世界のナベアツ
3の倍数と3のつく数のときだけアホになる。
パターンの面白さのはずだったのに、最近は3だけで笑いがとれるようになってる。
それじゃあ意味がないんじゃないかと思うのだが。
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3の倍数と3のつく数のときだけアホになる。
パターンの面白さのはずだったのに、最近は3だけで笑いがとれるようになってる。
それじゃあ意味がないんじゃないかと思うのだが。
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脳科学者が「根拠のない自信が大事だ!」と脳科学を根拠に言っているのを聞いて持つようになった自信は「根拠のない自信」なのだろうか、「根拠のある自信」なのだろうか。
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「ニューズウィーク日本版」5.26号より。
メールにいちいちスマイルマークの絵文字を入れるようなポジティブ志向の連中には正直イラッとする......。そんなあなたにおすすめなのが、6月に発売されるエイミー・マンのニューアルバム『@#%&! スマイラーズ』だ(記号の部分には、それぞれ好きな罵声を入れていいらしい)。
アメリカにも「ポジティブ教」が嫌いな人間がいることを確認できてホッした。
と言うわけで、「ポジティブ教」のカテゴリを追加しました。
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SeaMountさん、お待たせしました。
「科学による偽似科学攻撃は、警察が自分を擬態するガードマンをいじめるようなものでは?」への応答です。
考えていると中々まとまらないので、思いついたところから書きたいと思います。
残りについては、近々に公開します。
「嘘も方便」について
「嘘も方便」という言葉には確かに真実があります。
ですが、この言葉が成立するのは特殊な状況が必要でしょう。
「嘘も方便」という言葉は、「一般的に嘘は望ましいものではない」という事実を背景にして初めて適切な意味を持つ言葉です。
「嘘も方便」という言葉は、「嘘が許されるような状況も存在する」ということを言い表すものであって、嘘一般を肯定するものではありません。
嘘が望ましいものであるかは、個別的に判断すべきものでしょう。
ただし、疑似科学が常に人に不利益を与えるとは限らない。嘘も方便として利用され、役に立っていることは普通にあるであろう。「嘘も方便」という言葉は、「法華経」から来ているそうであるが、宗教の場に限らず、たとえば医療の場でもそれは使われているであろう。命が際どいときに、科学的説明が寿命を縮めてしまうこともあるであろうから。もちろん「嘘」であるから、終末医療で使われるモルヒネのようにその扱いには十分注意が必要であろう。
確かに疑似科学が常に人に不利益を与えるとは限りません。
しかし、例外があるからといって、疑似科学一般を肯定することは正当化されません。
SeaMountさんの仰るとおり、「嘘」を「方便」として利用するには「十分注意が必要」であり、十分注意するためには、「嘘」は本来は望ましいものではない、という意識が必要です。
そのためには、普段から「嘘は望ましいものではない」という一般原則に則った行動が必要なのです。
「嘘は望ましいものではない」という一般原則に則った行動を取るためには、「嘘は望ましいものではない」という一般論を主張するだけでは十分ではありません。
個別の「嘘」を、その都度批判していく必要があるのです。
口先だけで「嘘は望ましいものではない」などと言っていても、目の前の「嘘」を見過ごすのであれば、それは一貫性のある態度とは言えません。
色々と書きましたが、「擬似科学批判者」が擬似科学を批判するのは、「疑似科学は虚偽である」という明白な事実と「虚偽は(一般的に)望ましくない」という至極シンプルな「原則」によるのであり、それ以上の正当化が必要だとは私には思えません。
(もちろん、世の中には小説や映画のように(基本的には)無害な「虚偽」も存在しますが、小説や映画をを「虚偽だから」という理由で批判する「擬似科学批判者」は存在しません。)
「この虚偽は無害である」あるいは「この虚偽は有用である」と主張したいのであれば、「虚偽は望ましくない」という一般原則を棚上げにできるほどの説得力のある根拠を挙げる必要があり、説明責任は「虚偽」を擁護する側にあります。
「大きなお世話だ」「余計な口出しをするな」「思い上がってるんじゃないか」などというのは、「擬似科学批判者」に対する批判とし説得力があるものとは思えません。
「擬態」について
「疑似科学」を「ガードマン」に例えるのは、少々ずれている気がします。
ガードマンには社会的に認められた使命がありますが、疑似科学はそうではありません。
擬似科学を例えるなら、
「警官に変装してイタズラや詐欺をしている」 あるいは
「警官のコスプレをして本当の警官のつもり」
といったところでしょうか。
そのように見れば、「警察」が取り締まるのは当たり前ではないかという気がします。何も「警官」が「思い上がっている」などと勘ぐる必要はないでしょう。
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『生物と無生物のあいだ』に感動した読者が本書を読むと、そのアイディアが基本的にシュレーディンガーのものだということがわかるだろう。福岡氏もそれを認めていて、「原子はなぜそんなに小さいのか?」という問いを本書から引用している。そして生物が「負のエントロピーを食べて生きている」複雑系だという洞察も、本書のもっとも重要な結論である。
池田先生、解説で『生物と無生物のあいだ』が否定的に扱われていることはスルーですか、そうですか。
註1 ただし、第六章60節(145ページ以下)の「負エントロピー」という言葉は、その直後の原註にもかかわらず、やっぱり誤解を招きやすい言葉だ。なぜなら、今日の物理的科学には熱力学のエントロピーと通信工学に由来する情報理論のエントロピーという二種類のエントロピーがあって、この両者が分子生物学の大学教授などによっても、しばしば混同され過誤や混乱を助長しているからだ。私はたまたま最近(二〇〇七年)出版された通俗科学書のベストセラーものの一つに、この混同と過誤の誠に見事な標本を見つけたので、ここに引用する。
「シュレーディンガーは誤りを犯した。実は、生命は食物に含まれている有機高分子の秩序を負のエントロピーの源として取り入れているのではない。生物は、その消化プロセスにおいて、タンパク質にせよ、炭水化物にせよ、有機高分子に含まれているはずの秩序をことごとく分解し、そこに含まれる情報をむざむざ捨ててから吸収している。なぜなら、その秩序とは、他の生物の情報だったもので、自分自身にとってはノイズになりうるものだからである。」(講談社現代新書『生物と無生物のあいだ』150ページ)
しかも、「負のエントロピーを食べて生きている」というのは、まさに解説者が批判している部分なのですが。
ああ、そうか。池田先生は新書版を持っているので文庫版の方は実際には読んでないんですね。
これは失礼しました。
今ではゴミのような本ばかり出している岩波書店も、半世紀前には本書のような名著を出していたわけだ。岩波はもう新刊を出すのはやめて、古典と復刊専門の出版社になってはどうか。
この部分には同意。
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最高のサイエンス・ノンフィクション - 書評 - iPS細胞 ヒトはどこまで再生できるか?
これはすごい。今はなき「科学朝日」「サイアス」に連載していた頃の立花隆に匹敵する、いやそれ以上のインパクトだ。
それはトンデモだってことですか?
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「福耳コラム ケーキ」の件で。
口を出すつもりはなかったのだが、「「もう牛を食べても安心か」と「疑似科学入門」(1)」で書いたこととつながっているような気がして、色々考えているうちに、前に書いたことに関して弁明の必要があるような気がしてきた。
ということで、以下に書いてみる。
「「もう牛を食べても安心か」と「疑似科学入門」(1)」で、「リスク分析」を無条件に肯定しているかのような書き方になってしまっているが、それは私の本意ではない。
私は、いわゆる「リスク分析」の考え方が必ずしも唯一の合理的な考え方だという風には思っていない(それじゃあ、他にどんな考え方があるのだと聞かれると、明確な考えがあるわけではないのだが)。
そう受けとめられても仕方がないような書き方になってしまっているような気がするので、書き方が性急過ぎたと反省している。
私が福岡を批判したのは、福岡が「リスク分析」を退けるために、それが極めてポリティカルな方法論だから、という言い方をしているためであった。
ポリティカルだからダメだというのは、政治性を嫌悪し科学の純粋性を奉る、あまりにナイーヴでロマンティックな態度だと思う。
私が福岡を批判したときの主眼はそこにあったのだ。
元の「福耳コラム」のエントリに関しても、しごく大雑把に書いておく。
議論を追いきれてないので、検討外れなことを書くかもしれないが。
「経営学」の話と「災害時のトリアージ」つなげてしまったのがまずかったと思う。おまけに、「ボランティア活動」にまで話を広げてしまう人まで出てきたために、益々混乱してしまったように見える。
「感情に流されず合理的な行動を選択せよ」というのは一般的な議論としては正しいと思うのだが、「経営学」と「災害時のトリアージ」と「ボランティア」それぞれにおいて、何が「合理的」かは異なってくると思う。「トリアージ」において合理的な考えが、そのまま単純に他の領域に適用できるとは限らない。
件のエントリだと、「経営学」と「災害時のトリアージ」とで同じような考え方が適用できる主張している、と受けとめられてしまうような書き方になってしまっていると思う。
また、特定の領域においても、立場によって何が合理的な行動かは違ってくると思う。個々の行動する人間と、「政策」を決定する人間とでは、立場が異なるだろう。
議論が紛糾しているのは、そのあたりの混乱のためでもあるのではないかと思う。
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週刊文春「福岡ハカセのパラレルターンパラドクス」第一回。
福岡伸一、「茂木メソッド」実践中。
「茂木メソッド」とは、「時の人に接近し、関係をひけらかすことによって、自分自身を大きく見せようとすること」である。今、私が造った言葉である。
川上未映子が芥川賞受賞作「乳と卵」を書くために出版社にカンヅメになっていたとき、逃避行動としてスターバックスで「生物と無生物のあいだ」を読んでいたそうで、その縁で川上のパーティーに呼ばれたことを自慢げに書いております。
それはさておき。
そのうち、主人公の女性は、「わたくし」という存在が、ほんとうは奥歯の中に鎮座しているのでは、と思うに至る。
今日、「わたくし」は脳の中にある、と普通には考えられている。「わたくし」を心といってもよい。わたくし・心・自己は、脳というごく局限された場所にある。わたくしが感じ、心が動揺し、自己を実現したいのはすべて脳が作り出したはかないなにものかに過ぎない。
これが「わたくし」の脳局在論である。そしてここのところしばらく、ちまたは史上空前の脳ブームである。
(略)
だから川上さんはいう。例えば「わたくし」が奥歯の中にあってもいいじゃないか。「わたくし」率100%イン歯である。歯くらいなら実験できるかも。そして実際、小説の最後で、主人公はそれを確かめるべく歯を抜こうとする。ほんとうに「わたくし」が消えるかどうか見届けるため。あえて無麻酔で。
かがくにできないことをあっさり小説で行う。そして、「わたくし」とは脳が作り出した幻想であるという脳局在論を嗤っているのだ。局在論は何かを説明したことには全然ならない。そう、彼女はこういいたいのだ。脳ブームなんてそろそろ終わりだよ、と。あっぱれ、川上未映子。
なぜ「局在論は何かを説明したことには全然ならない」のか、全然説明になってませんな。
そもそも、その程度のことは、70年前に夢野久作が書いてるんだけどな。
福岡センセイ、「ドグラマグラ」読んでないの?
吾輩ポカンは断言する。「物を考える脳髄が、物を考える脳髄のことを考え得ない」ということは「二つの物体が、同時に、同所に存在し得ない」という物理掌上の原則と同様に、万古不易の公理でなければならぬ。だから「物を考える脳髄」のことを考える「物を考える脳髄」は、一番最初に脳髄を発見した科学者ヘポメニアスが、自分の脳髄の作用を錯覚した「脳髄の幽霊」に悩まされ続けて来たのである。そうして今やまさに、自分の脳髄の幽霊に取り殺されようとしている現状である。
だから吾輩……アンポンタン・ポカンはこれにたいして常々と挑戦したのである。
……物を考える処は脳髄ではない……
……物を感ずる処も脳髄ではない……
……脳髄は、無神経、無感覚の蛋白質の固形体にすぎない……
……こりゃあ怪しからん。諸君は何か可笑しくて、そんなに笑い転げるのだ。
……なんでソンナに往来を転がりまわるのだ。
なんだって交番に這い込むのだ。……電柱に抱きつくのだ……赤いポストに接吻するのだ。
……諸君は精神に異常を来たしたのではないか。
……ナニナニ……????……。
……「脳随で考えなくてドコで考える」というのか……。
……「脳随で感じなくてどこで感じる」というのか……。
……「われわれの精神意識はどこにある」……「われわはドウして生きている」というのか……。
……ナアンダ……。
チットモ可笑しい問題ではないではないか。不思議でもなければ、奇抜でもない。きわめて平々凡々の問題ではないか。
……パンツの泥を払え。
……シャッポを冠り直せ。
……クラバアツを正して聞け……。
われわれの精神……もしくは生命意識はドコにもない。われわれの全身のいたるところに満ち満ちているのだ。脳髄を持たない下等動物とオンナジことなんだ。
お尻を抓ればお尻が痛いのだ。お腹が空くとお腹が空くのだ。
すこぶる簡単明瞭なんだ。
しかしこれだけでは、あんまり簡単明瞭すぎて、わかりにくいかもしれないから、今すこし砕いて説明すると、われわれが常住不断に意識しているところのアラユル欲望、感情、意志、記憶、判断、信念なぞいうものの一切合財は、われわれの全身三十兆の細胞の一粒一粒ごとに、絶対の平等さで、おんなじように龍もっているのだ。そうして脳髄は、その全身の細胞の一粒一粒の意識の内容を、全身の細胞の一粒一粒ごとにもれなく反射交感する仲介の機能だけを受持っている細胞の一団にすぎないのだ。
科学者だって書いてるよ。
心はどの場所に存在するのでしょうか。脳の中に、という答えが、現代人なら一般的でしょう。けれども、意外に聞こえるかもしれませんが、他人に、という答えも十分可能だと思うのです。(略)
このような議論をすると、「心」の中身をそれ以上特定できていない点で、問題を先送りしていりようにみえるかもしれません。しかし、向き合った鏡の中の像のように、あるいは閉じた空間の中のこだまのように、無限に投影しあい、反響しあうのが、意識の実像です。自分と他人の間でお互いに他人を認知し合うところから、意識は発生するのであって、脳内にいきなり他から孤立した「意識の中枢」が出現するわけではないのです。
「<意識>とは何だろうか」下條信輔
大衆の人気者になりたい科学者が「文学」に媚びる姿は見苦しいですな。
| 夢野久作全集〈9〉 (ちくま文庫) 著者:夢野 久作 |
![]() |
「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤 著者:下條 信輔 |
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イタタタタ。
アイザック・ニュートンが書き記した、1枚の原稿が発見された!そこに記されていたのは、"地球滅亡の年"、「地球は、2060年に滅亡する!」。そしてその横には、暗号が・・・「ひと時とふた時と半時が始まった」。これは、一体どういう意味なのか?どのような根拠をもとに、2060年という数字を導き出したのか?そして、何より本当に地球は滅亡するのか?!
真相を探ってゆくと、ニュートンの知られざる顔が見えてくる。秘密結社、錬金術、異端者、浮かびあがる謎めいた記号。真相は、ダ・ヴィンチ・コードの延長線上にあった!
そして、ついに、2060年の根拠が明かになる!ニュートンは、科学のメスで人類のタブーを見つけ出してしまったのだ。それは、地球滅亡の法則。
「ダ・ヴィンチ・コードの延長線上にあった!」ってことは、デタラメの延長線上にあったってことですね。
夏にテレビでもやるそうです。
次。
青土社さん、これはひど過ぎます。
生命と非生命のあいだ―NASAの地球外生命研究 (単行本)
ピーター D.ウォード (著), 長野 敬 (翻訳), 野村 尚子 (翻訳)
過去にこれだけ同じようなタイトルの本があるっていうのに。
「生命と非生命のあいだ」アイザック・アシモフ
「生物と無生物のあいだ 」福岡 伸一
「生物と無生物の間」川喜多愛郎
原著のタイトルともかけ離れているし。
内容の方は面白そうだけど。
![]() |
ダ・ヴィンチ・コード最終解読 著者:皆神 龍太郎 |
| 生命と非生命のあいだ (ハヤカワ文庫 NF 24 アシモフの科学エッセイ 4) 著者:アイザック・アシモフ |
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タワレコで、DE DE MOUSE、ウリチパン郡のCDを購入。
DE DE MOUSEの方は、ウーン.......。
坂本龍一が80年代にアイドル歌手やアニメ用に書いた曲を単純化して、ちょっと下品にしたような感じ。
あんまり好きじゃないな。
ウリチパン郡。
こちらは素晴らしい。
曲の構造は複雑で、歪んでネジレているんだけど、親しみやすく、カラフルでポップ。
かなりいいです。
![]() |
ジャイアント・クラブ アーティスト:ウリチパン郡 |
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中央公論新社の「哲学の歴史 10」を読書中。
唯物主義者なので、解釈学について書いたものを読んでいるとムカムカしてしまう。
気分転換のために、戸坂潤の「偽装した近代的観念論」を読む。
解釈という以上、夫は無論事実の解釈のことである。事実がない処に、どんな意味の解釈もあろう筈はない。と共に、解釈を伴わず解釈を俟つことのない如何なる事実も無い、ということも亦本当だ。過去の歴史上の事実ならば、解釈の如何によって事実であるとも事実でないとも決定されようが、例えば実験上の事実に就いて、解釈の余地がどこにあるか、と云うかも知れない。自分自身が直き直きにぶつかった事実のどこが解釈に依っているかと云うだろう。けれどもそう云うならば、純粋な事実としての事実というものは実はどこにもないことになるので、あるものは恐らく単なる孤立した印象か何かでしかないことになる。事実ということは、そういう意味では、事実と解釈されたもののことに他ならない。解釈のないところには事実も亦あり得ない。
だから、問題が哲学などになれば況してそうであって、どんな哲学でも、解釈に依らず又解釈を通らずに、事物を取り扱うことが出来る筈はない。そういう意味では一切の哲学が解釈の哲学だと云っても云い過ぎではないのだ。元来事実の解釈ということは、事実が持っている意味の解釈のことであり、そして、事実はいつでも一定の意味を有つことによって初めて事実という資格を得るものだから(そうではない事実は無意味な事実だ)、事物間の表面からは一寸見えない連関を暴き、隠された統一を掴み出すべき哲学が、事実の有つだろう意味の在りかをつきとめるために、特にその解釈の力に於て勝れていなければならぬのは、寧ろ当然だろう。
だが実は、この解釈自身に、事実の持っている意味のこの解釈自身の内に、問題が横たわっているのである。実は云わば、自分自身を活かし発展させて行くためにこそ意味を有つわけであって、従って事実のもつ意味とは、専ら事実自身の活路と発展のコースとを指すものに他ならない。で、この場合大事なことには、夫々の事実の持っている夫々の意味は、あくまで夫々の事実自身に対して責を負うているのであって、従って事実は自分の有つ意味を一旦通って自分自身に帰着することによって、初めて事実として安定を得ることが出来るわけだ。意味は事実そのものに戻って来るべく、元の事実に向って責を果すべくあるのだ。だから事実の解釈はいつも、事実を実際的に処理し、之を現実的に変革するために、又そうした目標の下に、下される他はない筈なのである。現実の事物の実際的処理は、いつも事物の有つ意味の最も卓越した解釈を想定している。
処が他ならぬ「解釈の哲学」は、この解釈の機能そのものに於て躓くものなのである。ここでは解釈はこの本来の役割から脱線し、事実の実際的処置という解釈元来の必要と動機とを忘れて、専ら解釈としての解釈として展開する。と云うのは、事実の有っている意味が、もはや事実の意味であることを止めて、単なる意味だけとなり、かくて意味が事実に代行し、現実の事実は却って意味によって創造された事実とさえなる。こうした「意味」は意味の元来の母胎であった現実の事実自身の、活路や発展コースであることからは独立に、専ら意味自身の相互の連絡だけに手頼って、意味の世界を築き上げることが出来るようになる、ということを注意しなくてはならぬ。或る「意味」と他の「意味」とが連絡するのは、夫々の母胎である夫々の事実間の連絡を手頼りにしてであるべき筈だったのに、ここでは意味と意味とが、極めて、奔放に、天才的(?)に、短絡して了う。こうやって現実の代りに「意味の世界」が出現する。現実界はわずかに、この「意味の世界」にあて篏まる限りに於て、意味の御都合に従って、取り上げられ解釈されるだけである。――之が解釈哲学に於ける所謂「解釈」のメカニズムなのだ。ここで天才的(?)想像力や警抜や着想や洞察と見えるものは、実は狂奔観念や安直な観念連合や、又安易で皮相な推論でしかなかったのである。
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これまた、錯覚ネタです。
医学都市伝説 目を開いているのに閉じていると感じる錯覚作成法
まず、かろうじて光が入る暗めの場所を探す。私の場合はトイレの電気を付けなければ条件にあう事が判ったので、ドアの隙間から入る光でものの輪郭が判るようになるまで、5分ほど籠もる。ここで注意が必要なのは、ドアの隙間の光はかすかに判る程度で、初めからものが見えるほど明るくてはいけないというのと、真っ暗闇でもダメだという二点である。
暗順応が成立したところで右目を手でふさぎ、明るいところに出る。左目の明順応の方は一分もせずに完成するので、また先ほどの暗い場所に戻り、そこで両目を開く。右目は暗順応が成立しているので、何とか視力は保たれているが、左目ではドアからの光以外は何も見えない。
この時不思議なことに、単に左目が見えないと感じるのではなく、「左目は閉じられている」と感じるのである。さらに不思議なのが、ここで見えない左目を手で覆うと、目が閉じられていると言う錯覚は瞬時に消失することだ。「目を閉じているのではなく、手で覆っているから見えない」と、理屈で判断した結果だとは、ちょっと考えにくい。
さっそく、やってみました。
私の場合は、「左目は閉じられている」という感じとは微妙に違うような気がしました。
左目の方に黒い幕が半分かかってるような感じが数秒続いた後、パッと幕が消えるような感じがしました。
ところで、関係あるのかないのかよく分からないのだが、ウィトゲンシュタインが、「わたしは、片目をつぶったときに、視野の半分が真っ暗に見えないことの説明を聞いたことがない」というようなことを書いていたはず。
(「哲学探究」だと思ったのだが、見つけられなかった)
片目の前に手を置いて、段々目の方に近づけていくと、最後には手が「透明」になりますね。
これの説明も考えてみると面白いかも。
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kmiuraさんから、「佐藤優と<左派の崩壊>」にトラックバックいただいた。
「論文の公表後は左遷どころではなく社で問題になって辞めろ、といわれているらしい」とのこと。
岩波書店、腐ってるな。
出版社と<佐藤優現象> ということでは、以下の記事も興味深い。
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対談 脳を脱構築する。その先に脳科学の未来がある。 茂木健一郎 × 布施英利
布施 昨今の脳ブームの状況を見ていると、脳という言葉がある種、宗教用語になってしまっているような気がします。かつての宗教用語を使うとうさん臭いけれど、脳という言葉を使うと安心できるというような。茂木 科学のトレーニングを受けた人は、何か重要なことをステートメントする時に、必ず何らかの自己懐疑を含んだ形で言います。つまり、あることを言う時は仮説として言っているわけで、それが百パーセント正しいという押し付けはしないという態度を徹底的に叩き込まれます。でも昨今の脳ブームではそういう言い方はされていませんね。そのまま信じられて、まさに宗教的な機能を果たすようになってしまうんですね。
お前が言うな!
お前が言うな!
お前が言うな!
お前が言うな!
お前が言うな!
お前が言うな!
お前が言うな!
お前が言うな!
ハァハァ。
......申し訳ありません。取り乱してしまいました。
あまりにも厚顔無恥な発言を目にしてしまったので。
布施 僕が嘘っぽいと思うのは、答えがある人。たとえば、「プラス思考をすれば脳内ホルモンが出て幸せになれますよ」とか。人生には、答えなんてものはそもそもないはずです。とはいえ、脳には答えを求める性癖があるようにも思う。それは、一体何なんでしょうね。
それは、もちろん茂木に対する皮肉なんだよな?布施さんよ。
ところで、前から思っていたんだが、布施英利って「人気者になれなかった茂木健一郎」だよな。
茂木ほどずうずうしくなれなかったかったのだろう。
お気の毒様。
茂木 そうだと思いますよ。だから、最初に申しあげたように、脳というものを脱構築する必要がある。昨今の日本人論と同じで、日本人とはこうであると言った瞬間に“一丁上がり”になるわけで。「脳とは…」と言わず、別の主語を使えばいいんじゃないかな。
「脱構築」......。(ゲッソリ)
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「世界のだまし絵作家20人の傑作集」という副題がついていて、ダリやエッシャーはもちろん、もっと最近のアーティストも取り上げている。日本人では福田繁雄と北岡明佳の二人。
版形も大きく、カラー図版も豊富で、それだけでもうれしいのだが、さらにスゴイのは
「まえがき」が、ダグラス・ホフスタッター!
訳と「あとがき」が、坂根厳夫!
何か私の好みを思いっきり狙い撃ちしているような感じだ。
webとも連動していて、いくつかの作品は動画で見ることができる。
(ロードに若干時間がかかるので注意)
Masters of Deception:Escher, Dali & the Artists of Optical Illusion
この本に取り上げられているアーティストの中で、今回紹介したいのは、球体の表面に絵を書く、ディック・タームズ(DICK TERMES)という画家である。
球体に書いた絵の何が面白いんだって?
それは動画を見てもらえば分かる。
フル・スクリーンで見てほしいので、埋め込まずに直接YouTubeにリンクする。
コツは、球の表面を見ているということを忘れること。
そうすると、見ているうちに空間が歪む!
これは球じゃないけど。
もっと色々見たければ
ディック・タームズのホームページは以下。
| 錯視芸術の巨匠たち―世界のだまし絵作家20人の傑作集 著者:アル・セッケル |
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シュレーディンガーの『生命とは何か』が岩波文庫に入ったので、買って読んだんですけど。
何だ、読んでなかったのかよ、と言われそうなんですが、イヤ、新書版の方は昔読んで、今でも手元にあるんですけど。
じゃあ、なんでわざわざ買い直したかって言うと、文庫版向けに鎮目恭夫の解説が新しく追加されてまして、これが......。
長くなるので、後で書きます。
| 生命とは何か―物理的にみた生細胞 (岩波文庫 青) 著者:シュレーディンガー,岡 小天,鎮目 恭夫 |
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立見席で、柵に寄りかかって観賞。
Double Famous
インストの曲を2,3曲やった後、畠山美由紀が登場。
青柳拓次が在籍しているということ以外事前知識なしだったので、最後にメンバー紹介するまで誰かわからず、何か歌のうまい人だなあと思いながら観てました。
SAKEROCK
なぜか、SAKEROCKのライブを観るのはこれが初めて。
マリンバの早弾きでミスって最初からやり直したり、歌うのに夢中になってトロンボーンの出だしを間違って、これまた途中からやり直したりと、色々あったけれども、それすら笑いに転化されるという、勢いのある楽しいステージ。
細野晴臣
トリかと思いきや、ここで登場。
ビルボ-ドでのライブがダメだった(と本人がラジオでも言っていたし、今日のMCでも言っていた)ということで、心配していたのだが、ホソノさん、絶好調でした!
World Shynessの演奏は、後の方に行くにつれ、調子がよくなっていう感じ。
(ビルボ-ドでのライブのときに、もう解散しようと言ったそうで、今回は「解散後、初のライブ」ということでした。)
ホソノさんも、「Body Snatchers」「Pistol Packin’Mama」あたりは、かって見たことがないほどノリノリで歌ってました。
「はらいそ」が聴けたのもうれしかった。
ハナレグミ
「ホソノさんの後で、勝てるわけないじゃん!」と言って始めたけども、会場はとても盛り上がっていたので、立派にトリをつとめていました。
ギターの弾き語りとタップダンスを組合わせるという試みも面白かった。
ただ、私、ハナレグミって全然聴いたことなかったので、会場が一体感に包まれていくほど、こちらは疎外感が...。
まあ、MCも楽しく、歌もとてもうまかったので良かったですよ。
終始リラックスした雰囲気で、観客の反応も良く(後ろの方で騒いでたワカイモンは除く)、とてもいいイベントでした。
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「「もう牛を食べても安心か」と「疑似科学入門」」の続きを書く前にネットを巡回していたら、kom’s logで
金光翔さんはこの論文を書いたことで勤め先の岩波で叱責を受け、編集から校正に左遷されているようである
ということを知り、ビックリしている。
金光翔の論文はこちら。
実は、佐藤優に関してはちょっとだけ取り上げようと思っていて、『インパクション』もネタとして買ってあったのだが、このブログは政治的な話題をメインにしていないし、茂木健一郎やら福岡伸一やら江原啓之やらのせいで、そちらにリソ-スを食われてしまって、まだ準備が整っていない。
アンチナショナリズム宣言(cocolog) 続X12 週刊新潮に援護される岩波書店『世界』 佐藤優という泥沼
佐藤の言説は、難解な言葉と権威者からの引用に溢れている。たいした考えもなく行き当たりばったりで言葉を吐きまくる。更に検証不能な体験談などで埋め尽くされている。だから多弁な割に中身は陳腐で平凡。対談相手も見かけだけの佐藤に似たバカだからぼろが出ない。それを編集者や取り巻き達が隠したり賞賛したりして成り立っているのだ。
佐藤優に関しては、上の評言につきると思う。
こんな男と<連帯>しようとするなんて馬鹿げてる。
佐藤優批判に関しては、ネット上の言説も追いかけ切れてないし、私以外に適任の方がたくさんいらっしゃると思うので、あまり力を入れて書こうとは思わないのだが、<自称左派>としては黙ってもいられないので、取り急ぎこのエントリを書いてみた。
岩波書店に関しても、いくつか悪口を書こうとしていたところだったので(政治とは関係ない小ネタですけど)、そちらの方は近日中に。
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「やさしいバイオテクノロジー」で 池内了の 「疑似科学入門」が批判されている。
私も、この本を本屋で手にしたのだが、結局買わなかった。私にとっては、池内了というのは全く魅力の感じられない書き手なのだ。
しかし、読まなくても、この本がダメな本であることは分かる。
この本の中で展開されているBSEの話題はすべてと言い切っていいくらい「もう牛を食べても安心か」(ブルーバックス)に依存しています。
福岡伸一の「もう牛を食べても安心か」については、以前少し書いたことがある。(「福岡伸一は統計学の基礎を理解していない」)。
実は、「もう牛を食べても安心か」もちゃんとは読んではいないのだが、ちょっと目を通しただけでも、これが駄本であると断言することにためらいは感じない。
駄本に依存して書いた本が駄本になるのは当たり前である。
(ところで、「もう牛を食べても安心か」はブルーバックスではなくて、文春新書ですね。ブルーバックスから出ているのは「プリオン説はほんとうか?」の方)
以下、「やさしいバイオテクノロジー」の記述と、「もう牛を食べても安心か」に書かれていることを並べて見てみたいと思う。
福岡の文章の論理性の欠如ぶりを堪能していただきたい。
まずは、BSEのリスク分析について。
p160にもおもしろいことが書いてあります。
まずは、BSEのリスク分析について。
『アメリカの農務長官が「BSEの牛を食べてクロイツフェルト=ヤコブ病に罹るリスクは交通事故に比べて圧倒的に小さいのだから、あまり神経質になるのはおかしい」と述べたことがあった』
まっとうなリスク評価だと思うのですが、著者は『何かおかしいのではないだろうか』と疑問の投げかけています。
なんでなんかなぁ?
「もう牛を食べても安心か」の方を見てみよう。
では、リスク分析がいうところのリスクの数値化とは一体何か。それは端的にいって、死者の数である。狂牛病の問題に際して、食品安全委員会の専門調査会は、日本で汚染狂牛病肉を食べて死ぬ人間が出るとしても最大〇・九人と見積もった。これがリスクの数値化である。この数字自体、イギリスの狂牛病発生数、潜在的感染者数、日本で見逃されたかもしれない狂牛病数など極めて誤差の範囲が大きい推定数値を掛け算して求められた全くの概数でしかない。
死者の数の見積もり値が概数なのは当たり前である。
福岡は、それ以上の何を期待するのだろうか?「極めて誤差の範囲が大きい推定数値」と言うが、その根拠は何なのか?
「極めて大きい」「誤差の範囲」とは一体どの程度の誤差なのか?福岡は具体的な根拠は何一つ示さない。 (*2)
全ては福岡の主観的な判断でしかない。
しかし、議論はこれをもとに進むアメリカ産牛肉輸入解禁派はもっと小さい推定値を採用している)。そしていきなり、フグ毒と比較される。フグ毒に当たって死ぬ人間は、今でも年間数十人いる。それに比べると狂牛病のリスクは圧倒的に小さい。リスクの大きさからいって狂牛病はそれほど心配すべき問題ではないのだ。安全対策として危険部位の除去を行えばリスクは低減する。フグの卵巣を取り除くことと牛の特定危険部位を取り除くことは、安全対策上同じである、と。
「いきなり、フグ毒と比較」というのは、全く理解できない言い方だ。
なぜフグ毒と比較してはいけないのだろうか? (*1)
一体、福岡はBSEと何を比較すれば納得したのだろうか?
フグ毒と狂牛病病原体が同列に扱いうる"毒"ではないことは明らかである。プリオンは可変的で可動的で増殖を行うのだ。しかし、ここで驚かざるを得ないのはリスク分析思考が不可避的に体現しているある種の感性の欠如だ。それは政治的なものが示す感性の欠如と同種のちのである。歴史性や原因をすべて捨象して死者の数を比較する。ここにリスク分析の本質が如実に現れている。
「フグ毒と狂牛病病原体が同列に扱いうる"毒"ではない」ことは、(少なくとも私にとっては)全く「明らか」でない。(*1)
プリオンが「可変的で可動的で増殖を行う」からといって何だと言いたいのだ?
つまりリスク分析は極めてポリティカルな方法論なのだ。限られた予算をどのように分配するか、対立する利害をどのように調整するか。このような政治的問題を前に、本来甲乙つけがたいものに優先順位をつけ、本来線引きできないところに強引に線を引いて白黒をつける。それが政治であり、月齢で判断できる問題ではないにもかかわらず二〇ケ月齢以下の牛は全頭検査から除外してもリスクは増えないとした判断の正体がここにある。
リスク分析というのは政策を決定するための考えなのだから、「ポリティカルな方法論」なのは当たり前で、まさにそうあるべきなのだ。
「優先順位をつけ」「線を引いて白黒をつける」のが政治だというのは全く正しい。
政治の存在意義は元々そこにあるのだ。
それで、何がいけないのだろうか?
死者の数を比較し、フグ毒と狂牛病を比較する。死者の数だけを比較して物事を論ずるのであれば、年間一万人が死ぬ自動車事故に比べてすべてのリスクはたいしたものではなくなるだろう。リスク分析はあらゆる死者をフラットな数値に浄化してしまう。しかし、フグ毒で死ぬ人と狂牛病で死ぬ人は同じではない。これは実質的に同等ではない死者である。フグはある意味で時間の試練をくぐり抜けて私たちに納得されたリスクである。対して、狂牛病は人災であり、人為的な操作と不作為によって蔓延した、全く納得できないリスクなのだ。
一億数千万人に対して最大〇・九人ならば、自動車事故と比較するまでもなく、きわめて確率の低いものではないか?
また、「あらゆる死者をフラットな数値に浄化してしま」って何が悪いのだろうか?
国民の安全に関わる政策を考える人間が、死者の数を重視するのは当たり前ではないか?
「フグ毒で死ぬ人間は昔からいるのだから、重く考える必要はない」ということだろうか?
福岡は、フグ毒で死んだ人間の家族の前で、同じことが言えるのだろうか? (*1)
人間が見慣れたものより未知のものの方により恐怖を覚えるのは自然なことである。
そのような性質は人間の性質が形作られた過去においては淘汰上有利だったのであろう。
だが、人間は科学によって合理的に判断する術を手にしているのだから、いつまでも原初的な感覚のみに従って判断をしているわけにはいかないのである。
個人個人が自分たちの死についてどう判断するかはともかく、不特定多数の人間のための政策を考える立場にある人間ならば、合理的な判断を第一に優先すべきなのだ。
リスク分析は現状を受け入れてその順位づけと線引きを行うことしかできず、リスクのもつ歴史的な意味を解読する力はない。リスク分析は現状を改革する熱意もその力も待ち合わせてはいない。
しかし、狂牛病が私たちに問いかけているものはまさにこのことなのである。いかに現状を改革し、いかに損なわれた平衡の回復を求めればいいのか、それを狂牛病は問いかけているのである。
結局、福岡は死者の数よりも、「平衡の回復」の方に興味を持っているのだ。
福岡が「平衡の回復」に興味を持つのは勝手だが、我々が福岡の趣味に付き合わなければならない義理はないのだ。
(追記 2008.5.16)
(*1)フグに関しては、個人が危険性を承知して食べるのだし、フグ毒に対して国が何か積極的に対策をとる必要はない。
そういう観点からすれば、「フグ毒で死ぬ人と狂牛病で死ぬ人は同じではない」と言えるかもしれない思う。
だが、BSEを「人災」扱いするのは、やはり不適切だと思し、BSEを過剰に危険視するのも不合理であると思う。
(*2)前の方のページで、いくらか根拠を述べていたので(説得力があるかは別として)、削除。
(追記 2008.5.25)
「感情と合理性 ~若干の弁明~」の方も参照ください。
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それにしても、「ライフハック」が「やる気第一」の精神主義に変質してしまうのはなぜなんですかねえ。
ライフハックが好きな人達って、やる気さえあればバリバリ仕事をこなせると思い込んでいるような。
「ナルホドッ! これなら能率が上がるぞ! やる気出た!」と喜ぶところで終わっちゃってるような。
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そもそも、「キーワード」で検索してすぐ見つかる情報なんて大したもんじゃないと思うんだけど。
重要なのは、情報それ自体よりも、情報と情報の関連であって、体系化された情報を持っているということが「知識を持っている」ということだ。
本当は、「知識」がなければ、適切な「情報」を検索することだってできない。
「知識」がなければ、何が「キーワード」であるかすら判断できない。
知らない言葉が出てきたら、それを検索して説明を見つけるのは簡単だ。
だが、同じ言葉が違う概念を指していることもあるし、逆に、違う言葉が同じ概念を指していることもある。
適切な「キーワード」を判断して、自分が求めている「情報」を見つけるには、あらかじめ自分の頭の中に、ある程度の「体系」が存在しなければならない。
グーグル自体は、アクセス数やリンクの数などの体系化された統計情報や有用な情報を見つけ出すための論理を持っているかもしれない。だけど、検索する人間に与えられるのは、結果だけだ。
統計的な情報は、情報の間の外的な関連を教えてくれるだけで、情報の内的な関連を教えてくれない。
私たちが知りたいのは情報の内的な関連なのだ。
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アンカテ(Uncategorizable Blog) グーグルによってフラット化される世界の唯一の例外
あらゆるジャンルのあらゆる「知」が「万人に開かれ」て、梅田さんが書いているような知的生産術の効率のみによるフラットな競争によって全てが決まるようになっていくのは間違いないでしょう。具体的な知的生産術の方法論には異論があるかもしれません。でも、これが全ての人に平等にオープンになってきていることに反論する人は少ないと思います。
「知的生産術の効率のみによるフラットな競争によって全てが決まるようになっていく」なんて思いませんけどね。
「グーグルで検索すれば、どんな情報でも見つかるから、みんな平等だ」なんていうのは、「みんなが英語の辞書を持てば、自由に英語の読み書きができるようになるから、英語を学習することなど無意味になる」って考えるようなもんだと思うけど。
仮に、今まで専門家が独占していたような情報にも一般の人間が簡単にアクセスできるようになったとしても、それで専門家と素人の違いがなくなるわけじゃない。
専門家が素人と違うのは、特殊な知識や大量の知識を持っているということではなくて、その分野特有の考え方や体系的な知識を身につけていること。それを身につけるのには、それなりの投資が必要だという平凡な事実は、グーグルがいくら発達したところで変わらないだろう。
知の世界は、これまで山や川や平原といった多種多様な地形があって、その地形の変化は目に見ることができないほどゆっくりなものでした。それがこれからは、海のようにフラットになるのだと思います。海は、近くで見れば平らではなくて、大小さまざまの波がありますが、その波の作り出す地形は目まぐるしく変化します。一瞬だけ屹立する大波はありますが、次の瞬間にはその波は消えさってしまいます。
いくら情報検索の手段が発達しても、それは「平地」を速く遠くまで走ることができるようになるというだけの話。
「山」がなくなるわけじゃない。
グーグルによってなくなるような「山」は、もともと「山」なんかじゃなかったのだし、グーグルによって淘汰されるような「専門家」は、もともと「専門家」じゃなかったのだ。
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「何か読んだら、自分で要点をまとめとけ!」
「まとめたやつはネットで共有しとけ!」
という程度の「知的生産術」に
啓発された!
元気をもらった!
気づきだ!
ライフハック(笑)だ!
と感激する人間がこんなにたくさん存在するというのは、どうも理解に苦しみますな。
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あけてくれ - おれカネゴンの「算数できんのやっぱり気にしすぎとや」日記
「オルガスムスのウソ (文春文庫)」という本の冒頭で見かけた「盲目の時計職人」という言葉の意味がどうしてもわからず、たまらずググるとあのリチャード・ドーキンスの本のタイトルだった。
ドーキンスはどうやら「目的を持たないのにものすごく精密なものを作り出す」進化というものを比喩で表そうとしているらしいのだけど、カネゴンの中では「盲目」と「目的を持たない」がどうしてもつながらないどころか、「盲目のハガキ職人」という全然関係ないことを思いついてしまう始末【いつでも迷走おれカネゴン】。
「盲目」ではなく「盲滅法」ならわかる。「盲滅法な時計職人」の方が賑々しくてカネゴンこっちの方がよいと思うのだけど、ドーキンスとしてはこういうのは許し難かったりするのだろうか【無礼で討たれるおれカネゴン】。
それとも本当は「白痴の時計職人」とか「自閉症の時計職人」としたかったのだけど、ちょっとしたことでキーキー騒ぐ世間の目を欺くためにしぶしぶ半端な比喩を選んだのだろうか。それなら無難なところで「ちょっとタリない時計職人」というのはどうだろう【激しく足りぬおれカネゴン】。
それともドーキンスを含む西欧の南蛮人たちは、数千年も続いた目的論(=あらゆるものには目的があるという考え方)にすっかり毒されてしまっていて、30年ほど生物学を研究したぐらいでは「目的を持たないのものが精密で壮麗な生命システムを構築する」という不気味な様を的確に比喩で表すことができず、生物機械論っぽいたとえから離れたくても離れることができなかったりするのだろうか。
「盲目」で何がまずいのか、よく分からないな。
ペイリーは、生命のからくりにメスを入れ、美しくも敬虔なる記述で描写することによって自分の論点を明確にしている。彼は、ヒトの眼の話から説き起こしているが、それは後にダーウィンのお気に入りの例となり、本書でもあちらこちらに顔を出すだろう。ペイリーは眼を望遠鏡のような設計された道具と比較し、「望遠鏡が視覚を助けるためにつくられたということが自明であるのとまったく同じように、眼が視覚のためにつくられたということが証明できる」と結論する。望遠鏡にデザイナーがいたのとまさしく同様に、眼にもそのデザイナーがいたはずだというわけである。
ペイリーの議論には熱意のこもった誠実さがあり、当時の最良の生物学的知識がこめられている。
にもかかわらず、それは間違っている。みごとなまでに完全に間違っている。望遠鏡と眼、時計と生きている生物体とのアナロジーは誤りである。見かけとはまったく反して、自然界の唯一の時計職人は、きわめて特別なはたらき方ではあるものの、盲目の物理的な諸力なのだ。本物の時計職人の方は先の見通しをもっている。心の内なる眼で将来の目的を見すえて歯車やバネをデザインし、それらを相互にどう組み合わせるかを思い描く。ところが、あらゆる生命がなぜ存在するか、それがなぜ見かけ上目的をもっているように見えるかを説明するものとして、ダーウィンが発見しいまや周知の自然淘汰は、盲目の、意識をもたない自動的過程であり、何の目的ももっていないのだ。
自然淘汰には心もなければ心の内なる眼もありはしない。将来計画もなければ、視野も、見通しも、展望も何もない。もし自然淘汰が自然界の時計職人の役割を演じていると言ってよいなら、それは盲目の時計職人なのだ。『盲目の時計職人』リチャード・ドーキンス
ついでに言っておくと、「白痴」だって「自閉症」だって、ちゃんと「目的」を持ってると思うけどね。
(「盲目」だって目的を持ってるだろ、と言われたらその通りであるが、まあ、これは比喩だしなあ。)
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これはヒドイ。
「被害者意識」というマインドが含有している有毒性に人々は警戒心がなさすぎるように思える。
以前、精神科医の春日武彦先生から統合失調症の前駆症状は「こだわり・プライド・被害者意識」と教えていただいたことがある。
「オレ的に、これだけはっていうコダワリがあるわけよ」というようなことを口走り、「なめんじゃねーぞ、コノヤロ」とすぐに青筋を立て、「こんな日本に誰がした」というような他責的な文型でしかものごとを論じられない人は、ご本人はそれを「個性」だと思っているのであろうが、実は「よくある病気」なのである。
統合失調症の特徴はその「定型性」にある。
まるで、「統合失調症は被害者意識のせいで病気になったのだ」とか「統合失調症は被害者意識があるからダメなのだ」と言っている様に読めてしまう。
統合失調症患者の「こだわり・プライド・被害者意識」は病気の結果であって、「こだわり・プライ