福岡伸一 vs. ダーウィニズム(2)
福岡のダーウィニズムに対する攻撃はさらに続く。
さらにいえば、たとえば視覚が進化の過程でどのように生まれたかを考えてみると、ダーウィニズムの最大の問題点が浮かび上がります。眼は、光を集めるためのレンズ(水晶体)、像を映すための網膜、その背後にあるたくさんの神経線維が脳細胞につながって……という風にさまざまな部位が組み合わさってできている。何億年もかけて試行錯誤して、少しずつ改良していけば、そういう複雑な機能もできるというのがダーウィンやその後継者であるドーキンスの考え方です。彼には『ブラインド・ウォッチメイカー』という著作があるんですが、眼の見えない時計職人でも、非常に長い時間をかけて部品をいじっていれば、いつかは時計を組み立てることができる、それと同じだというわけです。ところが視覚というのは、さきほど言った部位が一斉に揃わないと成り立たない。水晶体だけが改良されてもダメだし、網膜だけが改良されてもダメなのだから、「進化の過程でだんだん眼が見えるようになる」なんてことはありえない。眼が眼として機能しない以上、それが有利な形質として自然選択されようがないから、そこへ向けた進化も生じないはずです。そこにダーウィニズムの単線的な考え方の落とし穴があります。もっと複合的な要因が働いていると考えなければいけないのでしょうね。
アホか、と言うしかない。
ドーキンスは、他ならぬ『ブラインド・ウォッチメイカー』(『盲目の時計職人』)の中で、ダーウィニズムに対するそのような批判に対して明確な回答を提出しているのである。
こうした注目すべき論議は、おそらく、人びとがその結論を信じたがっているからだろうが、かなり頻繁にみられる。「ほんのちょっとした間違いが生じると……焦点合わせが狂ったりすると、はっきりした像ができなくなる」という意見を検討してみよう。あなたが眼鏡ごしにこうした言葉を読んでいる確率は、まず五分五分といったところだろう。その眼鏡をはずして、あたりを見まわしてほしい。どうだろう、あなたは「はっきりした像ができなくなる」というのに同意するだろうか? あなたが男性なら、色盲である確率はおよそ十二分の一である。またあなたが乱視であってもおかしくない。眼鏡をはずしてしまうと、視界が霧でもかかったように霞んでいるということだってないわけではないだろう。今日のもっとも卓越した理論進化学者の一人は(まだナイトの爵位は受けていないけれども)、めったに自分の眼鏡を拭かないので、おそら彼の視界はいずれにせよ霧がかかったようにぼんやりしているだろう。それでも彼はべつだん支障がないようだし、その彼自ら語ったところでは、いつも下手くそなスカッシュを片目でやっていたという。あなたがもし自分の眼鏡を紛失してしまったら、通りで友人に出会ってもそれと気づかずに彼らをあたふたさせることになるかもしれない。しかし、誰かが、「きみの目はいまは完全じゃないのだから、眼鏡が見つかるまではしっかり目を閉じたまま歩きまわっていても同じだろう」なんて言ったりしたら、あなたはそれこそ動揺するだろう。ところが、私が引用した一節を書いた著者が示唆しているのは、本質的にそういうことなのだ。
彼はまた、水晶体や網膜が互いに単独では機能しないというのが、あたかも自明であるかのように述べている。何を根拠にそう言うのだろうか? ある私の縁者が白内障で両眼を手術したことがある。彼女の眼にはまったく水晶体がない。眼鏡がなければ彼女はテニスをすることも、ライフルで狙い撃つこともできなかった。しかし彼女は、眼がまったくないのより水晶体のない眼をもっている方がずっと便利よ、と私に請け合っている。壁に向かっているのか人に向かっているのかぐらいはわかるだろう。野生の生物なら、きっと水晶体がなくともその眼を便って、捕食者のぼんやりした姿や、それが接近してくる方向を探知することくらいはできるはずだ。太古の世界にあっては、まったく眼をもたない生物もいれば水晶体のない眼をもつ生物もいただろうが、その水晶体のない眼をもつ生物はあらゆる面で有利であっただろう。ゆらゆらするぼやけた像から人のじつにはっきりした視覚像へというイメージの鮮明さの、一歩ずつはささやかな改善の連続的なX系列が存在し、生物体の生き残る機会をおそらく高めることになっただろう。
(略)
五パーセントの視覚も、まったく視覚を欠いているのよりはましである。五パーセントの聴覚だってまったく聴覚を欠いているのよりはましである。五パーセントの飛翔能力だってまったく飛べないのよりはましである。われわれが現実に見ることのできるあらゆる器官や装置は、動物空間を通り抜けた滑らかな軌跡の産物であり、その軌跡上のあらゆる中間段階も生存と繁殖の一助になっていたと、すっかり信用することができる。現に生きている動物に、X、つまり一段階の偶然ではとうてい生じないほど複雑な器官が見られるばあいはいつでも、自然淘汰による進化理論によれば、Xの一部分があればまったくXを欠いているよりはましだということにほかならない。さらに、Xの二つの部分はその一つの部分よりもましであり、X全体はその十分の九よりはましであるにちがいない。こうした言いまわしが、眼、こうもりのものを含めた耳、翼、昆虫の擬装や擬態、ヘビの顎、毒針〔刺毛〕、カッコウの托卵習性、さらに反進化論の宣伝活動で持ち出されるその他ありとあらゆる例についても成り立つということを認めるのに、私には何のためらいもない。こうした言いまわしが成り立たない想像上のXや、中間段階がその先行体の改善にならないような想像上の進化的経路が数多く考えられることも、疑いのないところだ。しかし、そのようなXは現実の世界には見いだされない。
福岡は本当に『ブラインド・ウォッチメイカー』を読んだのだろうか?
ドーキンスがダーウィニズムへの批判の典型的な例として取り上げ反論している主張をわざわざ持ち出してダーウィニズムを批判しようとしているのだから、全く分けがわからない。
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盲目の時計職人 著者:リチャード・ドーキンス |
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