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2008年5月15日 (木)

盲目の時計職人

あけてくれ - おれカネゴンの「算数できんのやっぱり気にしすぎとや」日記 

「オルガスムスのウソ (文春文庫)」という本の冒頭で見かけた「盲目の時計職人」という言葉の意味がどうしてもわからず、たまらずググるとあのリチャード・ドーキンスの本のタイトルだった。

ドーキンスはどうやら「目的を持たないのにものすごく精密なものを作り出す」進化というものを比喩で表そうとしているらしいのだけど、カネゴンの中では「盲目」と「目的を持たない」がどうしてもつながらないどころか、「盲目のハガキ職人」という全然関係ないことを思いついてしまう始末【いつでも迷走おれカネゴン】。

「盲目」ではなく「盲滅法」ならわかる。「盲滅法な時計職人」の方が賑々しくてカネゴンこっちの方がよいと思うのだけど、ドーキンスとしてはこういうのは許し難かったりするのだろうか【無礼で討たれるおれカネゴン】。

それとも本当は「白痴の時計職人」とか「自閉症の時計職人」としたかったのだけど、ちょっとしたことでキーキー騒ぐ世間の目を欺くためにしぶしぶ半端な比喩を選んだのだろうか。それなら無難なところで「ちょっとタリない時計職人」というのはどうだろう【激しく足りぬおれカネゴン】。

それともドーキンスを含む西欧の南蛮人たちは、数千年も続いた目的論(=あらゆるものには目的があるという考え方)にすっかり毒されてしまっていて、30年ほど生物学を研究したぐらいでは「目的を持たないのものが精密で壮麗な生命システムを構築する」という不気味な様を的確に比喩で表すことができず、生物機械論っぽいたとえから離れたくても離れることができなかったりするのだろうか。

「盲目」で何がまずいのか、よく分からないな。

 ペイリーは、生命のからくりにメスを入れ、美しくも敬虔なる記述で描写することによって自分の論点を明確にしている。彼は、ヒトの眼の話から説き起こしているが、それは後にダーウィンのお気に入りの例となり、本書でもあちらこちらに顔を出すだろう。ペイリーは眼を望遠鏡のような設計された道具と比較し、「望遠鏡が視覚を助けるためにつくられたということが自明であるのとまったく同じように、眼が視覚のためにつくられたということが証明できる」と結論する。望遠鏡にデザイナーがいたのとまさしく同様に、眼にもそのデザイナーがいたはずだというわけである。
 ペイリーの議論には熱意のこもった誠実さがあり、当時の最良の生物学的知識がこめられている。
にもかかわらず、それは間違っている。みごとなまでに完全に間違っている。望遠鏡と眼、時計と生きている生物体とのアナロジーは誤りである。見かけとはまったく反して、自然界の唯一の時計職人は、きわめて特別なはたらき方ではあるものの、盲目の物理的な諸力なのだ。本物の時計職人の方は先の見通しをもっている。心の内なる眼で将来の目的を見すえて歯車やバネをデザインし、それらを相互にどう組み合わせるかを思い描く。ところが、あらゆる生命がなぜ存在するか、それがなぜ見かけ上目的をもっているように見えるかを説明するものとして、ダーウィンが発見しいまや周知の自然淘汰は、盲目の、意識をもたない自動的過程であり、何の目的ももっていないのだ。
自然淘汰には心もなければ心の内なる眼もありはしない。将来計画もなければ、視野も、見通しも、展望も何もない。もし自然淘汰が自然界の時計職人の役割を演じていると言ってよいなら、それは盲目の時計職人なのだ。

『盲目の時計職人』リチャード・ドーキンス

ついでに言っておくと、「白痴」だって「自閉症」だって、ちゃんと「目的」を持ってると思うけどね。
(「盲目」だって目的を持ってるだろ、と言われたらその通りであるが、まあ、これは比喩だしなあ。)

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