選んだのが始まりです。

私は、JAMES BROWNの「say it loud i'm black and i'm proud」をもじったのかと思ってました。

ニューアルバムを2008年にリリース予定とのこと。

I am Robot and Proud My Space

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月25日 (月)

「歴史を記録する」吉村昭(2)

 再び、吉村昭「歴史を記録する」から。「半藤」は半藤一利。

半藤 (略)それで不思議なのは、戦前は幕末の映画がたくさんありましたけども、坂本龍馬っていまほど人気じゃなかったですよねえ。
吉村 それを私にいわせるんですか?
半藤 ええ、それを......(笑)。
吉村 全然出てこなかったですね、あのころ。
半藤 私もかなり見ているんですけれども、記憶にないんですよ。ただ『維新の曲』という映画で板妻(坂東妻三郎)が坂本龍馬に扮して活躍したのは覚えている。

半藤 坂本龍馬は、少し丁寧に幕末を調べた人からは、評判が悪いですよね、何もしていないと(笑)。しかも彼の思想は他人の受け売りばっかり。だから、くるくると変わる。最初は強烈な攘夷論者だったのが、たちまち開明派になったのは勝海舟の影響だし、船中八策は横井小楠のおかげ、薩長同盟は中岡慎太郎と土方久元のおかげ、大政奉還は海舟と大久保一翁のおかげと、ほとんど自分の発想じゃない。そういう意味では変わり身の早い、身軽な人であり、フィクサーとしての能力はあったと思う。
吉村 ちょこちょこ表舞台に出てくるけれども、歴史を動かした人ではありません。もともと歴史というのは一人の人間が動かせるものではない。薩摩と長州がともに外国と大戦争をやって、その教訓から「ああ、武器だ」とわかって結びついた。つまり、藩という大きな体制によって歴史が動いたわけで、一人の個人が動かせるほど軽いものじゃないですよ。

吉村が第一回司馬遼太郎賞に推挙されながら、それを辞退したということを知った上で読むと、なおさら興味深いやり取りである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

すべては音楽から生まれる?

クオリア日記

ずっと音楽に親しんできたのに、自分が思っていた音楽よりも、「音楽」の範囲は本来は広いのだとある時気づいた。一度わかってしまえば、「音楽」が宇宙全体を覆っていると言ってもよいくらいである。人間の意識の中には、常に「音楽」が流れている。私たちは、お互いに「音楽」をやりとりしている。私たちの生命は、「音楽」によって包まれている。

んなこたぁない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月24日 (日)

養老孟司の支離滅裂発言

 というわけで、前の続き。「週刊文春」2006.1.6号の「女性・女系天皇 識者14人 私はこう考える」という記事から、養老孟司の発言。

賛成とか反対ということではなくて、本当は何も言いたくありませんな。この特集もそうですが、そもそも天皇家について、気軽に論じていいものか。天皇陛下のためにと、大勢の人が死んでいったことを、私はまだ記憶している世代です。

「天皇陛下のためにと、大勢の人が死んでいったことを記憶している」ということと、「天皇家について、気軽に論じていいものか」ということが、どう繋がるのかサッパリ分かりませんな。むしろ、「大勢の人が死んでいったことを記憶している」世代の人間こそ、活発に議論すべきだと思うのだが。

現代人はなんでも言葉にできると信じています。昨今の「女帝」に関する議論も、それは言葉です。しかし、天皇とは日本の伝統そのものであり、伝統とは安易に言葉に表現しがたいものでもあります。

伝統っていうのは、言葉によって受け継がれるものだと思うのだが。言葉なしでどうやって伝統を受け継ぐことができるんだ?「日本書紀」や「神皇正統記」をどう考える?

メディアの言葉とは、勝手の「国体」が現在では国民体育大会を意味するようになるくらい、いい加減なもの。

養老先生、その例えってチョットどーよ。もしかして、笑わそうとしてる?

皇室典範に関する有識者会議も、ルールがなければやっていけない、逆にルールさえ決めれば問題は解決という、現代人の悪癖がモロに出てませんか?たとえばここ十年で法律は山ほどできましたが、それでわれわれの生活がよくなり、ものをちゃんと考えるようになりましたか?

天皇の存在によって、われわれの生活がよくなり、ものをちゃんと考えるようになりましたか?

必要に迫られるまでじっとしていることも、人生の知恵のひとつです。必要に迫られれば、しばしば解決策は明らかになるからです。皇太子さまが即位されてから、後嗣を公に決めても遅くはない。

「必要に迫られるまで」戦争を終わらせようとしなかったから、アメリカに原爆を落とされてしまったのだが。

なぜいま結論を急ぐのか、その説明が不足だから、余計な議論が起こるのでしょう。

「気軽に論じるな」という一方で、「説明不足」を問題にするの?

公とは古くは天皇「家」という意味です。家制度を消した憲法のもとで、天皇家のあり方を考えるのはむずかしい。

憲法に「家制度」を書き込めって言うの?それって、「ルールさえ決めれば問題は解決という、現代人の悪癖」じゃないの?そもそも、「憲法」って「言葉」そのものでしょうが。「伝統」とか「憲法」とか、「言葉」の問題であるものを、「言葉はいい加減だから無意味」と、「言葉」で批判するって、どーよ。養老先生、なんかヘンだと感じなかった?

本来は天皇家のお話し合いで決めるべきことでしょうが、これ以上は私の言うべきことではないと思います。

「天皇家のお話し合い」は「言葉」じゃないのかね。それとも「天皇家」の「言葉」は、我々下々の人間の「言葉」とは別物だってこと?

最後に一言。 「養老先生、正気ですか?」

| | コメント (2) | トラックバック (0)

「天皇家」は「神」である

 Apemanさんのところに書いたコメントの続き。長くなるので、こっちに書く。
  日本において、(ドーキンスが「神は妄想である」で批判しているのと同じ意味で)「神」にあたるものは何か、というと、やはり「天皇家」ということになると思う。「宗教」と名が付くからといって、神道の神や仏様のことだという風に考えると、ドーキンスの批判は、日本においてはあまり意味のないものになってしまう。「欧米は一神教で非寛容だからな。日本は”八百万の神”で、寛容だからあんまり関係ないや」という、ノーテンキな態度は、実際にネット上でもよく見かけるのである。
  現在においても「天皇家」が日本における「神」である、ということの証左は、「皇室典範」問題のときの”文化人”の反応である。今となっては、何の騒ぎだったんだという感のある「女性・女系天皇」の議論だが、振り返って見てみると、なかなか面白いのだ。
  というわけで、「週刊文春」2006.1.6号の「女性・女系天皇 識者14人 私はこう考える」という記事から、いくつか”識者”の発言を見てみよう。ちなみに、この記事での”識者”は、倉田真由美(ここでは取り上げないが)まで含む、非常にレンジの広いものである(笑)。

徳岡孝夫
 私は「天皇」という存在に、古代から続き、これからも永遠に続いていく日本の「家長」を感じています。これは心のありようで、理屈で判断できない。(略)
 
伊藤理佐
 「なんとなく反対」です。論理とか理屈よりも先に、「百二十五代」も続いてきたのに、もったいない!という気持ちがどうしても前に出てしまう。(略)

 
林真理子
 天皇という存在は、日本人の精神性に深く関わりあっていて、女性・女系天皇は、その部分を否定するものだと思います。それを認めたらなんの”有難味”もなくなってしまう。
  皇室に”改革”なんて必要ないんです。女性・女系天皇に賛成する人たちは相撲の土俵に女たちを上がらせられないのはなぜだ、と言っているのとまったく同じ。天皇とは、日本だけにしかいない、簡単に割り切れない、神がかった摩訶不思議な存在なんです。だから、”有難味”がある。
  (略)

  私は、これまで続いてきた男系は続けるべきで、どうしても繋がらなかったら、いっそのこと廃止するしかないと思う。このまま、皇室への尊敬や”有難味”がなくなってしまえば、それもやむを得ないのかもしれません、悲しいけれれど。 

  さて、私の言いたいことが分かっていただけただろうか。そろいもそろって「理屈ではない」ということを強調しているのが、実に興味深い。「神様」や「仏様」にだってこんな態度はとらないだろう。
  (ところで、上の林真理子の発言は、考えてみたら、とんでもない”不敬”発言だな。有難味がなくなったら、天皇家の意味がない、男系が途絶えたら天皇家廃絶もやむなし、っていうんだから。これで、公に「女性・女系天皇」が認められたら、林真理子はどういう態度をとったのだろうかと思うと、議論がウヤムヤになってしまったのが残念ですな。)
 
  上の発言のほかに、養老孟司の支離滅裂発言が非常に面白いのであるが、あまりにもツッコミどころ満載なので、別項を立てて扱う。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年2月23日 (土)

私のこと?

http://cyx01152.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_7d7c.html

ところで、たまたまその日買った茂木健一郎著『思考の補助線』をぱらぱらとめくっていると、こんなことが書いてあった。「・・・インターネット上の一部の書き込みに見られるがごとく、匿名性に身を隠して相手を揶揄し、否定することだけに汲々とする精神は、何の創造にもつながらない。一方で、現状に対して独自のアングルから接近し、一つの理想との対置においてその差異を透徹した目で見ることは創造につながる。それは、また、批評の対象への愛とも矛盾しない態度であるはずである。・・・」

やっぱり、私のことですかね(笑)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月22日 (金)

読書量と教養の高さは比例しない

 それにしても、小飼弾とか、宮崎哲弥とか、松岡正剛とか、立花隆とか、佐藤優とか、読書量の多さを誇示する人間が、そろいもそろってトンチンカンなのは何故なんでしょうねえ。

(追記 2008.2.28)
「「読書量と教養の高さは比例しない」の続き」も参照のこと。

(さらに追記 2008.3.3)
呉智英を入れるのを忘れてたのに気がついた。最近、あまり見かけないから、まあいいか。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年2月21日 (木)

福岡伸一のネタ元(3)

前に書いた、「生物学的に男と女の差異を明らかにする著書」の件ですが、どうやら、これのことのようですな。

本が好き! 2008年3月号

福岡伸一   できそこないの男たち~Yの哀しみ~

タイトルからして、”パクリ感マル出し”っていうのは、いかがなものなんでしょうか、福岡センセイ。

Yの真実 -危うい男たちの進化論
スティーヴ ジョーンズ (著)

スティーヴ ジョーンズの本とどの程度内容が違うのか(あるいは、同じなのか)、後で確認させていただきますよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

茂木健一郎と甘利俊一

第一回NPO法人ニューロクリアティブ研究会フォーラム

創造する脳 -あなたらしさの発見-

2008年2月20日(水)
有楽町 朝日ホール

甘利俊一、茂木健一郎、多根弘師、
ナンシー・C・アンドリアセン、久米是志、
鈴木良次

http://www.kuba.co.jp/neuro/program.html

 甘利俊一かあ。昔、この人が書いた「ニューロ・コンピュータ」って本を読んだよ。浅田彰と対談してる本も読んだな。それから、共著だけど中公新書の「脳科学の現在」は今でも手元に置いてある。
  世間から見たら、茂木健一郎も甘利俊一も一緒なんですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「白い仮説 黒い仮説」竹内薫

  エー、科学と合理性を尊重するニセ科学批判者の皆さん、悲しいお知らせです。竹内薫の「白い仮説 黒い仮説」が本屋に並んでいたので、パラパラ立ち読みしたのですが.......。一見、「ニセ科学批判」の本のようですが、実際は「ニセ科学批判批判」の本でした。内容については、各自ご確認ください。血液型占いについて書かれた部分に目を通すだけで、私が今どういう気持ちでいるか分かっていただけると思います。さすがの私も、こんな本を金を出して買って批判するほどモノズキではありません。図書館にでも入ったら、そのときにあらためてとり上げます。
 小飼 弾が自分のブログで、例によって大げさな調子で「ニセ科学対策の決定版」とトンチンカンな持ち上げ方をしていますので、きっとこの本もベストセラーになることでしょう。

(追記)
そういえば、小飼弾って「生物と無生物のあいだ」も大げさに褒めてたよなあ。私は、この人のブック・レビューを参考にしたことってないけどね。信用できないもん。

(さらに追記 2008.2.23)
この本のエピローグだけでも読んでもらえば、なぜ私がこの本を「ニセ科学批判批判」だと判断したか、分かると思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月20日 (水)

無意味な言葉

茂木健一郎の「超一流の仕事脳」
決断を支える「見極め」の潔さ ~フレンチ・シェフ 岸田周三~

フレンチシェフの岸田周三さんの料理を最初に食べた時、すごく驚いたのは、僕の言葉で言えば「クオリア」、つまり口の中での感覚を、ものすごくピュアに突き詰めていることだった。何が違うかというと、いろいろ混ざっている状態から、いわば“純金”にしているという感じだ。

 私が、茂木健一郎を心底くだらないと感じるのは、上のような文章を読んだときだ。これって結局「うまかった」ってことしか言ってないんですよ。「クオリア」がどうのこうのと言ったからって、それ以上の意味があるわけじゃない。意味があると思うなら、それは勘違いというものです。「いろいろ混ざっている状態から、いわば“純金”にしているという感じ」っていうのも、どういう「感じ」なのかサッパリ分からないねえ。せいぜい「とにかく独特の味がしたんだな」というくらいの解釈しかできないけど。茂木ファンの皆さんは分かるんですか、コレ?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

TENORI-ON

まずは、これを見てくれ。(/p>

岩井俊雄の開発したTENORI-ONという楽器である。うかつにも昨日まで全然知らなかった。去年イギリスで試験的に販売開始されたそうだ。
詳しいことは以下を参照。

http://www.yamaha.co.jp/design/tenori-on/

色々なミュージシャンが演奏しているところがYouTubeにアップされている。
i am robot and proudは、すぐに使いこなしちゃったみたいで、やっぱり頭いいんだな。

対照的で面白いのはこちら。

ATOMはラテンとエレクトロの2つやってる。

FOUR TETは、さっそくライブで使ってる。

機械に新しさを感じることって滅多になくなってしまったけど、これは”未来の楽器”っていう感じするねえ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「歴史を記録する」吉村昭

 吉村昭の対談集。まだ、ちゃんと読んでないのだが、パラパラ読んで目にとまったところをいくつか。
  まずは、NHKの歴史番組批判。

吉村 僕の場合は、生の史料が残っている江戸の中期以後しか小説に書いたことがないものですから、その前のことはぜんぜん知らないんです。
 たとえばNHKで歴史番組やっていますね。女房が好きなんですよ。そういうのを見ていると、すぐにアラが見えるんですね(笑い)。馬引いている人が提灯を持っていると、こういうことはあり得ないとかね。よく門に南町奉行所だとか火付盗賊改なんて看板がかかっているけれども、「こういうのは実際にはないんだ」とかすぐ言ってしまうんですよ。女房はいやがりましてね、向こうへ行ってくださいって言うんですよ(笑)。
  このあいだ「堂々日本史」という番組で大坂夏の陣か冬の陣をやっていまして、この時代のことは僕ぜんぜん知りませんから、安心して一緒に見た。そうしたら徳川方が青銅砲で大坂城を攻撃した、砲弾が4000メートル飛ぶ大砲だというので、それにひっかかってしまった。私は薩英戦争を『生麦事件』で書いたので知っているのですが、幕末の世界最高のアームストロング砲が3600メートル。薩摩の青銅砲もかなり性能がよくて、800メートル。そうすると「あの当時4000メートルなんて飛ぶわけない。せいぜい100~200メートルがいいとこだろう」と、また言ってしまう(笑)。

吉村 以前にNHKの番組で間宮林蔵を取り上げたことがありましたけれど、担当の人が、林蔵がスパイだというふうにすると番組が生きるって(笑)、固執するんですよ。隠密と言っても情報収集なので、これは各藩も幕府も出している。だからそのように形をきめちゃうといけないんで・・・・・・。
田中 スパイという表現ですと、イメージが違いますね。
吉村 真相を探るために、機密を盗むとかではなくて、しよっちゅう情報収集しているわけですから、その一つにすぎないんだと話しても、なかなか承知しない。それで、事実と違うことをするのなら、「出るのをやめる」と言ったんです。まあ結局、番組はそうではなくて、きちんとやりましたんで、よかったのですが・・・・・・。
田中 民放の俗受けをするようなものを取り入れようと、ヘンな気をおこすからいけないんで、NHKはNHKらしくすればよいのです。
吉村 そうです、そうです。

 次は、こんな箇所。城山は城山三郎。

吉村 最近、戦前の日本の社会・風俗を美化して郷愁を感じる向きがあるでしょう。僕はあれはおかしいと思っているんです。ある雑誌で、戦前の東京について、やはり下町生まれの女性の方と対談してくれと頼まれたことがありましてね。編集長が「古きよき東京についてお話しください」と言うから、僕は「古きよき東京なんてありませんよ」と答えた。
城山 ほんとだね。第一、暗かったもの。
吉村 よかったことなんてちっともない。マナーが戦前のほうがよかったなんて、嘘ばっかり(笑)。立ち小便はしたい放題。若い女性が道を通れば無礼な冷やかしの声をかける。生活がよかったって?銀座四丁目の服部時計店の前を肥桶積んだ牛車が通ってた。水洗式は二版橋、京橋だけで、銀座はまだでしたからね。僕の住んでいた日暮里なんぞは場末と言われたが・・・・・・(笑)。戦前の何がよき東京か、と僕はいいたいですね。

 この部分に興味を持ったのは、私が広瀬正ファンだからだ。広瀬正が「マイナス・ゼロ」で描いて銀座の街を「肥桶積んだ牛車が通ってた」とは想像できなかった。最近の「昭和30年代」ブームや「品格」ブームと合わせて考えてみるのも面白いかも。

  城山三郎との対談から、もう少し。

吉村 (略)僕がとくにショックを受けたのは、ある作家が、自分は徴兵検査の時、醤油を一升飲んで体をおかしくして不合格になったと書いているのを読んだときです。不合格になって兵隊に行かずにすんだと書いていたのなら別に驚きはしない。それが自分の反戦の意思表示だった、戦争に対する抵抗だったというんですよ。冗談じゃない。徴兵というのは員数ですからね。代わりにその作家より体の弱い一人の若者が戦争に行って、戦死しているかもしれないじゃないですか。単なる保身を抵抗と言いくるめる、そんな議論があの終戦直後にはあふれていたんです。
城山 そうそう。進歩的と称せられるある女流作家が、息子さんが徴兵を免れるようにいろいろ工夫成功したという話を僕も読んだことがある。進歩的だから息子を戦争に行かせたくなかったのか、それとも息子可愛さで行かせたくなかったのか、思想的に反対だったからといえば、戦後はそれで通ってしまったんですね。
吉村 その代わりに誰かが行ってるんです。

城山 日本人は、いろいろ問題もあるけど、まあまあ、いいほうの民族なんでしょうね。
吉村 いやあ、いい民族ですよ。
だけど、城山さん、あの戦争、負けてよかったですね、負けたのがいちばんの幸せ。そう思いませんか。
城山 負けてよかったとは言いたくないけどね(笑)、あのまま行ったら、大変だったろうね。
吉村 第一、軍人が威張ってどうしようもなかったでしょう。
城山 軍人が威張る、警官も威張る、町の警防団長も威張る。
吉村 鉄道員まで威張る。
城山 愛国婦人会の会長も威張る。在郷軍人会も威張る。
吉村 今は、お巡りさんも優しいものね。「すみませんが」とくるからねえ(笑)・
城山 昔は、汽車に乗っても、検札の時、客は被疑者扱いだった(笑)。
吉村 今は、みんな優しくてほんとうにいい時代ですよ(笑)。

 

歴史を記録する Book 歴史を記録する

著者:吉村 昭
販売元:河出書房新社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年2月19日 (火)

amazonで茂木批判 あるいは 人の褌で相撲をとる

 茂木健一郎のどこがダメなのかは、前にも大雑把に書いたのだが、私がいくら言っても、大して説得力がないな、という気がしてきた。茂木健一郎に関しては、既に色々なところで批判されているわけで、それを整理した方がいいんじゃないか。というわけで、amazonの読者レビューから、批判的なものをいくつかのカテゴリーに分けてまとめてみた。本当はレビューの文章をそのまま引用しようかと思ったのだが、どこまで引用が許されるのか分からなかったので、レビュー者の名前を挙げるだけにとどめた。内容については実際にamazonの方で確認してほしい。
  なお、私自身は、必ずしも以下のレビュー者の見解全てに同意するものではないことを断っておく。

茂木センセー、結局、目新しいことは何も書いてないんじゃない?
 ふくしん さん 「ひらめき脳」レビュー
 子羊さん 「脳を活かす勉強法」レビュー
 常夏 "南国" さん 「脳を活かす勉強法」レビュー
 yoshik-yさん 「脳を活かす勉強法」レビュー
 ωさん 「脳を活かす勉強法」レビュー
 prj socさん 「脳を活かす勉強法」レビュー
 qwerty "qwerty"さん 「欲望する脳」レビュー
 MM さん 「欲望する脳」レビュー
 ヤーマン "ピーマン"さん 「欲望する脳」レビュー
 kamei-mさん 「「脳」整理法」 レビュー
 ib_pataさん 「「脳」整理法」 レビュー
 のいのいさん 「クオリア入門―心が脳を感じるとき」レビュー
 村田 繭子 さん 「脳と創造性 「この私」というクオリアへ」レビュー
 モリノーク・マサーン さん 「意識とはなにか―「私」を生成する脳」  レビュー

茂木センセー、哲学の知識ないんじゃない?
 白頭さん 「クオリア入門―心が脳を感じるとき」レビュー 
 モワノンプリュさん 「意識とはなにか―「私」を生成する脳」レビュー
 皿皿さん 「意識とはなにか―「私」を生成する脳」 レビュー
 モリノーク・マサーン さん 「意識とはなにか―「私」を生成する脳」レビュー

茂木センセー、実証的根拠を全然示してないじゃん
 MMさん 「脳を活かす勉強法」レビュー
 ゾーイ さん 「脳と創造性 「この私」というクオリアへ」レビュー
 お留守居役様さん 「脳と仮想」レビュー
 ピークさん 「天才論―ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣」レビュー

茂木センセー、定義が曖昧な概念でなんでもかんでも説明しすぎ
 mk-4さん 「ひらめき脳」レビュー
 PunchDrunkさん 「クオリア入門―心が脳を感じるとき」レビュー
 zohtonさん 「意識とはなにか―「私」を生成する脳」 レビュー
 モワノンプリュさん 「意識とはなにか―「私」を生成する脳」レビュー

茂木センセー、結局、結論出てないじゃん
 MM さん 「欲望する脳」レビュー
 ふわわ "ふんわり" さん 「「脳」整理法」 レビュー
 PunchDrunkさん 「クオリア入門―心が脳を感じるとき」レビュー
 白頭さん 「クオリア入門―心が脳を感じるとき」レビュー
 チヌカルクルさん 「クオリア入門―心が脳を感じるとき」レビュー

| | コメント (0) | トラックバック (0)

相模原周辺および西日本のバカラック・ファンへ連絡

 ライブに行くときは「雨に濡れても」の歌詞を憶えていくこと。歌詞は、googleでRain Drops Keep Fallin' On My Headで検索すれば上の方に出てくるよ。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

バート・バカラック "For the Children"

 "バカラック" "For the Children"で検索してきている人が何人かいるみたいで、うれしい。あの曲よかったですよね。で、"For the Children"が気になるアナタのために、この曲について調べて見ました。
 オーストラリアでのライブのCDが計画されていて、そちらに収録されそうですね。ソースは以下。非公式のファン・サイトなので、内容の方は保証しませんが、記者会見で発表されたみたいなので、まあ、間違いないかと。

http://www.bacharachonline.com/

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年2月18日 (月)

BURT BACHARACH 2008.2.17 東京国際フォーラム

 バート・バカラックを観に、東京国際フォーラムへ。11年前の日本公演は観ていないので、初めてのバカラックのコンサート。
  昨日のBOOM BOOM SATELLITESに比べると、観客の平均年齢が30歳くらい高そう。
 バックの演奏は、バカラックが連れて来たバンドのメンバー5人と、東京ニューシティ管弦楽団。コーラスは女性2人と男性1人。
 開演。バカラックが登場してピアノで「What The World Needs Now is love」を弾き始める。途中からオケも加わるが、すぐに演奏終了。あいさつがわりという感じ?
 続いて 「Walk On By」「This Guy's ln Love With you」「I Say A Little Prayer」等ヒット曲をメドレーで演奏。「This Guy」のあたりでボロボロと泣いてしまう。始まってから5分くらいしか経ってないんですが。この後も、私は10回くらい泣いてます。
  コーラス3人がそれぞれソロで1曲ずつ歌う。男性ボーカルは、ELIVIS COSTELLOとの共作「God Give Me Strength」を歌う。
この後、通訳つきでMC。音楽を始めたときは、ヒット曲なんて簡単に書けると思っていたが、そうではなかった、最初のヒットまで1年半かかった、と。(*1)他の人の曲のようで驚くかも、という前置きで、初期の曲、4曲を演奏。
 バカラックがピアノからシンセに移動し、「At This Time」から2曲。
 「Close To You」の後、”最新の曲”という紹介で「For The Children」という組曲を演奏。うれしいことに、この曲がとても良かった。いかにもバカラックらしい曲で目新しさはないが、そんなことはどうでもいいのだ。演奏の後で何か間違えたと言って謝っていたが、全然気がつかなかった。私の耳が悪いのだろうか。
 この後、ゲストとしてオランダの女性ボーカル、トレインチャが登場。新曲1曲を含む2曲を演奏。残念ながら、こちらの新曲は私の好みではなかった。
  最後のパートは映画音楽メドレー。ここがやっぱりハイライトかな。
「The Look of Love」から始まる。ここで、初めてバカラック自身の歌が入る。当然、ここでも私は泣いてます。続いて「Arthur's Theme」だが、80年代のバカラックの曲は、あまり好きじゃないな。「Wives & Lovers」。大好きな曲。アルバム「BURT BACHARACH」でやってるのとほとんど同じアレンジだが、バカラックのボーカルが入って感激!(*2)「Rain Drops Keep Fallin' On My Head」。客席からは、思わず手拍子が起こる。「Alfie」「A House ls Not A Home」。このあたりになると、泣くのを通り越して、ほとんど嗚咽しそうになってます。最後は、「That's What Friends Are For」。ウーン、やっぱり80年代の曲は好きじゃないな、これでオシマイだと困るなと思っていたら、舞台からひっこんですぐ、アンコールで戻ってきたので一安心。「Any Day Now」を演奏。続けて、オープニングで少しだけ演奏した「What The World Needs Now is love」を、”Lord,We Don't need another mountain"のあたりから演奏。しゃれたエンディング。
 観客の拍手は鳴り止まず、バカラック再登場。(*5)「Rain Drops Keep Fallin' On My Head」を再度演奏。バカラックが舞台から去り、オケはアウトロを演奏をし続ける。
  これで、本当に終了。約2時間の公演。
 聴きたいと思っていた曲は大概やってくれたし(上では書かなかったけど「One Less Bell To Answer」とか「April fools」とか(*3))、聴きたいけどやってくれないだろうなと思っていた「Wives & Lovers」をやってくれたので感動した。
  それから、アンコールの前だったか後だったかで、前の方の席のお客さん2,30人くらいが、バカラックに握手を求めてステージに突進して、杉良太郎に群がるオバサン・ファンみたいで(例えが古い?)面白かったな。(*4)

(追記)
(*1)一生かけてもヒット曲を書けない作曲家もたくさんいることを思えば、あまり苦労話に聞こえませんが。 
(*2)アルバム「BURT BACHARACH」のバージョンでも、最後のところだけバカラックの歌が入るが、この日は、最初の方のメロディーの部分も歌ったのです。
(*3)「What's New Pussy Cat」もうれしかった。
(*4)私も前の席だったら同じことをしたかも、という気がしてきた。なにしろ「天才」に触れる機会なんて滅多にないもんな。我ながらミーハーな考えだと思うが。

(さらに追記)
(*5)色々回ってみて、最後の「Rain Drops Keep Fallin' On My Head」の前にチョロッとやった曲が「Me,Japanese Boy」だということを知った。ピチカート・ファイヴがカバーしたのは知ってたけど、曲は聴いたことがなかったので、何であんなにウケているのか分からなかったよ。バカラック・ファン失格だ。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2008年2月17日 (日)

「茂木周りの女たち」

「週刊朝日」2/22号の林真理子と中森明夫の対談。

中森 あと、文化人好きの女子がいるんです。前に林さんとB級美女の話をして盛り上がりましたよね。90年代に有名人を利用して出てきたちょっと不思議な女子たち。村上龍の「Ryu's Bar」のアシスタントをする人とか。
  今だったら、茂木健一郎さんあたりに取り入っている女たち。あの系譜ってずっとありますね。(笑)
中森 この際、「茂木周りの女たち」と呼びましょうか(笑)。林さんも書いてたけど、作家の人たちの会で旅行すると、ついてくる人がいるでしょう、
  いるいる。どこかのマイナーな雑誌の編集者とか。編集プロダクションのだれそれとか。紹介されないのに、最後までニコニコしながらこっちの話を聞いている女。
中森 紹介されないのに、篠山さんの話に口角上げて作り笑いしてたり。
  そうなの、そうなの。(笑)
中森 終わったあとの打ち上げに、必ず来たりして。でも、これは茂木さんを悪く言ってるわけじゃないですからね。(笑)
  はいはい。どうして同じタイプばっかりなのかな。不思議でしょうがない。
中森 茂木さんは入りやすいんじゃないですか。無防備ですよね。彼女たちが新聞の勧誘員だとすると、ドアがちょっと開いてるから、そこにパッと片足突っ込んで、洗剤とかくっつけて、半年分ぐらい契約させちゃう。(笑)
  ああ、なるほど。それは言えるかもしれない。

 林真理子って、こういう話のときだけは鋭いな。
  それにしても、この程度の記事のためにわざわざ「週刊朝日」を買ってしまう私は、もしかしたら、茂木健一郎を愛しはじめているのかもしれない。(違うと思う)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ジュセリーノ

 カルロスみたいに、実はテレビ局がしこんだ嘘でした、とかいうことになったら最高なんだがな。
 「40年間で10万件の予言なんて、できるわけないだろ!お前らだまされやす過ぎ!」とか言って。で、2ちゃんで、「ジュセリーノはネ申!」ってことになる、と。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

青空文庫で三木清を読む

「哲學はどう學んでゆくか」より。

すでに私は明晰に考へることを學ばねばならぬと述べた。考へるといふことは、元來、明晰に考へることである。もとより哲學には深さも大切である。しかし濁つてゐるために底が見えないに過ぎぬといつた場合もあるので、深さうに見えるもの必ずしも深いとは限らず、むしろ反對であることが多い。どこまでも澄んでゐて、しかも底の知れないものが、眞に深いのである。眞の深さにはつねに豐かさがある。盡きることなく湧いて出てくる豐かさのないものは眞に深いとはいへない。この豐かさはまた廣さともなるであらう。哲學に入る者が學ばねばならぬのは、物をはつきり考へること、廣く考へることである。廣く見、廣く考へることは、獨斷や偏見とは反對のものであるべき哲學の基本的な條件である。深さに至つては、學び得るといふものではない。深さといふものは、結局、人間の偉さであると思ふ。それ以外深さうに見えるものはペダントリ乃至センチメンタリズムに過ぎぬ。深さといふものは學問を媒介とする學問以上の人間修業によつておのづから出てくるものである。單なるペダントリ乃至センチメンタリズムに過ぎぬいはゆる深さに迷はされることなく、それを突き切つてゆくところに哲學的精神がある。明晰な書物はつねに有益であるが、深さうに見える書物は學問にとつて有害なことが多い。眞の深さについていへば、哲學することは眞の人間になることである。そしてすべての人間がめいめい獨自のものであるやうに、深さもそれぞれ獨自のものである。一般的な深さといふものを私は信じない。もし何かそのやうなものがあるとすれば、それは明晰に直觀され、明晰に思考され得るものでなければならぬ。

 茂木健一郎と福岡伸一批判として使えるな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

犬のクオリア?

ニコラス・ハンフリー「喪失と獲得」より。

 哲学者たちは、この領域における慎重な定義の必要性に対して著しく鷹揚である-あるいは、最近ではそうなっている。人々が自らの感覚体験を心の中で示すときに問題になっているものが何であれ、哲学者たちは、それを「現象的特性」「どのようなものであるか」「意識的な感情」といった用語をやりとりする-あたかも実証主義哲学が苦労して勝ち取った教訓をけっして学んだことがないかのように。とりわけ、使われすぎている用語「クオリア」は、確かに少なくとも一度は、何か貴重なことを意味するというメリットがあったが(たとえ、おそらくは空虚なものであったにせよ)、現在では、漠然と主観的で定性的などんなものにも使われるナンデモアリの用語として、広汎に使われている。
  p86
 
  (略)一方で、心理学者たちは、哲学者から借用した生半可な言葉遣いを採用して、イヌの写真を見るときの「イヌのクオリア」の知覚といった複合概念について、あまりにも無頓着におしゃべりしすぎる。こうしたカテゴリーの誤りが続くかぎりは、私たちは降参したほうがよさそうだ。
  p90

  ニコラス・ハンフリーが茂木健一郎を知っているとは思えないが(「イヌのクオリア」うんぬんはラマチャンドランのこと)、茂木健一郎にもピッタリ当てはまる批判である。茂木なんか「長嶋茂雄のクオリア」だの「志向性クオリア」とか言ってるもんなあ。信じられない。

喪失と獲得―進化心理学から見た心と体 Book 喪失と獲得―進化心理学から見た心と体

著者:ニコラス ハンフリー
販売元:紀伊國屋書店