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2008年8月

2008年8月31日 (日)

福岡伸一とプレミアム・モルツ

ついでに、もう一つ福岡伸一センセイのお勧めを。
福岡センセイはサントリーのプレミアム・モルツの雑誌広告に出演されてまして。

Image0142

そこから名言の数々を引用してみましょう。

福岡 生命現象は一回限りのものですから、全く同じように再現するのは不可能です。我々の研究室でも、例えば実験にマウスを使う場合、遺伝的なバックグラウンド一定の個体を選びます。そして慎重に進めても、結果には予想以上のズレが生じる。生命現象は、一回限りのプロセスで起きているからです。そういう背景を知っているから、生き物である酵母を使って、一般的に毎回同じと感じさせる味のビールをつくるのは、非常にチャレンジだと理解できるんですね。

福岡 ICチップを組み立てるように、完全な再現性があるわけではない。でも、我々が飲むと毎回、同じようにおいしいビールが出来上がる。同じことを繰り返すのではなく、結果をそろえるためにプロセスを変えることもあると思います。だから私は、ビールづくりにもクラフトマンシップを感じる。

福岡 ザ・プレミアム・モルツの原料は麦芽、ホップ、水だけ。シンプルなだけに、ごまかしが利かないという印象です。

福岡 要素還元主義は、指標が明確だから効率的なんだと思います。でもそれだけでは、ザ・プレミアム・モルツのように、人を感動させるビールはできない、と。非常に気高い理念を感じますね。

福岡 煮沸するとアミラーゼの働きは止まりますが、ほかの現象が起きているはずです。生命現象をリスペクトしながら、巧みに取り入れているから、香りだけでなく苦みも甘みもいろんな要素が一つになった、ほかとは違うおいしさが生まれるのでしょう。私も仕事の後によくビールを飲みますが、ザ・プレミアム・モルツだけは、ブラインドテストをしても分かるくらい特徴が明確。まず苦みが走り、ほのかな甘みと深い旨みも感じられて、後味はすっきりしています。つい、おかわりをしたくなる。

そう言えば、福岡センセイは以前こんなことを書いていたような。

専門家は遺伝子組み換え作物がそれほどコストダウンにつながらず、まして食料危機を救えるものでもないことを知っている。専門家は、クローン動物を極めて不安定な試行錯誤の上で稀に生じる見かけ上のものであることを知っている。専門家はサプリメントがほとんど効果のないことを知っている。専門家は臓器移植が唯一の延命法でないことを知っている。専門家は侵襲的な処置を何もしないほうがガン患者とって幸福であることを知っている。それを言わないのが職業上の倫理感だ。言えば自分たちのナイーヴすぎる意図やポリティカルな志向がたちまち露呈する。

気鋭の分子生物学者が缶ビールを褒めていても信用するなってことですよね。分かります。

完全に中立的な専門家などいないからだ。専門家は職業であり、彼らはそのテクノロジーが広まることで糊口をしのいでいる。だから常に彼らはある選択肢に関して、リスク対ベネフィットの説明に一定の省略を行い、何らかのインセンティブを設けて、そのテクノロジーを受け入れる方向に誘導する。

その実例を見せていただきました。
ありがとうございます。

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「動的平衡=非平衡」?

三中信宏のところに行ってガク然としたんだけど。
蔵本由紀の『非線形科学』の画像があって、そこに映っている帯にこんな文字が。

「福岡伸一氏推薦!!」

「絶え間なく交換される分子の流れにすぎない生命が、なぜ、秩序を維持できるのか?
それを解く「鍵」が、ここにある!」

Nonlinearscience_5   

「福岡伸一氏推薦」ねえ・・・。

福岡センセイの本を読んで、生命の本質は「動的平衡」ってことだ!とか思っちゃった人が蔵本の本を読んだら混乱すると思うけどね。
だって、生物は「非平衡開放系」だ、って書いてあるんだから。
福岡センセイに聞いたら、どう答えるのかな。
「動的平衡」っていうのは「非平衡」ってことなんだよ、って言うのかな。
それとも、あっちの「平衡」とこっちの「平衡」は、同じ言葉を使っているけど、全然別のことなんだよ、とでも言うんですかね。

「絶え間なく交換される分子の流れにすぎない生命が、なぜ、秩序を維持できるのか?」って言うのも何か変な言い方だな。
蔵本の本に書いてあるのは、流れから生まれる秩序、ってことで、「流れにすぎないのに」ではなく「流れだからこそ」秩序が発生する、ってことなんだから。

福岡伸一に蔵本由紀の本を推薦する資格があるんだろうか。
まあ、よしもとばななが福岡伸一の本を推薦するようなものですかね。

非線形科学 (集英社新書 408G) (集英社新書 408G) Book 非線形科学 (集英社新書 408G) (集英社新書 408G)

著者:蔵本 由紀
販売元:集英社
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2008年8月29日 (金)

I AM ROBOT AND PROUD 日本ツアー

新作が出ると思ったら、さっそく日本ツアーの話が。

http://andrecords.exblog.jp/8520438/

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マイケル・ハート×茂木健一郎 対談

対談:マイケル・ハート氏・茂木健一郎氏 <帝国>と脳科学の出合い

うわあ、中身の薄い対談だな。
ほとんど、世間話レベル。
わざわざ日本までやってきて、こんな対談しなくちゃならないなんて、お気の毒。
マイケル・ハートなんて興味ないから、どうでもいいけど。

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2008年8月27日 (水)

私の近況

最近は小ネタ続きの当ブログですが、福岡伸一批判の方はあれで終わりにするつもりは毛頭ございませんので。
暑い間は何もする気が起きなくなってましたが、涼しくなってきたのでシコシコとネタを収集しております。

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黒田硫黄の新刊、出た!

「あたらしい朝」第一巻発売。

あたらしい朝 1 (1) (アフタヌーンKC) Book あたらしい朝 1 (1) (アフタヌーンKC)

著者:黒田 硫黄
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

中身の方はまだ読んでないけど、黒田硫黄なんだから面白いに決まってる。

最後のページに近況が書いてあって、PVS(色素性絨毛結節性滑膜炎)という病気でヒザの大手術をするとのこと。
かなり珍しい病気のようです。
今まで何の病気かも分からなかったので、やっと情報が出てきて、とりあえずホッとしています。

近況については、こちらの方でも。

黒田硫黄の仕事

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2008年8月25日 (月)

ウォルター・ベッカー

新作が出たと言うことで(まだ、聴いてないけど)。
前から似てると思ってたんだ。

Becker
ヒゲと眼鏡だけだろ、と言われると返す言葉がないのだが。

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ウザいオリンピックがやっと終わった

私も疑問を感じます - 非国民通信

『なでしこジャパン』ってそんなに変?   想像力はベッドルームと路上から

私は、スポーツに対する興味がほとんどゼロに近い人間である。
今回のオリンピックも、テレビで観た時間は、全部足しても10分以下だと思う。
何か、欽ちゃん走りの人が世界新を出したというのは知っているが、その映像も見ていない。
私が真剣に観た最後のオリンピックはロス五輪である。
いつの話だよって感じだが。
おまけに、私は、日本が金メダルをいくつ取ろうが、そんなの知ったこっちゃねー、という非国民でもある。
と、予防線を張っておいた上で。

「なでしこジャパン」って、ダッセー

ああ、スッキリした。
前から言いたかったんだけど、いい機会なので、今言ってみました。
「なでしこジャパン」って初めて聞いたときも、何?そのシブがき隊チックなネーミングって思いましたけど。

サムライ・ニッポン   シブがき隊

念のために断っておきますが、これは単なる私の趣味の表明であって、政治的な意図はありません。
「なでしこジャパン」というネーミングが民主的に決められたもの、とか、特定の思想の押し付けかどうか、なんてことは全く興味がありませんので。
スポーツに興味がない人間のタワゴトだと思って、軽くスルーしてください。

サムライついでに言うと、「サムライ・ブルー」っていうのも相当ダサイと思う。

ところで、「○○ジャパン」っていうのは、一体何なんですかねえ。
違和感っていうことでは、こっちの方がよっぽど違和感があるな。
「星野ジャパン」だの「反町ジャパン」だの。
実際にプレイするのは選手だぜ?
選手の主体性は無視ですか?
フツーに「日本代表チーム」って言えばいいじゃん。
他の国って、どうなってるんですかね。
例えば、アメリカの人間が「○○USA!」とか言って自分の国のチームを応援しているところを想像すると、スゲー気持ち悪いんだけど、私だけですかね?

そう言えば、高校野球で監督が変に持ち上げられるのも気持ち悪かったな。
今はどうなのかよく知らないけど、昔の蔦監督とか(また、古いネ)。
それで、組織論なんかに絡めて語られた日にはウザさ倍増。

と言うわけで、ウザいオリンピックがやっと終わって、ホッとしたのですよ。

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2008年8月22日 (金)

I am Robot and Proud新作

I am Robot and Proudの新作が9月17日に出るそう。

http://www.myspace.com/iamrobotandproud

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Googleの中の人

WIRED VISIONブログ Googleの偉大さと傲慢さ(後編)

Google は「世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにすること」を使命にしています。また Google には "Don't be Evil" という有名なモットーもあります。

当方の杞憂であればよいのですが、上記の Google 社員による不用意な発言を読むにつけ、「世界中の情報を整理して検索できるようにする」という使命に忠実であり、それを強力に推進すれば、自ずと "Don't be Evil" も満たされると思い違いしているのではないかと不安になります。

私の頭の中の「Googleの中の人」のイメージは、「地頭力はあるが、社会性はない」という感じにまとまりかけている。

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2008年8月21日 (木)

Berlitz

とりあえず、マリッサ先生は胸の前で両手を振るのを止めておいたほうがいいと思う。
(たぶん、首都圏在住者の一部にしか分からないネタ。申し訳ない。)

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「感性を疎外しない」好き

ARTIFACT@ハテナ系より。
あまりに素晴らしいのでコピペせずにはいられない。

730 :名称未設定:2008/04/30(水) 11:36:28 ID:UtIvXNMR0

ぼくもMacBook Airを使い始めて日が浅いけど、

Airは、ここから見える庭のハーブたちのような存在になってきた。

バッテリーや、つかいこなしとか詳しいことはわからないけど、

ハーブたちへの水やりのような、そんなたおやかな付き合い方を

していけばいいんじゃないかと思った4月の終わり。

まだまだ自分の表現をAirに向き合って孤軍奮闘しているけど、

いつかコイツが透明なメディウムになって、

ぼくの自然な感性を阻害しない存在へと飛翔してくれるとうれしい。

ぼくらは、まだ情報を集めたり書いたりする途上にいるのだなと感じるよ。

コンピューターが植物化していく未来を思い描くにはまだ早いけどね。

あ、パリの彼女からiChatが入った。すこし語りすぎたようだ。

ここに接続しているみんながAirによって幸せになることを願っている。

やがてバッテリーが少ないことがぼくら生活の物差しになって、

周囲の風景が変容していくんだ。
                                                   
こう考える人生っていいよね。

世の中には文才のある人がいるのだなあ、と思った。
これに比べたら、私の女子高生文体模写なんか全然ダメだ。

私の脳内設定では、このMacファンは「茂木健一郎ファン」ということになっています(笑)。

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『小山田圭吾の中目黒ラジオ』

今晩11時から。
お聴き逃しのなきよう。
12時からは『小山田圭吾の中目黒ラジオ セレクション』もあるので、こちらも。

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2008年8月20日 (水)

ここでも夢のコラボが

で、イームズのDVD BOXセットに入っていたチラシにこんなことが。

ブレインマン
リアル・レインマン


封入特典:脳科学者・茂木健一郎、精神科医・斎藤環書下ろしの解説ブックレット

もう誰も話題にすることもなくなってしまった「往復書簡」の二人の夢のコラボです。
それにしても、一応「脳科学者」のモギケンはともかく、ラカン派精神科医の斎藤がサヴァン症候群と何の関係があるのかサッパリ分かりません。

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渋谷へ

祐天寺の某古書店で戸川昌子2冊を買ってから、渋谷へ。
東急の古書セールを覗くが、とくに収穫はなし。
タワレコに言って、Tenniscoats & Secaiと越美晴の新譜とイームズのDVD BOXセットを購入。

というわけで、忙しくて大したネタは書けないのです。

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2008年8月18日 (月)

福岡新刊ゲット

神保町で福岡伸一の『生命と食』を買ってきた。
帯に最相葉月の「安全安心のコストなど、どこからでも捻出できる。即、実行だ。」という言葉が書いてあって呆れ返った。
この人はやっぱりダメだな。

ついでに、三省堂でやっていた古書セールで、戸川昌子を四冊ゲット。
『火の接吻』と『大いなる幻影』を立て続けに読んで、私の中では戸川昌子ブームが巻き起こっているのである。

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夏休み終了

帰省先から帰ってきました。(何か変な日本語だな)

帰省中なのでコメント等には反応できません、という記事を書いて公開したつもりだったのだけど、公開し忘れてました。
アホだ。

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2008年8月14日 (木)

丸山眞男

『丸山眞男話文集 2』から、もう一つ引用。

  (略)
 価値判断もそうなんです。ウェーバーも繰り返し言っています、価値判断を排除することは不自然なことだと。できないんです。しかし、いい悪いってことが真っ先に出ちゃったら、いつまでたっても物事が認識できない。いいとか悪いとかいうことは括弧に入れて、AはBであると。あなたが、自分がどんなにそれが嫌いでも、どんなに気にくわなくても、AはBであると。われわれはしょっちゅう価値判断しながら生きている、純粋認識のほうは少ないですよ。あの店のコーヒーのほうがうまいなと、こういうのが普通なんですよ、むしろ。このコーヒーの成分は何であるかなんてのは、(笑)それから先のことであってね。価値判断の世界に生きてるわけです。それを一遍遮断しないと、科学的認識というのは出てこない。しかし、それは、不自然なんです。不自然を敢えてするんです。
 政治思想で言うならば、デモクラシーも不自然なんです,それはもう、ルソーが言っている通りなんです。多数が支配し、少数が支配されるのは不自然であると。その不自然を敢えて〔しようとする〕。だから、民主主義というのはフィクションだって僕がしょっちゅう言うことなんです。そこに近づけていくということ……〔つまり〕永久に少数支配なんです。多数によるフィードバック--少数の権力に対する--を絶えずかけていくということ以外にないわけです。民主化によってかろうじて民主主義であり得るような、そういうちのなんです、現実の民主主義ってのは。さあ、民主主義ができました、万々歳という社会は決してない。世界中どこにもないし、将来も永久にない。民主主義とは、より多い民主主義とより少ない民主主義としてしか語り得ない。そもそも、不自然なものを含んでいる。権力を持った少数者が多数を支配していくというほうが自然なんです。それが何万年も続いてきている。民主主義という不自然な運動は、つい最近始まった、人類の長い歴史から言えば。だからそれは、とてもだめじゃないかと思ってはいけないんですよ、始まったばかりなんですから。

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2008年8月13日 (水)

瀬名秀明 vs. 茂木健一郎

神保町へ」のコメント欄でのhirさんとのやりとりの続きなんですけど。

瀬名氏、茂木健一郎のことは本当は評価していないみたいですね。

瀬名NEWS 研究者の作法

まず読者の多くは、作者のアイデアの独創性など重視しない。多くの人は、面白ければいい、という人間らしい気持ちに忠実である。いや、アイデアの独創性を重視する読者もいるはずだが、重視しない読者の声に掻き消されて、出版社には無視されてしまう。
自分をうまく欺ける人の方が成功する。茂木健一郎さんをここで引き合いに出すのはいいかどうかわからないが、「クオリア」「アハ体験」「1回性の人生」などは、別に茂木さんがつくった言葉ではないし、茂木さんが初めて言い出したことでもない。でもあたかもそれらを自分で考えたかのように語ることで、茂木さんはポピュラリティを獲得した。読者は作家が自分の言葉で語っていると思い込みたいものなのだ。誰かの引用など読みたくないわけである。茂木さん自身はこのことについて何のコメントもしていない。だから少なくとも科学者としてウソはついていない。さて、茂木さんは自分を欺いているかどうか? それはわからないが、茂木さんはペルソナを使い分けていると思う。そして少なくとも一部の読者を誤解させているとは思う。

なかなか痛烈ですな。
そうなると、茂木健一郎を持ち上げてしまった山田正紀の情けなさが際立ってしまうよなあ…。
ハァ…。

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2008年8月12日 (火)

World Happiness 2008.8.10

「World Happiness」に行ってきました。
Cブロックで観賞。
後ろの方なので、ノンビリと見ることができました。

開催前には色々と心配していたのだけれど、終わってみたら驚くほど上手くいったと思う。
ステージ進行はスムーズで、観客のトラブルも、少なくとも私の周りではなかったし、イライラさせらるようなことは一つもなかったな。
あ、スカパラが演奏しているのに微動だにせず突っ立ったままの客が多かったのには、ちょっとイラッとしたけど(笑)。

内容の方も予想以上に充実していて、退屈することがなかった。
リリー・フランキーのときは、かき氷を食べるほうに集中してましたが。

目当ては、PUPAとHASYMOだったのだけど、一番良かったのはGANGA ZUMBAとシーナ&ロケッツだったという意外な結果に。
フェスでは、得てしてこういうことが起きるわけで、これもフェスの面白さではある。
こういうのを「偶有性」って言うんですよね、茂木先生?(違います)
やっぱり、ライブだとエレクトロニカは肉体性の強い音楽には勝てないんだなあ、と思っってしまった。
まあ、PUPAは「新人バンド」だし、シナロケはロック一筋30年だし、その差もあるのかな、と。
とにかく、シナロケはかっこよかった。

生YMOを見るのは初めてだったのだけど、驚くほど感動が薄かったな。
内容的にはほとんど予想通りで意外性がなかったし。
うれしい驚きは「Riot in Lagos」で攻撃的な生ドラムが聴けたこと。
それから、アンコールの「ライディーン」は、さすがにちょっと感動した。
「CUE」は何回も聴いているので、別に、という感じ。

他に印象に残ったものをいくつか。

LASTORDERZの「パンクがいっぱい」には笑った。

□□□も良かったのだけど、会場の様子を見ると、まだ、あまり名前が浸透していないような。
ガンバレ!
「STARLIGHT」をゆったり目のテンポで、アウトロも長めに演奏してたのが気持ちよかった。

NRT 320は、ほとんど何も期待していなかったのだが、けっこう面白かった。
信藤三雄をバックに野宮真貴が「FADE OUT」(近田春夫が小泉今日子に提供した曲)を歌うという光景に、「渋谷系」という言葉が頭に浮かんだ。

小泉 今日子 / Fade Out

本日の名言 
「ようこそ、高野寛祭りへ」 宮沢和史

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『丸山眞男話文集 2』

TAKESANさんのところの批判の仕方の話と科学的方法に関する話に目を通しつつ、丸山眞男を引用。

丸山 (略)下意識のものをコントロールするってのは、例えば、よく近代人が--僕は、それは非常に一方的だと想うけれども--、近代のそういった考え方の中にある、ある科学主義の考え方は、僕はやっぱり、神を僭称するんだと想いますね。神を僭称するってのは、下意識的なものを、合理化しようとするんです。というのは、非合理的なものを人間から駆逐しようとするんです。これは、人間が神になる、神を僭称しようとしてるんです。だから、科学的精神と科学主義とは非常に違うんです、僕に言わせれば。科学的精神とは、科学の限界を知ることなんです。科学で万事解決できるというのが科学主義。これは人間が神を僭称することなんです。ニュートンが、「俺のやったことは浜の真砂の一粒を……」なんとか「……やってるにすぎない」とか言ってるでしょ。つまり科学の限界を承認すること。科学の限界を承認するってことは、そういう一般命題だけじゃなくて、個々の科学についていうならば、例えば、思想史なら思想史でもいいし、政治学でもいいんですが、「これは私の学問ではできません」と、さっきの、これも否定なんです。そいうもののない学問はフェイク(fake)--インチキだと思ったらいいんです。学問というのは「これは私にはできません」ということなんです。(略)
               (略)
 これは、宗教との違いなんです。宗教はあらゆる問題に答えなければいけない。それが宗教のつらいところ。宗教と学問との違いはそこにあるんです。宗教は人間の悩みにすべて答えなければならない。学問は逆なんです。学問は、これは私は答えられます、逆に言えば、これは答えられませんという、その限界を意識しているということです。
廣田 経済人類学というものが最近流行っていて、栗本慎一郎という人がいますが、ご存じですか。
丸山 ええ、名前は知ってますが。
廣田 その人が近代的精神というのをかなり批判的に書いていて、例年は、近代的精神を始めたのはコペルニクスで、コペルニクスが唱えた地動説について、地球を中心としてそれなりの関係を見れば天動説になるし、太陽--太陽だけじゃないけれど、そういうものを中心としてみれば地動説になる。
けれど人間の感覚からすれば、天動説のほうが正しいわけでしょ。ということは、近代というのは人間の感覚というか、自然に備わっている遺伝子的なものを、信用できなくなってきた。人間が自分の中に備わっている下意識というものをだんだん信用できなくなってきた。それ以前はそうじゃないんだと。人間は自分で、自分の中に備わっている遺伝子とか、そういうものに従って自由にできたんだけれども、近代というのはそうじゃないと。そういう遺伝子に対する反逆だと。だから、どういうような近代的なそれでもってしても、例えば人間の中の同族間での殺し合いという遺伝子的なものがある限り、なくせないんだとかいうような問題提起をしているんです。彼は文化人類学ですべてが解決できるようなことをいってるんですが、それは、ちょっと疑開がありますけれど、そういうことについてどう思われますか。
丸山 それは、近代科学の精神そのものに対する全くの盲目から出ていると思う。近代精神、あるいは近代科学--ニュートン以来の近代科学の、人類に対する貢献はゼロたというんなら、その通りです。でも科学というものは、人間が感覚だけで行動していたら、環境をコントロールする度合いは動物の段階を脱しないんだというところから出発してるんです。自分の感覚を超えたもの、それ示理なんです。そういうものを信じることによって、つまり晋溺的な法則性ですね、そういうものを認識すれば自分の感覚を超えて環境を理解できる。それによって病気とから退治してきたし、ペストがあんなに流行して何子万人死んだっていうのが今どうして起こらないんですか、そうでしょ。科学のおかげですよ。科学を否定したら、それは原始状態に帰る以外にないです。だから非常に驚くべき科学に対する無知。それはさっき言った通り、ちょうど科学の盲信の逆です。われわれは科学の恩恵を受けて今日生きていられる。そうじゃなければ、いつ猛獣が来て食われちゃうかもしれない,そういうのを、ちゃんとコントロールできている。
廣田 彼に言わせれば、近代文明の発達によって、うまいものがたくさん食えるようになったとか、安全が保障されるとか、科学が人類に貢献したことはいろいろあるけれど、そういうことは生物にとっては何ら本質的な価値ではないと。
丸山 そういうのは、僕にいわせると非常に贅沢な、逆に、近代文明の恩恵に浴しながら、それを自覚しない、子供の思想なんです。(笑)第三世界では、毎日何千人と死んでいるんですよ。毎日餓死してるんです。何とかして近代の医学で伝染病を退治し、死者を少しでも少なくする、まだその段階なんです。それを第一世界にいる人が、「われわれは科学を盲信している」と。盲信したんです、確かに。だけどそれによって科学自身を否定することは傲慢なんです、逆に。現実に科学の恩恵に浴さないで、ものすごい犠牲をはらって、乳児死亡率はものすごく高いわけです。第三世界は現にその状態なんです。日本の乳児死亡率がこれだけ低くなったのは何のおかけですか。医学の進歩以外にないんです。僕が今日生きているのは、肺切除という外科手術のおかけです。それでなければ、あと三年と言われたわけです。恐らくそうでしょう。今、結核が日本ではほとんど問題にならないでしょ。ところが僕の主治医なんかは、第三世界を飛び回っています。ものすごいんです、死亡率が。ちょうど昭和二〇年以前の段階とよく似ている。これに対して、ストレプトマイシンとかを持って行って、それから外科手術を行って死亡率を減らすことがどうして悪いんですか。死んだほうがいいんだというのは、つまり文明人の甘ったれなんです。ちょうど、ヒッピーの思想とよく似てるんです。ヒッピーが一時流行ったけれど。あれは普通の人が、都会で生活していることを前提にして、自然に帰れと。
 みんな森へ行ったら、どうやって生きていくんですか。そういう意味では、文明生活を前提にして、てめえだけ逃れようという……。  
廣田 そういう意味では、確かに自己矛盾に陥るかもしれませんけれど、生物学的にみれば、人開が一体これだけ長生きして、これだけ世界中にあふれて、生物として種の保存にとってどれだけいいことなのか。
丸山 それは別の問題です。それは科学では解決できませんから。それが科学の限界なんです。じゃあ、科学を否定することによってそれが解決できるかというと、ますますひどくなります。
 それから、「近代」という言葉の濫用は、これはもう、ひどいものです。例年はローマン主義は、音楽でいうならば、19世紀全般を通じて--モーツァルトは別です--、ベートーヴェン以後は、全部ローマン主義音楽でしょ。これ、近代じゃないですか。あらゆる芸術において、19世紀はローマン主義の時代なんです。ローマン主義ってのは、18世紀の啓蒙主義に対する反逆なんです。つまり、ヨーロッパの19世紀をもし近代というならば、主知主義と、主知主義に対して真っ向から反対したローマン主義との、二元的な抗争の中、これが近代なんです。それをまるで科学的合理主義とかもう実に驚くべき、僕に言わせれば、「勉強しろ!」って言う以外にないんだな、その単純化は。
 それからもう一つは、日本がヨーロッパからつまみ食いしたものをヨーロッパだと思っている。さっき言ったように、「よきを取り、悲しさを捨てて」ね、テクノロジーだけ取ってきたでしょ。そうすると、近代、科学、技術文明が今や人間を毒している、冗談じゃない。ヨーロッバでは初めから、ニーチェのように科学、技術文命に対する反逆が、ずーっとあるわけです。これ、「近代」じゃないんですか。ヨーロッパの19世紀の初めから「反近代」があるということになる。

ハチジューネンダイにはゲンダイシソーというものがあってな、と昔語りしたくなるのだが、まあ、止めておく。      

丸山眞男話文集 2 Book 丸山眞男話文集 2

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2008年8月11日 (月)

ストリート・マップ問題

高木浩光@自宅の日記より。

グーグル(藤田一夫オブザーバー)

大変ありがとうございました。事務局の資料はすばらしい内容で、ぜひ実行して頂きたい。民民でやれることは積極的にやっていきたいが、民で解決できないことは、行政からの力とお知恵をお借りせざるを得ない状況である。ユーザが自由に選べるような環境作りをして頂きたい。

最後にプライバシーについて。確かに問題があるかもしれないが、日本のプライバシーに対する感覚は、アメリカ、イギリスとでは違うのではないか。日本では、マンションとかはまた違うかもしれないが、一戸建てでは名前を表札に書いている。名前まで。わざわざ自分の名前を公道に出しているわけだから、プライバシーなんて気にしていない。(会場苦笑。)それが、ネットの世界でだけ気にするというのはうーんどうかなと思う。(会場冷笑。)これは最近のフィルタリングのことを彷彿させる。有害情報、有害情報と声高に言われるが、たしかにそういうところもあるが、人によって有害無害と価値観が違うのだから、一人の学者さん、偉い学者さんの倫理観で縛るというやり方というのは、いかがなものかなと考えている。

ストリート・マップのプライバシー問題に関しては、個人的にはそんなに神経質にならなくてもいいんじゃないかな、と思っているのだが、Googleの中の人の認識がこういうものなのだとすると、ちょっと警戒しておいたほうがいいのかなという気がしてきた。

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2008年8月10日 (日)

福岡伸一新著

生命と食 (岩波ブックレット NO. 736) (単行本)
福岡 伸一 (著)

うわあ、アヤシイなあ。

岩波まで福岡を起用しちゃいましたか。
岩波新書の「タンパク質の一生」が良かったから褒めようとしていたところだったのに。

内容の方は後でチェックして報告しますよ。
当然でしょ。

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2008年8月 9日 (土)

ちくま学芸文庫のチラシ

ちくま学芸文庫の一冊を買ったら、「5人が選んだ「私が薦める「ちくま学芸文庫 Math & Science」」というチラシが挟んであった。
推薦者の一人が茂木健一郎で、その文章が以下。(*1)

知のデフレ現象が行き着くところまで達した日本において、そろそろ潮流の逆転が起き始めている。グローバルな知の競争の中で、未だに文系、理系などと言っていること自体がナンセンス。知の総力戦を闘わなければ、地球温暖化からウェブ2.0まで、現代の諸問題に向き合うことなどできない。
 本格派の知性を志向する人にとって、「ちくま学芸文庫 Math & Science」は何よりの手助け。歴史に残る名著がきら星のように並ぶ。その構想と刊行はまさに快挙であり、大いに応援したい。
  このシリーズの数冊くらい目を通している人でないと、インテリなどとは呼べない。そして、本物の知性なしに、現代社会で輝くことができるはずもない。大切なのは、知への愛。少々古くさく聞こえるかもしれないが、明日を切り開くのは間違いなく強靭な知性だ。
  勘のいい人はもう始めている。未来に先回りしたい人は「ちくま学芸文庫 Math & Science」を読むと良い。

ヒドい文章。 
「グローバルな知の競争」だの「本格派の知性を志向する」だの「現代社会で輝く」だの「明日を切り開く」だの、新人ビジネスマン向けの雑誌の見出しに出てきそうな言葉が並んでいて、とても恥ずかしい。
 
気になるのは、それだけではない。
例えば、こんな風に色分けしてみたらどうなるか。

 のデフレ現象が行き着くところまで達した日本において、そろそろ潮流の逆転が起き始めている。グローバルな競争の中で、未だに文系、理系などと言っていること自体がナンセンス。総力戦を闘わなければ、地球温暖化からウェブ2.0まで、現代の諸問題に向き合うことなどできない。
 本格派知性を志向する人にとって、「ちくま学芸文庫 Math & Science」は何よりの手助け。歴史に残る名著がきら星のように並ぶ。その構想と刊行はまさに快挙であり、大いに応援したい。
  このシリーズの数冊くらい目を通している人でないと、インテリなどとは呼べない。そして、本物知性なしに、現代社会で輝くことができるはずもない。大切なのは、への愛。少々古くさく聞こえるかもしれないが、明日を切り開くのは間違いなく強靭な知性だ。
  のいい人はもう始めている。未来に先回りしたい人は「ちくま学芸文庫 Math & Science」を読むと良い。

この冗長度の高さはナニ?
これだけ短い文章の中で、同じような言葉を何度も使ってしまってる。
文章作法上、全然ダメじゃないかと思うんだけど。

茂木健一郎のことを「文学や芸術にも理解がある科学者」みたいに受け止めるのは、見当違いじゃないか。
この人、全然文学的センスないですよ。
「ちくま学芸文庫」も、せっかくいい本を出してるのだから、こんな人を宣伝に使ってはいけません。
見識が疑われてしまいます。

(*1)ついでに言うと、竹内薫も推薦者の一人。
  実にビミョーな人選。

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2008年8月 7日 (木)

神保町へ

夕方から神保町へ。

先月号で福岡伸一と川上未映子の対談を載せていた「文学界」には中沢新一の原稿が。
「すばる」には茂木健一郎と島田雅彦の対談。
純文学の連中って、どうしてこうセンスも悪ければ頭も悪いヤツばかりなのだろうか。

ちくま文庫の新刊で黒川伊保子の「恋するコンピュータ」が。
ちくま文庫の編集者にはゲテモノ好きの人間が混じっているようだ。

辻惟雄『幽霊名画集』、米沢嘉博『戦後SFマンガ史』、連城三紀彦『白光』、を買って帰宅。

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2008年8月 6日 (水)

Googleマップのストリートビューがスゴ過ぎる件

Googleマップの「ストリートビュー」に日本の街路写真

東京、大阪、京都、神戸など主要都市の街路写真をGoogleマップで見られるようになった。
2008年08月05日 09時58分 更新
 米Googleは8月4日、Googleマップで街路写真を見られる「ストリートビュー」機能に、日本とオーストラリアの街路写真を加えたことを明らかにした。

 日本は東京、大阪、京都、神戸など、オーストラリアではシドニー、パース、メルボルンなどの主要都市をカバーしている。画面上部の「ストリートビュー」をクリックし、青くなっている通りを選択すると街路写真が見られる。

私の住んでる建物の前の通りもカバーしてました。

ところで、この小説を連想したのは私だけ?

「過ぎ去りし日々の光」  アーサー・C. クラーク、スティーヴン バクスター

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さすがに時間軸上は移動できないけど。

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2008年8月 5日 (火)

大活躍の茂木健一郎さん

hiroyukikojimaの日記より。

ちょっと前にすでに出ているけど、改めて、雑誌『現代思想』8月号 ゲーム理論 - 青土社 を紹介しようと思う。

(略)

 それはともかく、のけぞったのは、茂木健一郎さんが執筆陣にいたことだった。

いや、今、ゲーム理論では「神経経済学(ニューロエコノミクス)」が流行しているらしいので、(これについて、松島さんが、賛同と批判を合わせた詳しい記事を書いているので、それで読んでくださいな)、別に茂木さんがゲーム理論の論説を書くのはぜんぜん不思議ではない。

そ、そうなのかなあ・・・。

そうではなく、「茂木さんって、どうして、こんなにたくさん仕事ができるの?」というのがすごく疑問だったのだ。
ぼくは昔、Zardの故・坂井泉水がCGである、という仮説を長い間持っていた。ぜんぜん、ライブシーンが出ないし、プロモはいつも同じ角度のものだけで、しかも動きがスローでいかにも重いプログラムで動くCGみたいだったからだ。また、ロックボーカリストにしてはあの人間離れした美人ぶりもそう思ったのだった。それは否定的な解決を見たのだけど、今は、ぼくは新たに、茂木健一郎ロボット説、という仮説を密かに暖めている。たぶん、同じ茂木型ロボットが5体ぐらいあるんじゃないかな。そうじゃなきゃ、あんなにテレビに出たり、あんなに雑誌でインタビュー受けたり、あんなに頻繁に本を刊行したり、あんなにベストセラーにしたり(これはひがみ)、さらに論文書いたりできないっしょ。

ゴメンナサイ。

懺悔します。

私は2ちゃんの書き込みを鵜呑みにして、茂木健一郎氏は論文なんかまともに書いちゃいないと思っていました。

私が馬鹿でございました。

茂木先生は、テレビや雑誌に出るかたわら、地道に学問的業績を積み重ねていらっしゃったんですね。

論文の検索の仕方も知らない素人なのに、茂木先生の悪口を書き散らして申し訳ありませんでした。

茂木先生を福岡伸一ごときと一緒に論じてはいけなかったのですね。

これからは、茂木先生がテレビのバラエティ番組でつまらないことを言っていても、軽蔑したりはいたしません。

あれは茂木先生の世を忍ぶ仮の姿、「真理の探究者」という茂木先生の真の姿を心の中に思い描きながら、尊敬の眼差しを送ってみたいと思います。

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ジュセリーノって

ジュセリーノって誰かに似てるなあ、と思っていたのだが、ブライアン・ウィルソンだということに気がついた・・・。

Brian

何かスゲー不愉快。

ところで、明日は東京に大地震が来る日ですね(笑)。
本当に地震が起こるのか、それは神のみぞ知る、ということで、「God Only Knows」をどうぞ。

The Beach Boys - God Only Knows

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2008年8月 4日 (月)

福岡伸一批判 アフターサービス

福岡伸一に関して、ネット上で得られる資料をザッと集めてみた。

インタビュー等

視点・論点 「生物と無生物のあいだ」

Yahoo! Japan インタビュー

農業共同組合新聞 ■自著を語る■  生物と無生物のあいだ

エコロジーカフェ 環境と生命の動的な関係

週刊医学界新聞 もうひとつの生命のかたち 動的平衡とケア

批評

福岡の著作が、どのように受け止められたのか、著名人の批評をいくつか。
ま、どれもほとんど絶賛なわけなんですが。

最相葉月

養老孟司

内田樹

宮崎哲弥
 
大岡玲

小飼弾

それにしても、この人は中身がなくて大げさな文章を書くね。

田中康夫なんて、県知事時代に会議で福岡の話をしてたりして。

web site信州 12月19日 部長会議録

 一番下に、牛海綿状脳症、この間、私、議会の合間に、坂本龍一と、あと福岡伸一って皆さんご存じかもしれないけど、青学の教授です、理工学部の。彼とか、あと吉兆の専務というか、息子の徳岡邦夫さんなんかと一緒に、最後の晩餐というイベントがあって、行ってきたんですけれども。この二つ見ると、朝日新聞の科学部の記者が書いたのと、あと日経新聞の論説員が書いたのです。その青学の福岡さんは、プリオンっていうのも、実はプリオンじゃなくて、当初私が言っていたように、実はウィルスと同じように、有為転変していくもので、危険部位だけを取ったからと言って、それはリスクがないということにならないんじゃないかっていう本を最近書いているんですけどね。
 前、私、暗黙知っていう話をしたと思うんですけれども、朝日新聞の科学部の記者の記事を見るとですね、まさに暗黙知のない人達という、この科学記者のですね、非常に絶望的な状況があると思うんです。どういうことかって言うとですね、例えば、4段目に書いてあるんだけど、「漠然とした安心感で商品価値を保つ意味はあったかもしれないが、発症リスクを下げる医学的な効果が見込めない対策に、薬品代だけで年間約3億円が使われ続ける。」だから、そうすると、全頭検査をしている牛肉だけじゃなくてですね、羊やヤギも全頭検査している長野県というのは、ほとんど、まさに県民の税金を使って行うべき仕事を間違えているって、朝日新聞は言っているわけです。で、一番下のところ、「安全のための施策でも費用対効果の説明が求められる時代だ。」って書いてあるんですよ。確かに全頭検査をしても、プリオンがウィルスであるとするとですね、これはリスクゼロではもちろんないですよ。その次のところ、「米国や英国では、規制影響分析(RIA)が80年代から採用されてきた。政策の開始や変更時に『救える命は何人。かかる費用はいくら』などと、できるだけ定量的に評価する。」って書いてあります。実は、リスク評価とか、リスク管理ってのは、もちろん大事なことです。でも、この二人の記者の頭の中には、これと同じことを、実はイラクの戦争であったり、この程度の被害であろうから、我々は攻めようと、あるいはその場所にいる無辜の人達は何人程度しか死なないから、残りの人達にとってはこの戦争をやった方が幸せであるというですね、今のまさにハードパワーから未だに抜けられていない人達の理論とこれ同じことを言っているんですよね。分かりますか。
 先程言ったように、全頭検査をしたからリスクゼロではないです。全頭検査さえすれば安全だということはないし、まさに議会が言っているようにSARS終息宣言とか、住基ネット安全宣言とか、あるいはBSE安全宣言を出しなさい、などということが全然論理的でないのは論を待たないことですけれども。けれどもこの2人の記者が言っていることというのは、リスク管理とかリスク評価と言いながら、大変な、その想像力のない科学になっちゃってるのね。それに対して、この塩谷さんという方が言っているのは、3段目のところに、あのまあこの委員会が結果として、「危険部位の除去などいくつかの条件が完全に遵守されればリスクは国産牛とそう大きくは違わない」というものだったと。で、これをただ条件付き輸入容認とだけ解釈してはなるまいと、科学的なリスク評価は政策決定に影響を与えたのか、はじめに結論ありきではなかったのか、って言っているんですね。で、強引な外交の勝利という結論で終わってはいないか、というんです。で、そのあと地球温暖化の話が書いてあります。まあ、非常に対称的な論だと思います。

田中チェンチェイ、大丈夫ですか? 

ブログ

福岡伸一に言及したブログで、私が共感したものを。

仙台単身赴任生活

最後まで読んでみてこの人の研究者としての欠陥はこの文学性にあるような気がする。研究者としてこんな過剰に色づいた思い入れや客観化できないアナロジーは危険ではないかい?まあ、人の事だからどうでもええけど。

sug∂rk's murmur ∞ 7/18と7/22の項を参照。

いろいろ突っこみどころはあったのだけれど、一番はやはり、「そういう論理展開はないなあ」、というところ。理系教授が芸能活動やら執筆やらをすることはまったく否定しないし、むしろそういうスタンスのひとがいても良いと思っている。けれど、講演の内容・展開的にも、彼は「科学者」ではないのは明白であった。これは私見だけれど、「自分の想定する『仮説』を自分で『検証・実証』するひと」というのが「科学者」の定義だと思っている。「A→B, B→X」という持論・空想を展開すること自体は間違ったことではないのかもしれない。けれど、持論(プリオン説に対する反駁)を正当化するために、「B→C」という現在の一般論の背景にあるその妥当性・可能性をまったく引用・説明せず、その揚げ足取りをするのはいかがなものか。さらに、それを、科学的知識がゼロと言っても過言ではない一般のひとたちに対して半ば啓蒙的に演説するのはいかがなものか、と痛感した(これは完全に偏見の入った私見なのかもしれないけれど、一般人の科学に対する知識が低いのも悪いのでは、とも思う。実際、アメリカ人なんかは、専門家でもなんでもないひとが病気の発症原理や原因を正確に科学的に把握していたりするし、一般への科学知識の普及度がとても高いと思う。そういう土壌があれば、彼の虚言[と言ってしまってもいいんじゃないかなあ、というような内容であった]がイニシアチブを獲得するようなことはないのだろうけれど)。啓蒙活動をするのであれば、ちゃんとその対立論を正確に紹介した上で、それに対する反駁をするべきだし、それが前提なのでは、と思う。そうじゃなきゃただのズルじゃん。
少なくとも、彼を「いま最も注目されている『科学者』のひとり」と形容することは、一般的な科学者に対する侮辱にも近いことなのでは、と思った。「コメンテーター」とか「芸能人」とか、少なくとも「○○大学教授」っていうんならまだしも。。
そう考えると、いろいろ難しいものだなあ、というのが総合的な感想。

Domon blog -Formerly known as Dog year's blues-

しかし、私は福岡伸一さんほど物事を悲観的に見ている訳ではない。いくつかの本で彼が言っていることは、言い回しこそ紳士的ではあるが、結局、「ノックアウトなんかしてもどうせ何もワカンネーよ。」というだけのことだ。それは研究者としては不誠実な態度だ。

野生型とノックアウトの違いが、顕微鏡で分からないならプロテオームがある。それでダメなら、マイクロアレイもMPSSもある。なんならメタボロームもある。他の手だてを探して、何が起こっているのかを明らかにするのは研究者にしかできない仕事だ。

ノックアウトで遺伝子の機能を止めても、あるいは遺伝子を過剰発現させても、表現型が変わらないというのなら、他の経路が動いて表現型を変えないようにしているはずだ。そこまでして生物が維持しなければならない表現型は、きっと生きていく上で重要な役割を持っているに違いない。その生命現象は(あるいは、その研究テーマは)生き物にとって重要なものなのだと、生き物自身がメッセージを発信しているのだ。そのことを喜んで、かつ謙虚に耳を傾けようではないか。ふてくされて斜に構えている場合ではない。

内容については、私は判断できないが、以下も面白いと思った。

与太跳ばしてりゃ世話ないやね

(追記 2008.8.5)
一部リンクがおかしくなっていたので修正。
弾小飼 -> 小飼弾 に修正。

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星の行方 2008.8.3

去年やったものの再演。
内容の方は前とおおよそ同じだったので省略。
ビデオで撮ってましたけど、何に使うんですかね。
私としてはDVD化を強く希望。
舞台が横長なのがちょっとつらいかな。

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科学ジャーナリスト大賞

福岡伸一批判強化週間が終わっても福岡伸一から逃れられない私。

ある事情でKikulogの代替医療の議論を読み直しているうちに、福岡伸一と元村有希子が第1回科学ジャーナリスト賞を受賞しているのに気がついた。
本村が科学ジャーナリスト大賞で、福岡が科学ジャーナリスト賞です。

第1回科学ジャーナリスト賞

賞なんて信用するものじゃありませんなあ。

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2008年8月 3日 (日)

福岡伸一批判強化週間終了

と言うわけで、福岡伸一批判強化週間は終了です。
他にも色々書きたいことはあるのだけれど(動的平衡という言葉がいかに曖昧で無内容か、とか、福岡の用語法のいい加減さ、とか、そもそも福岡の文章って本当に美しいのか、とか)、一度に書いてしまうと焦点がぼやけてしまいそうなので、別の機会に回します。
それから、今回このシリーズに入れようと思っていて、全体の流れにうまく合わなかったためにボツにしたネタがいくつかあるので、それも後で公開します。
それにしても、こんなに長くなるとは思わなかったなあ。
これからしばらくは、ダラダラしたブログに戻ります。
毎日暑過ぎて頭を使う気がしません。

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福岡伸一と「嫌論権」(2)

福岡の見方は極めて偏向している。

実は、専門家のいう”科学的な”言説ほど、私たちが自分にぴったりした生き方を見つける上で阻害的に働くものはない。なぜか、単純なことである。完全に中立的な専門家などいないからだ。専門家は職業であり、彼らはそのテクノロジーが広まることで糊口をしのいでいる。だから常に彼らはある選択肢に関して、リスク対ベネフィットの説明に一定の省略を行い、何らかのインセンティブを設けて、そのテクノロジーを受け入れる方向に誘導する。

  専門家がもし素人に対して、何らかの優位性があるとすれば、それはそのテクノロジーの”危うさ”に気がついているということだ。専門家は遺伝子組み換え作物がそれほどコストダウンにつながらず、まして食料危機を救えるものでもないことを知っている。専門家は、クローン動物を極めて不安定な試行錯誤の上で稀に生じる見かけ上のものであることを知っている。専門家はサプリメントがほとんど効果のないことを知っている。専門家は臓器移植が唯一の延命法でないことを知っている。専門家は侵襲的な処置を何もしないほうがガン患者とって幸福であることを知っている。それを言わないのが職業上の倫理感だ。言えば自分たちのナイーヴすぎる意図やポリティカルな志向がたちまち露呈する。

これは全ての「専門家」を侮辱するものである。
福岡は、どのような立場から、この発言をしているのだろうか。
専門家として? 素人として?

  では、私たちが、彼らの論理のケムリにまかれないようにするには?素人のための拒否権でもあり、自衛権でも権利が必要だ。私はこれを「嫌論権」と名づけたらよいと思う。その名のとおり専門家の理屈によって説得されない権利。理屈にその場では反論できなくても言い負かされたことにはならない権利。何となくいやだ、という素人感覚を通していい権利。もちろんちゃんと憲法にも根拠がある。第十三条 個人の尊重 生命・自由・幸福追求の権利の尊重。専門家のしんきくさいご託宣には嫌論権を行使しよう。

そもそも「専門家」と「素人」は対立し合うようなものなのだろうか? 
「専門家」と「素人」の相互理解は、お互いの利益となるはずではないだろうか? 
「専門家」と「素人」の対立を煽って、誰が得をするのか? 
「専門家を信用するな」とご託宣を垂れ、「素人」に取り入る「専門家」である!
 
再び『AERA』の記事から引用する。

 福岡の言説は物議を醸した。
同じ農学部で遺伝子組み換えを研究する人の中にさざ波が立った。予想されたことだが気分が重くなる反応もあった。
狂牛病関連の講演を依頼されたときのこと。福岡は偏向しているから演者を変えろという主旨の横やりが入ったと主催者から聞いたのだ。それに屈しなかった主催者には感謝したが愉快ではなかった。取材中も、プライバシーにまつわる話題に福岡はセンシティブになった。
「どちらも言いにくいことだけどあえて言うのは、学者として何かどれだけわかっているかをわかりやすい言葉で発信することが大事だからです。私が一般書を出すのもそのためです。京都大学では、『一般書を書く暇があったら研究やれ』という雰囲気でしたが。それと、言いたいことを言うことで得られる個人的な自由もあるからです。ただ、言うにはかなり勉強しなければならない。勉強というのは自分が自由になるためにやるものだと思っています」

私には、「福岡は偏向している」という抗議の方が正しいとしか思えないのである。

とりあえずこれで今回のシリーズは終了である。
福岡伸一がどのような種類の科学者なのか、読者各自で判断してほしい。
私の判断は、最初に書いた通り「福岡伸一はマトモな科学者ではない」というものである。

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2008年8月 2日 (土)

福岡伸一と「嫌論権」(1)

この福岡伸一批判も、いよいよ最終コーナーである。
最後に、福岡伸一という「科学者」の本質がはっきりと現れていると私が考えている文章を紹介したいと思う。
「ソトコト」2004.6月号から、全文を引用する。

あなたは遺伝子組み換え食品を選びますか?クローン牛のステーキを食べますか?サプリメントを飲みますか?臓器移植ドナーカードに署名しますか?ガン宣告を受けたらどのような治療を望みますか?

 最先端テクノロジーという名のビヒモスは、かつての宇宙開発や原子力といった重厚長大な外部ターゲットから、人間の奥深い内側の版図へとその解像力を格段に上昇させながら、急旋回して切り込んできた。これにともなって、人間とテクノロジーとの接点のレベルが確実に個人の領域に降りてきている。村に原発が来るかどうかという関心は今、どのようなライフスタイルを選択するか、という問いに置き換えられつつあるのだ。
 
  私たちは確かに自分のライフスタイルを選ぶ自由がある。しかし、必要以上にファストなテクノロジーと断片化されすぎた情報が衣食住の全てにわたってあまねく浸潤している現代において、これは容易なことではない。ソトコトの読者ならきっと、線形的に加速されすぎた動きに食傷して、できるだけ環境における循環的な流れを大切にしたライフスタイルを求めようと思っているはずである。では、その選択にあたって私たちに必要なことは何か?
 
  科学的な知見に裏打ちされた正確な情報。いいえ、違いますね。実は、専門家のいう”科学的な”言説ほど、私たちが自分にぴったりした生き方を見つける上で阻害的に働くものはない。なぜか、単純なことである。完全に中立的な専門家などいないからだ。専門家は職業であり、彼らはそのテクノロジーが広まることで糊口をしのいでいる。だから常に彼らはある選択肢に関して、リスク対ベネフィットの説明に一定の省略を行い、何らかのインセンティブを設けて、そのテクノロジーを受け入れる方向に誘導する。
  専門家がもし素人に対して、何らかの優位性があるとすれば、それはそのテクノロジーの”危うさ”に気がついているということだ。専門家は遺伝子組み換え作物がそれほどコストダウンにつながらず、まして食料危機を救えるものでもないことを知っている。専門家は、クローン動物を極めて不安定な試行錯誤の上で稀に生じる見かけ上のものであることを知っている。専門家はサプリメントがほとんど効果のないことを知っている。専門家は臓器移植が唯一の延命法でないことを知っている。専門家は侵襲的な処置を何もしないほうがガン患者とって幸福であることを知っている。それを言わないのが職業上の倫理感だ。言えば自分たちのナイーヴすぎる意図やポリティカルな志向がたちまち露呈する。
 
  では、私たちが、彼らの論理のケムリにまかれないようにするには?素人のための拒否権でもあり、自衛権でも権利が必要だ。私はこれを「嫌論権」と名づけたらよいと思う。その名のとおり専門家の理屈によって説得されない権利。理屈にその場では反論できなくても言い負かされたことにはならない権利。何となくいやだ、という素人感覚を通していい権利。もちろんちゃんと憲法にも根拠がある。第十三条 個人の尊重 生命・自由・幸福追求の権利の尊重。専門家のしんきくさいご託宣には嫌論権を行使しよう。
  しかし、この嫌論権、入り口はたやすくとも出口を見つけるにはそれなりの努力を必要とする。いやだからいや、だけではほんとうの「納得」はもたらされない。なぜなら自分にぴったりとした生き方を選ぶということは結局、自分の名得を見つける、ということだから。そして、納得は常にコトバによってもたらされるものだから。自分が感じるそのいやさの起源を説明するコトバを自分で探し出すことこそがライフスタイルを選ぶということだから。
 
  たとえば、私は遺伝子組み換え食品を食べたいとは思わない。いやだと感じる。専門家たちは--私にごく近い人であることも多いのだが--それがいかに安全で健康に有用で、昔から人類が行ってきた品種改良と実質的に同じことなのだから全く問題ないと主張する。
  それでも私は樹の下でゆっくりと考えてみる。自分が感じるこのいやな感じとは一体何に由来するのだろうか、と。私の知覚の何かが、遺伝子組み換え作物と品種改良作物とは全く同じものではないと思うよ、ささやく。さらに私は考える。そう、遺伝子組み換え作物は急ぎすぎているのだ。私の知覚はそれを感知するのだ。そうやらコトバにたどり着けそうだ。「時間」だ。組み換え作物と品種改良が同じだとする議論には時間の観念が抜け落ちている。長い時間の中で自然はその平衡点を見出す。それを私たちは自然だと感じる。急いで部分を組み換えたものは平衡からはずれ、いずれ自然はそのズレを取り戻すために、揺り戻しを行うだろう。だから私たちはそこに不自然を感じるのだ。
 
  私たちが今、探すべきコトバはおそらく「時間」のように基本的で懐かしいコトバのはずなのだ。なぜなら、それは私たちの五感に、等身大の知覚にもとづいた、ものだから。永い永い地球史のプロセスにおいて、私たちはこの感覚によって安全なものと危険なものを選び取ってきたのだ。それは今もなお少しも変わっていないはずである。

  「専門家を信用するな」とご託宣を垂れる専門家!

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「生物と無生物の間―ウイルスの話」川喜田 愛郎

岩波新書で復刊された。
さすがに、今となっては情報としては古くなってしまっているところも多いと思うが、基礎的な知識という意味では、今でも参考になるところがあると思う。
著者の冷静な筆致と、福岡伸一の仰々しく飾り立てた文章を比べてみるのも一興。

生物と無生物の間―ウイルスの話 (岩波新書 87)

著者:川喜田 愛郎
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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福岡伸一と全体論

福岡や今西といった生物学者の共通の基盤として「全体論」があることは既にお分かりかと思う。

 臓器を交換する、という考え方はもう一つ、身体のシステムはすべて機能を分担した部品に分解できて、ある部品に故障が生じれば、それを交換すればよい、という至極シンプルな、ある意味でとてもナイーブな機械論的生命観によって裏打ちされている。生命をブラモデルの上うなパーツの集合体と見なす考え方である。部品の「交換可能性」、そして同じ機能を担っているものを入れ換えただけなので、交換の前後で全体としては特段の変化はないとする「実質的同等性」、この上うな思考は、臓器移植に留まらず、たとえば遺伝子組み換え技術、遺伝子組み換え作物(GMO)やその産物としての食品の安全性を論じる上でもしばしば援用されるロジックである。
 しかし、これまで論じてきたことからも明らかなように、一見、生命が機能パーツの集合体に見えるのは、部品還元論的な見立てをすることによって、そう見えるだけのことであって、その成り立ちからモジュラー組み立て方式によって作り上げられたものではない。特に、生命が受精卵から出発して発生していく過程の情報構築プロセスは、決して、あらかじめ別途作った機能部品(プレハブ)を組み立てていくような方式をとってはいない。たとえば、肝臓や豚臓が発生していく過程では、消化管の一部がくびれ構造を作って、そこに存在する細胞群が周辺の細胞との聞に複雑な情報交換を行いながら自律的に機能分化を果たして、臓器を構築していく。ここで見逃してはならないのは、臓器を構成する細胞の間に微小な血管網が臓器周辺から張りめぐらされるのと同時に、様々な神経網もまた臓器の内外に張りめぐらされるということである。これらの情報網は臓器の発生分化と同時に進行しながら不可逆的に完成される。

  『もう牛を食べても安心か』 福岡伸一
 
 
 だから動的平衡系では、情報も分子もすべてが繋がっており、互いに関係をもって流れている。地球環境はおよそ四五億年前に出発して以来、様々な変化を受け入れつつ、途方もなく長い時間をかけて微調整を繰り返しながら、その平衡を維持してきたことになる。変化には、気象変動や地殻変動などのほか、最も大きなイベントとして生命の誕生かおり、それに伴う酸素の発生があった。生命の誕生は地球ができてから10億年を経た頃に起こった。

  『もう牛を食べても安心か』 福岡伸一
 

ここで「全体論」一般の批判を展開するのは荷が重過ぎるので、ノーベル賞科学者のメダワー夫妻にご登場願おう。

全体論
 
全体論は自然哲学者とアマチュア哲学者一般に強く訴えかけてきた教義である。その中でもっとも有名なのは、旧イギリス領南アフリカ連邦前首相ヤン・クリスチャン・スマッツ(1870~1950)だった。彼の著書『全体論と進化』(Holism and Evolution[London,1926])を参照せよ。
 全休論が教えているのは、いかなる統一体も、特にいかなる有機体全体も、単なる構成部分の集合ではなく、そのいくつかの部分が機能的に相互関係をもち相互依存していることにより統一性あるいは全体性を保つということである。有機体がその構成部分の単なる加算的総和であり、構成部分間での機能的関係は物理化学の用語で完全に説明可能と信じている、還元的な分析=加算的機械論者により実践されている哲学的見解があって、全体論者はその見解から私たちを守るのだと称している。分析=加算的な機械論者など存在しない、つまりそのような機械論者とは、能力の劣る自然哲学者が魔よけの儀式を楽しむ機会を得るためにこしらえた一種の通俗版の悪魔にすぎないということは、この哲学的勝利の輝きを多少減殺するものである。
 全体論者は、唯物論者が有機体の各部分を分離して研究するので深い理解をしていないと信ずる(かつ、この件で機械論者を非難する)。全体論者が無邪気で、実際の生物学のことなど何も知らないことを、これほどはっきり示している訴えはない。というのは、ある器官を「分離して」研究する芸当など実際できることではないからである。心臓とか腎臓をとりだして、適当な血液類似の液体を流すことによって拍動させたり、透析機能を続けさせたりすることはできるが、私たちは腎臓とか心臓を分離して研究しているのではない。それらの現在の形態や作用の様態は、それらが有機体全体の部分であり、胚の原基として最初に出現してから機能的な最終型の器官になるまで、有機体全体の影響に支配されてきたからこそ、現在のようなものとなっているのだ。それらを「分離して」調べることなどできない。全体論の評判が高いのは、一部には、それが還元主義に対する防壁であるとひろく信じこまれていることによる。もしそうだとしても、全体論に関する私たちの判定は、全体論が生物学理解を進めたことはなかったとしても、その理解をこれというほど妨げたこともなかった、というものでなければならない。

『アリストテレスから動物園まで』P.B.メダワー/J.S.メダワー

要するに、ダーウィニズム批判にせよ、「動的平衡」にせよ、機械論批判にせよ、福岡の主張に目新しいものは何もないのだ。
福岡は、カビのはえた古臭い議論を、新しそうな外見に作り変えて持ち出してきているだけなのである。

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福岡伸一と池田清彦

この前の反省は忘れました。

ダーウィニズムを攻撃し、今西譲りの全体論を唱える生物学者といえば、池田清彦がいる。
福岡と池田の主張の共通点は多いのだが、興味深いものを2点ほど指摘してみる。

一つは、臓器移植とBSEに関する考え方。

あからさまには誰もいわないが、臓器移植は、一種の共食いである。臓器を移植する行為は、その臓器に病原体がくっ付いていれば、その病原体も一緒に入ってしまう。だから、エイズ患者の臓器を他人に移植したりはしない。
狂牛病は飼料に混ぜられた肉食粉を”共食い”することによって拡大した。共食いをさせなければ、狂牛病騒ぎは起きなかっただろう。(略)
 いずれにしても、肉食粉という結果的には共食いとなるような餌を開発したのが狂牛病の原因であることは間違いない。草食動物を飼うのに肉食粉を与えるといった不自然なことを始めたのが事の発端である。自然でありさえすれば、すべてよし、との考えも問題だが、本来の食物連鎖を無視するような不自然なことをする時には、よくよく注意した方がいいという苦い教訓である。病気は、半分は人類が作るという側面もある。狂牛病はそのひとつの例なのだ。
 
  『初歩から学ぶ生物学』池田清彦

  これを福岡の以下の文章と比較してみよ。

 生命の連鎖が絶え間ない情報の解体と再構成の流れによる平衡状態である、という生命観をさらに敏行していくと、臓器移植という考え方は生物学的に非常な蛮行といえることになる。
消化などの情報解体プロセスを一切経ることなく別の人間の肉体の一部をまるごと自分の体内に取り入れるわけだから、究極のカンニバリズムでもある。
 そこに存在する一切合切の情報はそのまま私の身体に乗り移ってくるのだ。宮崎氏の言葉を借りてい牛は、臓器移植とはそこに宿るすべてのカルマを引き受ける覚悟がなければできない行為なのである。
 
  『もう牛を食べても安心か』 福岡伸一
 

草食動物であるはずの牛は、実は、人為的食物連鎖を組み換えられて肉食を強いられていたのだった。しかも、こともあろうに同種の動物の肉を。これは見えない共食いといってもいい。経済効率を最優先した食物連鎖網の局所的な組みえ、この人為的な操作によって開かれた小径をたどって病原体は羊から牛へと侵攻してきたのである。

  『もう牛を食べても安心か』 福岡伸一

 動物とヒトとの界面にこれまでなかったような病気が現れる。あるいは、単一ではほとんど問題とならなかったごく微量の化学物質が複合的に作用して予期せぬ問題を引き杞こす。操作が新しい操作を必要とする事態を引き起こす。現在、私たちが悩まされているほとんどの問題はすべて、人為的な操作に対して環境がその平衡を回復するために揺戻しをかけている、その揺らぎそのものであるといってよい。ルドルフ・シェーンハイマーが数十年前に見出し、そして今、再び、狂牛病禍が我々に問いかけているもの、それは全く同じである。分子は流れ、私たちをとおり抜け、留まることがない。
 
  『もう牛を食べても安心か』 福岡伸一

私たちは、狂牛病の感染が人災であり、それは全くランダムに起こっているわけではないことを思い出す必要がある。

『もう牛を食べても安心か』 福岡伸一

臓器移植を「共食い」とする発想は、かなり特異なものだと思う。いくら思想的に似通っているからと言って、二人が独立でこのようなことを考えたとは考えにくいので、どちらかがもう一方に影響を受けたのだろうと思う。
(それにしても、この二人は、実際に臓器移植の恩恵を受けた人がこの文章をどう受け止めるかを考えなかったのだろうか。考えなかったにしろ、考えた上で書いたにしろ、あまりにも鈍感と思わずにはいられないのだが、この文章の趣旨から外れるので、これ以上批判はしない。)
BSEを「人災」と見るのも同様である。

もう一つは、おなじみの「動的平衡」について。(*1)

  代謝とは狭義には生体内における物質の変化のことであるが、物質は変化しても生物そのものはあまり変化しているようのは見えない。これを動的平衡と呼ぶが、代謝の本質は動的平衡にある。
 これが成立する条件は2つある。ひとつは系に流入するものと系から流出するものがつり合っていること。ひとつは、系の内部でものが循環すること。動的平衡が成立するだけなら前者の条件だけでもよいが、生体内の動的平衡の特徴はそれに加えて後者の条件が必要なことにある。
 かつてヘラクレイトスや鴨長明が、河の流れは同じように見えて、実は水はどんどん入れ替わっていると述べたのは、前者だけの動的平衡の話である。鴨長明の『方丈記』は、続いて、「世中にある人と栖と、またかくのごとし」と記しているが、人を生物、栖を生態系と読めば、両者共にそれに加えて循環という条件が不可欠になる。
 
  『新しい生物の教科書』池田清彦
   
 ルドルフ・シェーンハイマーがその短い生涯をもって明らかにしたことは、生命は流れの中にある、あるいは、流れこそが生きているということである。このような観念は、翻って考えれば、むしろ私たちにとってなじんできた、ある意昧でうけいれやすい生命観でもある。それは通奏低音として様々なところに現れている。たとえば、鴨長明の『方丈記』の冒頭などあらためて引くまでもないほどである。
 「ゆく何の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし」
 
  『もう牛を食べても安心か』 福岡伸一

こうして、「動的平衡」という言葉を中心にして今西-池田-福岡のトンデモ・トライアングルが成立するのである。(*2)
ヘラクレイトスも鴨長明も、もうウンザリという感じだ。

(*1)「動的平衡」という考え自体はさほどおかしなものではないと思うのだが、福岡にしろ池田にしろ、かなり定義の仕方が曖昧である。
とくに福岡の場合は、使用範囲を無闇に広げてしまって、概念としてほとんど無意味になっていると思う。
(*2)Wikipediaの記述によると、柴谷篤弘も「動的平衡」という言葉を使っているようなのだが、著作に目を通していないので、ここでは言及しない。

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