« 2008年3月 | トップページ | 2008年5月 »

2008年4月

2008年4月30日 (水)

「茂木健一郎の脳活用スペシャル」2ちゃん実況スレ

143 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:05:28.57 ID:HpeDpTkN
精神鑑定する人並みにうさんくさい

162 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:06:07.67 ID:djDnl6T4
インチキ学者模擬は脳科学の成果を自分の手柄のように話すよな

337 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:10:39.54 ID:UUdZYaNy
普通の暗記方だな

338 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:10:40.52 ID:hwcmsu4s
書いて覚えるとか普通じゃないか

347 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:10:56.99 ID:rXWJ/AAr
よくある方法じゃないのか?

388 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:12:03.25 ID:WTLK8n16
いたって普通の勉強法じゃね

401 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:12:09.64 ID:xiLNYU0Z
こんな陳腐なことしかいえないのか。

506 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:14:35.58 ID:WFoUTxl/

(U) < 今日はほとんどガッテンレベルだな

513 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:14:39.54 ID:7Xlgi0lA
書いて覚えるなんてわざわざもったいつけて発表することじゃねえだろw

517 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:14:45.67 ID:Clyqx4fS
今日は「プロフェッショナルでためしてガッテンをやってみました」的回なのでそこを意識してみるように

635 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:18:55.81 ID:xqA0gzR4
よく考えたら当たり前のことを言っている気がしなくもない

846 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:23:15.74 ID:wl2Lg5ok
だからその短時間で集中する方法を聞いてるのに、
「短時間で集中することを繰り返す」じゃあただ訓練すると言うことをいってるだけじゃねーか

847 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:23:15.96 ID:djDnl6T4
みのもんたの思いっきりテレビよりひでえな

65 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:29:38.01 ID:Z7hJ5v8i
なんか農家学者じゃなくても言えることばっかりだな

102 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:30:38.84 ID:8OhlcqSO
これも普通すぎる・・・・

107 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:30:45.81 ID:5VU/h/dP
いよいよ胡散臭くなってきました

191 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:32:05.88 ID:hqIAwYwa
どう考えても
ペテン氏だよなこいつ

なんでこんなのがもてはやされるのか
わからん

333 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:35:05.75 ID:asRYwr38
誉めて延ばすなんてどこかで普通に言われてる事をさも持論のようにw

471 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:38:30.24 ID:wKQ/RUl6
脳科学かんけいなくねーか?

473 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:38:31.61 ID:oi0rbzP+
脳と関係ねぇえええええええええええええええ

しかも、模擬はリーだーの経験ねぇだろwwwwwwwwwwwww

474 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:38:32.73 ID:/xdwD+xt
あ?リーダー論を語る番組だっけ?

475 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:38:35.25 ID:QzAAeuu7
脳化学関係ないな

478 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:38:36.60 ID:WNEDY7l2
脳科学関係ないなw
逆に面白いわ

479 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:38:38.07 ID:mV3WtTFT
なんか脳が全てみたいな感じだな

480 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:38:37.89 ID:WB9R5cdJ
つっこまれたww

481 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:38:38.79 ID:jBUj/V3g
新聞の人生相談みたいになってきたw

506 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:39:28.49 ID:hfQ7yQ0x
単なる精神論じゃないかよw

605 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:41:21.93 ID:DCD3rLhH
結局当たり前のことしか言ってねぇ

682 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:42:37.16 ID:mehg2EC1
大体同意するけど今言うことなのか?
言い古されてる気がする

693 :公共放送名無しさん:2008/04/29(火) 22:42:51.49 ID:TyyCOI16
あんまりためにならなかったような・・・この番組

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月29日 (火)

ミトコンドリア・イブに関するよくある誤解(2)

 お前の書いたものなど信用できん、という方もいるだろうから、リチャード・ドーキンスの『遺伝子の川』から引用する。

さしあたり、バークレー・グループが正しいと仮定して、彼らの結論が何を意味し、何を意味していないかを検証してみよう。「イヴ」という愛称は、好ましくない結果を招いた。イヴに夢中になったあまり、彼女は孤独な女性、地上でただ一人の女性であり、遺伝学上の究極の隘路であり、創世記を立証するとまで考える人びとがあらわれたのである! これはまったくの誤解である。正しい主張は彼女が地上でただ一人の女性ということでもないし、その時期の人口があまり多くなかったということでもない。彼女には男の仲間も女の仲間もいて、彼らの数は多く、しかも多産だったかもしれない。さらに、この仲間たちには、今日生きている無数の子孫がいるかもしれない。だが、彼らのミトコンドリアの子孫はすべて死にはてている。なぜなら、それらをわれわれとつなぐ鎖はある時点で雄を素通りしてしまうからである。同じように、貴族の姓(姓は男つまりY染色体に連関したもので、ミトコンドリアとまさに対照的に男系を通じてのみ伝えられる)も消滅することはあるが、その姓の所有者に子孫がいないということではない。彼らは男系のみという筋道とは別の筋道に無数の子孫をもっているかもしれない。そんなわけで、正しい主張は、ミトコンドリアのイヴは女系のみを通してあらゆる原生人類の祖先と言える最も年代の新しい女性だということである。こうした主張があてはまる女性が一人はいなくてはならない。唯一の議論は、彼女が生きた場所がどこか、また生きた時代がいつなのかにかかわっている。彼女がいつかどこかで生きていたことはたしかなのだ。
 次にあげる第二の誤解は、より一般的で、ミトコンドリアDNAの分野を研究する指導的な研究者ですらおちいっているようだ。すなわち、ミトコンドリアのイヴはわれわれに共通の最も近い祖先だとする考え方である。それは「最も近い共通の祖先」と「純粋に女系の、最も近い共通の祖先」との混同からきている。ミトコンドリアのイヴは純粋に女系の、われわれの最も近い共通の祖先ではあるが、女系以外の道筋で子孫になる方法はほかにもたくさんある。何百万とあるのだ。祖先の数を試算したのをふりかえってみよう(ただし、そのときの議論のポイントだった、「いとこ」同士の結婚という複雑な問題は忘れて)。あなたにはハ人の曾祖父母がいるけれど、純粋に女系なのはそのちの一人だけしかいない。一六人の曾曾祖父母がいるが、純粋に女系なのはそのうち
の一人だけしかいない。「いとこ」同士の結婚で一定の世代の祖先の数が減ることを考慮に入れても、祖先になる道は女系だけの場合よりはるかに多いことはたしかである。われわれの遺伝子の川を遠い大昔までさかのぽっていけば、おそらく大勢のイヴやアダム--1995年に生きている人びとの祖先だと言ってよい、焦点にあたる女や男--がいたのだ。ミトコンドリアのイヴはそのなかの一人にすぎない。こういった無数のイヴやアダムのなかでミトコンドリアのイヴが最も近い祖先だと考える特別な理由はないのである。それどころか、彼女には特別な限定がついている。われわれは彼女を出発点として特別な道筋を経て川をくだってきたのである。女系のみという道筋と平行して非常に膨大な道筋がありうるので、ミトコンドリアのイヴが多くのイブとアダムのなかで最も近い祖先である可能性は数学的にきわめて薄い。一つの点で(女系のみというこ
と)、それは数多くの筋道のなかで特別なのである。もしそれが、別の点(最も近い祖先だということ)で、数多くの筋道のなかで特別だとすれば、驚くべき偶然の一致というべきだろう。

 次に、ダニエル・デネットの『ダーウィンの危険な思想』から。

 ミトコンドリア・イヴが存在したという誰も否定しえない点を演鐸することにくらべると、ミトコンドリア・イヴが<どこに>、<いつ>存在していたのかを演鐸することは、はるかに難しい。最近の論争はさておいて、ミトコンドリア・イヴについて私たちがすでに知っている若干の事柄を考えてみよう,私たちは、彼女には少なくとも二人の娘が
いて、その娘の子供たちが生き残ったことを知っている。(彼女に一人しか娘がいなければ、その娘がミトコンドリア・イヴの王冠をいただくだろう。)彼女自身の名前とその称号を区別するために、彼女をエイミーと呼んでおこう。エイミーはミトコンドリア・イヴという称号を帯びている。つまり彼女が、人々の今日の系統の母方の創始者にたまたまなったのだ。ここで忘れてならないのは、〈他のすべての点では〉ミトコソドリア・イヴにはとくに顕著なものや特殊なものはおそらく何もなかったという点である。彼女は確かに、最初の女性でも、〈ホモ・サピエンス〉という種の創始者でもなかったからだ。わたしたちの種には、もっと早い頃の女性が、明らかにたくさん属していたはずなのに、この人たちは、今日生きている人々につながるような、直々の女系の子孫をたまたま残すことがなかったのだ。ミトコンドリア・イヴは、彼女の時代の他の女性とくらべて、多分とくに強くも、とくに速くも、とくに美しくも、とくに多産でもなかったものと思われる。
 ミトコンドリア・イヴ--すなわちエイミがおそらくどのくらいありふれたものだったかをはっきりさせるために、何千世代も後のある日、有害な新ウイルスが地上に広がって、数年後に人類の九九%を消してしまうのだとしてみよう,生き残った人たちは、幸運にもウイルスに対する何らかの生得的な抵抗力を持っていて、おそらく全員が深い近親関係にあったことだろう。〈かれらに〉共通する直近の女性の先祖--彼女をベティと呼ぼう--は、エイミーより数百から数千世代後に生きていた何がしかの女性であるが、ミトコンソドリア・イヴという王冠は側って彼女の所に渡るだろう。彼女は、何世紀も後になって種の保存者としての名誉をやっと博することになる、突然変異の
元であったかもしれないが、突然変異が打ち勝つべきウィルスは当時まだ存在していなかったのだから、突然変異の元になったからといって、〈彼女自身の〉得になったわけではない。ミトコンドリア・イヴが〈回顧的に〉のみ王冠を授けられるというのは重要なことである。この歴史的に枢要な役割は、エイミー自身の時代の偶発的事情だけではなく、後の時代の偶発的事情によっても、やはり同じように決まってくるからだ。エイミーの伯父が彼女を三歳のとき溺れているところを牧わなかったら、(最終的にはエイミーのおかけで、私たちに固有なミトコンドリアDNAを持った)〈私たち〉は誰ひとり存在していなかっただろうが、エイミーの孫娘がみんな幼少時に餓死しても--当時非常にたくさんの子供たち、がそうであったように--、私たちは同じように忘れられた存在となっていたことだろう。

Book 遺伝子の川 (サイエンス・マスターズ)

著者:リチャード ドーキンス
販売元:草思社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ミトコンドリア・イブに関するよくある誤解(1)

Technobahn  人類は7万年前に絶滅寸前の状態に追い込まれれていた、国際研究グループ

 ジェノグラフィック計画ではミトコンドリアDNAを用いることにより世界中の人類の母方の祖先の遺伝子を個別に追跡。その結果、現在の人類は20万年前にアフリカに住んでいた「ミトコンドリア・イブ(mitochondrial Eve)」と呼ばれる1人の女性に起源をもつこと、人類は6万年前にアフリカから世界各地に散らばる旅にでることにより多様性を獲得し、現在に至る隆盛の基礎を築いたことなどが判ってきたが、20万年前の「ミトコンドリア・イブ」の起源から6万年前にアフリカから旅に出るまでの間にアフリカで起きた人類の歴史に関してはほとんどなにも判っていなかった。

 今回、ジェノグラフィック計画で新たに明らかとなったのは、20万年前の「ミトコンドリア・イブ」以降の人類がアフリカで辿った歴史の道筋となる。

(略)

 今日の人類の人口は66億7000万人にも及んでいるが、研究グループでは、これまでの研究成果を総合すると人類は「ミトコンドリア・イブ」を含む数百名の集団を起源にアフリカ内で拡大を進めたが、15万年~9万年前に別の種族に分岐した後は気象変動のため人口は減少し、7万年前には一時、約2000人未満の集団にまで減少したのではないかと述べている。

  これもまた、ミトコンドリア・イブに関するよくある誤解を強化しそうな記事の一つである。
  まずいのは、「現在の人類は20万年前にアフリカに住んでいた「ミトコンドリア・イブ(mitochondrial Eve)」と呼ばれる1人の女性に起源をもつ」という部分である。
 
   ミトコンドリア・イブの定義は、「今日生存している全人類の最も近い共通の女系祖先」である。
   元々、「今日生存している全人類の最も近い共通の女系祖先」に「イブ」という名前をつけたこと自体が誤解を招くものだったのである。
   「ミトコンドリア・イブ」から人類が始まったわけではない。   
   「今日生存している全人類の最も近い共通の祖先」という概念は「全人類の始まり」という概念とは全く別物である。
   
   例えば、A氏と兄弟のB氏と両者のいとこであるC氏が、D家の最後の生き残りだとしよう。そうするとD家の人間の「最も近い共通の祖先」とは、A氏、B氏、C氏の祖父母になる。このことは、「A氏、B氏、C氏の祖父母がD家の始祖である」ということを意味しない。A氏、B氏、C氏の曾祖父母も曾曾祖父母もD家の祖先の人間なのであって、D家の始まりはもっと過去にあったのである。
   さらに、C氏が死去してしまった場合を考えてみよう。そうすると、今度はD家の生き残りの「最も近い共通の祖先」はA氏とB氏の両親ということになる。
   同様に、「ミトコンドリア・イブ」も、例えば、大災害が起こって現人類の何割かが死んでしまったら、それまでとは別の女性が「ミトコンドリア・イブ」になる、ということも起こりうるのである。
   ダニエル・デネットは、『ダーウィンの危険な思想』の中で、このようなことを「回顧的戴冠」と呼んでいる。「ミトコンドリア・イブ」は、現在から過去を振り返ることによって見出される構成的な概念であって、過去のその時点において何か特別なことが起こったということではないのである。
   
   また、「ミトコンドリア・イブ」は「今日生存している全人類の最も近い共通の祖先」の唯一の人間ですらない。「ミトコンドリア・イブ」は、「女系の」「今日生存している全人類の最も近い共通の祖先」であって、「女系の」という限定を外してしまえば、「今日生存している全人類の最も近い共通の祖先」は「ミトコンドリア・イブ」以外にも存在するのである。
   なぜ研究者にとって「ミトコンドリア・イブ」が特別なものであるかというと、「女系」のみをたどった祖先であるからで、なぜ「女系」のみをたどった祖先が特別なものであるかというと、ミトコンドリアが「女系」のみ受け継がれ、染色体のように交叉を起こさないために系統の分析が容易だからである。それだけのことである。   
   
   そもそも、人類はただ一人の人間から始まるものではないし、ある時点から急に人類が始まるわけでもない。進化は、小さな変異が徐々に蓄積されていく過程であって、一夜にして新しい種や亜種が生まれるわけではない。
   
   よって、「ミトコンドリア・イブ」が20万年前にアフリカにいたからといって、現人類が20万年前に始まったということではないのである。   

  ネット上でも、ミトコンドリア・イブに関する間違った情報は多い(と言うか、間違った情報の方が多いような気がする。Wikipediaの記述も、半年くらい前までは、かなりひどかった)。

   教えて!goo ミトコンドリア・イブは1人?   

上記の例では、回答者も含めて誰もちゃんと理解していないように見える。
上に書いたように、「ミトコンドリア・イブ」が別の人間になるということはあり得るが、ある特定の時点での「ミトコンドリア・イブ」は定義から言って一人だけでしかあり得ないのである。「ミトコンドリア・イブが何人もいる」というのは、「私には母方の祖母が2、3人いる」と言うようなものである。「ミトコンドリア・イブは1人ではない」というのは、「人類の祖先は一人ではない」(これは正しい)ということと混同しているのではないかと思う。

  一般向けの人類学の解説書でも勘違いしていると思われるものが存在するので、注意が必要である。
  私自身は、以下を参考にした。

ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化 Book ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化

著者:ダニエル・C. デネット
販売元:青土社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

祖先の物語 ~ドーキンスの生命史~ 上 Book 祖先の物語 ~ドーキンスの生命史~ 上

著者:リチャード・ドーキンス
販売元:小学館
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月28日 (月)

NHK プロフェッショナル 仕事の流儀

NHK プロフェッショナル 仕事の流儀 
2008年4月29日(火)放送予定
茂木健一郎の脳活用法スペシャル

仕事に集中できない・・・、物忘れがひどくなった・・・・。これまで番組には、仕事や勉強をする上での「脳」にまつわる悩みが、数多く寄せられてきた。実は、脳は何歳からでも工夫次第で鍛えることができるということが、脳科学の知見でわかっている。
実際にはどうすれば脳を鍛えられるか。4月29日の祝日にあわせ、脳のプロフェッショナルである番組キャスター・茂木健一郎が、自らの体験をもとに編み出した脳活用術を一挙に紹介するスペシャル版。
茂木流脳の活用術は、電車の乗り換えの間など細切れの時間をあえて使う「短時間集中法」、暗記や記憶力を高める「鶴の恩返し」勉強法など、ユニークなものばかり。
さらにスタジオには、脳に関する悩みを送っていただいた方をはじめ視聴者を迎え、その素朴な疑問にも答える。

楽しみだなあ。

普段はバラエティ番組で、つまらないコメントを言わされるばかりだけど、この番組では、茂木先生が普段どういう研究しているのか、じっくり見せてくれるんですよネ?
何しろ”スペシャル”なんだから。

茂木先生がアチコチ飛び回って忙しそうにしているところを、追いかけて写している映像ばかり、なんてことはないですよネ?

茂木先生の一方的な主張を垂れ流すだけの番組になんかならないですよね?

「プロフェッショナル」っていうくらいなんだから、番組の方もプロフェッショナルな作り方になってるんですよネ?。

「脳を活かす勉強法」の内容そのままの、本の宣伝みたいな番組になんかならないですよネ?なんてったって、国営放送ですからね。

「自らの体験をもとに編み出した脳活用術」っていうのも、ちゃんとしたやり方で効果を検証してくれるんですよネ?

一人か二人に実践させてみて、「効果がありました!」とか主観的な証言だけで効果を確認したかのように見せるような、そんないい加減なことはしませんよネ?
「あるある」じゃないんだから。

「NHKだって信用できない」なんて、十数年目の番組を持ち出して批判なんかして申しわけなかったっす。
あんないい加減な番組作りなんて、もうしてるわけないですよネ?NHKさん。

ホントに楽しみだなあ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

茂木がまたバカなことを PART5

私は見なかったのだが、「題名のない音楽会」で、ディズニー音楽で脳が喜ぶのはディズニー音楽には夢があるから、みたいなことを言ったようですな。
科学者とは思えないような、中身のない発言だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

macskaさんへの応答

 2点ほど。
 まずは、簡単な方から。

 あ、ひとつだけ。ドーキンスからの引用で「実際のところ、ワラックのこの本につけるのならば、『イスラム穏健派という神話』のほうが適切だったかもしれないが」という部分がありますが、これはおそらく誤訳です。ワラックの主張は「イスラムに穏健派は存在しない(穏健派とされる人たちは実はそれほど穏健ではない)」ではなく、「イスラムは本来穏健な教義を持つ宗教であるという主張は間違っている」というものですから、「穏健なイスラムという神話」と訳されるべきです。

Patrick Sookhdeoの記事を見つけました。

The myth of moderate Islam

そうですね。「神は妄想である」にも引用されていますが

「イスラムは平和」というマントラ(お経)はほとんど1400年時代遅れのものになってしまった。

という一文もあるので、「穏健なイスラムという神話」の方が正しいと思います。

 しかし、ドーキンスが

「テロリズムの真の原因は、国際的な経済体制や過去の植民地主義、貧困や米国の軍事政策である」という主張を否定し

という書き方は、やはりいただけません。
 アメリカとイスラム国家の対立の「原因」として、「 国際的な経済体制や過去の植民地主義、貧困や米国の軍事政策」を無視するのは馬鹿げたことですが、ドーキンスが論じているのは、そのような対立の「原因」ではなく、自爆テロのような過激で狂信的な行動に走らせる「原因」であると解釈するのが自然だと思います。そう解釈すれば、「 国際的な経済体制や過去の植民地主義、貧困や米国の軍事政策」ではなく、宗教を「原因」として論ずるのは、さほど偏った態度とは思えませんし、やはりmasckaさんの書き方は(意図的にではないと思いますが)いささかミス・リーディングだと思うのです。

 
 次。前の文章ではちゃんと書いていなかったことを書きます。
 私がmacskaさんの文章に納得できないものを感じたのは、以下の文章のように、一部の無神論者の非寛容性を強調することによって、「無神論」自体が本質的に非寛容性を持っていると主張しているように見えるというところです。

【引用】
わたしが参加しているグループでも、大統領選挙に出馬しているバラック・オバマ上院議員の話題になったときにこのことは痛感した。そのころメディアではオバマの通っている教会の牧師だった人物の発言が「反米的」として問題とされていた。しかし、その教会が米国で最も悲惨な貧困地域の一つであるシカゴのハイドパークにある、貧しい黒人たちが多く集まる教会であることを考えれば、牧師が米国という国の人種的・経済的な不正義を厳しい口調で糾弾するのはまったく不思議ではない。ところがこのグループの人たちは、「あの牧師は狂っている」「これだから宗教者は」と、まったくその文脈を理解しようともせず、切り捨てるように口にしていた。

こうした政治的傾向は、西欧において近年目立ってきている排外的・不寛容的なリベラリズムの高まりを思い起こさせる。二年前、イスラム教の預言者ムハンマドを風刺したイラスト掲載の是非をめぐりヨーロッパ各地で大きな騒動が起きたことがその典型だが、「言論の自由」のほかにも「男女平等」や「同性愛者の権利擁護」といった美名を掲げつつ、そういった近代的価値観を「理解しない、共有できない」とされたイスラム系移民ら--実際には、そもそも自由や平等の価値がかれらにも対等に適用されているとは言い難い--を排斥しようとする主張は、ヨーロッパにおいて一部のフェミニストや同性愛者の権利擁護運動家らからも挙がっている。
【引用終わり】

【引用】
無神論者たちのふるまいは、信仰者のそれと何ら変わらないのではないか--すなわち無神論者たちは、無神論という新しい宗教の信者であり、その他の宗教の信者と本質的に何ら変わらないのではないか--という問いかけは、多くの人が直感的に感じるものだ。それに対し、いかに「無神論は信仰を否定し、理性による現実把握を推奨しているのだ」と反論しようとも、現実に「原理主義的な」としか形容しようのない無神論者が多くいるのだから、一般にそういう印象を与えてしまうのは仕方がない。
【引用終わり】

【引用】
こうしたユートピア思想と選民思想(自分たちこそ最も優れた人間であるという思い込み)は、わたしが参加しているグループにおいても頻繁に感じた。かれらから見れば、宗教を信仰している人はそれだけでかれらより非理性的であり、冷笑するしかない対象なのだ。このままいくと、迷える子羊=信仰者を救うために無神論の布教活動でもはじめかねない。そうした意識の大部分は、オバマの通っていた教会の牧師が過激な「米国主流社会」糾弾発言を繰り返すのと似たような文脈において形作られたもので、それなりに共感できないことはない。けれど、それが抑圧や貧困に抵抗するために信仰を必要としている人への不寛容に容易に繋がることには懸念を感じる。

しかしヘッジズの指摘はそれだけにとどまらない。かれによれば、ドーキンスら「新しい無神論者」たちは、人間が理性と感性、善と悪、意識と無意識といった矛盾した性質を持ち合わせているものだということを見失っている。そうした矛盾した性質のどちらか一方を強引に抹消しようとしても、その先に待ち受けているのは、ユートピアではなく宗教戦争やスターリニズムのような悲劇でしかない。中願派仏教の観点からも、ヘッジズのこうした人間理解にはとても納得がいく。
【引用終わり】

 また、macskaさんは あとの文章でも

別の機会にきっちり論証したいと思いますが、わたしには「新しい無神論者」の多くは非束縛的価値観を暗黙の前提としているように見えるし、過程における不寛容さや鈍感さはそうした価値観のなせるわざだと思うのです。

と、無神論者の「不寛容さや鈍感さ」を強調しています。

 無神論者の「非寛容性」に対する批判は、よく目にしますが、あまり意味のある批判だと思えません。無神論者が「非寛容」であるとすれば、それは宗教の「非寛容性」に対してです。無神論者が宗教を批判するのは、宗教が(おそらくは本質的に)持つ非寛容性のためであって、無神論者に対して「非寛容だ」と非難するのは、「悲寛容に対して非寛容だ」と非難するようなものだと思います。我々は、非寛容に対しても寛容であるべきなのでしょうか?
 
 無神論者の「非束縛的価値観」云々というのも、私にはよく分かりません。

  Sowell は過去数世紀の欧米政治思想史を遡りつつ、そうした左翼と右翼--と言うより、進歩主義と保守主義と言った方がいい--の対立の由来を、それぞれの陣営が前提とする根本的な人間観・世界観の相違に求める。かれによれば、進歩主義の土台には人間の限りない可能性を信じる「非束縛的」価値観があるとし、政治的・経済的環境さえ正しく整えれば人々はより優れた存在へと向上できる--そして、そのことによってより幸福になれる--という信念を持つ。逆に保守主義は人間は生まれつき与えられた能力や性質に制約されているとする「束縛的」価値観を前提とし、人々を向上させることではなく、それぞれの能力や性質に応じて人々を適切に配置することが政策的目標となる。

  無神論者が既存の価値観(の一部)を否定するとしても、生物学的な制約までは否定しないでしょう。事実、ドーキンスやE・O・ウィルソンのようなダーウィニストは、「生物学的決定論者」と左翼側から批判されたわけです(ドーキンスたちのようなダーウィニストは、現実社会の差別を肯定するような政治的主張をしているわけではありませんから、このような批判は的外れだと思いますが)。「政治的・経済的環境さえ正しく整えれば人々はより優れた存在へと向上できる」と考える「非束縛的価値観」の持ち主という記述は、S・J・グールドやルウォンティンのような生物学者に関してはある程度妥当といえるかもしれませんが、ドーキンスには当てはまらないでしょう。

 また、

ドーキンスら「新しい無神論者」たちは、人間が理性と感性、善と悪、意識と無意識といった矛盾した性質を持ち合わせているものだということを見失っている

というヘッジズの指摘も、無神論者に対する批判としては典型的なものですが、的を射たものとは思えません。ドーキンスは「神は妄想である」において、「宗教のダーウィン主義的な生存価」という観点から、なぜ宗教のような一見不合理で矛盾していると思われるものが存在するのかを検討しているのですから。

 結局のところ、私にはmacskaさんが宗教に関してどういう立場をとろうとしているのか、よく分かりません。キリスト教もイスラム教もダメ、無神論もダメ。となると、「中願派仏教」で行こう、ということなのでしょうか。私には、あまり魅力的な選択とは思えませんね(ナーガルージュナは面白いと思いますが)。全ての人間に「中願派仏教」を押しつけようとすれば、結局、キリスト教やイスラム教と変わらないことになるでしょう。まして、宗教に関しては日本人的なアイマイな立場を取り続けるのが吉だ、というのでは、宗教に対する有効な批判ができるとは思えません。

 とりあえず、私の方は、この件について書くのはこれで終わりにします。
 反論の方はご自由にどうぞ。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2008年4月27日 (日)

TENORI-ON LIVE 2008.4.24 タワーレコード渋谷

タワーレコード渋谷の地下1階で、Atom Heart、Paul de jong(The Books)、To Rococo RotのTENORI-ONを使ったライブ。
TENORI-ONについては、前に書いた記事を参照。

観客は100人もいなかったんじゃないかな。指定どおり、開演30分前にいったのだが、ギリギリに言ってもよかったくらい。
演奏の方は、三者三様という感じで面白かった。

Atom Heart

セニョール・ココナッツ名義の時のラテン風味とは異なって、割と攻撃的なテクノ。
ノンストップで約40分の演奏。
良かったんだけど、TENORI-ONをどう使っているのかが、観ている方にはよく分からず。
それにしても、あんな映像使って大丈夫なんでしょうか(どんな映像だったかは、ここには書けません)。

Paul de jong(The Books)

TENORI-ONはパーカッション的に使用。生でチェロの演奏を加える。
映像の方は、古いモノクロ・フィルムやニュースのビデオを素材にして編集したもの。ゴルフをしているところや、日本の学生がアメリカの学生とパソコンを使って対話しているところ(たぶん、80年代)や、人工衛星の映像など、何の脈絡もない映像がつながれていくのだが、奇妙に哀愁とユーモアが漂う。
1曲のみで30分弱の演奏。
The Booksは、先週ファンになったばかりなのだが、ライブを観れてよかった。

To Rococo Rot

ドラムスとベースを加えて三人で演奏。
TENORI-ONのスクリーンが見えるようにセットされ、曲の方も、三組の中では一番TENORI-ONのイメージに合った雰囲気のものだった。
6曲位、約1時間の演奏。

TENORI-ONをフルに使用した上、バンド編成ということもあって、To Rococo Rotが一番観客が盛り上がったんじゃないかな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月26日 (土)

再び「神は妄想である」について

macskaさんが、アメリカの無神論者について書いていて

米国を席巻する「新しい無神論者」の非寛容と、ほんの少しの希望

その中で、リチャード・ドーキンスの「神は妄想である」について触れている部分が変だったので、批判しようと思っていたら、先に弁明されてしまった。

「新しい無神論者」エントリのブクマコメントに一斉お応え

「新しい無神論者」エントリのブクマコメントに一斉お応え(2)

今でもあまり納得し、色々言いたいことはあるのだが、なんだかめんどくさくなってしまったので、手短にすませる。

一番変だと思ったのは最初の文書の以下の箇所。

ドーキンスらによれば、肝心なことは理性を尊重し、根拠の無いことを事実だと信仰しないことだという。たとえばスターリンら共産政権の指導者たちはたしかに無神論者ではあったかもしれないが、恐怖政治や個人崇拝の制度を作り、かれら自身が信仰の対象--理性の審判を受け付けないもの--となってしまったために間違いをおかした。すなわち対象が神であれ指導者であれ問題なのは信仰であり、理性こそ世界のあらゆる問題に対する答えなのだという。

こうしたユートピア思想と選民思想(自分たちこそ最も優れた人間であるという思い込み)は、わたしが参加しているグループにおいても頻繁に感じた。

前半の文章がどうして「ユートピア思想と選民思想」に繋がるのかサッパリ分からない。「理性こそ信頼すべきものである」という主張は、「理性さえあれば理想の社会が築ける」とか「理性を持った者こそが世界の支配者になるべきである」といった主張とは全く別物である。

それから、2番目の文章の以下の箇所。

しかしドーキンスも『神は妄想である』英語版 p.307 でイスラム研究者を引用してコーラン解釈に踏み込み、「穏健なイスラム教という神話」という表現を使っています。また、イスラム教特有の性質ではないにせよ同 p.302-306 では一部の論者がよく言う「テロリズムの真の原因は、国際的な経済体制や過去の植民地主義、貧困や米国の軍事政策である」という主張を否定し、「宗教が」原因であると言っています。

 かなりミス・リーディングな書き方だと言わざるを得ない。日本版の該当箇所の前後を引用するので、ドーキンスの言わんとしたことがどのようなものであるか、各自判断されたい。「神は妄想である」の内容については、私が以前に書いた「池澤夏樹の欺瞞 -ドーキンスを擁護する-」も参照のこと。

 宗教上の信念は、それが宗教上の信念であるというだけの理由で尊重されなければならないという原則を受け入れているかぎり、私たちはオサマ・ビン・ラディンや自爆テロ犯が抱いている信念を尊重しないわけにはいかない。ではどうすればいいのか、といえば、こうして力説する必要もないほど自明なことだが、宗教上の信念というものをフリーパスで尊重するという原則を放棄することである。
それこそが、私がもてるかぎりの力をつくして、いわゆる「過激主義的な」信仰に対してだけでなく、信仰そのものに対して人々に警告を発する理由のIつなのである。「中庸な」宗教の教えは、それ白身には過激なところはなくとも、門を開けて過激主義を差し招いているのである。
 ただここで、宗教上の信念になんら特別なところがあるわけではない、という反論が出てくるかもしれない。自分乃国や民族集団に対する愛国主義的な信条もまた、それ独白の過激主義に都合のいい世界をつくろうとすることがありえる、そうじゃないのか? そう、日本の神風特攻隊やスリランカのタミール・タイガーのように、そういうこともありうるのだ。しかし、宗教上の信念は合理判断を沈黙させるもっとも有効な手段であり、通常、他のあらゆるものに勝つ切り札のように見える。私の思うに、これはもっぱら、死が終わりではなく、殉教者の行く天国はとりわけ栄光に満ちたものであるという、安易で魅惑的な約束のゆえであろう。しかし、宗教上の信念がまさにその本性において、疑問を抱くことを抑圧するというのも、理由の一部になっている。
 キリスト教は、あるいはイスラム教でもまったく同じことであるが、疑問を抱かない無条件の信仰こそ美徳であると、子供たちに教える。こと信仰の問題に関しては、自分が信じていることを論証する必要はなし。もし誰かが、それは自分の信仰の一部であると宣言すれば、その社会の残りの人間は、同じ信仰を持っていようが、別の信仰を持っていようが、あるいは無宗教だろうが、根深い慣習によって、疑問を発することなくそれを「尊重」するよう強いられる。ただしそれは、世界貿易センタしビルの破壊、あるいはロンドンやマドリードの爆破事件などにおける犬虐殺という形でその信仰が表明される目がこないかぎりのことである。そういう事態が起きたいま、この過激主義が「真の」信仰からの逸脱であると説明するために、聖職者や「共同体の指導者」 (ついでながら、誰が彼らを選んだのか?)たちが雁首を揃えて、白分たちはかかわりがないとしう大合唱がなされている。しかし、もし信仰が客観的な正当化の理由を欠き、何か逸脱かについていかなる明白な基準ももたないのであれば、そもそも信仰の逸脱なるものがなぜ存在しうるのか?
  10年前のこと、イブン・ワラックはその『なぜ私はイスラム教徒でないか』というすばらしい本の中で、深い学識をもつイスラム学者としての立場から、同じような論証をおこなった。実際のところ、ワラックのこの本につけるのならば、『イスラム穏健派という神話』のほうが適切だったかもしれないが、その表題は、もっと最近の《ロンドソ・スペクテーター》紙(二〇〇五年七月三〇目付け)に掲載された別の学者、イスラム教学・キリスト教学研究所所長のパトリック・スツクデオの記事の実際の表題として用いられている。「現代のイスラム教徒の圧倒的多数は、暴力に頼ることなく生活を送っており、コーランは方々から寄せ集めた選集のようなものである。もしあなたが平和を求めるなら、平和的な詩句を見つけることができる。もしあなたが戦争を求めるなら、好戦的な詩句を見つけることができる」。
  (略)      
 より一般的に言えば(そして、これはイスラム教だけでなく、キリスト教にも同じようにあてぱまる)、本当の意味で有害なのは、子供に信仰そのものが美徳であると教えることである。信仰は、それがいかなる正当化の根拠も必要とせず、いかなる議論も許さないという、まさにその理由によって悪なのである。子供に、疑問を抱かない絶対的な美徳であると教えることは、彼らに--手に入れることがむずかしくないいくつかのその他の要素が与えられれば--、将来のジハードまたぱ十字軍のための潜在的な凶器となるべく育つ素地を与えることにほかならない。(略)

| | コメント (1) | トラックバック (1)

2ちゃねらーさんにお願い

コピペするのは全然構わないが、コピペだということがわからないようなやり方は止めてくれ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月25日 (金)

Yellow Magic Orchestra

うわああああああああああ!

room66+

Yellow Magic Orchestraが、英・ロンドンの、ロイヤル・フェスティバル・ホールで開催される
メルトダウン・フェスティバルに出演します。

こっちには行けないな。

ユキヒロ、飛行機大丈夫?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

WORLD HAPPINESS~LOVE & MAMMY AND SOMETIME DADDY

うわああああああああああ!

room66+

今夏、素晴らしいミュージック・フェスティバルが開催されます!
その名も〔WORLD HAPPINESS~LOVE & MAMMY AND SOMETIME DADDY〕。
我らが高橋幸宏と、日本を代表するアート・ディレクター信藤三雄のふたりがキュレーターとなって、ふたりが大好きな(そしておすすめの)アーティストの皆さんに声をかけ、一緒に盛り上がろうというイベントです。

WORLD HAPPINESS
LOVE & MAMMY AND SOMETIME DADDY
Brought You by 高橋幸宏×信藤三雄

参加アーティスト

高橋幸宏 with FRIENDS, HASYMO(高橋幸宏+坂本龍一+細野晴臣),
鈴木慶一, 東京スカパラダイスオーケストラ, NRT320(信藤三雄BAND)and more…

当然、行きますよ。しかし....。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「the lemon of pink」The Books

明日タワレコでやるTENORI-ONのイベントの予習として買った、The Booksの「the lemon of pink」が面白かった。
コーネリアス・ファンにお勧めする。

この曲は、コーネリアスっぽいね。

Take Time - The Books

こういうのもある。

Tokyo - The Books

The Lemon of Pink Music The Lemon of Pink

アーティスト:The Books
販売元:Tomlab
発売日:2003/10/14
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

聖火と非聖火のあいだ

 科学書としては異例のベストセラーとなった、「聖火と非聖火のあいだ」から引用する。
 科学者が書いたとは思えない、文学的香気溢れる文章を堪能してもらいたい。

  よく私たちはしばしば聖火を受け継ぐとき、「お変わりありませんね」などと挨拶を交わすが(交わさないか)、数秒ほど会わずにいれば、分子のレベルでは聖火はすっかり入れ替わっていて、お変わりありまくりなのである。かつて聖火の一部であった原子や分子はもうすでに聖火の内部には存在しない。

  聖火とは何か?それは受け継がれる火である。私たちは聖火をそのように定義した。
  ならば聖火はまったく不変で、ギリシャで点火されて中国に着くまで、同一な原子で構成されたまま不動なのだろうか。そうではない。その内部では常に分子と原子の交換がある。

 秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない。

 聖火とは動的平衡にある流れである。

 聖火という名の動的な平衡は、それ自体、いずれの瞬間でも危ういまでのバランスをとりつつ、同時にギリシャから中国までを一方的にたどりながら折りたたまれている。 これを乱すような政治的介入を行えば、動的平衡は取り返しのつかないダメージを受ける。
  私たちは、欽ちゃんの走りの前に跪く以外に、そして欽ちゃん走りのありようをただ記述すること以外に、なすすべはないのである。それは実のところ、あの少年の日々からすでにずっと自明なことだったのだ。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月24日 (木)

ニセ科学の見分け方

素人でも使える「ニセ科学の見分け方」を考えてみた。
以下にそれを記すが、とくに目新しいことは言っていないと思う。簡潔にまとめたということだけが取り柄だろうか。
なお、これはニセ科学の「定義」ではなく「徴候」あるいは「特徴」である。以下の項目に当てはまらないからといって、まともな科学であることが保証されるわけではない。

・定義が曖昧な概念を中心にして理論が組み立てられている
  「波動、波動って言うけど、何の波なんだよ!」

・事実を表す命題の中に、価値判断が混ざりこんでいる
  「水にきれいな言葉を聞かせると...」

・効果あるいは理論の適用される領域が無限定
  「すべての病に効果があります」

これに関連して、「信用できない専門家の見分け方」も考えてみた。
科学以外でも応用可能。

・留保や限定条件を示さず、やたらと景気がいいことを言う
   「この学習法を実行すると、誰でも頭がよくなれます」

・結論が保守的な道徳や古い(大抵は本人が子供のころの)生活習慣に結びついている
  「ゲームやケータイは子供の脳を破壊する!」

・「合理性」より「共感」に訴える
  「植物が人の言葉を理解するって素敵だと思いませんか?」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月23日 (水)

NHKだって信用できない

「事象の地平線」経由で。

さまき隊的科学と環境と仕事と遊び 押さえなくてもレジャーシートが風に飛ばされない裏技???

 あるTV制作会社から、新番組で取り上げる可能性があるので、コメントが貰えないかという連絡が来た。

 ぼくは、電話でこの技を聞いたときに「ベルヌーイの定理だとどう考えるのかな」と思いました。「いや、これは単に4角に重しを置いたのと同じことで風でめくれにくくなるのでは…」とも思いました。実際には重し効果が大きいのではないかと思います。
(略)
 これを、質問してきた制作会社に言ったらディレクターが「センセイは気圧差の説明では、納得できないのですね。それならコメントいただかないです。」ということでした。重し効果だとテレビ的におもしろくないということなんでしょう。

 これに関連して、前に取り上げた吉村昭の『歴史を記録する』から、再度引用。

吉村 以前にNHKの番組で間宮林蔵を取り上げたことがありましたけれど、担当の人が、林蔵がスパイだというふうにすると番組が生きるって(笑)、固執するんですよ。隠密と言っても情報収集なので、これは各藩も幕府も出している。だからそのように形をきめちゃうといけないんで・・・・・・。
田中 スパイという表現ですと、イメージが違いますね。
吉村 真相を探るために、機密を盗むとかではなくて、しよっちゅう情報収集しているわけですから、その一つにすぎないんだと話しても、なかなか承知しない。それで、事実と違うことをするのなら、「出るのをやめる」と言ったんです。まあ結局、番組はそうではなくて、きちんとやりましたんで、よかったのですが・・・・・・。
田中 民放の俗受けをするようなものを取り入れようと、ヘンな気をおこすからいけないんで、NHKはNHKらしくすればよいのです。
吉村 そうです、そうです。

 NHK絡みで、もう一つ。金子隆一の『最新恐竜レポート』から。

 さて、ここで筆者が問題にしているのは、1994年の『NHKスペシャル』『生命 40億年はるかな旅』(94年7月31日夜9時第一回放映 制作/日向英実・須磨章・小平信行 構成/田中文弥・阿部真人)である。
  (略)
  恐竜の事も古生物の事も、まったくご存じないという方でも、右の要約を読めば何が問題なのか、ご説明するまでもあるまい。1億1千万年前、花の咲く植物が増え始めた。その結果、1億3000万年前、カミナリ竜が絶滅したというのである。これは、もはや単なる勘違いやデータ上のミスといったレベルの問題とは次元が違う。因果律が崩壊しているのである。
  (略)
  筆者は、この番組の放映後、雑誌『科学朝日』94年1月号にその批判記事を発表したことがある。この時、筆者とともにこの番組の非論理性を鋭く追求しておられたのが、国立科学博物館地学部長の富田幸光博士であった。実は富田博士はこのシリーズの監修者の一人として名を連ねておられたが、放映の一年半も前に、制作者から「花におわれた」のストーリーで行くことになったため協力してもらいたいとの要請を受けたという。(略)
  つまり、いくら監修者やその道の大家を集めても、最初からその意見を受け入れる意志などまったくなく、単にその名前で番組の権威を高めることだけが局側の狙いだったのは明白である。(略)
  (略)
  NHKスペシャル『生命』は、この回にかぎらず、すべての回が多かれ少なかれ、何らかの論理的矛盾や誤謬、事実誤認を含んでいた。ここでは、それらを一つ一つとりあげていく余裕はとうていないが、一つだけ指摘しておかねばならない事があるとしたら、それらのすべてに共通するのは、初めにシナリオありきの制作態度である、ということだ。いったんシナリオができ上がり、その線に沿って制作を進めることが決定されると、もはや決して軌道修正も仕切り直しも行われることはない。制作途上でどのような矛盾、誤りが露呈しようと、あとはただひたすら、破局へ向かって突き進むのみである。(略)
 
  『最新恐竜レポート』金子隆一

  これら全てに共通しているのは、金子の指摘している「初めにシナリオありきの制作態度」である。
 NHKの番組と言えども、「発掘!あるある大事典」と大して変わらないものもある。NHKスペシャル『生命』にいたっては、放送前に誤りを指摘されていたにも関わらず修正しなかったのだから、「あるある」よりもっと悪質であるとさえ言える。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

柄谷行人と温暖化問題

柄谷も大分劣化が進んでいるようだ。

「科学者の課題は何ですか」「未来の他者との対話が必要」(朝日新聞 2008.4.7) 
クロストーク<柄谷行人さんに分子生物学者 福岡伸一さんが聞く>
 
柄谷:そうですね。たとえば、物理学者の槌田敦(つちだ・あつし)さんは、CO2の増大は温暖化の原因ではなくその結果だ、といっている。また、人類について本当に危険なのは寒冷化だ、と。実際、1980年代までは、寒冷化の危険の方が強調されていた。それが打って変って急に「CO2、CO2」と言われるようになった理由は、科学よりも政治的なものの方が大きい。CO2を減らすという名目で、CO2の排出量が少ない原子力発電所を増やそうとしているのではないか。

槌田敦だけを根拠に主張されてもねえ。自分に都合がいい言説を恣意的に選んでいるだけじゃないかと疑われてもしょうがないでしょ。
一見中立的な言説の政治性を指摘して批判するのは、柄谷の昔からの十八番だが、そういう批判自体が政治的に偏ったものになってしまっている。
挙句の果てに、粗雑な陰謀論に堕してしまっているんだから、悲惨だよねえ。

だが、あらゆる廃棄物のうち最も処理が大変なのは原発から生じる廃棄物だ。そのことを「未来の他者」はどう考えるだろうか。そう考えてみることが、未来の他者との仮想的なコミニケーションだといえる。  
CO2を強調することで、別の環境問題をおおい隠すのはよくない。現在も将来も、環境危険は、砂漠化や汚染にあると思う。CO2排出を減らすだけでそれを解決できるとは思えない。そもそも世界的に農地や森林が消滅しているのは、温暖化のせいではない。それは政治・経済的な問題である。言い換えると、国家と資本主義経済の問題です。 

そりゃそうかも知れないけどね。だからって「温暖化」が問題ではなくなるわけではない。砂漠化や汚染が問題だっていうなら、そっちはそっちで考えればいいわけで、「温暖化」を攻撃したからって、どうなるものでもない。 (*1)

結局、他人と違うことが言いたいだけなんでしょ。

(*1)確かに、なんでもかんでも「温暖化」に結び付けてしまう最近の風潮には、私も疑問を感じてはいるのだが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月22日 (火)

理解不能なのはどっちだ?

母子殺害元少年の「理解不能」発言 「死刑制度認める、でも死刑になりたくない」(J-CASTニュース)

「はい。僕は死刑存置主義者ですから。終身刑も検討して欲しいと思っていますけどね。ただ判例として僕が死刑になるのは避けたい。ほかの少年少女の事件にも大きく影響するんですから」

どこが理解不能なんだ?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

光母子殺害

光母子殺害:【本村洋さん会見詳細】

--今回の少年は(犯行時)18歳。ハードルが外れ、今後、少年の死刑判決が続くと思いますか。

本村 そもそも、死刑に対するハードルと考えることがおかしい。日本の法律は1人でも人を殺めたら死刑を科すことができる。それは法律じゃない、勝手に作った司法の慣例です。

この質問をした記者は馬鹿じゃないかと思う。
被害者の家族にこんな質問することに何の意味があるんだ?

死刑に関しては、前に引用した中井久夫の発言を再度引用しておく。

中井 犯罪の瞬間の責任能力を認めないということは、ただちにその人の人権を否定することになるのかな。裁判の過程は、修復の過程であり、ゆっくり時間をかけて法廷弁論を展開をしてゆくという過程が重要なので、判決や刑の執行が最重要なのではないとも考えられる。責任能力だって、最初からこれはだめだと検事が不起訴にする場合もあるけども、多くは法廷で時間をかけて論じられる。この過程も考えに入れるべきでしょうね。死刑の是非は棚上げして言うのですが、鎮魂の過程とも考えられませんか。日本の死刑囚の裁判は非常に長くかけているでしょ。あれはそれなりの理由があるんですよ。迅速に死刑執行したらどうなるか。死刑される人は、まだ昂ぶりが残っているからかえって楽かもしれないという意見もあるんですけど、しかし迅速に死刑を執行した結果は、加害者、被害者双方の家族その他の自殺が非常に多い。したがって家族が、それなりに心の中で折り合いをつけて、そして自分の新しい人生をそれぞれを歩みだしてからこっそり死刑執行する。それはあるわけです。実際、社会に的に合意が得られそうにない死刑を執行しないのは、戦後の日本の著しい特徴です。

(追記)
そもそも、「ハードル」って何なんだ?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

DITTY BOPS新作見つからん

タワレコに行ったんだけど、THE DITTY BOPSの新作が見つからん。
国内盤の件はガセだったのかな? 某ブログで仕入れた情報だったのだが。
輸入盤すらなかったぞ。
代わりに買ってきたのは、The Booksとadrianha calcanhotoのCD。
どちらも聴いたことがないが、The Booksはコーネリアスが以前ほめていたのと、adrianha calcanhotoは、アート・リンゼイがプロデュースということで。
後で聴く。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「美しい日本は素晴らしい」

捨身成仁日記 炎と激情の豆知識ブログ! フランス人にナチ呼ばわりはヤバイ

コメント欄を眺めつつ。

愛国心は素晴らしい、美しい日本は素晴らしい。

「美しい日本は素晴らしい」という文は二通りの解釈ができる。

日本 is 美しい (美しいもの is 素晴らしい) ゆえに  日本 is 素晴らしい

または、

if 日本 is 美しい,日本 is 素晴らしい

「美しい日本は素晴らしい」と言う人は、どちらの意味で言っているのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「不完全性定理」と人間の心

『ゲーデルと20世紀の論理学 1』田中一之〔編〕の飯田隆執筆部分より引用。
私は「不完全性定理」なんぞ理解できないので、内容については聞かないでくれ。

 「ゲーデル」や「不完全性定理」といった名前は,いまでこそ,数学や哲学を専門とするわけではない多くのひとにも知られているが,こうした事態は,たがいに無関係ではない二つの原因によって引き起こされたと思われる.
ひとつは,コンピュータの存在であり,もうひとつは,皮肉にもテューリングが斥けた種類の議論である.第一不完全性定理は,数学の全体の完全な形式化が不可能であることを示した点て,知識の体系化についてのギリシア以来の理想が実現不可能であることを示した.さらに第二不完全吐定理は,数学を数学内部で正当化することをめざしたヒルベルトのプログラムが当初考えられていた形では遂行できないことを示すことによって,数学の基礎に関する研究の方向を大きく変えることになった.だが,数学以外の領域におけるわれわれの知識の非体系性・非形式性をみるとき,これらの定理の影響は数学の内部にとどまると考えるのが当然だろう.
 ネーゲルとニューマンの共著になる『数学から超数学へ』-原題はもっとそっけなく『ゲーデルの証明』というのだが-は,ゲーデルの不完全性定理を一般読者向けに解説した最初の本として,それが出版された1958年より現在に至るまで,多くの読者をもつ本である.そのごくはじめの方に,つぎのような文章がある.

この定理〔=ゲーデルの定理〕が教えるのは,人間の心に備わる構造と能力とは,これまで想像されたどんな機械にも及びつかないはど複雑かつ精妙だということである[Nagel and Newman 1958,p.10]

ここには,ゲーデルの不完全性定理に関して目にすることの多い文章の典型がある.そうした文章は,ゲーデルの定理が示したとされる機械のもつ原理的限界に触れ,ついで,そのことによって人間は機械から区別されるとする.
ゲーデルの定理についての一般向けの宣伝としてこれ以上に有効なものは考えられないだろう.
 だが他方で,事情に通じている哲学者や論理学者の目から見れば,それは,ゲーデルが証明した事柄についての誤解と,論理上の初歩的な誤謬の産物でしかない.パトナムは,1960年の論文「心と機械」のなかで,ネーゲルとニューマンの本からの先の文章を引いて,それは「ゲーデルの定理の誤用以外のなにものでもない」ときめつけている[Putnam 1960].ネーゲルとニューマンの議論をパトナムはつぎのように再構成する.--いま仮に,私の数学的能力がテューリング機械によって「表現」できるとしよう.つまり,それが証明できる数学的命題が,私が証明できる命題と同一であるようなテューリング機械TMが存在すると仮定する.ゲーデルの定理によれば,TMによっては証明できない命題Uを私は構成できる.しかも,私はこのUを証明できる.このことは,証明できる数学的命題の範囲が,TMと私とで一致するという最初の仮定と矛盾する.よって,この仮定は否定されなければならない.すなわち,私はテューリング機械ではない.
 こうした議論に対してパトナムは,任意のテューリング機械TMが与えられたとき,ゲーデルの定理から出てくることは,つぎの二つの条件を満足するような命題Uの存在でしかないことを指摘する.

   (1)TMが無矛盾ならば,TMはUの真偽を決定できない.
   (2)私は
     (*)もしもTMが無矛盾ならば,Uは真である
   
   ことを証明できる.

しかし,ここには,私と機械とのあいだの非対称性が存在する余地はない.なぜならば,第一に,(*)は私にとって証明可能であるだけではなく,TMもまた(*)を証明できるからであり,第二に,UをTMは証明できないとしても,私にもまたUを証明することは不可能である一一Uを証明するためにはTMが無矛盾であることを証明しなければならないが,TMが複雑であるな削よそうできる望みはありそうにないからである.
 パトナムのこうした指摘にもかかわらず,ゲーデルの定理が機械に対する人間の優越性を示すとする議論は根絶されなかった.それどころか,パトナムの論文が出た翌年ルーカスは,その論文「心と機械とゲーデル」[Lucas1961」のなかで,パトナムが批判したのとまったく同じタイプの議論を繰り返している.

ゲーデルの定理はサイバネティカルな機械にあてはまるはずである.なぜならば,形式的体系の具体化であるということは,機械であることの本質に属するからである.それゆえ,無矛盾であって,簡単な算術を行うことができるどんな機械についても,その機械によっては真として提示されえない体系のなかで証明不可能であるが,われわれには真であるとわかる式が存在する.よって,どんな機械も心の完全で十全なモデルではありえない,心は機械とは本質的に異なる.[Anderson 1964,p.44]

 ルーカスの議論はただちに多くの反論を招き,少なくともアカデミックな哲学のなかでは葬り去られたかのようにいったんみえた.ところが,1989年に出版された『皇帝の新しい心[Penrose 1989]のなかで,イギリスの物理学者ペンローズが,ゲーデルの不完全性定理をもとに,数学者の直観はどのようなアルゴリズムによっても表現できないと論じるに及んで,ルーカスは強力な援軍を得ることになった.『皇帝の新しい心』の続編『心の影』[Penrose 1994]でもゲーデルの定理は中心的な役割を演じている.『アメリカ数学会会報』に掲載された後者の書評[Putnam 1995]はパトナムによるものであるが,かれは,35年経ってもまた同じことを繰り返さなければならないのを嘆いているかのようにみえる.

『心の影』は「論争を呼ぶ」本として迎えられるだろうし,量子力学や計算機科学の難解な概念の説明を含むにもかかわらず,売れ行きはよいにちがいない.だが,評者には,この本の出現は,われわれの現在の知的生活における悲しむべき出来事だと思われ
る.ロジャー・ペンローズは,オックスフォード大学のラウズ・ボール数学数授であり,権威あるウルフ物理学賞をスティーブン・ホーキングと共同受賞してもいる.それにもかかわらず,かれは,数理論理学の専門家のすべてがずっと以前に誤謬であるとして斥けた議論を正しいと信じ,それを擁護するために,この本と,その前の『皇帝の新しい心』を書いたのである.悪名高いルーカスの議論を専門家のすべてが斥けたという事実は,ペンローズの目には何ら重要と映らない.かれは自分と論理学者たちとのあいだにあるのは哲学的な見解の相違であると信じているが,それは誤りである.実際のところ,そこにあるのは数学的誤謬以外の何物でもない.

日本にも、茂木健一郎や竹内薫のようにペンローズの「量子脳」理論を持ち上げる人間がいるが、こういう連中は信用しないこと。

ゲーデルと20世紀の論理学(ロジック)〈1〉ゲーデルの20世紀 Book ゲーデルと20世紀の論理学(ロジック)〈1〉ゲーデルの20世紀

販売元:東京大学出版会
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月21日 (月)

自由意志について

「意識による判断の7秒前に、脳が判断」:脳スキャナーで行動予告が可能

(略)
Haynes博士が行った実験は、神経生理学者Benjamin Libet氏による古典的な実験[1970年代の研究]を最新式にしたものだ。Libet氏は、被験者が実際にボタンを押すことを選択するほんの一瞬前に、運動を司る脳の領域が発火することを明らかにした。

その後の研究でも、意識的な選択の前に潜在意識の活動が行なわれており、潜在意識が意識的な選択を決定している、というLibet氏の理論が支持されてきた。しかし、今回の研究のように、脳内の決定とそれを認知するまでの間にこれほど大きな隔たりが認められたのは初めてのことだ。

(略)

今回の研究結果が示唆していることは、自分が自由意志を持っているという考えに慣れている人たちにとって、他の脳機能が生理学に基づいていることを学ぶ以上に、はるかに不安にさせられるものだろう。

この研究は、「自由意志」の問題とは関係ないと思うけど。脳内での決定とそれが意識されるまでにズレがあるってだけのことで。
「意識」と「自由意志」は別物だし。
そもそも、「自由意志」の問題というのは哲学の問題であって、実証的に検証されるようなものじゃないでしょ。
「自由意志」というものを、何か物理的法則から外れたものだとするなら、そんなものあるわけないでしょ、と思う。別に、ないという証拠があるわけじゃなくて、そんなものは合理的とは思えないってだけの話。

「生気論」と一緒ですよ。
「生気」なんてものは、今ならまともな科学者は信じないようになってるけど、それは「生気」が積極的に否定する証拠が乱されたからではない。生物に関する科学的な知識が積み重ねられていって、「生気」なんてものを持ち出さなくても生物のことを説明できるようになったから、「生気」なんてわけの分からないものを持ち出す必要がなくなった、ということ。
脳に関しては、まだまだ分からないところが多いから、「自由意志」の存在を信じたい人は、まだ分かっていない部分に「自由意志」の居所を求めることになるでしょう。その場所は、どんどん小さくなっていくわけだけど。

しかし、研究結果に疑問を呈する余地はあるし、自由意志の可能性も残っている。たとえば、今回の実験では、より複雑な決定に関する精神の活動が反映されていないかもしれないことが挙げられる。

ほらね。

「人間が機械だというようなことではない。人間の脳活動は生理学的な働きによるものであり、その中で人の性格や希望、欲望などが生まれているのだ」とHaynes博士は説明する。

「生理学的な働き」っていうのも、広い意味では「機械」ってことだと思うんですけどね。
別に「機械」でもかまわないと思うのだが。
人間が「自由意志」を持たない「機械」だったら、責任主体が存在し得ないから、社会秩序が崩壊する、とか心配する人がいるけど、そんなわけないでしょ。
例えば、「ロボット三原則」みたいに、ロボットにある程度の判断力と自分自身を守るような機能を持たせておいて、社会に害をなす行為をした場合は罰を与える、ということにしたら、ロボットだって「責任ある行動」をとるはずなんだから。

自由意志なんかないって言うと、「いや、私は自分が自由意志を持っていることを知っている。私は、自分の自由意志を感じる!」とか言う人が