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2008年3月

2008年3月31日 (月)

江原啓之スピリチュアル・ヴォイス

「FLASH EXCTING」5月5日増刊号に、江原啓之スピリチュアル・ヴォイスの漫画レポートが載っています。興味がある方は、ドーゾ。

Ehara2

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2008年3月30日 (日)

THE CORNELIUS GROUP 東京国際フォーラム 2008.3.30

素晴らしかった。
音楽と映像の完璧なシンクロ。
タイトな演奏。
演奏的には「BEEP IT」「FIT SONG」が良かった。
「STAR FRUITS SURF RIDER」は泣けた。
「SENSUOUS」で一旦終了。

アンコール、小山田が一人でステージに登場。何を始めるかと思って見ていると、スクリーンに映し出されたのは......

TENORI-ON、キターーーッ!!!

TENORI-ONの上に何か文字を書いている。TENORI-ONをひっくり返すと、「EYES」の文字が。バンドのメンバーが戻ってくる。「EYES」の文字を少しずつ消して行き、最後に「E」だけが残り、曲の方も「E」になる。
最後は「SLEEP WARM」でホノボノと終了。
全員スタンディング・オベーション。

「キャッツ」か!
劇団四季か!

いや、本当は、ずっとスタンディングで観たかったんだが。フォーラムだと、やっぱり座ってしまうね。

開始前に、カメラ/録音機能の使用はとくに禁止しません、とのアナウンスあり。「SENSUOUS」が終わった時に、客席に一斉に携帯の画面が光って、ペンライトのようだった。
そのうち、YouTubeにも映像がアップされるでしょう。

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2008年3月29日 (土)

江原啓之を読む(8)

第二章(まとめ)

 この章では、江原の言う「人生の地図」である「八つの法則」を見てきた。その内容を振り返ってみよう。
 
  「波長の法則」「因果の法則」「運命の法則」は、結局のところ、ほとんど同じことを言っている。すなわち、まわりに起こることは自分しだいであり、今ある状況はすべて、これまでの自分のあり方の結果である、ということである。ここで気がつくのは、江原の説明が非常に「機械的」だということである。

「霊的波長を放って生きている人間は、たとえてみればラジオのようなもの」
「低いエネルギーを出していると、「邪霊」、「未浄化霊」と呼ばれる低級霊と同調する」
「高い波長を持って生きていれば、あなたと類魂のプラグはつながり」
「この法則が働く正確さはスーパーコンピュータをはるかに凌ぐもの」

「スピリチュアル」であるはずのものごとを説いているにも関わらず、これらの説明は、非常に即物的であり、現世的なものごとの説明の仕方を「霊界」のレベルに単純に移しただけのものでしかない。そこには、宗教の持つ「超越性」がない。そもそも「法則」という言葉が、江原の霊界の説明のが機械性を示しているではないか。江原の説く「スピリチュアリズム」が、精神性が希薄で底が浅いと感じられると感じられるのは、このためであろう(もちろん、「精神性」や「深遠さ」は、その主張が真実であることを保証しないのだが、それはまた別の話である)。江原は、「エネルギ-」や「波長」が「高い」とか「低い」といったことを言うが、どのような意味で「高い」のか、なぜそれが「高い」のか、という説明は全くない(そもそも、「エネルギ-」や「波長」というのが何なのかもハッキリしないのだが)。結局、前向きな態度で、良い行いをしていれば、「高いエネルギ-」や「波長」が出る、と行っているだけで、なにが良くて何が悪いかという基準は、世間一般の常識に丸投げである。江原は、第一章で「全然スピリチュアルじゃない」「当たり前な内容」という批判に反論を試みているが、実際のところ、全く反論になっていない。「人々がもはや定義を失ってしまった「常識」に対して霊的真理による裏づけをしたいと思った」という言葉は、自らの主張が常識なものでしかないことを自ら告白しているようなものだ。江原の「スピリチュアリズム」は、常識の裏づけになっていない。逆に、常識の上に組み立てられたものなのである。江原が大衆的な人気を得たのは、江原の説くスピリチュアリズムが、宗教やオカルトに胡散臭さを感じるような「世俗的」な感覚の持ち主にとっても受け入れやすいものであるためだろう。

 「霊魂の法則」「階層の法則」では、たましいすら、神から低級霊まで、直線的にランクづけされる。 

死後の世界は無数の階層からなる、厳然とした「差別界」です。

その自然霊にも、高級なものから低級なものまで、さまざまな段階があります。私たちが「神」と呼ぶ愛のエネルギーは、この世に姿を持ったことのない自然霊の中でも最高級、超高級の霊です。
 
低いエネルギーを出していると、「邪霊」、「未浄化霊」と呼ばれる低級霊と同調することになるのです。

一方で、江原は現代の社会を以下のように批判する。

少年たちによるホームレス殺人事件もまさに象徴的です。汚いからと、虫けらのように殺す。その人が歩んできた人生、愛し愛されてきた人たち、奥底にある人生観など、存在するとさえ思っていないでしょう。もっとも、少年たちが育った社会そのものが白黒の価値観に支配されているのは否めない事実です。おまえはいい。おまえはだめ。能力や点数で子どもの価値を決める物質主義的社会の中で、ランクづけされ、時には切り捨てられながら育ってきたことの影響は確かに大きいと思います。

江原は、口先でこそランクづけを否定しているが、実際には自分が否定するものに自身が似ているのである。

 「幸福の法則」では、江原は「真の幸せ」を定義する。だが、その「幸せ」は、根本的に「自己中心的」なものである。

霊的真理を知り、つねに愛と思いやりを、まわりの人たちに施していきましょう。「してもらったから、してあげる」という受身の姿勢ではなく、あなたが「まずははじめに」愛と奉仕の気持ちをまわりに与えることが大切です。愛情がほしければ、自分から率先して愛情を与えられる人になり、幸せがほしければ、誰よりも先に幸せを与えられる人になることです。

結局、他人に愛や思いやりを施すのも自分自身のためでしかないのである。

もちろんそこに打算の気持ちがあってはいけない。計算づくの愛は、本物ではない。

そのように言ったところで、誤魔化しきれていないのだ。江原自身もそのことに気づいたのだろう。江原は、唐突に「家、会社、国、地球」のカルマについて説き始める。

ところで、因果、すなわちカルマには、もう一つ大事な側面があります。カルマは人間一人ひとりに働いているだけではなく、家、会社、国、地球にも作用しているということです。

とってつけたような説明である。「家、会社、国、地球」は霊的存在なのだろうか。「家、会社、国、地球」は霊界にも存在するのだろうか。「家、会社、国、地球」も霊界から現世に再生するのだろうか。カルマを個人から「家、会社、国、地球」にまで広げることは、江原自身の霊界の説明と整合性がとれないのである。

 その教えが「即物的」で、すべてを「ランクづけ」し、「自己中心的」である、という意味で、江原は「現代日本社会の申し子」なのである。

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江原啓之を読む(7)

『スピリチュアルな人生に目覚めるために』
第二章

 江原は、スピリチュアルな人生に目覚めるために欠かせない「人生の地図」として八つの法則を提示する。

一.霊魂の法則
 人はみな霊的な存在である。
  霊魂こそが人間の本質であり、肉体はこの世を生きている間だけ借りている乗り物にすぎない。誕生とともに肉体に宿った霊魂は、死と同時に肉体を離れ、霊的存在として生き続ける。この真実を知ることで、人生の中で体験する三つの大きな苦しみから逃れることができる。
 死に対する恐怖心。霊界こそが本当の世界であって、この物質界は仮の世界。だから死を恐れる必要はない。
  死別の苦しみ。あなたが喪った大切な人も、永遠に生き、あなたを見守っている。
  「人生は不幸なもの」という思い。人間が考える不幸とは、その時の自分にとって都合が悪い状態であるというだけ。霊的な視点で見れば、その状態こそがたましいに学びを与え、成長を促す。
  仮に、人間が霊的な存在ではなく、肉体の終わりとともにすべてが消滅してしまうとしたら、いったい世の中はどうなるか。限られた人生をやりたい放題に生きるほうが幸せだということになる。そんな物質的な「幸せの価値観」から追い求めた幸せは、たとえ実現しても、心の底から幸せとは実感できないはず。幸せは霊的視点で考えなければならない。
 
二.階層の法則
  霊的世界は無数の階層に分かれていて、死んだ後は、たましいの成長レベルに応じた境地に行く。
  霊的世界においては、人間のたましいだけでなく、動物や植物のたましい、この世に姿を持ったことのないたましい(自然霊)も、一つのまとまりであり、そのまとまりの中心こそが、大霊すなわち神である。すべてのたましいは、みずからを浄化し、神である中心に統合されていくことを志している。たましいを浄化向上させるために最適な場所が、この物質界であり、そのために、たましいは、死と再生を繰り返しながら、何度もこの世への旅に来ているのである。感動の多い人生では、たましいは大きく浄化向上する。たくさんの経験と感動を積み重ね、より透明なたましいとなってあの世に帰ることが、私たちがこの世に生まれてきた意味である。

三.波長の法則
 自分の心のあり方が出会う人や出来事を決めている。
  人間が持つ全ての思いは、想念という霊的なエネルギーを生み出す。同じレベルの想念の波長を持った者同士がお互いに引き寄せあう。
  現世に肉体を持たない霊魂にも、人間が出す波長は作用する。低いエネルギーを出していると、「邪霊」、「未浄化霊」と呼ばれる低級霊と同調することになる。場合によってはそれが「憑依霊」となる。
  低級な霊にとり憑かれた人に対し、浄霊を行うことがあるが、これは対症療法にすぎない。憑依を招いたのはその人自身の波長だから、本人の心のあり方がその後も変わらなければ、また同じレベルの霊を招いてしまう。本人の心のエネルギーさえ高まれば、憑依霊は自然と離れていく。すべては自分自身の波長しだいである。

四.守護の法則
 一人ひとりに、いつも寄り添って見守っている霊的な存在がある。「守護霊」や「背後霊」と呼ばれている霊である。
  守護霊は役割によって四種類に分けることができる。
  中心となってサポートするのが「主護霊」。常にあなたに寄り添い、途中で入れ替わることはない。
  二つ目が「指導霊」。あなたの職業や才能、趣味を指導する霊である。江原自身の指導霊は、戦国時代の霊的能力に長けた僧侶、昌清之命(まさきよのみこと)である。
  三つ目は、あなたの運命をコーディネイトしている「支配霊」。
  これらのほかに「補助霊」がいる。
  守護霊以外の、指導霊、支配霊、補助霊は、あなたの波長が高くなれば、より高いエネルギーを持った霊魂と入れ替わる。逆に傲慢になったり、増長したりすれば、あなたの波長は著しく低下し、今ついている指導霊が去って、代わりに一段下の霊魂がつくかもしれない。

五.類魂の法則
 誰もが霊界に、現世の家族以上に深い絆で結ばれた「たましいの家族」を持っている。それが類魂である。
  類魂を構成するたましいは、霊界においてはみなつながっている。
  守護霊、指導霊、支配霊、補助霊は、この類魂の一部である。
  類魂の部分部分が持つ「経験」はばらばらだが、あなたが死んで霊界へ行き、類魂の中へ再び溶け合ったとたんに、類魂に内包されるすべての記憶が、自分自身の記憶のように蘇る、と江原の指導霊である昌清之命は言う。
 
六.因果の法則
 自分がしたことは、いつか自分に返ってくる。
  今ある状況はすべて、これまでの自分のあり方の結果である。この世には奇跡も偶然もない。すべては「因果の法則」という自然の摂理にもとづいた必然である。
  あなたが、愛情やいたわりを人に与えれば、必ずそれは同じだけあなたのもとに帰ってくる。逆に、憎しみや妬みなどの思いを人に振りまくと、それが同じだけ戻ってくる。
  因果、すなわちカルマは人間一人ひとりに働いているだけではなく、家、会社、国、地球にも作用している。日本に生きる私たちは、日本という国のカルマを背負っている。現在の地球環境の悪化も、経済の不況も、さまざまな社会不安も、今までのツケによって表面に出てきた日本のカルマであり、私たちがともに学ばなければならない課題である。
 
七.運命の法則
 あなたの人生の流れはあなた自身が作り出すもの。
  あなたの運命は一つに定められているものではない。あなた自身が自由意志で決めていくのが人生であり、生きることの喜びである。
  しかし人生には、帰ることができないものもある。それは生まれたときから決まっていた要素、すなわち「宿命」と呼ばれるものである。

八.幸福の法則
 霊的法則は私たちが真の幸福を得るために働いている。
  これらの法則が働いているのは、すべてのたましいが、やがていつか大霊、つまり神と一つになるためである。ときには苦難に遭い、試練を克服しながら、愛を学び、みずからのたましいの濁りをきれいにしていくこと。それこそがたましいの真の幸せであり、神に近づいていく唯一の道である。
  霊的な視点で見ると、他人に対する見方が変わってくる。あなたを憎む人は、あなたに「憎まれることの悲しみや苦しみを教えてくれる人」である。あなたは憎まれた経験から、愛のすばらしさを知るチャンスをもらえたのだから、決して人を憎み返してはならない。その人は大事なことを教えてくれた上、あなたを憎んだという負のカルマを背負ってくれてもいるのである。霊的真理を知り、つねに愛と思いやりを、まわりの人たちに施していこう。「してもらったから、してあげる」という受身の姿勢ではなく、あなたが「まずははじめに」愛と奉仕の気持ちをまわりに与えることが大切である。愛情がほしければ、自分から率先して愛情を与えられる人になり、幸せがほしければ、誰よりも先に幸せを与えられる人になることだ。もちろんそこに打算の気持ちがあってはいけない。計算づくの愛は、本物ではない。
 
  人類はすべて広い意味での類魂である。今、どんな状況も自分自身のこととして受けとめ、考え、ともに改めていく感性が必要とされている。遠い国の戦争も、日本のどこかで起きた事件も、無関心でいてはならない。身近な社会現象にも同じことが言える。隣の家の問題も、友達の悩みも、他人事とは言い切れないのである。
 
  以上が、第二章の内容である。
 

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2008年3月27日 (木)

イチローの脳を科学する

本書では、脳の働きと対応させながら、イチロー選手が、なぜあれほどヒットを打てるのか考えてみます。また、私たちの脳がいかにすごいか、そして脳がいかに柔軟で日々変化し、脳自身を創り変えていくことができるか考えてみましょう。

また、茂木健一郎ネタかよ、とお思いかもしれないが違うのである。「イチローの脳を科学する」(西野仁雄 幻冬舎新書)なのである。
 本屋でこの本を見つけたときはガク然とした。茂木以外にもこんな本を出す科学者がいるとは。
  ザッと中身を眺めてみると、茂木とは違って、脳生理学の真面目な啓蒙書のようなのだが、結果的に茂木の本と大して変わらなくなってしまっているような。ウーン、困った。
  ちゃんと読んだら、また取り上げます。

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2008年3月25日 (火)

「SENSURROUND」CORNELIUS

 面白かった。ちょっとだけ目を通すつもりが、結局全部見てしまった。
とくに好きなのは「Omstart」と「Like a Rolling Stone」だな。
高木正勝の「Toner」はあまり面白くなかった。むしろ、TOWERの特典DVDに入っていた、Hiroshi Nishizawaの作品の方がアイディアがあって面白かった。
  「from Nakameguro to Everywhere Tour '02-04」の方は、30日のライブの後で見るつもり。

SENSURROUND DVD SENSURROUND

販売元:WARNER MUSIC JAPAN(WP)(D)
発売日:2008/03/19
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2008年3月24日 (月)

MIROQUE タワーレコード渋谷店 2008.3.22

  MIROQUEのインストア・ライヴへ。
 観客は3~40人くらい。若い女の子のファンが多いんじゃないかと思っていたが、8割くらいは男性ファンだった。白人の方も数人。
 一人で5曲演奏。最後の「sirius」ではボーカルも。
  演奏終了後、引換券を持っている客に本人から特典(ハンカチというか布切れというか)を受け取れるということで、列に並ぶ。が、しかし、今までこういうミーハーっぽいことをしたことがないので、どう振る舞えばいいのか分からない。私の前の白人男性はサインをしてもらっている。サイン!そんなの全然考えつかなかった。私の番になって何も言うことも思い浮かばなかったので黙って特典をもらうだけ。単なる挙動不審の人間になってしまった。なんか申し訳ない。
  コーネリアスのDVDと大村憲司とTOM JOBIMのCDを買って帰宅。

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2008年3月23日 (日)

「Rodi」clare & the reasons

 YouTubeに追加されてた。この曲もいいなあ。

この編成で日本にも来てくれないかな。ソロでは何年か前に来日してるみたいだけど。

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死生観

 ”スピリチュアル”なものを否定すると、”死生観がない”と言われるのがよく分からない。「死んだら無だ」というのも、立派な”死生観”だと思うのだが。
  「死んだらそれっきりなら、生きていても虚しくないですか?」と言う人もよくいるのだが、これも理解できない。全然逆だと思うのだが。死んでもいくらでもやり直しがきくなら、どんな生き方をしても同じことではないか。「現世での生き方が、来世を決めるのだ」などと言われても困る。私は別に来世のために生きているつもりはない。
  私としては、逆に聞き返したい。「死んでからじゃないと人生の価値が決められないなんて、生きてて虚しくないですか?」

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江原啓之ラジオ番組終了

  明日夜9時、ニッポン放送「江原啓之の幸せのレッスン」最終回だそうなので、興味のある方はどうぞ。

江原啓之の幸せのレッスン

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江原啓之を読む(6)

第一章(まとめ)
  世間での知名度が上がるにつれ、批判を受けることも多くなった。江原は、人をおとしめるような悪感情というものは自分の心に内在する感情の映し出しだ、と言う。他人を表向きの現象だけを見て「金儲け主義」と邪推する人間は、自身の心の中に「自分もうまく金儲けがしたい」という感情が内在していることの表れなのである。人を頭ごなしに批判する人は常に心の中に不満を持っている人だ、と江原は決め付ける。
 江原は、自分自身の今後について語る。この15年間で、世の中に「スピリチュアル」という考え方の土台を作ることができた。今後、後進にバトンを譲る渡すときも来るだろうし、そういう人が出てきてほしいと願っている、と江原は言う。今後しばらくはマスメディアの活動するが、近い将来、その役目を終える時が来ることは分かっている、その後も残すべき大切な仕事は、書籍の執筆と、講座および講演と公演活動だ、と江原は言う。自分の願いは、霊的真理を伝えていきたいということだけ、人が本当の幸せを得るために必要な「人生の地図」を広めていきたいというだけ、どうかみなさん、本当の幸せを得るため、心のうちに「人生の地図」をお持ちください、という言葉で江原は第一章を結ぶ。 

 以上が第一章の内容である。
 江原の”手の内公開”という感じの内容である。既存の宗教や”スピリチュアリズム”に付きまとう胡散臭さを打ち消すのが江原の戦略だったということがよく分かる。こうして手の内をさらけ出すこと自体が胡散臭さを打ち消すための一つの手段だ、とも考えられる。江原は、服装やカウンセリング・ルームのデザイン、しゃべり方などをカジュアルなイメージに統一することで、スピリチュアリズムの ”カジュアル化”を意識的に行い、スピリチュアリズムへのしきいを低くすると同時に、他の霊能者との差別化を行ってきたようだ。また、「宗教」があって「霊的世界」があるのではなく、「霊的世界」があるのが先で、それをイエスやブッダといった霊能者たちが現世の言葉で表そうとしたのが「宗教」である、という発言は、ある意味、既存宗教の否定とも言える。この点から見ると、江原を他の宗教や霊能力者と十把ひとからげにして批判するのは、あまり得策ではないと考えられる。批判する側から見れば、江原と他の”霊能力者”との違いなど大したものではないが、江原ファンにしてみれば大きな違いであり、スピリチュアリズム一般を批判しても、「江原さんは違う」と言い抜けられてしまうだろう。
 批判に対する言い訳がましい自己弁護が多いのも興味深いところである。とくに、成金呼ばわりや「金儲け主義」という批判を気にしているようで、現世利益の否定をしきりに強調しているが、逆にそういう部分にこそ江原の本音が裏返しの形で出ている、と勘ぐることもできる。
  注目すべきは、本書が出版された約5年前の時点で、マスメディアでの活動を終えて書籍の執筆と、講座および講演と公演活動に移行することを示唆していることだ。最近の江原のマスメディアでの活動から講演等の活動へのシフトという動きは、ある程度、既定の路線だったということになる。江原という人は、なかなか”オリコウサン”であると思う。今後江原を批判する際は、この点にも注意が必要だろう。テレビでの失態を叩いて江原をテレビから追放するのが成功したとしても、江原ファンは都合よく解釈するだけで、結局江原は別の場所で生き延びることになるだろう。
 
  これで第一章は終わりだが、当初考えていたよりも大幅に分量が多くなってしまった。この後の章に関しては、もっと大雑把にまとめたいと思う。正直言って、江原の本を読むという作業は、あまりにも不毛で、私にとっては苦行に近いものなのである。

  第2章に移る前に、サービスカットをどうぞ。

Ebara

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ドーパミンと波長

 結局のところ、茂木健一郎の言う「ドーパミン」なんて、「魔法の言葉」でしかないんですよ。
  効率的な学習法の話をしているときに、ドーパミンを持ち出したって、全然意味がない。今、自分の脳の中でドーパミンが出ているかどうかなんて、素人には分からないんだから。やる気が出ているときに分泌されるのが、ドーパミンだろうがアドレナリンだろうが、そんなのどうでもいいことだ。自分が乗っている車がガソリンで動いているのか灯油で動いているのかなんてことは、上手く運転することに何の関係もない。やる気が出ているときは脳からドーパミンが分泌される、なんていう説明は、車の運転方法を教わるときに、車が動いているときはエンジンでガソリンが燃焼しているのです、と説明されるようなものだ。「だから何なんだ」っていう話である。
  そういうことは脳科学の内部で議論をするときに初めて意味を持つのであって、そういう文脈から外れて、「ドーパミン」という言葉を使うのは、オマジナイを唱えるのと変わらない。「脳科学の観点からは」などと注釈をつけてみたところで、学習法の議論が脳科学の議論になるわけではない。単なる後づけの理屈にしかならないだ。
  素人にとっては、「ドーパミン」という単語は、なんとなく良さそうなもの、ということしか意味しない。そういう意味で、茂木の「ドーパミン」は、江原啓之の「高い波長」と大して変わらない。いたわりや優しさの心を持てば「高い波長」が出て、同じく「高い波長」を持った人や出来事が集まってくる、というが「高い波長」というのが実際には何物なのかサッパリ分からないし、目にも見えはしないのである。”霊能力者”が、「高い波長が出ている」というから、「高い波長が出ている」と思うだけ。「高い波長」が「低い波長」と比べて何が良いのかまるで分からないが、”霊能力者”が、いいことだと言うから、何となくいいことだと思っているだけ。「ドーパミン」と「高い波長」が違うのは、「ドーパミン」は脳科学の体系の内部ではちゃんと意味を持つが、「高い波長」の場合は体系自体が虚偽だ、ということだけである。

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2008年3月22日 (土)

くたばれ評論家の巻 の件(これでオシマイ)

 この件に関しては、もう書くつもりがなかったのだが、まだくすぶっているみたいなので、もう一度だけ書いておしまいにしたい。
 
『パラサイト・イヴ』に対する当時の批判の例として、以下のものを参考情報として書いておく。 『村上龍対談集 存在の耐えがたきサルサ』より、村上龍と浅田彰の対談である。

村上 (略)
   一つ、僕が具体的に嫌だったのが、パラサイト・イヴという小説があって......。
浅田 あれは最低だね。
村上 アニミズムだからね。
浅田 何でミトコンドリアごときに人格があるの。あれは人格がないからすごいんだよ。
村上 全くそうなんですよ。そういう学問の場所にいながら、アニミズムになっちゃう。要するに人間には約60兆の細胞があって、赤血球とか特別なものを除けばその細胞の中にはすべて核酸とミトコンドリアがあるわけです。どのミトコンドリアが反乱するのか。そういうことを彼は全く無視して書くわけじゃないですか。DNAを臓器的に捉えるというレヴェルは単に無知ということで済むかも知れない。だが、細胞器官や遺伝子に意志や言葉を与えることは、危険で許せない退行です。それを、けっこう名のある選考委員がバンザイで迎える。お前らはバカだで済まされるもんじゃない。無邪気なバカでなく、危険なバカが増えつつあるんです。その精神の退化がオウムの起こった年とパラレルになっていると思うんです。決して無縁じゃないと思う。

「ミトコンドリアはかぶり物でやるのか」よりも、よっぽどひどいことを言ってると思うのだが。村上も浅田も「SF業界」の人間とは言えないわけで、どうして「相手を見くだすことで、自分を安全な高みに置き、自分を優位に立たせる、そのために嘲笑う」「この習慣がSF業界に驚くほど浸透している」ということになってしまうのか、やっぱり良く分からない。
 結局、今回の件は、何らかの感情的な行き違いからおかしなことになってしまったと思われるので、当事者間で話をつけるしかないのではなかろうか。私は、「SFファン」ではあっても「SF業界」の人間ではないので、これでオシマイとする。
 
(おまけ)
 村上龍も偉そうなことを言っているが、他人のことを言えた義理じゃないと思う。村上のダーウィニズムの理解(というか無理解)なんてヒドイものだ。それについては、またいつか書こうと思う。
  『パラサイト・イヴ』をオウムと結びつけるのも、大分無理があると思う。オウムがどうのこうのと言うなら、むしろ、オウムを持ち上げた中沢新一や、その中沢と付き合って面白がっていた浅田彰の方に(間接的な)責任があるが関係が深いわけで、瀬名よりも村上の方が関係が深いんじゃないかと思う。

(追記 2008.3.23)
「(間接的な)責任がある」はちょっと言いすぎだという気がしてきたので「関係が深い」に修正した。

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ここにもクオリア教の魔の手が(笑)

『千里眼 シンガポール・フライヤ』松岡圭祐
衝撃作『千里眼 美由紀の正体』後初の書き下ろし最新作!
F1レースに参戦することで事件の核心に迫ろうとする美由紀はシンガポールGPへと転戦した。すべてを見下ろす巨大なシンガポール・フライヤー。そこに待ち受けていた謎の集団ノン=クオリアの仕掛けた罠とは?

本屋でパラパラ立ち読みしてみたのだが、「哲学的ゾンビ」まで登場する(笑)。

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茂木がまたバカなことを PART3

「THE21」2008年4月号、茂木健一郎インタビューより。

--茂木さんの経歴をみると、東京学芸大学付属高から現役で東大理Ⅰ......。
茂木 小学校から高校まで、学年トップでしたよ。
--(ため息)やっぱり、元がちがうということですか。
茂木 でもね、僕だって、最初からトップだったわけではありません。途中で勉強法を発見した結果、トップになったのです。」
--その勉強法って、平均的なビジネスマンがやっても効果がありますか。
茂木  もちろん。人間の脳は本来、勉強することに喜びを感じるように設計されています。脳科学的にいえば、新しい知識を手に入れると、ドーパミンという喜びや快感をもたらす物質が脳内に分泌されるのです。ところが多くの人は勉強の仕方が間違っているので、出るはずのドーパミンがうまく出てこない。だから、ドーパミンがたくさん分泌されるような勉強法に改めればいいのです。

またまた、模擬「茂木インタビュー」、行ってみますか。

--なるほど、ドーパミンですか。ドーパミンを出すにはどうしたらいいんですか。
モギ「脳が喜ぶような勉強法を実行することです(笑顔で、愛想良く)。」
--脳が喜ぶには、どうしたらいいんですか?
モギ「ドーパミンを出すようにすることです。」
--ドーパミンを出ているかどうかは、どうしたら分かるんですか
モギ「ドーパミンを出たら、脳が喜ぶのでやる気が出ます。」
--やる気が出ていればドーパミンを出ているということですか?
「そうです。」
--で、やる気を出すにはどうしたら...。
モギ「脳が喜ぶような勉強法を...。つまり、「タイム・プレッシャー」や「『鶴の恩返し』勉強法」を実行すればいいということですよ。」
--「タイム・プレッシャー」や「『鶴の恩返し』勉強法」だとドーパミンが出る、と。
モギ「そう(投げやりに)。」
--ドーパミンが出ると、やる気が出る。
「そう(めんどくさそうな感じで)。」
--つまり、「タイム・プレッシャー」や「『鶴の恩返し』勉強法」だとやる気が出る、と。
モギ「そう(ちょっと、キレ気味に)。」
--だったら、ドーパミンがどうのこうのという説明は最初からいらなかったんじゃないですか?
モギ「......。」

そろそろ、飽きてきたかな。

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2008年3月21日 (金)

茂木がまたバカなことを PART2

「AERA」'08.3.24号「山本モナのあなたを知りたい」より。

モナ 私、茂木さんに教えていただきたいことがあるんです。
茂木 なんですか。
モナ この間の月曜日に号泣したんです。ワーッと泣いてるんですけど、なんで私はこんなに泣いてるのか、よくわからないんですよ。なんで泣くんでしょう?
茂木 何があったんですか?
モナ それは秘密です(笑い)。
茂木 分かりました。いろいろありますよね。まあ、ホメオスタシスなんです。
モナ ホメオスタシス?
茂木 生命の恒常性を維持する機能なんですが、涙というのも、魂の危機に際して自分を維持しようという一つの感情の世界におけるホメオスタシスなんですね。emergency(危機)とemergence(発生)は起源が同じなんです。だから泣いた時は何かが生まれるチャンスなんですよ。

 さあ、ここで、模擬「茂木・モナ対談」、行ってみよう!

モナ で、どうして泣くのがホメオスタシスになるんですか?
モギ それは、涙には生命の恒常性を維持する働きがあるからです。
モナ どうして涙には生命の恒常性を維持する働きがあるんですか?
モギ それは、涙はホメオスタシスだからです。
モナ どうして涙はホメオスタシスになるんですか? 
モギ それは、涙には生命の恒常性を維持する働きがあるからです。
モナ どうして涙には生命の恒常性を維持する働きがあるんですか?
モギ それは、涙はホメオスタシスだからです。
モナ どうして涙はホメオスタシスになるんですか? 
モギ それは、涙には生命の恒常性を維持する働きがあるからです。
モナ ......。(専門用語でゴマカスなよ、このモジャモジャ頭が)
モギ ......。(わけの分からない質問すんなよ、この路チュー女が)

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茂木がまたバカなことを

天才打者・イチローの秘密は、優れた前頭葉髄膜。(Livedoorスポーツ)

 天才打者・イチローの秘密は、“優れた前頭葉髄膜”? シアトルの地元紙「シアトル・タイムズ」紙の電子版は19日付で、「イチローの秘密を指摘する試みは長年に渡って数え切れないほど行われてきたが、茂木健一郎医師は、それらの説明全てを打ち負かすかもしれない」と報じられた記事の中で、茂木医師は、イチローが「素晴らしい前頭葉前部髄膜」を持っているからだと自信を持って語っているもの。

(略)

 番組の中では、グラウンドでの動きには全く触れられず、ランチや夕食など球場外でどのように過ごしているかで、イチローは7年間に渡って、シアトルに居る時は毎日、弓子夫人お手製のカレーを食べ、遠征中はピザを昼食に取ると紹介している。
「脳科学の観点からみて、面白い。色々な食物をとる選手は多いし、それも1つの方法だが、イチローのケースは、1つの食べ物に固執している。我々はそれが彼の野球のプレースタイルとも関係していると思っている。同じルーティーンを毎日繰り返すことで、脳の手入れを行い、野球に集中できる。これはイチローのやり方で他の選手はしていない」と同医師は説明。イチローは毎日同じことを繰り返すことで、予想外のことが起こることを極力避けているなど、脳外科の観点から、イチローの能力が分析されている。
る。

元のSeattle Timesの記事は以下。

Doctor: "Ichiro has a very fine prefrontal cortex"

 さあ、ここで、模擬「茂木インタビュー」、行ってみよう!

  「アー、ドクター・モギ。脳科学の観点から見ると、イチロー選手の才能の秘密はなんなんでしょうか?」
「それはですね、イチロー選手が優れた前頭葉髄膜を持っているということなんです。」
「なーるほど。優れた前頭葉髄膜ですか。では、ドクター・モギはイチロー選手の脳をお調べになったのですね?」
「いえ、調べてはいません。しかし、イチローのような優れた選手なら、当然優れた前頭葉髄膜の持ち主のはずです。」
「ハア...。では、イチロー選手が優れた選手であるのは....。」
「優れた前頭葉髄膜を持っているからです。」
「イチロー選手が優れた前頭葉髄膜を持っているというのは...。」
「イチロー選手が優れた選手であることから明白です。」
「.......。」

(追記)
どうして「prefrontal cortex」が「前頭葉髄膜」ということになるのか、よく分からんのだが。

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2008年3月20日 (木)

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これじゃあ、私がスピリチュアリズムを肯定しているみたいじゃないか。

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家族で殺しあう日本?

Apemanさんのところの記事の関連で。

岩見隆夫「サンデー時評」のインチキ

 で、何かその手のデータを以前見たことがあるなと思い、本を探して見つけたのが以下のデータ。『進化と人間行動』(長谷川寿一 長谷川眞理子)より。

Data_3

 図7.4の円グラフは,1972年のデトロイトと1955年の日本,そして1990~94年の日本全体における殺害者と被害者の関係を分類した結果を示しています.デトロイトでは,被害者は知人,見知らぬ人,家族・親族の順になっていて,血縁者間の殺人は全体の8%程度にすぎません.ところが1955年の東京と1990~94年の日本全体では,血縁者殺人がそれぞれ約40%と約25%を占めています.とくに1955年では,血縁者を殺した件数が,知人殺しとほぼ同じくらいもありました.

  岩見隆夫の理屈だと、1990~94年の日本と比べると1955年の日本は「家庭は崩壊どころか、事件の現場」だった、ということになる。
  さらに、岩見の理屈だと、1955年の日本も1990~94年の日本も、1972年のデトロイトと比べると「恐ろしい社会」だ、ということになってしまいますな。
 
注1)『進化と人間行動』のデータは、1955年のものが「780件分の判例資料」、1990~94年のものが「警視庁の犯罪統計(3000件以上)」と、出所が異なるので、その点は留意が必要かも。
注2)上記のデータは、血縁淘汰の観点から、血縁者どうしが殺しあうことは実際には少ない、ということを論じている箇所で提示されており、上での議論とは異なる文脈で使われているということも断っておく。
注3)同書では、日本は他の先進国と比べて母親による嬰児殺しが多い、という事実も示されており、「血縁者間の殺人」のデータを解釈する際は、その点にも留意する必要があると思われる。 

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江原啓之を読む(5)

第一章(続き)

 本がベストセラーになれば、多くの批判も受ける。「当たり前な内容」、「常識的でちっともスピリチュアルじゃない!」。たしかに「当たり前で常識的」な内容かも知れない。だが現世で言う「常識」とは、何なのか?当たり前のことや常識的なことがもはやよく分からなくなってしまって、何を信じたらよいのかを迷っているのが、今の時代ではないか。江原は、人々がもはや定義を失ってしまった「常識」に対して霊的真理による裏づけをしたいと思った、と言う。
  書籍の出版と並行して、もう一つの夢であった「講演会」が実現した。まだ本を読んでいない人をも、言霊の力で霊的真理の探求へと誘いたい、と江原は言う。
  講演ではなく「公演」と銘打つイベントも始めた。これは今までの講演会に「癒し」の要素を加え、三部構成で行うものである。最後の第三部では江原が歌を歌う。最近は、公演でのほか、老人ホームへ行って、ボランティアで歌のコンサートをすることもあると言う。人が芸術などの美しいものに感動するのは、そこに神の美を見るからである、美にふれると人は、自分が霊的存在であるということをたましいのレベルで思い出し、霊的世界の美しさを懐かしむのだ、そのような美に感動する「感性」を、今のような時代だからこそ呼び戻さなければならない、と江原は言う。
  今の現世でもっとも考えねばならない問題は、人間のたましいの「自然霊化」だ、と江原は言う。最近のニュースや新聞を見ていると、殺伐とした事件ばかりである、これには霊的な背景が大きく影響しているのである。人類が「人霊」としての感性を失いつつあり、「自然霊」に近くなっているのである。「自然霊」とは、この世に姿を持ったことのない霊のことである。いわゆる稲荷、天狗、龍神、狸と言われる霊は、この自然霊である。狐や狸といっても、動物の霊ではなく、そのような性質を持つエネルギー体である。自然霊には、天候などの自然現象を司る働きがある。自然霊にも、高級なものから低級なものまで、さまざまな段階がある。私たちが「神」と呼ぶ愛のエネルギーは、この世に姿を持ったことのない自然霊の中でも最高級、超高級の霊である。今、世界中に低級な自然霊が増えている、と江原は言う。低級自然霊が増えているのは、私たち人霊が、自然霊界に対する感謝の心を忘れてしまったからである。低級自然霊は、感性や感動に乏しい無機的な波長を持つ人霊にどんどん憑依してしまうのである。人霊と自然霊の大きな違いは、情があるかないかである。自然霊は人間のような情愛といったものがなく、白か黒か、二つの一つしかない。今の人霊は、このような自然霊の性質を帯びてきてはいないか、と江原は問いかける。江原は驚くべき発言をする。幼児虐待や戦争や自殺も自然霊の影響だというのである。

  今の人霊は、この自然霊の性質を帯びてきてはいないでしょうか。まず幼児虐待などの親子にまつわる悲惨な事件がその表れです。戦争もそうです。やられたらやり返す。人命に対してさえあまりにもデジタルになっています。
  少年たちによるホームレス殺人事件もまさに象徴的です。汚いからと、虫けらのように殺す。その人が歩んできた人生、愛し愛されてきた人たち、奥底にある人生観など、存在するとさえ思っていないでしょう。もっとも、少年たちが育った社会そのものが白黒の価値観に支配されているのは否めない事実です。おまえはいい。おまえはだめ。能力や点数で子どもの価値を決める物質主義的社会の中で、ランクづけされ、時には切り捨てられながら育ってきたことの影響は確かに大きいと思います。
  世間で問題を起こしている新興宗教集団も、まさに自然霊による憑依の産物が大半です。宗教観のようなものを語っていますが、その内容は物質主義に終始しています。本来宗教は高級霊界を表現しているべきものなのに、彼らのすまい、服装、行い、言葉には、まったく神聖さが感じられません。教団のために親子の縁を平気で断ち切らせるのも、自然霊の性質の表れです。信仰のためなら親から盗んででも金を持ってこさせるなど、低級自然霊だからこそできることです。
  増加している自殺者の心理にも「自然霊化」の影響が見えます。自分の人生をリセットするという考えは、だめだったら死ぬという、白か黒かの自然霊的発想です。
  この事態に対し、私たちがすべきことは、今すぐにでも人霊としての「感性」を取り戻すことです。特に、人霊にしかない親子の絆を見直すことです。人霊は今、動物以下になってしまっています。動物だってわが子は守ります。

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2008年3月19日 (水)

アーサー・C・クラーク死去

SF作家のアーサー・C・クラーク氏が死去 (asahi.com)

 死ぬのを忘れちゃってるんじゃないか、と思っていたのだが。
  この人の場合、「ご冥福を」という言葉は似合わないような気がするので言わないでおく。
  個人的にベストだと思うのは、『宇宙のランデヴー』『楽園の泉』『都市と星』。とくに『宇宙のランデヴー』は三、四回読んでる。あの強烈なオチも良いのだが、前半の軸から”下”に降りていく場面の描写が好きだった。
  ノン・フィクションでは『楽園の日々』が好きだったな。

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2008年3月18日 (火)

HASYMOとTENORI-ON

 HASYMOのDVDを見てたら、リハーサルでTENORI-ONをいじってるところがチラッと写ってた。当然この三人には接触してくるだろうな、と思っていたので、案の定という感じ。
  しかし、やっぱりカメラは人間がかつがないとダメですな。リモートコントロールだと、カメラを動かしすぎて、構図がカチッときまらない。

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2008年3月17日 (月)

香山リカについて

 「「信じぬ者は救われる」香山 リカ 菊池誠」で、「香山が、世の中のあれこれを取り上げては「困ったねえ」と言うしか能がない人間だということは分かりそうなものではないか」と断じたのは、乱暴ではないか、と思う人もいるかも知れないので、補足しておく。

新・後藤和智事務所 ~若者報道から見た日本~
想像力を喪失した似非リベラルのなれの果て ~香山リカ『なぜ日本人は劣化したか』を徹底糾弾する~

さて、これまで、私は同書(『なぜ日本人は劣化したか』のこと:引用者)における、香山の態度に対して批判を重ねてきた。具体的に言えば、香山は、社会的な問題に関して、自分で勝手に「劣化」の烙印を押しては、それを薄弱なる根拠で執拗に嘆いている、という行動を繰り返しているだけであり、言説としての価値は全くない。(略)
(略)
香山は、特に『ぷちナショナリズム症候群』を出した直後から、左派の若者論の指標として、その際前線で活躍してきた。それまでは自己満足の如きエッセイや、あるいは精神分析の流行の受け売りでしかなかったのが、同書によって急に最前線に出ることとなったのだ。
(略)
 とりあえず本書に関して私が言えることは、香山こそが「劣化」した、ということだ。香山は同書の中で、日本人が「劣化」している!という自らのでっち上げた物語に酔い、もはや何も見えなくなってしまった。これ以上、香山の自己満足に我々は付き合っている必要はない。それと同時に、左派もこのように何も生み出さなくなってしまった香山とは一刻も早く決別すべきだ。優れた論者はいくらでもいる。

  私は、香山リカの本は一冊も読んでないが、目に触れた文章を読んだ限りでは、上の評価はおそらく妥当であろう、と判断している。

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2008年3月16日 (日)

江原啓之を読む(4)

第一章(続き)
 江原は、一対一のカウンセリングから、しだいに、書籍という多数の人たちに話しかけることのできる道に向かうようになった。一冊のまとまった本を書かせてくれる出版社はなかなかなかったので、悩んだ挙句、江原はマスメディアへ登場することを決めた。出版社のあてもないまま、第一作の原稿を書き始めた。雑誌からの取材依頼が日を追うごとに増えていき、『an・an』にレギュラーとして登場できるようになった。原稿書き上げてから三年経ち、最初の単行本を出すことができ、二冊目も出版したが、どちらもほとんど売れなかった。江原は、世の中の人が理解してくれないことに途方に暮れたが、ある人からの助言で、心を切り替え、人々の「たましいの知識」の段階に応じて語ってゆこうと決意した。
  雑誌での活動が盛んになってくると、テレビ出演の依頼も舞い込み始めた。出演にはずいぶんと悩んだが、これにも挑むことにした。その理由は、まず一つにはそれまでにテレビに出ていた霊能力者にあまりにもキワモノが多かったからだ、と江原は言う。江原は霊能力者を批判する。霊の世界を本当に理解しているなら、何も視聴者を怖がらせる必要はないはずだ。だのに大げさに騒ぎ立て、霊の世界をあまりにも不気味に演出し、霊を悪意的に扱っている。霊について正しく理解している霊能力者なら、死後の霊に対して居丈高な態度をとるはずがない。霊と言っても、ついこの間まではこの現世に生きていた人間である。生きている人間の「人格」が大切であるように、霊たちの「霊格」も尊重すべきだ。よほどわからずやの霊は別として、全ての霊にそのような失礼な態度をとる霊能力者は、霊というものを正しく理解していないニセ霊能力者だと断言して構わない、と江原は言う。
  江原は、テレビに出るときは、なぜ死んだ人がこのようにさまよっているのかを解明し、視聴者の完成に正しく伝えていこうと心に決めた、と言う。そこで既存の「霊能力者」のイメージをすべてくつがえすことにした。いかにもと思われるような衣装は着ない。むしろ明るいファッションを心がけること。いつもニコニコと笑っていること。おどろおどろしい演出はやめてほしいと、テレビ番組の制作者とはいつも戦っている。何度も不愉快な思いをしたが、今ではなるべく信頼できる人格の制作者の番組だけに出演するようにしている。スピリチュアル・カウンセリングが中心の番組は別として、今後は少しずつテレビの仕事から離れて行こうと考えている。テレビは難しい仕事だ、正しいことがなかなか貫けない世界だと学んだ、と江原は言う。

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くたばれ評論家の巻 の続き

kikulogの方で新しくエントリーが作られていたので、あらためて。

 瀬名が「擬人化しないように注意を払って書いた」ということになると、ちょっと事情が変わってくる。(*1)こうなると、『パラサイト・イヴ』(*2)読まないといけないなあ。今は江原批判の方に専念したいので、当面は無理です。と言うわけで、『パラサイト・イヴ』に関する現時点での私の評価は、『保留』ということにしておきます。
 ただ、今回の瀬名の態度に関しては、やはり納得できない。今回の瀬名のブログの書き方だと、嘲笑された、ということ憤っているようにしか見えない。「擬人化している」という批判が誤りだ、と考えているなら、そうハッキリ書くべきだったと思う(過去に瀬名が菊池に私信あるいは掲示板で反論したということは、ここでは関係ないことだ)。
 
 
注)このブログは基本的に敬称略の方針です。念のため書いておく。

(追記 2008.3.17)
(*1)当時の書評から、意図的にミトコンドリアを擬人化してSFホラーにしたてあげた作品、という印象を持っていたのである。

(*2)『パラサイト・イブ』じゃなくて『パラサイト・イヴ』でしたね。訂正しておきました。

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「信じぬ者は救われる」香山 リカ 菊池誠

 前の続き。
 私は何度かkikukogにも書き込みをしているので、菊池ファンが瀬名に噛み付いた、というように受け取られてしまうのではないか、という危惧がある。党派的な感情から瀬名を批判していると取られるのは心外なので、「信じぬ者は救われる」についても簡単に批評しておく。とは言え、「信じぬ者は救われる」は立ち読みしただけで買ってないので、細かい内容にまでは触れられない。

  kikulog  「信じぬ者は救われる」

もともとは僕が香山さんにいろいろ教えてもらおうという魂胆だったのですが、結果的には「困ったねえ」と言い合って終わっているという感じです。

 いろいろ教えてもらおうという考えだったというなら、香山リカを対談相手に選んだこと自体が間違いだったと言うしかない。香山が書いたものにいくらかでも目通してみれば、香山が、世の中のあれこれを取り上げては「困ったねえ」と言うしか能がない人間だということは分かりそうなものではないか。そもそも、香山は精神科医であって、社会学者でも教育者でもないのだから、ニセ科学対策に関して建設的な議論などできないことはハナから分かりきったことである。ニセ科学の問題は、教育制度や大衆啓蒙やマス・コミュニケーションといった社会問題だが、香山ができるのは、全てを個人の心理に還元することだけである(そのような心理分析が全く無意味だとは思わないが)。
 「信じぬ者は救われる」という本に関して言えば、こういう本を出すこと自体は、全く意味がないというわけではないと思う。世の中に蔓延するニセ科学に対して、そのような問題があるということをアナウンスするだけでも、同じような問題意識を持っていて何とかしなければならないと思っているものにとっては、励みになると思うからだ。ただ、私は金を出してまで読む気は起きなかった、ということである。

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くたばれ評論家の巻

 江原啓之批判の途中なのだが、「江原啓之」でblog検索をしていたら、ものすごく不快な文章にぶつかってしまったので、一旦中断して、これを書かなけらばならない。

瀬名秀明の時空の旅

菊池さんに対しては、複雑な気持ちがありますね。私が『パラサイト・イヴ』でデビューしたころ、菊池さんは仲間たちとウェブ掲示板の書き込みをしていて、そこで私を嘲笑していました。あの掲示板はミトコンドリアを擬人化している、という批判の代表格だったのではないかな。『パラサイト・イヴ』が映画化されることが決まったときは、「ミトコンドリアはかぶり物でやるのか」と嘲笑し合っていましたね(この発言自体は菊池さんのものではありません)。
だから私は、菊池さんがニセ科学批判における笑いの効用を説いても、容易に信用することはできません。ニセ批判には笑いを浴びせよう、それが最大の批判効果をもたらす、という主張は、ときに怖ろしい凶器となることを知っているからです。相手を見くだすことで、自分を安全な高みに置き、自分を優位に立たせる、そのために嘲笑う。私はデビューして13年の間で、この習慣がSF業界に驚くほど浸透していることを知りました。菊池さんの中にもそういう感覚がいくらか残っていると私は感じます。(略)だからニセ科学批判の手段として、相手を笑うということには、私は真っ向から異を唱えたいと思います。あなたがもし、あるとき突然、人から誤解のもとに嘲笑されたらどうしますか? その心の痛手は、本当に大きいものです。だからどんなときでも人を嘲笑してはいけない。笑う人は他人から笑われるということを肝に銘じておいた方がいい。笑いたいなら権力そのものを笑えばいい。

 大の大人が何甘ったれたこと言ってるんだ、というのが率直な感想である。瀬名は自分の作品が嘲笑されたことを根にもっているようだが、嘲笑だって批評のうちである。レベルが低い作品に対しては、嘲笑をもって批評するのも正しい態度の一つである。自分の作品はそんなレベルの低いものではない、誤解されている、というならそう反論すればいいだけであって、嘲笑したこと自体を非難するのは筋違いだ。「笑いたいなら権力そのものを笑えばいい」などと大層なことを言っているが、要は自分は笑われたくないというだけのことだろう。 
 瀬名は「ミトコンドリアはかぶり物でやるのか」という言葉にこだわっているようだ。私は『パラサイト・イヴ』は読んでいないが、おおよその内容は知っているつもりである。「ミトコンドリアを擬人化している」という批判は、おそらく正当なものだろうと思うし(村上龍と浅田彰も同じような批判をしていたはずである。別に村上と浅田が読み手として信頼できるというつもりはないが)、その表現として「ミトコンドリアはかぶり物でやるのか」という言い方をするのは、多少口汚くはあるが、批評の範囲内のものとして許されると思う。そもそも、雑誌や本の上での批評ならともかく、掲示板での書き込みなら、この程度の口汚さは普通のもので、この程度の言葉で大騒ぎする感覚は私には理解できない。 (もちろん人情としては理解できるが、そんな感情を表に出すな、ということである)

もうひとつ、SF業界に根強く残っている悪癖は「謝罪しない」ということです。私はこれでもデビューしていくらか人生経験を積み、自分が悪かったと思うことには謝罪できる心を持てるようになってきました。私は菊池さんに対して、自分が行き過ぎた言葉を過去に述べたことについては頭を下げて謝っています。しかし菊池さんはどうでしょう。他人が謝ることでまだ勝ち負けを決めているのでは。汚い言葉を自分で使っていたと感じたときは、お互いにこれからは謝ることにしませんか。

 バカバカしい。謝罪などしなくて当たり前だ。こんなことでイチイチ謝罪が必要だなんてことになったら、批評など成り立たない。
 瀬名に対しては、以下のマンガを捧げよう(buyobuyoさんのマネです)。

Mami

『エスパー魔美』「くたばれ評論家の巻」である。
 こうして見ると、藤子・F・不二雄はやっぱり偉大だな。おそらく藤子も評論家にけなされて腹が立ったことがあったのだろうが、それを昇華して、人を感動させる作品にしてしまったのだから。

 瀬名の文章の後半については、過去にkikulog等で議論されていることだから、ここでは議論しない。ただ、瀬名の「私たちが物事を信頼してゆくためには、実験しかない」という考えは、科学に対する考えとしてはあまりに素朴すぎるのではないか、とだけ言っておく。

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2008年3月15日 (土)

江原啓之を読む(3)