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2008年9月

2008年9月30日 (火)

福岡ハカセの科学教室

科学教室:「能動的に学んで」 学生ら100人が受講--岡山 /岡山
 高校、大学生に科学に親しんでもらう連続講座「楽しむ科学教室」が20日、岡山市駅前町2のサン・ピーチOKAYAMAであり、参加者約100人が第一線で活躍する科学者の知見に触れた。

 ノーベル物理学賞の小柴昌俊東大名誉教授が理事長を務める平成基礎科学財団が主催。小柴名誉教授は「“楽しむ”とは能動的に学ぶこと。先生から聞いたことを自分で問い直し、さらに先生に質問をぶつけてほしい」とあいさつした。

 著書「生物と無生物のあいだ」などで知られる分子生物学者、福岡伸一・青山学院大教授が「生命観を問い直す」と題して講義。福岡教授は狂牛病問題の例を挙げて「草食動物の牛に、羊や牛の死体を加工した肉骨粉を与えることで、人間はある種の共食いを生み出した。この結果、本来、羊にしかなかった病気が種の壁を超えて牛に感染し、その影響が人間にまで及んでいる。その意味で狂牛病は人災と言える」と強調した。【松井豊】

私にはよく理解できない理屈ですな。
なんで「科学教室」でこんな話をするんですかね。
科学とは無関係なイデオロギーの垂れ流しとしか思えないんですが。
こういう話は「ロハスな人たち」とか「マクロビな人たち」にしてほしいな。
やっぱり、この人を野放しにしておいたらダメだと思いますわ。
 

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2008年9月29日 (月)

オマエは語るな!

dankogai くだらねー。
心底くだらねーと思うわ。

じゃあオレが語るか - 書評 - おまえが若者を語るな!

本書「おまえが若者を語るな!」は、タイトルどおり「おまえ」、すなわち「中高年」に「若者を語るな!」と言ったところで紙幅が尽きてしまった本。

確かに、著者による各者の各論に対する批判は間違っちゃいない。ジジババどもの若者論ときたら虚言・妄言だらけだ。それらに「間違っている」と言い返すのも、また間違っちゃいない。

しかし、読者が金を払ってまで読みたいのは、そんなことじゃない。

著者の、論なんだよ。

「読者が何に金を払いたいと思うか」が、なんでアンタに分かるのかね?
私は、この本を買って満足してますけど?
単にアンタが期待してたような本じゃなかったっていうだけの話でしょ。
自分の判断を勝手に一般化するなって。
「著者の論」って言うけど、「おまえが若者を語るな!」っていうのだって立派な「著者の論」だと思うけど。
それから、「ジジババどもの若者論」ってのも違うな。
批判されている論者の一人、宇野常寛は30歳。
著者と6歳しか違わない。
「若者対ジジババ」っていう構図じゃないんだよ。

というわけで、オレが書くことにしよう。

書かなくていいってば。

世代論に関して、私が重要だと考えている点は、次の二点しかない。

(以下、くだらないので略)

それこそが、唯一かつ最大の「若者問題」である。その他の「若者問題」は、すべてここから導出できる。「かつて若者だった」老人たちの知恵や経験も、そこでは全く役にたたないのだ。

イヤ、アンタが何を重要だと思ってようがどうでもいいんだけどさ。

これは漁業での話だが、乱獲によって個体数が減ると、その魚種の繁殖年齢が下がるのだそうだ。早熟になることで、種を回復するための自然の叡智なのだろう。

「種を回復するための自然の叡智」・・・(泣)。
月に何十冊本を読んでるとか自慢げに書いてる人間がこれだもんなあ。
ドーキンス先生、まだまだ啓蒙が足りないみたいですよ。
「ドーキンスなどもう古い」とか知ったかぶりして言う池田信夫みたいなバカもいるしねえ。

こういってはなんだが、ジジババに言い返している余裕すらないはずなのだ。

ジジババたちが答えを持っていない以上、自分たちで答えを出すしかない。

その答えを書くべきではなかったのか、1985年生まれの著者は。

だからさあ、この本に「若者対ジジババ」という対立軸を見出してしまうこと自体トンチンカンなんだよ。
著者がこの本がやろうとしたのは、90年代以降のある種の若者「論者」の批判でしょーが。
「自分たちで答えを出す」とか、全然関係ないんだよ。

 根底のテーマは、世代論の不毛さである。ここ15年の間に、社会論のなかで世代論的な枠組みが強くなり、本来であれば経済的に、あるいは政策的に解決されるべき問題が、単なる世代間の「リアル」の対立として処理されるようになってしまった。この傾向が、逆に社会の問題を深刻化させた、と私は考えている。退場を宣告するのは、世代論を煽ってきた論者と同時に、世代論そのものだ。
 
『おまえが若者を語るな!』まえがき

読解力無いのかよ。

反論に終止しているという点で、著者の姿勢にはむしろ私より一回り上の世代に通じる懐かしささえ感じる。反論する知恵はあっても、自論を持つだけの経験がないというのが時代を超えた若者の特徴なのだろうか。

ナニ? その「上から目線」。
「老人たちの知恵や経験も、そこでは全く役にたたない」とか言ってたわりに、エラそうなこと言うねえ。
おまけに、「くだらない世代論なんか止めろ」って主張している本に対してくだらない世代論で返すって一体何なのよ?!

 だからこそ「世代」という鎖に縛られ続けているものとは、ここで決別しなければならない。「世代」だけを基準に内ゲバを繰り返しているのでは、真に問題にすべき権力の構造を素通りしてしまうからだ。そしてそれは、権力者にとってはもっとも都合のいい事態なのだから。
 
『おまえが若者を語るな!』第五章

dankogai、アタマ悪過ぎ。
大体、「一回り上の世代に通じる」とか言っておきながら、「時代を超えた若者の特徴」って、文章のツジツマ合ってないだろ。

それと同じように早熟を強いられている今の若者はかわいそうといえばかわいそうではある。大人に文句を言っていれば格好がつくという時期が彼らにはほとんど与えられていないのだから。極論してしまえば、若者であることそのものを、今日日の若者たちは許されていないのである。

ウワッ、また「上から目線」だよ。

だからこそ、若者は主張しなければならないのだ。

反論ではなく、自論を。

だからぁ、この本は「若者の主張」なんかじゃないんだってば、最初から。
自分のアタマの中で、著者が思ってもいないような本のイメージを作り上げておいて、それを元に勝手なこと言うのは止めろって。

それにしても、私が福岡伸一の批判をしたときの反応を見たときも思ったんだけど、何かを批判することを「ネガティブだ」とか「不毛だ」という風にしか受け止められないのって、何なんですかね?
クダラナイものを「それはクダラナイ」とハッキリさせることは、実に有意義でポジティブなことだと思うんですがね。
みなさん、そう思わないんですかね?

批判から積極的な論を立てるところまで、全部一人でやらないと認めてもらえないんですかね?
批判だけだと何もやったことにならないんですかね?
どうして一人の人間に何から何までやることを期待しようとするのか、私には理解できませんね。

dankogaiのヤツ以外にも、この本を批判しているのをいくつか目を通したけど、くだらないのばっかりだなあ。

「他人の批判ばかりしてるのは生産的じゃないよね。よい部分もあるんじゃないか、という見方をしてあげないと」

そう思ってるなら、他人の批判の批判なんかしてないで、よいところをハッキリ分かるように抽出してやれよ。
こっちは悪いところを抽出してやったんだからさ。
いいところと悪いところがゴッチャになって区別できなかったら、何の役にも立たないだろ。
それをする気がないなら、黙ってろ!

「文脈から切り取って、批判しやすいところばかり批判している感じがするんだよなあ」

それで何が悪いのかね?
基本的なところでバカげたことを言ってるヤツは、もっと上のレベルでもバカげたことを言ってるんじゃないかって疑うのが合理的ってもんでしょ。
いきなり高度でややこしい議論を始めるよりも、分かりやすいところから批判したほうが効率的でしょ。
そもそも、宮台なり東浩紀なりの言うことを元の文脈に戻してやったら、まともな言説になるのかね?
ここで、私は物理学者のスティーヴン・ワインバーグのことを思い出すんだけど。
「ソーカル事件」のときのお話。

ワインバーグは、ソーカル論文が惹起した問題を分析した論説を《ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス》に発表し、それに対して寄せられた投書に対する返答の中で次のように結論した。自分は、フランス人哲学者ジャック・デリダが「アインシュタイン定数」を持ち出して言いたかったらしいことをなんとか理解しようとしてみたが、結局のところ、「コンテクスト中のデリダは、コンテクストを外したデリダよりもなお悪い」との判断に至ったにすぎなかった。

『世界の知性が語る21世紀』

「コンテクスト中の宮台は(あるいは東は)、コンテクストを外した宮台(あるいは東)よりもなお悪い」ってことになるかもしれないぜ。

批判だって生産的に成り得るし、本気で何かを批判しようとしたら、それなりに労力が必要なんですがね。
何で分かってくれないのかなあ。
なんかもう、ウンザリするんですけど。

例えばさあ、こんなことを想像してみてくださいな。

会社の事務所に空き部屋が一つあるのだけど、みんなが勝手に物置がわりに使っていてガラクタだらけになっています。
どうせならば、中を片付けてフロアで邪魔になっているサーバを設置する場所にでもした方がいいな、とみんな思ってるのだけど、メンドウなので誰も動こうとしません。
そこで、一人が一念発起。
ガラクタを可燃物と不燃物により分けて、ダンボールにつめて、ゴミ捨て場まで何度も往復して処分しました。
さあ、これでスッキリしたぞ、と思っているところに、誰かがやってきて、こう言います。

「アー、片付けたんだ。だけど、サーバの設置まではやってくれてないんだね。」

ふざけんな、ボケ!

その上、こんなことまで言い出します。

「なんだあ、全部捨てちゃったのぉ、使えるヤツもあったのかもしれないのにぃ。」

死ネ

そう思ってるなら自分でやれよ!

自分でやる気が無いなら黙ってろよ!

アー、ホント、ウンザリ。

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2008年9月28日 (日)

「スゴイ脳スペシャル」視聴者のためのブックガイド(2)

驚異的な記憶力を持つサヴァン症候群の画家、スティーヴン・ウィルシャー。
日本でも画集が2冊出版されています。

Book ドローイングス (スティーヴン・ウィルシャー画集)

著者:ヒュー カッソン,スティーヴン ウィルシャー
販売元:すえもりブックス
Amazon.co.jpで詳細を確認する

Book シティーズ (スティーヴン・ウィルシャー画集)

著者:オリバー サックス,スティーヴン ウィルシャー
販売元:すえもりブックス
Amazon.co.jpで詳細を確認する

スティーヴン・ウィルシャーのホームページは以下。

The Stephen Wiltshire Gallery - Drawings, paintings and prints

オリヴァー・サックスの「火星の人類学者」には、スティーヴン・ウィルシャーと一緒に過ごした数日間を書いた文章が収められています。

火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF) Book 火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)

著者:オリヴァー サックス
販売元:早川書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

すべてが白黒に見える全色盲に陥った画家、激しいチックを起こすトゥレット症候群の外科医、「わたしは火星の人類学者のようだ」と漏らす自閉症の動物学者…脳神経科医サックスは、患者たちが抱える脳の病を単なる障害としては見ない。それらは揺るぎないアイデンティティと類まれな創造力の源なのだ。往診=交流を通じて、不可思議な人生を歩む彼らの姿を描か出し、人間存在の可能性を謳った驚きと感動の医学エッセイ。

スティーヴン・ウィルシャー以外の人たちについて書かれた部分も非常に面白いので、この本はお奨めです。

スティーヴン・ウィルシャーのことが取り上げられている本をもう一冊。

喪失と獲得―進化心理学から見た心と体 Book 喪失と獲得―進化心理学から見た心と体

著者:ニコラス ハンフリー
販売元:紀伊國屋書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

7章と8章は、ある能力の喪失と引換えに別の能力が獲得されるということを考察した刺激的な論考。
茂木健一郎の「スゴイ脳スペシャル」での解説の元ネタはこの辺りじゃないかと。
帯の推薦文が養老孟司でムカつく、なんてことはポジティブになった私は言いません。この本では、クオリアについても論じられていて、茂木健一郎の本を読むよりこちらを読んだほうがずっと面白いですね。

前述の「ブレインマン」では、映画「レインマン」のモデル、キム・ピークも取り上げていました。
「ザ・ベストハウス123」は、わざわざ茂木健一郎をアメリカに送って本人に会わせていましたが、内容的には「ブレインマン」とは大して違いがなかったですね。
キム・ピークをメインに扱っているのが、以下のDVD。

リアル・レインマン 『レインマン』のモデルになった僕 DVD リアル・レインマン 『レインマン』のモデルになった僕

販売元:ジェネオン エンタテインメント
発売日:2008/08/22
Amazon.co.jpで詳細を確認する

これもNHKで放送されたようですが、私は未見です。

とりあえず、こんなところで。

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2008年9月27日 (土)

「スゴイ脳スペシャル」視聴者のためのブックガイド(1)

前にもちょっと書いた通り、「ザ・ベストハウス123」の「スゴイ脳スペシャル」にイチャモンをつけようと思っていたのだけれど、ポジティブ教に転向したので止めます。
そのかわり、番組を見てサヴァン症候群や共感覚興味を持った人が間違って茂木健一郎の本を買ったりして、お金と時間の無駄使いをしないよう、ブックガイドを書いて見たいと思います。

ブレインマン ぼくには数字が風景に見える DVD ブレインマン ぼくには数字が風景に見える

販売元:ジェネオン エンタテインメント
発売日:2008/08/22
Amazon.co.jpで詳細を確認する

ブックガイドと言いながら、最初はDVDの紹介です。
数字が風景に見える共感覚の持ち主ダニエル・タメットを取り上げたイギリスのテレビ番組「ブレインマン」は、NHKでも放送されましたが、今回DVD化されました。

「ザ・ベストハウス123」でダニエル・タメットを紹介した部分の映像は、この番組が元ネタですね。
「ザ・ベストハウス123」では、子ども時代の再現ビデオみたいなものも追加されてましたが。

そのダニエル・タメット自らが書いたのが以下。

ぼくには数字が風景に見える Book ぼくには数字が風景に見える

著者:D. タメット
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する


共感覚の持ち主自らが自分の感覚を説明しているという点で貴重。
また、障害を持ちながらも自分の才能を生かして自立していく姿も描かれていて、読後感はさわやかです。

共感覚に関する一般的な知識は、共感覚の研究者が書いた以下の本で。

共感覚―もっとも奇妙な知覚世界 Book 共感覚―もっとも奇妙な知覚世界

著者:ジョン ハリソン
販売元:新曜社
Amazon.co.jpで詳細を確認する


スクリャービンやメシアンなど、共感覚の持ち主として上がられる名前がありますが(wikipedia参照)、著者の心証によると、スクリャービンやメシアンは共感覚者じゃなさそうですよ。
もちろん、死んでしまった人たちですから、本当のところは確認しようがないのですが。
ナボコフは実際に共感覚者かもしれないようです。

共感覚の研究者が書いた本をもう一冊。

共感覚者の驚くべき日常―形を味わう人、色を聴く人 Book 共感覚者の驚くべき日常―形を味わう人、色を聴く人

著者:リチャード・E. シトーウィック
販売元:草思社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

共感覚以外のことがらに対する著者の主張が強く出ている部分が多く、少々辟易させられる本です。
特に、第2部の「情動の重要性についてのエッセイ」は、私はあまり共感できませんでした。

ついでに。
ラマチャンドランも「脳のなかの幽霊、ふたたび」で共感覚を取り上げていますが、上記二人とは、だいぶスタンスが異なります。
上記二人は単なるメタファーは共感覚とは区別していますが、ラマチャンドランはメタファーも共感覚と関連付けて論じています。
また、「ブーバ/キキ効果」も共感覚として扱っているのは、ちょっと違うんじゃないかという気がします。

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「食育」する人々

ヘンテコな食育冊子が各所で話題になっていますが

荻上式BLOG  ちょwwww食育冊子wwwww

あんなもの信じる人がいるか、という意見をチラホラ見かけます。

しかし、そういう考えは

アマイッ!

アマ過ぎます。

件の食育冊子は安っぽいマンガだったから誰も信じそうになく思えますが、これがもっと違った表現だったらどうでしょう?
稚拙なマンガなんかではなく、洗練された文章で書かれていたら?
今回はその辺りを少々考えてみたいと思います。

Prodigal_Sonさんが、件の冊子に書かれているようなことは「マクロビオティック界隈(正食業界)ではよく見かける話だったりする」と指摘されています。

土曜の夜、牛と吼える。青瓢箪。

Prodigal_Sonさんのところから、マクロビオティックの研究家である久司道夫氏の発言を再引用してみましょう。

牛の乳は、たんぱく質の分子も脂肪の分子も、母乳とは異なり人間には使い切れないのです。牛の乳は子牛が飲むもので人間が飲むものではありません。

食物は消化吸収されて分解され、血液の中を流れていきますが、その間に分子、原子というレベルになり、やがて気やオーラ、波動のようなものを生じます。これが心を変化させるのです。 ステーキや香辛料、刺激の強いもの、脂っぽい食べ物などを常食すると、荒々しい気を起こし、荒々しい心になります。マクロビオティックで勧めている食材は穏やかな気を起こすものばかりなので、おのずから穏やかな心になるのです。

ナニ?
こんな「オーラ」やら「波動」やら言ってるコウバシイ文章なんか本気で受け止めたりしないって?
ナルホド、それは結構ですね。

では、もしこの発言をしたのがアヤシゲな食事研究家なんかではなくて、「科学ジャーナリスト賞」を受賞した「気鋭の分子生物学者」だったらどうでしょう?
使っている言葉が「オーラ」「波動」ではなく、一見科学的な「動的平衡」なんていう言葉だったら?

 私たちが食べるものは、穀物も、野菜も、肉も、魚も、もともとは他の生物の体の一部です。
人間は、他の生物を殺め、その生物たちが蓄えたタンパク質や糖質を収奪して、口にせざるをえません。しかし、私たちを形づくっている分子は、自分のものであって、自分のものではない。
一瞬は留まっているけれど、私たちの中を通り抜け、次の瞬間には別のところへ流れていきます。 呼吸をして体外へ出ていった二酸化炭素は、部屋から外へ出て、植物に吸収され、木の実や菜を構成します。岩石の一部になるものもあるかもしれません。海の中へ流れていき、海草やプランクトンの一部になって魚に取り込まれ、また私たちの食べものとして戻ってくることもあるでしょう。
 食物の分子はそのまま私たちの分子になる。それゆえに、もし食物の中に、私たち生物の構成成分以外のものが含まれていれば、それがどんなに安全で無害なものとされていようとも、余分な分子、人工的な分子は私たちの身体の動的平衡に負荷をかけてしまいます。それらを分解し、排除するために余分なエネルギーが必要となり、平衡状態の乱れを引き起こすからです。ここに、できるだけ中身の見える、プロセスの見える食を選ぶべき生物学的根拠があるのです。

ついでに、こんな文章も読んでいただきましょうか。

 タンパク質を言語にたとえるアナロジーは興味深いことを示唆してくれる。つまり、自分と近い種、あるいは同種の生物がもっていた情報というのは、それだけ近接した言語であるから、それがそのまま体内に取り込まれればそれだけ干渉が起こる可能性が高い、ということである。基本的にすべての生物は単音節(アミノ酸)のレベルでは同じ言語を使っている。だからこそ情報の再構成が可能となるわけだが、種が遠ければ遠いほど、構成のための文法や語法が違う、というふうに捉えることができる。フランス語しか読めない人が日本語で落書きされても何も感じないが、同じロマン語圈のスペイン語なら相手が悪意をもっていることが感じ取れる。そのような構造が異種間のタンパク質にもある。

 食に対する伝統的な言い伝えを調べてみると、しばしば“できるだけ遠いところのものを食べよ”という教えを見つけることができる。これは情報の干渉をできるだけ避けよう、とする心がけと理解すれば、消化の生物学から考えて合理性がある。消化システムは万全を期しているとはいえ、その関門をリークして(すり抜けて)やってくる「負の情報」が存在するからである。後に述べる狂牛病病原体を始めとする経口感染媒体やアレルギーをもたらすアレルゲンなどがそうだ。
 遠いところのものを食べよ、と同じ意味を逆の言い方で示したものが、カンニバリズム(人肉食)のタブーであるといえる。事実、ヒトのヤコブ病の一種であるクールー病(第六章で解説する)は、ニューギュア高地人の間のカンニバリズムによって広まった。カンニバリズムという行為がもたらす生理的嫌悪感の由来に生物学的根拠を求めるとすれば、他者の情報の干渉を直接受けることに対する恐怖から来ているのではないだろうか。
 
『もう牛を食べても安心か』福岡伸一

これは、それほど変なことは言ってないような気がするって?
それじゃあ、「世界のサカモト」こと坂本龍一さんの次の発言は?

マクロビオティックの陰陽の考えを知ってから、ものを食べる時は食材の陰陽を考え、身体を冷やすものか温めるものかを判断して食べるのが癖になってしまいました。また久司道夫氏から教えてもらったもう一つのマクロの考え--進化的時間の中で自分から遠いものを食べるということを気をつけています。

「ソトコト」2005年11月号

「進化的時間の中で自分から遠いものを食べる」?
面白いことを言ってますね。
福岡ハカセが「伝統的な言い伝え」として引いている「“できるだけ遠いところのものを食べよ”という教え」に似てると思いませんか?。

坂本キョージュの発言にも「久司道夫」という名前が出てきていることに注目してください。
こうなってくると、久司道夫氏がどういうことを言ってるのか、もっと知りたくなりますよね。
では、以下をどうぞ。

ewoman  マクロビオティックとは?

久司  やっぱり玄米が一番いいですよね。マクロビオティックというのは、「長く生きるための方法」ということです。玄米を中心にさまざまな穀物を良くかんで食べる。かむことが大事です。それでいい。それと動物的なものはね、遠ければ遠いほどいいんです。あのね、牛だとか豚だとか、哺乳類というのは、自分に近いでしょ。それから、ニワトリなんかは遠いようだけれども、それでもまだ近い。ところが海中のもの、水中のもの、人類よりはるかに遠く、ですよね。

しかし、一番遠いものは植物性ですから、植物性を主体にして。野菜がいいです。だから動物を摂るんだったら、魚のほうがいいですよ。全体の食事量の7分の1ぐらいにするんだね。

こうして、マクロビオティックの言葉に目を通してから、もう一度福岡ハカセの言葉を読み返してみると、なんだかウサン臭いという感じがしてきませんか?

“できるだけ遠いところのものを食べよ”という言葉は、福岡ハカセ自身の言葉ではなく、「伝統的な言い伝え」だということになっていますが、率直に言って、私は福岡ハカセが本当に「食に対する伝統的な言い伝えを調べて」「“できるだけ遠いところのものを食べよ”という教え」を見つけたのか疑っています。
まあ、本当のところは福岡ハカセに直接聞いてみないと分かりませんけどね。

福岡ハカセの文章にもう一つツッコミを。

福岡ハカセは、“できるだけ遠いところのものを食べよ”という教えを、「アレルギーをもたらすアレルゲン」に結び付けて解釈してますが、ここにはひっかかりを感じませんでしたか?

福岡ハカセの連載も載っている「週刊文春」先週号の記事から、以下の記述を読んでみてください。

 生体を、細菌などの異物から守るはずの免疫機構が過剰に反応し、逆に有害な症状をもたらすアレルギー。それが急性かつ強烈なかたちで現れるのがアナフィラキシーだ。呼吸困難や血圧低下などの全身症状が出ると、アナフィラキシー・ショックといって命取りになりかねない。国内ではハチ剌されにより一年に二、三十人が、食物アレルギーで数人が亡くなっている。ハチは、山歩きなどでは注意を要するが、日常生活でも身近な人に発症しうるのが食物アレルギーだ。
(略)
 米国ではピーナツアレルギーが多いのに対し、日本人はそばアレルギーが多い。最近はキウイなど外来種のフルーツに反応するケースが目立つという。

病院情報ファイル2008 

 
福岡ハカセは、“できるだけ遠いところのものを食べよ”という教えと人肉食に関するタブーを結びつけてますけど、ピーナツやソバやキウイは、人間から十分遠くないんですかね?

とりあえず、今回はこんなところですが、最後に以下の文章を読んでいただきましょうか。

こうして玄米の味覚は、好むと好まざるとにかかわらず、副食の選択をわたしたちに強いることになった。それは、系統的に遠い植物界の蛋白質を材料に選び、おのれに近い動物門のそれはできるだけ避けるということだ。地球の生態系から眺めると、これこそ動物本来の食の形態というものであろう。してみると、この主食は、わたしたちの分厚い鈍重な舌のうろこを剥がして、粘膜の感覚を原初の姿にまで立ち還らせたのか。

『胎児の世界』三木成夫

福岡ハカセと異端の発生学者、三木成夫を比較してみると、とても興味深いのですが、それはまた別の機会に。

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2008年9月25日 (木)

『ヒトのなかの魚、魚のなかのヒト』

ヒトのなかの魚、魚のなかのヒト―最新科学が明らかにする人体進化35億年の旅 Book ヒトのなかの魚、魚のなかのヒト―最新科学が明らかにする人体進化35億年の旅

著者:ニール シュービン
販売元:早川書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

私たちヒトの、生物としての歴史を知りたければ、魚に訊くのがいちばんだ。なぜって、わたしたちの体のなかには「内なる魚」がいるのだから……「魚が海から陸に上がっていったという学説にとって重要な、ミッシングリンクの発見である」と世界を沸かせた、ひじがあって腕立て伏せのできる魚、ティクターリクの化石を発見した著者が、古生物学から進化発達生物学(エボデボ)、ゲノムサイエンス、解剖学にいたるまでの成果を縦横に駆使し、生命進化の謎を探究する営みのスリリングかつ意外性に満ちた面白さを明かす、極上のポピュラー・サイエンス。

文章は、適度のユーモアがあり読みやすい。
予備知識なしで気楽に読めるが内容は豊富。
本題と無関係なトピックで読者の気を引くような姑息なテクニックは使わず、テーマに沿った一貫性のある記述で読者を飽きさせない。
ポピュラー・サイエンスはかくあるべしと言う見本のような著作。

著者は、魚類と原始的な陸生動物の中間型であるティクターリクの化石の発見者。
古生物学であるとともに解剖学者でもある。

話題は化石の見つけ方から最新の進化発生学にまで広い範囲にわたるが、中心となるのは、ヒトの体と他の動物の体の共通性である。
この共通性は、外見からは見て取るができない。
遺伝子や発生の観点から見ることによって初めて分かるものなのである。

体の基本的デザインすなわちボディプラン(体制)を決める遺伝子は、ボディプランが大幅に異なる動物でも同じ遺伝子が使いまわされている。

ホックス遺伝子は私たちの体のプロポーションを決め、個々の器官の発生にも関与しているが、ホックス遺伝子の変異型は、体をもつあらゆる動物に現れる。

カエルでもネズミでもヒトでも、体の背側の構造を発生させるような場所でノギンという遺伝子のスイッチが入るが、イソギンチャクからノギン遺伝子の産物を取り出し、カエルの胚に注入すると、何と、背側の構造を余分に持つカエルが出現するのである。

個々の器官についても同様なことが言える。

昆虫からヒト、ハマグリ、ホタテガイまで、モノを見るという作業にオプシンという同じ種類の光受容分子を使っている。
また、眼を作る引き金となるのは、ハエでもマウスでもヒトでも、Pax6という同じ遺伝子である。

サメ類と魚類は感丘と呼ばれる器官でまわりの水の動きを感知するが、ヒトの内耳と感丘は、同じ種類の組織から由来し、同じような構造を共有している。

ヒトの全遺伝子の3%は嗅覚遺伝子である。
そうした1000個以上の遺伝子のうち300個以上が突然変異のためまったく機能を果たせなくなってしまっている。
ヒトが嗅覚より視覚に頼るようにためである。
これらの遺伝子は、嗅覚に頼っていた過去の動物の名残りなのである。

エピローグから引用。

過去数十億年の変化を振り返ってみれば、生命の進化において新奇なもの、あるいは一見類例がないように見えるあらゆる出来事が、実際には、新しい用途のために、再利用され、組み換えられ、用途変更され、あるいは他の形で改変された古い素材でしかないのである。

巻末の「注と参考文献」が充実しているのもうれしいところ。

今日の時点のアメリカのamazonレビューでも、73人中54人が5つ星という高評価。
一人だけ1つ星をつけているレビュアーがいるけれど、単なるヒネクレものでしょう。

Your Inner Fish: A Journey into the 3.5-Billion-Year History of the Human Body
by Neil Shubin

幸い、shorebirdさんの書評もあるので、こちらもご覧ください。
私の書評より参考になるでしょう。

shorebird 進化心理学中心の書評など

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ポジティブ教に転向

「内部の内部は外部である」だの「生命は動的平衡の中の流れである」だの、過剰なレトリックで飾りつけた内容空疎な「分子生物学」の本や、根拠のあやしいハウトゥー本まがいの「脳科学」の本がベストセラーになり、それに対して表立った場所にはまともな批判一つ出てこないような状況には、心底苛立ちを覚えます。

とは言え、いくらここで福岡伸一や茂木健一郎の悪口を書いても、大して効き目もないみたいだし、挙句の果てに、「ネガティブ・ファンだ、気色ワリー」とか言われてムカつくので、ポジティブ教に転向することにしました。

世の中には福岡伸一や茂木健一郎なんかの本よりはるかに面白い本がたくさんあるわけで、そちらを紹介していった方が、世のため人のためになるのかな、と。

暗いと不平を言うよりも、 すすんであかりをつけましょう、の精神ですね。

元々、私がブログを始めた動機のひとつは、ブック・レビューをやりたいということだったのですが、今までそっちの方はあまり書けてなかったので、軌道修正する潮時かな、と。

はっきり言って、一般の雑誌や新聞に載ってるような書評は、取り上げる本の選択もいまひとつだし、内容も薄いものばかりで、ほとんど参考にならないと思ってまして、私の方がよっぽどマシなものが書けるんじゃないかと。

偉そうなことを書いてますが、当然のことながら、中身の方は私個人の能力に制約されますので、あまりレベルの高いものは期待しないでください。
「素人が読む科学書」という切り口でやって行きたいと思います。

と言うわけで、早速スタート。

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2008年9月23日 (火)

新譜2+旧譜1

新譜が色々出たので、渋谷のタワレコへ。
CD3枚購入。
落ち着いて聴く余裕がないのでどれも最初の2曲しか聴いてないけど、3枚ともいい感じ。

口口口「TONIGHT」

前作よりポップさと甘酸っぱさ2割増、という感じ。
タイトル曲は、冒頭で死んじゃって三途の川を渡る前に戻ってくるという、森山直太郎もビックリの「自殺ソング」。
エヴァ世代の「帰って来たヨッパライ」か(違うような気がする)。

TONIGHT Music TONIGHT

アーティスト:□□□,ughhellabikini
販売元:エイベックス・エンタテインメント
発売日:2008/09/24
Amazon.co.jpで詳細を確認する

I am robot and pround「uphill city」

ポップさは増したけど相変わらずの音。

アップヒル・シティ Music アップヒル・シティ

アーティスト:I am Robot and Proud
販売元:Independent Label Council Japan(IND/DAS)(M)
発売日:2008/09/17
Amazon.co.jpで詳細を確認する

Buffalo Daughter「New Rock」

これも最初の2曲しか聴いてない。
10年くらい前の作品だけど、問題なし。

他にも買いたいものはあったけど、買ってもどうせすぐには聴けないので、また後で買うことにする。

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2008年9月21日 (日)

COLUMBO! COLUMBO!

神保町に行って、何となく予感がして矢口書店に入ってみたら・・・。
出てましたよ、刑事コロンボ同人誌「COLUMBO! COLUMBO!」VOL.4が。
「COLUMBO! COLUMBO!」については以下を参照のこと。

刑事コロンボ・ファンのページ「安葉巻の煙」/The Columbo Fans' Page

出たばかりだったようで、我ながら、ジュセリーノ並みの直観力だと思って驚きましたよ。

撮影台本と実際に放送された作品の比較とか、日本語吹き替えのヴァージョン違いの比較とか、濃い内容で堪能しました。
飯城勇三氏の分析も、いつもながら鋭くて面白い。
ドストエフスキーの『罪と罰』と『コロンボ』の比較というのもあって、これもうれしい。
実は私も同じようなことをやろうと思って『罪と罰』を買ってきたところだったのですよ。

ついでだから、私自身の『コロンボ』ファン暦をちょっと書いて見ますかね。
私が始めて『コロンボ』を初めて観たのは、NHKでの放送が終了になるということで、最後に5夜連続で代表作を放送した時でした。
最初が「二枚のドガの絵」で、以降、「死の方程式」「溶ける糸」「5時30分の目撃者」「殺しの序曲」の5作。
当時の私は日本の刑事物のドラマをバカにしていたので、『コロンボ』を観るときも「アメリカの刑事ドラマがどの程度のレベルのものか見てやるか」位の上から目線でのぞんだのですが、「二枚のドガの絵」のオチを見てひっくり返ってしまいました。
これで一発でファンになり、残りの4作は夢中で観ました。

せっかくファンになったのに放送終了でガッカリしていたところ、日本テレビが放送権を取得したということを知って狂喜乱舞。
次の年の夏から「水曜ロードショー」の枠で不定期に放送されるようになり、これがいつも待ち通しかった。
当時は家にビデオがなかったので、ラジカセで音声だけ録って聞きなおしたりしてましたね。
最初は、ラインで録るということを知らなかったので、テレビの前にラジカセを置いて録っていたので、家族の声が入っちゃってました。
最初に録ったのが「魔術師の幻想」で、何度も聴き直したんで、オープニングのところの音楽を今でも憶えてますよ。

二見書房から出ていたノヴェライゼーションの方も読んでて、当時はサラ・ブックス版ではなくて、「特選」と銘打った1冊に2話収録したシリーズが出ていて、これは当然全巻そろえました。
あれって、「翻訳家」が撮影台本から書き起こしてるんで、日本の放送でカットされたシーンも入ってたりするんですよね。
先に小説版の方を読んだっていうエピソ-ドも多いですね。
石上三登志が担当した「構想の死角」なんて、オリジナルよりも改善してあって、後でテレビでオリジナルを観た時に拍子抜けしました。

好きなエピソードは、オチの衝撃度で「二枚のドガの絵」と「5時30分の目撃者」、アイディアの密度で「野望の果て」、犯人像の面白さで「祝砲の挽歌」、最初に観たときより再度見直したときの方が感動する「忘れられたスター」、といったところですね。
初期の「指輪の爪あと」とか「絶たれた音」なんかも好きだな。

監督では、「祝砲の挽歌」「5時30分の目撃者」「忘れられたスター」なんかを担当したハーベイ・ハートが好みです。

ついでに言っておくと、私は新シリーズに関しては「断固否定派」です。

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2008年9月20日 (土)

政治と芸術

あれまあ。

法華狼の日記『ビートたけしの独裁国家で何が悪い!?2~日本の未来を考えるSP~』

何が「トンデモ」だったかというと、各独裁国家紹介を終えた後の、ビートたけしと鳩山兄弟の鼎談。

まずビートたけしは、鳩山邦夫元法相の死刑執行を「断行」「偉い」と評する。

それだけならまだしも、鳩山元法相が死刑自動執行を再び主張し、残りの2人も消極的に支持。そしてビートたけしは、死刑廃止論者は法務大臣になる前に断るべき、「公務違反みたいな」ものだからと語る。鳩山由紀夫議員も「法律がありながら法務大臣が法律を守らないってのは最悪」と賛同する。

たけしには、イラク人質問題のときの発言にも失望させられたんだよな。
基本的には、政治の話と芸術の話は切り離しておこうと思うのだが、映画で死を描いてきた人間の発言だからなあ。
せっかく、北野映画熱が復活しかけていたところだったのに、ちょっときつい。

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2008年9月19日 (金)

推薦者

例によって、本屋でブラブラしていたら、甘利俊一 が監修した「脳の発生と発達 (シリーズ脳科学 4)」っていう本が棚に置いてあって、見てみたら帯に養老孟司福岡伸一の推薦文が・・・。
何かもう脱力しましたよ。
何でよりによって、この二人なんですかね
一番頼んではいけない人たちだと思うんですけど。
これに、茂木健一郎と内田樹を加えたらロイヤル・ストレート・フラッシュって言うか、ある意味最強って感じ。

ハイハイ、分かってますよ。
別に内容を保証してもらおうっていうんじゃなくて、有名人の名前が欲しかっただけなんでしょ。
出版社も商売ですからね。

だけどなあ、これが講談社とかちくまだったらまだ分かるけど、東京大学出版会だもんなあ。
もうちょっと、何とかならなかったんだろうか。

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2008年9月18日 (木)

奇妙な論理

ジュセリーノのネタが続いてしまって恐縮です。
今、長めの記事に取り掛かってるので、小ネタしか書けないのです。

スピリチュアル&心理カウンセラーDolceの徒然日記

 幸いにも、9月13日に発生すると予言された東海大地震は、起こりませんでした。話題の人、ジュセリーノ氏には、賛否両論あるようです。少なくとも、報じられているように、的中率90%というのは事実ではないと。

 このことについての私の見解です。かつて、こんな事をある先生が話していました。

「的確な予言ほど当たらない」

 どういうことでしょうか。つまり、未来のシナリオは、確定はしておらず、予言が行なわれる事自体によって、人間の集合意識、あるいは集合無意識に影響を与えるために、シナリオを変更させてしまうから、当たらない事によって、その役目を果たしたのだという。

 なので、無名なうちには、予言をしても、多くの人が知るところとはならないので、シナリオを変更できないが、有名になることで、集合意識、集合無意識に大きな影響を与えるようになるので、予言は当たらなくなるというわけです。

 まさに、ジュセリーノ氏の場合を見ても、マスコミに報道され始めてから、明らかに予言の的中率が下がっているようです。ということは、役割を果たしているということもいえるのかもしれません。

 9月13日の予言をめぐっては、日本各地で、そのシナリオをキャンセルするための祈りの集会が各地で開催されていたようです。

 ジュセリーノ氏が来日公演したときの、世界の未来は、全く暗澹たる内容でしたが、それも変更されつつあるのかもしれません。

「的確な予言ほど当たらない」

何てパラドキシカルで素敵な言葉!
シビレるわあ。

この理屈だと、当たった予言は的確じゃないってことなんですかね。
それとも、やっぱり「当たった予言は的確」ってことになるんでしょうか。
「君のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」みたいな理屈ですね。

それにしても、スピリチュアル系の人って、なんでラッセン好きが多いんでしょうね。

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2008年9月16日 (火)

当たり前

WEBザ・テレビジョンより。

モクスペ「緊急検証!世紀の大予言スペシャル?人類滅亡7の警告?」

数ある人類滅亡の予言の中でも信ぴょう性の高いと思われるものを、ユースケ・サンタマリアが紹介していく。最も近い予言は「2012年滅亡説」。その根拠はマヤ文明の暦に刻み込まれているという。そして注目されているのは、ジュセリーノの予言の「2043年に人類は滅亡する」。これまで「ノストラダムスの予言」をはじめ数多くの人類滅亡の予言が存在したが、当たったことはない。ゲストは、伊集院光、次長課長、須藤元気、大沢あかね、木下優樹菜、柳原可奈子。

この期に及んでジュセリーノを「信ぴょう性の高いと思われるもの」に入れるのかね。何考えてんだか。

これまで「ノストラダムスの予言」をはじめ数多くの人類滅亡の予言が存在したが、当たったことはない。

当たり前だーーーー!!!!

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新譜色々

今月は、私の好きなアーティストの新譜ラッシュになっちゃってますな。

ブライアン・ウィルソン
I AM ROBOT AND PROUD
AOKI TAKAMASA
□□□
クレア&ザ・リーズンズ(日本盤)

ブライアン・ウィルソンはもう出てるんですね。
なかなか評判もいいようで楽しみ。
AOKI TAKAMASAは、前作はハウスっぽい軽めのサウンドでピンとこなかった。
前々作の『SIMPLY FUNK』は、傑作だったのだが。
ラジオで1曲だけ聴いたヤツは良さげだったけど、さて。
BOOM BOOM SATELLITESのDVDも出てるな。

来月はフアナ・モリーナも出るぞ。

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2008年9月15日 (月)

SENSE OF WONDER 2008.9.14

2日目のみ参戦。
ちゃんと観たのは、LITE、BAFFALO DAUGTER、ウリチパン郡、珍しいキノコ舞踊団、BUFFALO DAUGHTER、GOLDEN PINK ARROW♂、REI HARAKAMI、AMETSUB、GUTEVOLK+KAZUMASA HASHIMOTO。

10時開演だったので、9時半頃に会場に行ったのだが、やけに空いている。
去年は、入り口のところから延々行列が出来ていたのだが。
観客がまばらなまま、演奏開始。

LITE

いい演奏だったのに、観客が少なくてちょっと気の毒だった。
一番手はつらいねえ。

BUFFALO DAUGHTER

観客も増えてきて、やっとフェスらしくなる。
BUFFALO DAUGHTERは全然聴いたことなかったんだけど、メチャクチャかっこよかった。2曲目は、珍しいキノコ舞踊団(後出)の踊りつきで、ステージ上に異空間が現出してました。

ウリチパン郡

ウリチパン郡って、こんなに人気あるんだ?と驚いた。
SUN SHOWER FIELDとしては、観客も多く、反応もいい。
かなり盛り上がった。

TSUJIKO NORIKOを観ようと思ったのだが、・・・重い。
重すぎます、情念が。
気分に合わなかったので、2曲だけ聴いてNATURE FLOW FIELDに移動。

珍しいキノコ舞踊団

BAFFALO DAUGTERのときも出てきたけれど、名前の通り、バンドではなくダンスの人たちです。
女性のみで7,8人の構成。
最初のうちはボンヤリ見ていたのだが、妙な動き(としか言いようがない)と踊りのアンサンブルにだんだん引き込まれていった。
シュールなマンガを見ているような気分。
トニー谷の曲を使っていたのには笑った。

GOLDEN PINK ARROW♂

ちょうど演奏が始まる頃に雨が降り出してきて気の毒だった。
ボーカルの女の子がかっこいいなあ、と思って観ていたのだが、帰ってから調べて、ACOであることを初めて知る。
予備知識全然なしだったので。

REI HARAKAMI

幸い、雨はあがって、いつも通り(と言ってもライブは過去に一度観ただけなのだが)飄々とした感じで登場。
ロック色の強い演奏を聴いた後だったので、クリアな電子音が心地よい。

AMETSUB

良かったんだけど、ラップトップ・ミュージックで40分間ノンストップっていうのは、聴いてる方からするとちょっとキツイかな。

GUTEVOLK+KAZUMASA HASHIMOTO

最初の方は音がグシャグシャでボーカルが聴こえにくくて残念。
「PICNIC」からは聴きやすくなってホッとした。
途中からダンサーの寺本綾乃登場。
最後の曲では、星空の映像が映し出されて、『星の行方』の公演を思い出す。
メルヘンチックな雰囲気で終わったのだけど、演奏終了後、100枚限定の無料CDを配布する、と告げられた途端に争奪戦開始。
私は、こういうときは引いてしまうタチなので、サッと帰りました。

私的には、ベストはBUFFALO DAUGHTERかな。
次点はウリチパン郡。
前にライブを観たことがあるアーティストだと、どうしても要求レベルが高くなって評価が辛くなってしまうのです。
珍しいキノコ舞踊団も収穫でした。

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2008年9月13日 (土)

行ってきます

SENSE OF WONDERで山中湖に行ってきます。
月曜に帰ってきます。

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2008年9月12日 (金)

明日

ハイッ、明日は岡崎市で大地震が起こる日ですね。
岡崎市周辺の人達は、できるだけ大騒ぎして親戚の家にでも避難したほうがいいですね。
そして、大恥をかいて二度と予言など信じないぞ、と思うようにしていただきたい。

あ、ダメか。
イマドキ予言なんか信じてるのは、ノストラダムスのときで懲りなかった学習能力のない人達だからな。
きっと、また別の予言者に振り回されるのでしょう。

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2008年9月11日 (木)

特別な人たち

a day in the life of mercy snow より。

「ザ・ベストハウス123」(9/10放送)は茂木健一郎プレゼンツ「スゴイ脳スペシャル」。好評につき未公開映像付きで再放送ということらしい。
 スゴイ脳とはサヴァン症候群のことで、冒頭に「アインシュタインやモーツァルトもサヴァン症候群だったといわれている」とある。その論拠は(番組では紹介されていないが)奇矯な行動をとったからだって。

 天才や変人はいまや「脳がちがう」とみなされるんですなあ。

 こういう話を見聞きするといつも思うのは、「サヴァンではない平凡な自閉症患者はどうすりゃいいんだ?」ってこと。
 茂木健一郎は「脳の個性を認めてほしい。自分とは関係のない特別な人だって思わないこと」と語っていたが、それは平凡な自閉症患者に対して思うべきことだろう。
 この番組に登場した人たちはみんな特別だよ。特別な才能を持っているから注目されるわけだ。これは「モーツァルトは天才だ」というのと同じで、なにひとつ差別的ではないよ。

激しく同意。

この番組を見て「茂木健一郎がいいことを言っていた」みたいなことを言う人間がたくさんいることに、どうしようもなく苛立ちを感じる。

それから、モギケンって前から天才崇拝ぶりがヒドイよなあ。
読んでるほうが恥ずかしく感じるくらい。

この回に関しては、他にもイチャモンをつけたいことがあるのだが、また後で書くことにする。

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2008年9月10日 (水)

9月13日

あーあ、もう逃げを打ってるじゃん。

http://mobile.seisyun.net/cgi/agate/hobby11/uranai/1218536815/1/a

1:名無しさん@占い修業中
08/08/12 19:26:55 ghJcZSCG
ジュセリーノ予言の東海大震災は回避された?
※予言ソース 公式HP運営 ジュセリーノ友の会 大作会長

あのブラジルの大予言者・ジュセリーノが予言した
2008・9・13東海大地震が日本中に不安を蔓延させている
が、明るい希望も出てきた。この9・13の東海大地震が一年先送り
されたとジュセリーノ氏が発言したのだ。3万人の被災者を生み、
マグネチュード8.6の規模である今回の地震が来年に延びた
となるとうれしいかぎりだが…。この一年先送りという情報は、
ジュセリーノ友の会の大作会長(歯学博士)から、筆者・山口敏太郎に
寄せられたものである。大作博士によると、来日中のジュセリーノから
「どうやら地震が一年延びたようだ」という発言が飛び出したのだという。

5 :キセキ:2008/08/06(水) 14:29:21
9/13の名古屋/岡崎での地震は起こりません洞爺湖サミットに裏参加
されたジュセリーノさんですが、(関係者以外の民間人であのホテルに
宿泊した人はごく少数でしたまた、国会議員の方達にも後日講演されています)
その後、7/14東京四谷エイトスターで開催された講演会でこんな発言がありました、
”青森で地震があれば、今年9月名古屋での地震は起こらない”と
プレートの歪が解消されて起こらなくなるのか、それ以上のなんらかの
摂理で起こらなくなるのかは解らないが彼はその様に発言しています
7/24に岩手北部地震(震度6強)が起こっていますね
青森との県境ですので、解消されたと解釈していいのでは

姑息だなあ。

相変わらず「岡崎 ジュセリーノ」で検索してくる人多し。
うっとおしいなあ。
さっさと9月13日が過ぎてほしい。

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また何か言ってるよ

これも「週刊文春」。
福岡伸一の連載で、「天才は遺伝するか?」というタイトルの文章。

キリンの首はなぜ長い?キリンは高いところにある葉っぱが食べたくて、首をのばそう、のばそうと日々、そして世代を越えて努力しつづけました。こうしてキリンの首はだんだん長くなっていったのです。
 今日の生物学において、このような説明の仕方は、あっさり、きっぱり、完膚なきまでに否定されている。生物の成り立ちにおいて、必要なものが発達し、不要なものはすたれていくという考え方、いわゆる用不用説を唱えたのはフランス革命期の学者ラマルクという人物だった。一見、この説は合理的に見える。しかし、致命的なのはそのためのメカニズムが生物には存在していないということだった。
 それはこういうことである。生物は、努力によって自らを変えることができる。生物は、そのような可変性のとても大きなキャパシティを持っている。たとえば、ひよわな昆虫少年だった福岡ハカセが、あるとき、よし、モテ男になってみんなを見返してやる!と一念発起して、激しいトレーニングを自らに課し、苦しい鍛錬をたゆまず続けて、筋肉隆々の見事なボディを作り上げた(としよう)。ヒトは変わろうと思えばこんなにも大変身することができるのだ、と鏡にうつった自分にほれぼれした(としよう)。しかし、かなしいかな、苦労の末、獲得した特性は、決して自分の子供に、つまり次の世代に伝えることはできない。いくら自分を改造してもそれは一代限りのものであって、その変革の結果は、精子もしくは卵子の情報には全く反映されないのである。これを「獲得形質は遺伝しない」という。ラマルクの後、ダーウィンが打ち立てた進化生物学の金科玉条であり、これによってラマルクは葬りさられたのである。

ハイ、福岡先生、獲得形質の遺伝をハッキリ否定していただきました。

結構なことです。
しかし、川上未映子との対談のときは、何でああいう変な含みを持たせるような発言をしたんですかね?

で、続きは?

  ダーウィンによれば、遺伝するのは、精子もしくは卵子が運ぶ情報だけであり、もし何らかの変化が起きるとすればそれは個体の努力とは全く関係のない、情報の伝運上に起きたごく些細な変異であるという。つまり精子もしくは卵子が作られるときに生じた、ランダムな誤字・脱字だけである。それは方向を持たない、ランダムな形質の変化を次世代にもたらす。その中で、環境に適合した変化だけが、すなわち次の世代を残すのに役立つ形質だけが選抜される。こうして生物の形質はすこしずつ変わっていく。だから、キリンの首が長くなったのも、そもそもは偶然に起きた遺伝子上の変異であり、それがたまたま繁殖に有利に働いたため現在に至る、とダーウィニズムは説明する。

フム。
それで、福岡センセイはダーウィニズムについてはどうお考えなんですか?

 では、たとえば、一流ハンマー投げ選手の子が再び一流ハンマー投げ選手に、不世出の名騎手の子がまた不世出の騎手になっている。あれは遺伝ではないのか。遺伝ではないと福岡ハカセは思う。一流プロの子弟が同じ道の一流プロとなっている数多くの例は、一見、DNAが伝わっているように見えるけれど、実はプロを育てる「環境」が伝えられているのだ。

ハァ?

 それに関してこんな調査がある。一流と呼ばれる人々は、それがどんな分野であれ、例外なくある特殊な時間を共有している。幼少時を起点としてそのことだけに集中し専心したゆまぬ努力をしている時間。それが少なくとも10000時間ある。一日三時間練習をするとして、一年に10000時間、それを十年にわたってやすまず継続するということである。その極限的な努力の上にプロフェッショナルという形質が獲得される。それをあえて強要する環境が、親から子へ伝わっているのだ。

......福岡センセイ、ダーウィニズムの話はどこに行っちゃったんですか?
もしかして、才能は遺伝しないから、ダーウィニズムは成り立たない、とでも言いたいんですか?

 そう思うと別の、ある事実が納得できる。一国の主に限らず、議員でも会社でも芸能界でも、どんな組織にあってもいわゆる二世、三世はおしなべて、なぜ、かくも弱く、薄く、粘りがないのか。それは外形だけは親から伝えられるものの、肝心の10000時間の内実が与えられていないからである。

ハァ。
二世、三世議員の話になっちゃいましたか。

ところで、福岡センセイ、10000時間ウンヌンの話は、8月21日の日経夕刊に書いたコラムとまるっきり同じネタですよね?

 こんな調査がある。スポーツ、芸術、技能、どのような分野でもよい。圧倒的な力量を誇示するプロフェショナルというものが存在する世界がある。そんじょそこらのアマチュアなど全く寄せ付けないプロフェショナルたち。そのような人たちがいかにして形成されたのか。それを調査したものである。
世界的コンクールで優勝するピアニスト、囲碁や将棋の名人たち、トップアスリート。彼ら彼女らについて、ふつう私たちは半ばため息をつきつつ、次のように感じている。あのような人たちは天賦の才能の持ち主なのだ。われわれ凡人とはそもそも出来が全く異なるのだと。
 ところがプロフェッショナルたちの多くはみな、ある特殊な時間を共有しているのである。10000時間。いずれの世界でも彼ら彼女らは、幼少時を起点として少なくとも10000時間、例外なくそのことだけに集中し専心したゆまぬ努力をしているのだ。10000時間といえば、1日3時間練習をしたりレッスンを受けるとして、1年に1000時間、それを10年にわたってやすまず継続するということである。その上に初めてプロフェッショナルが成り立つ。
 DNAの中には、ピアニストの遺伝子も将棋の遺伝子も存在してはいない。DNAには、人を生かすための仕組みが書かれてはいるが、いかに活かすかについては一切記載はない。プロの師弟はしばしば同じ道に進むことが多く、それは一見、遺伝子のように見える。けれどもおそらくそうではない。親はDNAではなく環境を与えているのだ。やはり氏より育ち。DNA研究者の偽らざる感慨である。

日本経済新聞 夕刊『10000時間』2008.8.21

どういうわけか、福岡センセイは「こんな調査」と書いただけで、誰の研究かさえ書いてませんけど、コレですよね?

The Role of Deliberate Practice in the Acquisition of Expert Performance
K. Anders Ericsson, Ralf Th. Krampe, and Clemens Tesch-Romer

それにしてもですね、上の理屈はなんかヘンじゃないですか?
あたかも、10000時間練習すれば誰でも同じようなレベルに達することができるかのような書き方をしてますけど、そんなわけないですよね。
10000時間の練習っていうのは単なる必要条件であって、10000時間練習しても才能が開花しない人はいますよね。
それじゃあ、才能が開花した人としなかった人の違いはどこにあるのか?
当然、遺伝的要素も考えなくちゃいけなくなりますよね。 (*1)

要するにですね、福岡センセイは日経のコラムで書いたネタを使いまわしたワケですね。
だけど、「10000時間」だけ書いてしまうとそのことが露骨に出てしまうから、前後にダーウィニズムと二世議員の話をくっつけて無理やり別のネタに仕立て上げたわけですね。
で、無理やりくっつけちゃったもんだから、論旨不明確なオカシナ文章になってしまった、と、こういうワケですね?

まあ、当然ですよね。
自分の専門分野だけで、素人が面白がりそうなネタなんて、そういくつも見つけられるわけないですよ。
そうなったら、後は、養老孟司のように、学問とは無関係な放言を撒き散らすか、茂木健一郎のように、どんな話題でも、「クオリア」だの「ミラーニューロン」だの自分の専門分野の話に無理やり結びつけてみせるか、どちらかしか道はないですね。

ああ、福岡センセイには、もう「動的平衡」とか「狂牛病」というレパートリーがあったんですよね。
牛肉の問題とサブプライム問題を結びつけて語れるくらいだから、いくらでもコジツケることはできますよね。

 昨今、挽肉の偽装や、毒入り餃子などの問題が明らかとなりました。挽肉も餃子も練りものです。練りものは、自分で作れば、そこに何かどれくらい入っているかわかりますが、誰かほかの人に作ってもらうのを任せてしまったら、そこに何かどれくらい入っていて、どのように調理されたかというプロセスが、まったく見えなくなってしまいます。
 牛肉店や焼肉店でも、アメリカ産が怪しいというので、狂牛病が発生していないオーストラリア産やニュージーランド産に切り替えたところが多くありますが、使っている肉は、牛肉といっても、けっして上等なものばかりではありません。なかには、横隔膜に付随している骨に張りついた腱のような部分を機械的に引きはがして、それを薄く切って濃い味つけをし、混ぜ合わせたものなどもあります。
 ファストフードの安いハンバーガーには、一個あたり五〇〇頭の牛の肉が入っていることもあるといいます。牛肉の格安の部分をいろいろなところから集めて、巨大なシステムの中で混ぜ合わせ、均一化し、量産する、見えないプロセスがあるのです。
 安い価格を実現するためにプロセスがブラックボックスになっていること、練りもののようなものに取り囲まれ、混ぜるということに対して非常に鈍感になってしまっていることは、現代の食をめぐる、大きな問題です。
 食だけではなく、サブプライム問題も、ある意味で端的に練りものです。サブプライム問題は、ひょっとしたら不良債権になるかもしれないローンを、ほかのさまざまな債権とぐちやぐちやに混ぜて細分化し、債権商品として全世界に売りさばいたことに端を発しています。その中に非常に不良な債権が含まれていて、たくさんの債権で希釈してしまえば、不良債権のリスクも薄まり、見えなくなってしまうと考えたわけです。ところがそのリスクは狂牛病と同じように、人々の心の中で不安となって増殖し、全体を損ねてしまいました。
 このようにして、私たちの身の回りにあるものは練りものだらけで、その中に何かいったいどれくらい入っているかは、まったくわかりません。だからこそ、プロセスが見えないものを、いかに見えるものに変えていくかが非常に大事なのです。
 
『生命と食』

ま、毎回ネタを探すのは大変でしょうけど、連載ガンバッテください。

(*1)以下の「Comments and Questions」も参照のこと。

http://www.jimdavies.org/summaries/ericsson1993.html

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「週刊文春」星取表

「週刊文春」のシネマチャートで、『アキレスと亀』が、おすぎと斎藤綾子が星ひとつで残りの三人が星4つ。

私は、中野翠と芝山幹郎がほめておすぎがけなしていたら「面白い映画なんだろうな」と思うし、中野翠と芝山幹郎がけなしておすぎがほめていたら「つまらない映画なんんだろうな」と判断することにしている。
中野翠は、政治や社会問題について書くと救いようがないほど愚劣だが、映画に関しては割合に洗練された趣味を持っていて、それなりに信用できると思う。
この人は映画と落語のことだけ書いていたほうが世のため人のためになるんじゃないだろうか。
斎藤綾子の評価はどうでもいい。

と言うわけで、『アキレスと亀』はちょっと期待できそうなのである。

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2008年9月 9日 (火)

「理系SF」作家

SFムーンストーン enziの日記経由で。

瀬名秀明の時空の旅

しかし第1章は茂木健一郎氏の担当なのだけれど、読んでちょっと愕然としました。自社のシンポジウムで、しかも聴衆はプロの研究者たち、知能ロボット研究のエッジが集まるこのシンポジウムで、なぜこんな生ぬるい話をしますか。東工大の学生さんたちとやったらしき研究について言及しているものの、ちゃんとしたデータひとつ見せるわけでもなく、ざっとかいつまんで紹介するだけ。いい研究なのかどうかさえ読者には判断不能で、これじゃ実験やっている学生も浮かばれまい。原稿は講演をただテープ起こししただけで、しかも内容を補足するコラムは編著者の藤田さんが担当している。茂木さんはもう科学者であることをやめてしまったのだろうか??

野尻ボード  野尻抱介 2006年05月25日(木)14時26分27秒 の発言。

>ソニー・インテリジェンス・ダイナミクス2006レポート
 印象批判になっちゃいますが、私は茂木健一郎という人を信用してないです。反証不可能なことをべらべら語っては文系的混沌を生産するばかりの人に見えるので。シンポジウムで彼が出てくると全体の信頼性評価を下げてかかります。このレポートも「また茂木か」と思って読むのをやめかけました。
 が、後のほうの記事は興味深い……かな。100万回繰り返さないと学習しないニューラルネットなんて、十年一日な感じもしましたけど、もっと評価したほうがいいんでしょうか。

  ウム、日本の「理系SF」作家の判断は健全ですな(<-ビミョーに上から目線な言い方)。
  山田正紀は「文系SF」の人だからなあ。
 
  ところで、科学寄りの人は茂木健一郎のやってることを、「あれは科学じゃなくて哲学だから」みたいな言い方をすることがあるんですが、哲学側から見てもモギケンの言ってることは、ほとんど無意味なんで、そこのところ誤解しないようにしていただきたいですね。
  確かに、哲学やってる人間の中には、科学に無知で無駄なヘリクツをひねくり回してだけの連中がたくさんいますけど、哲学全てが役に立たないナンセンスってわけじゃないですから。

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2008年9月 8日 (月)

「池田信夫被害者の会」

切込隊長BLOG(ブログ) 「池田信夫被害者の会」に見る典型的なネット界の陶片追放

 個人的には、池田信夫氏が登場する話題や争論や組織は、予定調和的に必ずぐちゃぐちゃして、つまらぬものが面白くなる傾向にあるので、遠くで池田信夫無双が繰り広げられている場合は愉しく行方を見守るのがブログ界の流儀になっているものと思っていました。実害がないですからねえ。

  ネット上でデタラメな情報を撒き散らしてる時点で、世の中に害を与えていると思うんですけどね。
  この人は、そういう風には考えないんだろうか。
  金や仕事にからんだ話じゃないと「実害」だと思わないんですかね。

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2008年9月 6日 (土)

宮崎駿と諸星大二郎

『ポニョ』は観てないんですが、諸星大二郎ファンが観ると「ポニョは『栞と紙魚子』のクトルーちゃんだ!」と思うみたいなので、参考までにちょっと見てみましょう。

クトルーちゃん一家、というか段一知先生一家の図。
人間のお父さんと化け物(?)のお母さんの間に生まれた女の子。

Simiko3

クトルーちゃん暴走。
テケリ・リ!
テケリ・リ!

Simiko2

このあたりも『ポニョ』っぽいのかな?

Simiko1

Book 栞と紙魚子殺戮詩集 新版 (眠れぬ夜の奇妙な話コミックス)

著者:諸星 大二郎
販売元:朝日新聞社出版局
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2008年9月 5日 (金)

吉幾三

で、吉幾三と言えば。

俺ら東京さ行ぐだ ほ~ら言わんこっちゃねぇREMIX

懐かしい!

昔、坂本龍一の「サウンド・ストリート」でこの曲がかかって、録音したカセットを何度も聞いたので、よく憶えてる。
もう、20年以上前になるのか。

私の聞いたヤツは後半の部分がなくて、もっと短かったと思うんで、Short Versinか何かだったんですかね。
それとも詞の内容がヤバイから編集されちゃったのか。

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日本語のラップ

ラップと言えば、こんなヤツを耳にしてしまいました。

Hi-Prix  太陽にほえろのテーマ~うちらいい感じ~

何なんですか、このズンドコ感。

明らかにHALCALIフォロワーなわけですが、
HALCALIが日本語のラップに設定した水準を軽々と下回っています。

『DA・YO・NE』の頃を通り過ぎて、むしろ吉幾三に近いレベルまで退化してしまってます。

ラップのスキルもヒドイが、作品自体もヒドイ。
「イマドキの女子高生ってこんなもんだろ?」っていう感じで想像力の貧困な大人が書いたとしか思えない詞もヒドイし(そもそも「うちらいい感じ」って・・・)、ネタの使い方のセンスも最悪。
とにかく、あらゆる面でダメ。

ということで、HALCALIの方を聴いてみようじゃないですか。

HALCALI - Ongaku NO Susume

これはきっとアレですね、HALCALIがいかにレベルが高いかを世間の人間に気付かせようというレコード会社の陰謀ですね。
そうとでも考えないと、腹が立ってしかたがない。

ついでに、細野晴臣が日本のラップについて語っているのを聴いてみましょう。
(なんか、ロードにやたら時間がかかるんですけど)

SEAMOの曲に対する反応が笑えます。

日本のラップって、「両親に感謝」だの「友達に感謝」だの、半径5メートル以内のことしか出てこないものばかりになっちゃいましたよね。
どうしてこうなっちゃうのかなあ。

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理系ラップ

kikulogで話題の「理系ラップ」ですが。
ちょっと前に、アル・ヤンコビックでこんなのもありましたねえ。

"Weird Al" Yankovic - White & Nerdy

「理系ラップ」と言うより「理系オタク・ラップ」ですが。

日本版Wikipediaに詞の解説があるっていうのもすごい。
私としては、「オレの好きなMCは、MCエッシャー」っていうところがツボ。

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2008年9月 3日 (水)

ジュセリーノ 岡崎市

最近、「ジュセリーノ 岡崎市」で検索してくる人が多くてうっとうしいです。
この際だから、ハッキリ言っておきますが、

いい大人が予言なんぞ信じるな!

笑われますよ。

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日本語の乱れ2

小松 英雄の「日本語はなぜ変化するか―母語としての日本語の歴史」から、もう少し。
「日本語の乱れ」に対する嘆きは『徒然草』の時代にもあったという話。

 若い世代の人たちのことばづかいについて、年長の人たちが、なかでも教養階級の人たちが批判的であることは、いつの時期にも恒常的にみられる現象である。たとえば、『徒然草』に、つぎの一節がある。

  ○何事も、古き世のみぞ慕はしき、今様はむげに卑しくこそ、なりゆくめれ、(略)文のことばなどぞ、昔の反古どもはいみじき、ただ言ふことばも、くちをしうこそなりもてゆくなれ、いにしへは、車もたげよ、火かかげよ、とこそ言ひしを、今様の人は、もてあげよ、かかげよ、かきあげよ、と言ふ、(類例略)くちをしとぞ、古き人はおほせられし
                    [第22段]

「いにしへ」には、そういう卑しい言いかたをしなかったものだと「古き人」が慨嘆しておっしゃった、ということである。現今の老人だちと同じように、14世紀の老人たちもまた、イマドキの若い者は、と慨嘆している。懐古主義者は必ず純粋主義者である。

「古き人」にとっても兼好にとっても、正しいのはイニシヘのことばであった。一般化するなら、年輩の人間にとっては、自分の生まれ育ったことばが無条件に正しく美しいことばである。そのあとに生じた言いかたは、無条件に誤りであり、また、汚いことばである。それは、すべての言語共同体に例外なく当てはまる汎時的原理である。
 以上の一般論に加えて、この事例については、二人を「くちをし」と慨嘆させたもう一つの要因がある。それは、世間一般と同じことばづかぃをしたのでは、最上層階級の高稚な雰囲気が保てなくなってしまうという危機感である。
 「今様はむげに卑しくこそなりゆくめれ、(略)ただ言ふことばも、口をしうこそなりもてゆくなれ」というのは、いつの時代にも、老人が若者に対していだく素朴な不信感の表明にすぎない。
 ことばは心の鏡である、このままでは日本語がダメになる。日本のよき伝統が失われる、という現代の純粋主義者の危機感も、「古き人」や兼好の「くちをし」という慨嘆も、基本的認識において共通している。『枕草子』にも、当時の新しい言いかたについての批判が述べられているが、これもまた、「古き人」や兼好などと同様の反応である。

「最近の日本語は乱れている!とか主張する」と、「国語学者がニヤニヤする」のも当たり前ですね。
世の中には、「柔道」と「JUDO」は違う!とおっしゃるような「純粋主義者」もいらっしゃるようですが。

ま、現代社会と「日本語の乱れ」を結び付けるような議論には、マユにツバをつけておいたほうがいいですね。

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2008年9月 2日 (火)

日本語の乱れ

小学校笑いぐさ日記 「最近の日本語は乱れている!」とか主張すると、なぜ国語学者はニヤニヤするのか。

 日本語では、古くは、「はひふへほ」という字を書いて、「パピプペポ」と発音していました。

元ネタをばらしてしまって申し訳ないんですが、コレですね。
青空文庫にあります。

古代国語の音韻に就いて   橋本 進吉  
 
  ハ行の音は、これは明らかに今日のような「ハ、ヒ、フ、へ、ホ」でなかったのであります。今日のハヒフヘホのような音は古くから支那にあって、今でも支那および朝鮮の漢字音にそのまま残っております。例えば「上海(シャンハイ)」の「海」はhai、「漢口(ハンカオ)」の漢はhanで、大体日本の現代のハの音と同じです。かような音が古く日本へはいって来た時、もし今日のような「ハ」の音が日本にあったなら、これをそのままハと発音して、「は」にあたる仮名で書いたでしょうに、これをカの音にかえて、「海」をカイ、「漢」をカンと読み、今日まで、その音で伝わっております。そういう点から見ると、古代には、今日のハヒフヘホのような音はなかったことがわかります。それでは今日のハヒフヘホにあたる古代の音は何であったかというに、それは唇をすぼめて発する「ファ」「フィ」「フ」「フェ」「フォ」の音であったと思われます。この音が平安朝において語の中および終において「ワヰウヱヲ」の音に変ったのですが、ワ行の音はwで初まる音で、wは唇を合せて発する音ですが、唇音の「ファフィ」などの音も、やはり唇を合せて発する音で、ハ行音がワ行音にかわったのは、唇の合せ方が緩(ゆる)くなったのであります。かような点からも唇の音であったことがわかります。その後、室町時代の末においてもそうであったことは、西洋人がハ行音を fa fi fu fe fo と書いているのでもわかります。そうして現に日本の方言にも東北地方や沖縄の方でも出雲(いずも)地方でもハ行音を「ファフィフェ」など言うのは、昔の音が田舍(いなか)に遺(のこ)っているのです。しかし、ずっと古い時代には、ハ行音はむしろ「パ、ピ、プ、ペ、ポ」であったろうと思われるのでありまして、それが「ファフィ……」となり、更に後に今のような音になったと認められます。パピプペポと発音したのはいつであったかよく判りませぬが、奈良朝ではもうファフィフフェフォになっていたのではないかと思います。パピプペポと発音するのは、今でも沖縄の田舍に残っております。

  「ハヒフヘホ」が「パピプペポ」だった、といったような話は、どちらかと言うとトリヴィアで、過去の発音をどうやって推測するか、ということの方が面白かったりする。
  現在の研究でどうなっているかは知りませんが。
 
  ついでに、こういうのも。

日本語はなぜ変化するか―母語としての日本語の歴史
小松英雄 (著)

  タイトル通りの内容の本です。
  日本語の変化の一例として、一冊のうち約三分の二近くの分量を費やして、<ら抜き言葉>が成立するに至る過程を説明しています。
  どうしてレルが可能を表すようになったのかも説明されていますが、要約するのが難しいし、要約してしまうと、この本の面白さが伝わらなくなってしまうので、「実際に読んでみてください」と言うしかないです。
  いわゆる「日本語の乱れ」についても書いてあるので引用しましょう。

   繰り返し述べてきたように、古い世代の人たちが「本来の形」であると思いこんでいるのは、自分かちが育った時期の語形や表現である。
そうだとしたら、若い人たちにとっての「本来の形」は、まさに、古い世代の人たちが<乱れ>として排除しようとしている新しい語形や表現にほかならない。その関係は永久に繰り返される。
 新旧両形の併存を<ゆれ>として客観的に受け止めておけば周囲を巻き込むことはないが、近頃の汚い言いかたは嫌いだという「価値判断」のもとに<乱れ>と決めつけて、「本来の形」に戻せと主張しはじめると、古い世代の同調者が少なくないだけに問題が紛糾する。
 過去に生じた変化に対してはきわめて寛大であり、目前に進行しつつある変化には過敏に反応して、懸命に引き戻そうとするのが <世のならい>である。筆者自身、日本語史の研究に携わっていても、一方では、老人の感覚を確実にもっているから、新しい言いかたには、抵抗を覚えることもないではない。しかし、学校教育を利用して言語史を逆流させようとするのは愚かなことである。成功するはずもないし、させるべきでもない。
  ミラレルという「本来の形」が正しく美しい日本語であると主張する前に、そのミラレルが、そもそも、なんの規制も受けずに自然に発達した語形であり、五百年も千年もまえから使われていた語形ではないことに思いをいたすべきである。

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ジョアン

こちらも伝説の人、ジョアン・ジルベルトの来日決定ということで、さっそく買っちゃいましたよ、チケット。
実は過去の来日公演は観てないんですけどね。
ライブ盤なんかを聴いてみると、90年代の時点でも声の衰えは否定しがたい感じだったので、観に行って気まずい思いをするのもイヤだなあ、と。
しかし、まあ、5年間で4回の来日ということで、よっぽど日本が気に入ったんだなあと。
ブラジルでは5年ぶりの公演と言うことで、チケット争奪戦になったそうで。
ありがたいことなので、とうとう行くことに決めました。

ということで、名曲「ESTATE」をどうぞ。

こちらは、作者のBruno Martinoのヴァージョン。

Bruno Martino - ESTATE (Odio l'estate, 1960)

なんか、007の映画のオープニングみたいな雰囲気ですが。
これもいいけど、やっぱりジョアンのヴァージョンの方が好きだな。

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スライ

スライ&ザ・ファミリー・ストーンの来日公演、ちゃんとスライ・ストーン様も出演されたそうでメデタシ。
私は8割くらいの確率でやってこないだろうと思ってたので(笑)。
観に行った人の書いたものをいくつか読んでみたら、「スライが立った!(泣)」みたいな感じの人が多くて、おかしかったけど。
まあ、伝説の人だから無理もないですね。

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