ディスレクシア
このブログで、読字障害に関する本である『プルーストとイカ』のことを書いた矢先、養老孟司がまた馬鹿な発言を。
私はこの男を心の底から軽蔑する。
これについては、また後で書く。
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このブログで、読字障害に関する本である『プルーストとイカ』のことを書いた矢先、養老孟司がまた馬鹿な発言を。
私はこの男を心の底から軽蔑する。
これについては、また後で書く。
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今年も残すところ1ヶ月ちょっとだが、今年私が読んだ本のワーストはほぼ決定である。
メアリアン・ウルフの『プルーストとイカ』である。
これについては、また後で書く。
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404 Blog Not Found 読書論の極北 - 書評 - 読んでいない本について堂々と語る方法
1.気後れしない - デイヴィッド・ロッジの小説にもあるように、読んでいない本について語るための第一の条件は気後れしないことだという話。
2.自分の考えを押しつける - バルザックが示しているように、書物というものは普段に変化する対象であり、インクに浸した紐をかけてもその変化を止めることはできない。それだけに書物について自分の視点を押し付けるのは簡単だという話。
3.本をでっち上げる - 漱石の小説を読みながら、一匹の猫と一人の金縁眼鏡の美学者が、活動分野はちがうもののいずれも大ぼらを吹くさまを観察する。
4.自分自身について語る - オスカー・ワイルドとともに、一冊の本を読むのに適した時間は一〇分であると結論する。これを守らなkレバ、本との出会いはなによりも自伝を書くための口実ということを忘れかねないからである。
既に実践してるんだから読む必要なかったんじゃないの?
あっ、読んでないからいいのか。
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僕の言ってること、なんかおかしいですか?
おかしいです。
ということで
【ニセ科学批判批判者の資質を問うためのテスト】
リンク先のニセ科学批判批判のおかしなところを説明しなさい。
注1)出題の意図は、回答者側で推測してください。
注2)正解は、みなさんの回答を見てから考えます。
注3)最終的な正解を発表するかどうかは、確約しません。
注4)出題者は勝ち負けにこだわるので、そのつもりで。
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日本で一番ノーベル賞に近い脳科学者だかエッセイストだかキャスターだかであらせられるところの茂木健一郎先生のお友達、竹内薫先生もトンデモ方面での営業にいそしんでおられる模様。
大きく考えるための小さな本
フレッド・アラン・ウルフ (著), 竹内 薫 (翻訳)
原著
Dr. Quantum's Little Book Of Big Ideas: Where Science Meets Spirit
Fred Alan Wolf
内容紹介
アメリカで500万部超『ザ・シークレット』に登場する天才物理学者による人生論を、大ベストセラー『99.9%は仮説』の竹内薫氏が翻訳!
コンピューターや携帯電話は「量子物理学の法則」のもとに発明されました。では、コンピューターや携帯電話を動かす量子物理的な考え方とは、いったい何なのでしょう? あなたの考えや思いは世界に影響を与えており、考えや思いがなければこの世界は存在しません。本書は、量子力学を「理論」としてではなく、「考え方」として楽しく理解できる一冊です。さあ、物理学を哲学してみませんか?「身近な比喩になるが、実はわれわれ人間の心の状態が、量子の状態に似ている。たとえば、好きな人と話をするとき、心臓がドキドキするけれど、嫌いな人と一緒にいると、おなかが痛くなる。同じ話をするにしても、相手によって、われわれの心の状態は変わってくる。それと同じで、量子の状態は、どんな観測装置を使うのかによって変わってくる。他人が自分の心に影響を及ぼすように、観測装置が量子に影響を与えるのだ」(「訳者まえがき」より)
出版社からのコメント
編集担当者の私も量子力学なんてわかるはずもないと思っていたのですが、この本を読んでだいぶ見方が変りました。宇宙っていくつもある。物事は見ている人がいるからこそ存在する。「思いや考えは物質化する」などということも物理学的に見て正しいことがわかります。20年前に読んでおけばぼくの人生も変わったかもしれません。いや、これから変えよう!
ハイ、また出てきましたね、『ザ・シークレット』。
「思いや考えは物質化する」って、スピリチュアル界隈ではよく聞く言葉ですね
それじゃあ、フレッド・アラン・ウルフについて調べてみましょうか。
フレッド・アラン・ウルフ
アメリカの理論物理学者。量子力学の一般向けのわかり易い著書や講演では定評がある。UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)で博士号をとったあと、サンディエゴ州立大学で教授として教鞭をとる。物理学のいろいろな分野で活躍し、各大学やセミナーで講義をしながら広く世界をとびまわっている。
『聖なる量子力学9つの旅』『もう一つの宇宙―量子力学と相対論から出てきた並行宇宙の考え方』の著者。
『量子の謎をとく―アインシュタインも悩んだ……』では全米図書大賞を受賞。
参考までに、ウルフ先生の別の著書を見てみましょう。
聖なる量子力学9つの旅
フレッド・アラン ウルフ (著), 小沢 元彦 (翻訳)
内容(「BOOK」データベースより)
運命を操る秘密のバイブレーション。宇宙の中であらゆる事象がひとつに結びつくのはなぜなのか。シャーマニック物理学9つの仮説をめぐる話題のスピリチュアル・オデッセイ。内容(「MARC」データベースより)
シャーマンの神秘世界を旅する理論物理学者である著者が、量子力学の提示する新しい物理学の概念が、シャーマニズムの秘儀にどんな説明を与えることができるかを明らかにする。〈ソフトカバー〉
ウルフ先生、物理学の世界で活躍する一方で、精神世界方面でもご活躍されているようです。
では、そっちの世界でウルフ先生の言うことは、どんな風に受け止められてるんでしょうか?以下に、その一例を。
神経科学によると、意識は、どういうわけか、私たちの脳にあるニューロン(神経単位)が興奮伝達するところから発出しているということです。
けれども、私たちのニューロンもまた原子と分子から成り、奇妙な波動と粒子の二重性をもったやり方でふるまいます。
もし、意識がニューロンを創り出す原子を創り出し、ニューロンが意識を創り出すとしたら、先に出現したのは意識とニューロンのどちらだったのでしょう?
これは、アミット・ゴズワミなどの物理学者が指摘した逆説です。
彼は「意識はあらゆる存在の根底にあり、あらゆる物質はそこから発している」と言うことによって、この逆説の問題を解いています。彼のこの考えは、フレッド・アラン・ウルフを含む多くの物理学者によって支持されています。最近の映画「わたしたちは一体何を知っているというの?(What the bleep do we know?)」の中で、彼らは自分達の見解を語っています。
そのようなわけで、物理学のような分り難い科学を通して、私たちは振り出し-古代の神秘主義に戻り、意識が全てであって全てに浸透していることに合点がいったというわけです。
遂に、魂は科学の領域に戻りました。
こうやって同じ時期にトンデモ本を出すなんて、茂木先生と竹内先生、なんて仲がいいんでしょ。
「類は友を呼ぶ」って言うか、「トンデモの友達は皆トンデモだ、世界に広げようトンデモの輪っ!」みたいな?
あ、もしかして「引き寄せの法則」って、トンデモ同士が引き付け合うって意味?
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11月11日(火)午後4時か午後4時30分ころ、下野市石橋地内の路上において、歩きの男が女子小学生に対し「おはよう」等と声をかける事案が発生。男は、
30?40歳、身長170センチ位、やせ型、髪短め、黒色タートルネック、灰色ベスト、クリーム色ズボン、黒色手提げバッグ所持。〔ワンポイントアドバイス〕知らない
人に声をかけられても相手にせず逃げる、防犯ブザーを鳴らす、すぐに警察に通報する等、ご家庭でもお子さんにご指導願います。(下野警察署)
『犯罪不安社会』そのままの話だ。
日本のどこかで子どもが殺されるような事件が発生すると、メディアの報道を介してそが住民たちにさらなる不安を呼び起こす。その不安がセキュリティのさらなる強化を求め、コミュニティの再生を合言葉に往民たちを防犯活動へと駆り立てる。だが、そのような活動は安全や安心をもたらすものではまったくなく、逆に不審者への脅威に敏感になることでかえって不安を高めてしまう。そして、つねに燻り続けているこの不安の火種が、さらなる凶悪事件とともに燃え上がるのだ。
こうして社会は不安と治安の終わりなきスパイラルに巻き込まれる。
まだ遭わぬ犯罪に過度な不安を覚え、そして過剰なまでの警戒態勢を敷くならば、それが解かれる日は決してやってこないだろう。不安に駆動されたセキュリティの推進は、メディアによって日々、供給される恐怖を糧に強化されていくだけだからだ。
学校で事件が起きれば学校のセキュリティの強化が、通学路で事件が起きれば防犯パトロールの強化が、そして学習塾で事件が起きれば講師採用の基準の強化が……といった具合に、社会のさまざまな場面にセキュリテイが拡散していくのだ。
ある防犯パトロール隊のスローガン。
「不審な行動をとる人を厳しい目で見つけ出し、すばやく警察に通報します」
こうした言葉が物語るように、防犯パトロールでは不審者という以外、まったく監視する対象が限定されていない。
だが、不審者とは一体、誰のことなのか。
生活時間帯が多くの人とは異なる職種の人間、失業者やホームレス、精神障害者や知的障害者、在日外国人など、「普通の人」とは異なる生活リズムやスタイルを持つ人びと、結局はこうした者たちが不審者と見なされるのだ。
それは揃いのジャンパーに身を包み、「防犯」という腕章をつけた善意の住民たちの目に、異質な者として映る者たちでしかない。だが、そうした異質者たちが不審者として、今社会から排除されている。
治安共同体と呼ぶのがふさわしいコミュニテイ、それこそが現在、私たちが向かおうとしている社会の姿なのだ。
犯罪不安社会 誰もが「不審者」? (光文社新書) 著者:浜井 浩一,芹沢 一也
販売元:光文社
Amazon.co.jpで詳細を確認する
そして、こんな記事も。
外国人客増、5割強が「不安」=「観光庁知らない」6割-政府世論調査
11月23日2時52分配信 時事通信日本を訪れる外国人旅行客が増えることについて、5割強の人が治安面で不安に感じていることが政府の「観光立国と観光庁に関する世論調査」で22日、分かった。訪日外国人客(年間)は、2007年に過去最高の835万人を記録。政府は10年までに1000万人に増やすのを目標に誘致活動を進めているが、受け入れ態勢の整備とともに治安対策の強化も求められそうだ。
調査結果では、外国人客が増えたと感じている人は8割。ただ、外国人客の増加について聞いた質問(複数回答)では、「治安面から不安で、何らかの対策が必要」と答えた人が最も多く53%。「地域社会でトラブルが多くなる」も27%いた。「国際交流が進む」は51%、「地域経済の活性化につながる」は40%だった。
外国人観光客の増加にともなって、犯罪が増えているかどうかの検証もなしに、「不安を感じる」からと言って「治安対策の強化」を求めようって言うんだからおかしな話だ。
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ごく内密の話として聞いてほしいのだが、私は、ある陰謀に気がついてしまった。
はてな界隈でにわかに巻き起こったニセ科学論争であるが、偶然始まったように見える一連の論争に、ある意志が働いているのを私は見て取ったのである。
これらの論争の勃発にタイミングを合わせたかのように、以下の記事が掲載されたのは果たして偶然なのだろうか?
折りしも21日からサイエンスアゴラが開催されている。
ものごとの裏を見通すことができる者なら、これらの出来事の関連性に気がつくはずだ。
これらは全て、ある集団によって仕掛けられたものなのだ。
誰によってか?
もちろん、科学者達によって、である。
では、その目的は?
世間は日本人科学者のノーベル賞受賞に沸いているが、科学者の裏集団が、この機に乗じて科学に対する注目を集め、一気にその地位を高めようと画策しているのである。
その最終的な目標は、科学者による政治的ヘゲモニーの簒奪である。
ニセ科学論争をネットの一部での局地的な出来事と見るのは、あまりにも近視眼的と言わざるを得ない。
これらは、遠大な計画の一部なのだ。
chnpkさんもfinalventさんも、あえてヒールを演じているのである。
全ては出来レースなのだ。
その宣伝活動に、はてなだけではなくココログも動員されていることは、以下の記事によっても明らかである。
上のような事情であるから、この件に関しては他言は謹んでほしい。
私もこの記事を身の危険を冒して書いているのだ。
また、このページへのリンクは禁止である。
はてブなど持ってのほか。
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まあ、アレですよ。
まともなことばかり書いていたらアルファブロガーにはなれないってことですよ。
トンチンカンで神経を逆なでするようなことが平気で書けるようにならないと、他人の注目を集めることはできないですね。
テレビなんかを見てると、何の才能があるのかよく分からなくて目障りなんだけど、ずっとテレビに出続けてる人っていますよね。
ああいうのと一緒ですよ。
そういう意味では、finalvent翁とか、dankogaiクンとか、内田樹教授とか、梅田望夫取締役とか、池田信夫大先生とか、天賦の才がありますよねえ。
私なんかは根がマジメなものだから、つい真剣に福岡伸一批判なんかやっちゃうからダメですね。
ああいう「釣りブログ」のマネはとてもできないなあ。
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麻生太郎首相は19日、首相官邸で開かれた全国知事会議で、地方の医師不足問題に関連して「社会的常識がかなり欠落している人(医者)が多い。とにかくものすごく価値判断が違う」などと述べた。首相はその後、記者団に「まともな医者が不快な思いをしたというのであれば申し訳ない」と陳謝したが、医師の資質を批判したとも受け取れる発言で、今後波紋を呼びそうだ。(時事通信)
いや、陳謝してないですってば。
こういう風に、政治家が仮定法で何か言ったふりをするっていうのは小泉時代から目立つようになったんだけどさ。
「問題があったのであれば善処する」とか。
「まともな医者が不快な思いをしたというのであれば申し訳ない」っていうのは、単に仮定の話をしているだけであって。
「申し訳ない」と言ったことにはならないんですよ。
「まともな医者が不快な思いをしたというのであれば申し訳ない」、かつ、「まともな医者が不快な思いをした」ということを認める、というのであれば、当然「陳謝します」という結論が出るはずだけど、人間っていうのは論理的に行動するとは限りませんからね。
「まともな医者が不快な思いをしたというのであれば申し訳ない」、かつ、「まともな医者が不快な思いをした」ということを認める、だけど、陳謝するつもりはないっていうこともありえるわけで。
陳謝するつもりがあるなら、単に「申し訳ない」って言えばいいんですよ。
もう一つ、別の解釈をしてみましょうか。
「~であれば」というのは、仮定の話をしているということではなくて、「まともな医者が不快な思いをしたそうで、申し訳ない」という意味で言ったのだ、としましょう。
これならば、一応陳謝したことにはなりますね。
だけど、やっぱり問題は残りますよ。
自分の発言のどこが問題だったのか認識してないってことなんだから。
問題は、「不快な思いをさせた」ってところにあるんじゃなくて、現実認識が甘くて医者を貶めるようなことを言っってしまった、ってところにあるんでしょ。
記者たちがそこを突っ込まないってことは、記者たちも何が問題なのかをちゃんと認識してないってことでしょ。
ただ、「あ、麻生が医者の悪口を言ったぞ」って騒いでるだけってことでしょ。
そういうわけだから、それ以上突っ込んだ質問をしようとしなかった記者たちは全員バカだと思います。
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ブログ「今日読んだ本」より、「偶有性幸福論。」からの抜粋。
茂木 心霊現象とかは、正直言って分からない。あるかもしれないけど分からないという立場なんです
江原 言葉を替えれば私が重んずる心霊現象は霊が出たうんぬんよりも、偶有性における心霊現象なんですよ
茂木 おお、そうなんですか
江原 うん。要するに偶有性の中に神秘を感じるかどうかなんですよ
茂木 それは僕は感じますよ
江原 そこでまた別の意図、意思を感じるかどうかなんです
茂木 ああ、それは大事だ、なるほど
江原 分かりますでしょう
茂木 分かった。今何か通じちゃったんですよ(笑)
江原 通じた瞬間です
茂木 意思を感じるんですか
江原 意思を感じるわけです
茂木 それは面白い。ちょっと今、個人的に今の発言は来ました。なるほど
江原 同じくこの会場の中でも、例えば偶有性の中で何が起きるか分からない、その中で「いや、これは何かの意思が働いている」と思ったこととか感じたことのある人っていますか、人生の中で
茂木 それはすごく面白いです。つまり科学的世界観っていうのは、意思とかそういうものっていうのは人間、生物にしかないっていう前提でやっているんですよ。だから、偶有性の中にほかの意思が介在するっていうことは全く想定してない、宇宙の在り方としては
江原 なるほど
茂木 それは面白いですね。それは学問的に大いにありですね
(中略)
江原 私はよく言うんですけどつまづくことの大切さ。楽しいときにみんな「どうして今日こんなに楽しいんだろうか」って悩む人はあまりいないですよね。それでつまずいたときだけ「どうして私はつまずくんだろうか」って悩むんですよ
茂木 なるほど、まあそうでしょうね
江原 そうでしょう。だからその波の中でもそのつまずいたときこそ、どうして自分はそうなんだろうかと初めて自分をみつめようとしだすんですよ。でもそれを何度か繰り返していくと、その乗り越える中でその意思を感じるときがあるわけですよ
茂木 なるほど
江原 前回とまた違う形、けれどもまたなぜ同じようなこういうことになったのか
茂木 面白いですね
江原 また再びなぜあの人に出会ったのか
茂木 うん、それはちょっと宿題として考えさせてください。かなり面白いとおもいます
さて、ここでの茂木健一郎の発言は「科学者」としてのものなのだろうか、「エッセイスト」としてのものなのだろうか。
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ベルクソンが小林秀雄があるいは三島由紀夫がそして付け加えるなら茂木健一郎が偽科学でないのは、ゆえにその点において批判されうるものでないのは、彼らが個人の内的真実に即した世界記述において人間の内的世界の価値を大戦の世紀ひいてはテクノロジーの世紀に改めて提示したからで、私は必ずしもよい読者ではないけれど、著述家茂木健一郎は科学者でなくエッセイストと思っているし、本人もそう名乗っているだろう。科学的認識に対して科学者茂木健一郎でなく「私」としての茂木健一郎が感じた違和感について再三述べていることは知っています。
ヘエー、茂木健一郎ってエッセイストだったんですか。
初めて知りましたよ。
クオリア日記のプロフィールには脳科学者って書いてあるんですけど。
茂木健一郎(もぎけんいちろう)脳科学者。ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー、東京工業大学大学院連携教授(脳科学、認知科学)、東京芸術大学非常勤講師(美術解剖学)。その他、東京大学、大阪大学、早稲田大学、聖心女子大学などの非常勤講師もつとめる。1962年10月20日東京生まれ。東京大学理学部、法学部卒業後、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経て現職。主な著書に『脳とクオリア』(日経サイエンス社)、『生きて死ぬ私』(徳間書店)『心を生みだす脳のシステム』(NHK出版)、『意識とはなにか--<私>を生成する脳』(ちくま新書)、『脳内現象』(NHK出版)、『脳と仮想』(新潮社)、『脳と創造性』(PHP研究所)、『スルメを見てイカがわかるか!』(角川書店、養老孟司氏との共著)、『脳の中の小さな神々』(柏書房、歌田明宏氏との共著)、『「脳」整理法』(ちくま新書)、『クオリア降臨』(文藝春秋)、『脳の中の人生』(中央公論新社)、『プロセス・アイ』(徳間書店)、『ひらめき脳』(新潮社)、The Future of Learning(共著)、Understanding Representation(共著)がある。専門は脳科学、認知科学。「クオリア」(感覚の持つ質感)をキーワードとして脳と心の関係を研究するとともに、文芸評論、美術評論にも取り組んでいる。『脳と仮想』で、第四回小林秀雄賞を受賞。2006年1月より、NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』キャスター。
「エッセイスト」なんて、どこにも書いてませんが。
つまらないヘリクツはおよしになったほうが良いのでは?
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茂木健一郎先生の「スピリチュアル系ポジティブ教」関連営業は江原対談本だけでは終わりません。
こんな本も翻訳しちゃってます。
「脳にいいこと」だけをやりなさい!
マーシー・シャイモフ (著), 茂木健一郎 (翻訳)内容紹介
「驚きました! この本はコペルニクス的転回になるかもしれません!」
――茂木健一郎「仕事も人間関係も日常生活すべてが好転した!」「こんなに役に立つ本は今までなかった!」という読者の声が続々――全米大ベストセラーの日本版が脳科学者・茂木健一郎訳でついに完成。「日常生活、仕事、勉強――どんなときも脳のすごい力を引き出す方法」、「脳の『毒』になること、脳の『良薬』になること」、「3日続ければタフな脳ができ上がるルール」……この本を読めば、脳の回路がうまく回りだし、人生すべてにポジティブな結果を残すことができます!
著者について
マーシー・シャイモフ(Marci Shimoff)
カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で経営学修士号(MBA)を取得。自己啓発セミナーを数々主催するカリスマ・コーチ。一流企業や大学機関で講演を行ない、何百万という人々の人間的成長を実現させてきた。『こころのチキンスープ』(ダイヤモンド社)シリーズを共著で出版し、一躍全米ベストセラー作家に。彼女のかかわったシリーズは累計1300万部を売り上げる。世界的な大ベストセラー『ザ・シークレット』(角川書店)に登場する賢者の一人としても注目を集めている。
原書は以下。
Happy for No Reason: 7 Steps to Being Happy from the Inside Out
by Marci Shimoff (Author), Carol Kline (Contributor)
上の紹介分だけだと、茂木先生自身がお書きになってるような、単なる「脳科学を絡めた自己啓発本」のように見えなくもありません(それにしたって、わざわざ脳科学者が翻訳するような本か?と思いますが)。
実際、本屋でパラパラ立ち読みしてみると、毒にも薬にもならないくだらない自己啓発本という感じだったのですが、ここで注目してほしいのは、著者のマーシー・シャイモフに関する説明。
「『ザ・シークレット』(角川書店)に登場する賢者の一人」と書いてありますね。
では、『ザ・シークレット』とは、どういう本か。
ザ・シークレット
ロンダ・バーン (著), 山川 紘矢 (翻訳), 山川 亜希子 (翻訳), 佐野 美代子 (翻訳)
出版社 / 著者からの内容紹介
あなたは「偉大な秘密」を手にしています。この「秘密」は、代々伝えられる中、人々に熱望され、隠され、失われ、盗まれ、莫大なお金で買われたこともありました。歴史上最も著名な人々は、何世紀も前に存在していたこの「秘密」を理解していたのです。プラトン、ガリレオ、ベートーベン、エディソン、カーネギー、アインシュタイン等の発明家、理論家、科学者、偉大な思想家達です。そして、ついに今日、この「秘密」が世界の人々の前に開示されたのです。
「この『秘密』を理解した暁には、あなたは欲しいものを手に入れ、なりたい人物になれ、やりたいことが何でもできるようになるでしょう。また、あなたは、真実の自分を知る事ができます。そして、あなたにはすばらしい人生が待ち受けていることがわかるでしょう」――「はじめに」より
だんだんアヤシゲな感じがしてきましたね。
山川夫妻の名前でピンと来る方もいらっしゃるかと思います。
+これは「引き寄せの法則」関連書なのです。
「引き寄せ」って、遠くの地方から特産品なんかを送ってもらうヤツですよね、ってソレは「取り寄せ」です。
「引き寄せの法則」と言っても、健全な生活をおくっておられる皆様はよくご存知でないかもしれないので、ちょっと以下のページも見ていただきましょうか。
アヤシサ全開ですね。
マーシー・シモフの説明もあります。
「引き寄せ」について簡潔に説明しているページがあったので引用してみます。
社長TVブログ: ぼくの本棚190:ザ・シークレット by ロンダ・バーン
ぼくの本棚190:ザ・シークレット by ロンダ・バーン
何年かの周期で「引き寄せの法則」の類似本が多く出まわるが、本書は最近のはしりである。
「引き寄せ」とは何か。人生で起きていることは、思考によって磁石のように自分が引き寄せている。
「類は友を呼ぶ」というように、
人は自分の想いを波動のように放射し、自分と似た思考の人を引き寄せる。
「思考はいつか現実化する」ことは、古来から多くの哲学者が言っている。
最近では「オーラ」という言葉が、TVなどで大量に流通したお陰で、
目には見えないが人が発しているエネルギーのようなものがあるという概念が
(まだ科学で検証はされていないが)一般化してきた。
本書ではポジティブな創造的思考をすることで、
それが現実化することを「ザ・シークレット(偉大なる秘密)」と呼んでいる。
またマイナス思考はマイナス思考を引き寄せ、
恐れていることや、起こって欲しくないことも現実化する。
最近、連鎖的に多発する「食」の事故のように、世の中にとって悪いことはいつかはバレる。
人は当り前のことが、なかなかできないからこそ悩みは尽きない。
とはいえ、不平不満を止め、人に心から感謝し、自分がこの世に生かされていることに感謝し、
毎日幸せを感じながら生きることが人生を変えることだけは確かだ。編集長 尾中謙文
マーシー・シモフは、そっち方面での「賢者」だったのですね。
皆様には、テレビ出演に講演会にと忙しくご活躍しつつ(いつ研究してるのかしら?)、そういう「賢者」の著書の翻訳まで引き受けてしまう茂木健一郎先生に、心の底から呆れていただきたいと思います。
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今回は、意外な人が意外なところから意外な人につながる、というお話。
まず、以下の文章をどうぞ。
情報の基本は5W1H。けれども、ネイティブ・スピーカーから英語で急に質問を受けると、それが、WhatなのかWhoなのか、あるいはWhichなのかWhenなのか、はたまたWhyなのかHowなのか、とっさには聞き取れない。一体それはなぜだろう。
パスバンド理論、というものが次のような説明を与えてくれる。フランスの耳鼻咽喉科の医師、アルフレッド・トマティスは、言語として優先的に使われる音の幅が、民族によって著しく異なることに気づいた。音の幅は周波数(ヘルツ)で表される。短い子音を強く発音するイギリス英語の音の幅は2,000ヘルツから16,000ヘルツにひろがる。トマティスはこの音域をパスバンドと名付け、様々な言語のパスバンドを解析した。すると非常に興味深いことがわかった。言語ごとに固有のパスバンドがあると。
母音を強調する日本語は100ヘルツから1,500ヘルツがおもなパスバンドになっている。人間は言語として聞かされたパスバンドの音しか言語として聴けない。そして、言語として聴けたパスバンドの音しか言語として話せない。勿論人間の脳は可能性を持つから後の訓練によってパスバンドを広げることは出来るだろうが、基本的には幼児期の刷り込みによって決まる。そうトマティスは考えた。英語と日本語の間には文字通り見えない溝があるのだ。なるほど。ところでロシア語のパスバンドは低音から高音までとても広い。果たして、ロシア人は他言語習得に堪能だろうか。「なぜ英語はきけないか」福岡伸一 日本経済新聞夕刊 2008.11.6
これに対して、以下のブログで「子音は雑音であり、非周期的な音だから、周波数を比較しても意味がない」という趣旨の指摘がされています。
ttp://sakuraikeizo.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-4e25.html
こちらのブログの方は、2ちゃん方面で大分お暴れになっている方のようで、信頼度にはいささか疑問があるのですが、この批判自体はもっともなもので、バスバンド理論がトンデモであることは間違いないと思われます。
さて、これで話が終わりなら、「福岡ハカセ、またチョンボですね」というだけの話なのですが、まだ続きがあるのです。
「バスバンド理論」というは初耳だったので、「福岡ハカセ、一体どこからこんなネタを仕入れたのだろう」と思い、ネットでトマティス博士について調べてみたら・・・。
一方博士は、音が人間の精神に与える影響力の大きさに注目した。彼は臨床にもっともその効果の高い音楽を求めて、世界中の民族音楽を実験した。その結果人間の精神に一番いい音がモーツァルトの音楽だということを突き止めたのである。それ以来モーツァルトの研究に専念して、フランスでは「ドクターモーツァルト」の異名をとるほど有名になった。言わば音楽療法の元祖でもある。
モーツァルト?
トマティスって、「モーツァルト効果」という言葉の生みの親じゃないですか!
(「モーツァルト効果は存在するか?」も参照のこと)
「モーツァルト効果」と言えば茂木健一郎先生ですよね。
と言うわけで、福岡伸一と茂木健一郎という、このブログの二大スターが「モーツアルト効果」を介してつながってしまいました、というお話だったのですよ、これは。
ちなみに、このトマティス博士、「胎児の耳に戻す」とか「脳への感覚刺激の90%近くが、内耳にある蝸牛と三半規管からのものである」とか言っているようで、想像以上のトンデモみたいです。
福岡ハカセのお友達でもある宮崎哲弥が、このことについて、どう考えているかが知りたいところですね。
宮崎哲弥って、『懐疑論者の事典』に推薦文を書いてますけど、この本でも「モーツァルト効果」が取り上げられてるんですよねえ。
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で、その茂木先生なんですが、またしても江原啓之とからまれたそうで。
9日 クロージングPART2「ナゴヤかなナゴヤへ」
江原啓之、茂木健一郎、奥田瑛二、林真理子
スピリチュアルな能力と最先端の脳力の両スーパースターが存在感でスパークします。これに油と酸素を注ぐのは、奥田瑛二と林真理子ふたりのアーティスト。聴く者の胸中が、感動で燃えさかるクロージングです。この顔合わせは、エンジンでなければできない、ナマ江原、ナマ茂木、ナマ奥田、ナマ林。急がねば、チケット・ソールドアウト近し!
この人の辞書に、「反省」という言葉はないようですな。
ついでだから、ASIOSの公式ブログにリンクを張っとこう。
江原啓之や細木数子のアドバイスなんぞを聞いても、幸せにはなれませんぜ。
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茂木先生のインタビューがきっかけで、モーツァルト効果について調べてみました。
『現代のエスプリ』481の「モーツァルトは頭を良くするか」(宮崎謙一・仁平義明)という記事面白かったので紹介したいと思います。
細かな部分は飛ばして、これまでの経緯を記述したところを取り上げますので、研究の詳細を知りたい方は、実際の記事を当たってみてください。
発端は、「ネイチャー」(Nature)1993年10月14日号に掲載された、カリフォルニア大学アーヴァイン校のフランシス・ラウシャーとゴードン・ショーの研究グループによる「音楽と空間的課題の遂行成績」(Music and spatial task performance)だった。
この記事で報告されたのは、大学生たちに、モーツァルトの「二台のピアノのためのソナタ、二長調、K448」の第一楽章を十分間ほど間かせると、何も聞かせない場合やリラクセーション教示用のテープを聞かせる場合にくらべて、空間的思考能力を測る知能検査の成績が一時的に目立って良くなるという実験の結果だった。この報告に対してメディアがすぐ反応した。十五日の「インターナショナル・ヘラルド・トリビューン」詰は「モーツァルトの音は脳の栄養になる」という記事を掲げて、モーツァルトの曲を聞くと、知能指数(IQ)が平均して8~9ポイント高くなることが示されたと伝えた。これに続いて、多くのメディアがこの話題を取りあげ、「モーツァルトは頭を良くする(Mozart makes you smarter)」という話がたちまちのうちに広められて「モーツァルト効果」として一般に広く知られるようになった。
この研究は、乳幼児にモーツァルトの音楽を聞かせると知能の発達が促進される、と拡大解釈され、影響は政治家にまで及んだ。
1998年にはジョージア州のゼル・ミラー知事の発案で、州内で生まれた子どもすべてにモーツァルトなどのクラシック音楽が入ったCDやカセットテープを配布するために、一〇万ドルあまりの予算を支出する法案が議会を通った。他のいくつかの州でも同様のプログラムが実施された。またフロリダ州では、州の保育所で毎日三〇分間クラシック音楽を流すことが決められた。乳幼児にモーツァルトを聞かせると知的発達が促進されるという科学的な証拠はなかったにもかかわらずである。ラウシャー白身にも、多額の研究費が付与されるようになり、たとえば、「VH 1 Save the Music Foundation」という財団から30万ドル以上の研究費が支払われたという。
「モーツァルト効果」という言葉を作ったのは、アルフレッド・トマティスという耳鼻咽喉科医である。
ドン・キャンベルは、「モーツァルト効果」タイトルに冠した本を出版した上に、「モーツァルト効果」という名称を商標登録してCDを売り出した。
こうした勣きに合わせたかのように、1997年にドン・キャンベルが『モーツァルト効果:体を癒し、心を強くし、創造的な心を解き放つ音楽の力』と題した本を出版した。この本の中でキャンベルは、フランスの耳鼻咽喉科の医師、アルフレッド・トマティスが始めたトマティス・メソッドと呼ばれる方法を紹介して、モーツァルトの音楽には、知的能力を高めるだけでなく、ありとあらゆる心と体の問題を改善する力があるという誇大な主張を繰り広げた。この本で彼は、ラウシャーらのモーツァルト効果の報告を引用して、モーツァルトの音楽の魔法の力が科学的に確かめられたと主張した。披はさらに「モーツァルト効果」という名称を商標登録して、The Mozart Effectという商標が入ったたくさんの音楽CDを売り出した。しかしキャンベルの本では、モーツァルトの音楽には魔法のような雍しの力があると熱狂的に語られているが、それが科学的に確かめられたものだと言いながら、実際には説得力のある科学的証拠はほとんど提示されていない。自らを科学であるかのように装って、科学的に確かめられていない考えをあたかも確かめられたかのように主張するやり方を二セ科学と呼ぶならば、これらは典型的なニセ科学に属するものと言えるだろう。
ラウシャーの理論的背景とその後。
ラウシャーらのモーツァルト効果の実験は唐突に行われたわけではなかった。研究グループの中心人物であるゴードン・ショーは、最初は素粒子に関する理論物理学者として出発したが、1970年代半ば頃から高次脳機能の理論的研究に重占を移しヽやがてトリオン・モデルと呼ばれる理論を作り上げていた。このモデルによると、音楽訓練と空間的思考能力の間には囚果的なつながりがあり、音楽活動をすることによって、大脳皮質の全体にわたって空間i時問的符号に組織される神経発火パタフンが強まると仮定される。このような神経活動は空間的思考課題を解くときにも生じるものなので、音楽は脳の神経回路にプライミングを引き起こし(脳を活性化し)、空間的思考を強化することになると披は予測した。モーツァルト効果の実験はこのような背景の中で、この予測を行動レベルで示すために行われたのである。しかしこの実験のもとになっている脳モデルは非常に飛躍したアイディアに基づいたものであり、モーツァルト効果(たとえそれが本当にあるとして)に対して説得力ある説明を与えるものとは言いにくい。ショーはアーヴァイン校を1994年に退いた後も、「Music Intelligence Neural Development Institute(MIND)」というNPO組織を設立して、数学教育への応用を目的とする学習と記憶の理論的研究を続けたが、彼の独自の脳理論を支える十分な知見を得るに至らぬまま、2005年に亡くなった。
それでは、科学者たちは、ラウシャーとショーの研究をどのように捉えていたのか。
モーツァルト効果の最初の科学的報告に対して、心理学者の多くは最初から懐疑的だった。認知心理学や脳科学の知見から考えると、モーツァルト効果はあまりにも飛躍した現象に見えた。ラウシャーとショーは、空間的認知処理を行う脳部位が、モーツァルトの曲を間くことによって一時的に活性化するという神経プライミングによってモーツァルト効果を説明しようとした。しかしプライミング効果は、プライムする過程や表象とプライムされる過程や表象の間につながりがある場合に観察される現象である。視覚的イメージを頭の中で操作することのような空間的思考とモーツァルトの曲を間くことの問にどのようなつながりがあるかは不明である。空間的思考を強化するとラウシャーらが言うモーツァルトの曲の特徴は、ありていに言えば単なる思いつきの域を出ないものに思われる。まともな研究者ならば、モーツァルト効果にはまず疑いの目を向けることから始めるはずである。ところがモーツァルト効果の最初の報告を掲載したのが権威ある「ネイチャー」であったことと、メディアがこの効果をさかんに取り上げて、社会的な熱狂とさえ言えるものになったために、まだ十分な証拠が提出されたとは言えないモーツァルト効果を研究考たちも無視しておくわけにはいかなくなった。
最初の論文は学術的投書欄に掲載されたごく短い報告に過ぎなかった。
1995年に同じメンバーによる論文が出され、ここでもモーツァルト効果が観察されたが、他の研究者による追試は、結果に一致が見られず、再現されたとするものがある一方で、再現しないとするものも少なくなかった。
アパラチア州立大学ケネス・スティールは繰り返し実験を行っても効果が再現されないので、懐疑派の急先鋒となった。
ラウシャーらの反論とスティールらの再反論。
ラウシャーらは、モーツァルト効果が再現されないのは実験手続きの細部や用いる知能検査が最初の彼女らの実験とちがうからであると反論していた。そこでスティールは、ラウシャーらがモーツァルト効果が生じる条件として限定した条件を厳格に再現した実験を行い、モーツァルトの曲が空間-時間的知能を強めるという効果はまったく見られないことを示した。さらに彼は他の八人の研究者と共同して、アパラチア州立大学、モントリオール大学、ウェスタン・オンタリオ大学の三つの異なる研究室でモーツァルト効果の追試実験を行ったが、どの実験でも効果は確認されなかった。
モーツァルト効果に関して、メタ分析が二つ行われた。
一つはハーヴァード大学のクリストファーシャブリスによるもの。
16の公刊された研究を分析し、モーツァルトの曲による認知促進効果はほとんど無視できるくらいのもと結論した。
もう一つは、ハーヴァード大学教育大学院プロジェクト・ゼロのロイス・ヘットランドによるもの。
こちらでは、出版されなかったものを含めた36の研究のメタ分析を行い、中程度の効果があると結論した。
結局、モーツァルト効果は現れる場合もあれば現れない場合もある、ということになる。
では、なぜ効果が観察される場合があるのか。
これに対する、心理学の知見と整合する説明は、モーツァルト効果は、モーツァルトを聞くことによる直接的な効果ではなく、音楽によって気分や覚醒が最適な状態になり、その結果課題の遂行成績が向上するという間接的な効果である、ということである。
この覚醒・気分仮説は、すでにシャブリスやスティールなど、モーツァルト効果懐疑派の研究者たちによって指摘されていたが、トロント大学のシェレンバーグらはこの可能性を実験で確かめた。彼らの実験では、被験者が音楽(モーツァルトのK448またはシューベルトのファンタジー、D940)を聞く条件の方が、何も聞かないでいる条件よりも、紙祈り切り取り課題の成績がよいという効果が確認された。しかしスティーヴン・キングの短い物語を聞く条件と比較すると、モーツァルト条件が有意に成績が良いという効果は見られなくなった。さらにモーツァルトの曲が好きだと答えた被験者ではモーツァルト条件の方が、物語の方が好きだと答えた被験者では物語条件の方が、課題の成績が良かった。つまりモーツァルト効果と呼ばれていた効果は、モーツァルトの曲に限定されるものではなく、他の曲や音楽以外の刺激でも同じように見られるし、被験者の好みに左右されるという結果である。
この記事の結び。
冒頭で述べたように、モーツァルト効果がまちがった方向に拡張されて、ニセ科学の鎖誠に逸脱する経過をたどったのは不幸なことだった。しかし音楽がさまざまな心理的
あるいは身体的影響を及ぼすことがあるのは確かであり、科学的に研究を続けるべき価値のある問題は少なくない。モーツァルト効果が疑わしいものであるからといって、これらの研究すべき問題までもが捨て去られてしまうことがあってはならない。またニセ科学のごまかしをあばくことは、人々が不利益を被るのを防ぐために必要ではあるが、そのような仕事に研究者の貴重な時間と労力が奪われてしまうのは好ましいことではなく、科学にとっては非生産的である。メディアは、十分な証拠がない時に、現象や効果が科学的に確かめられたものであるかのように誇大に広めることは厳に慎むべきことであるし、人々も、それに便乗したコマーシャリズムに安易に乗せられないように気をつける必要がある。また科学者は、仮説に一致した結果が得られたときに、当初の説明とは別のやり方で説明することはできないかを考えて慎重に結論を出さなければならない。モーツァルト効果をめぐる一連の騒動は、一般の人々と研究者にとって教訓となるできごとだったと言えよう。
茂木先生も反省してね!
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高田漣の無料ライブを観に、六本木へ。
天気が良くなかったせいか、観客は100人位。
7曲演奏して、約45分のステージ。
最初と最後の曲はソロで、残りの曲は、ドラムス、ベース、ビブラフォンをバックに演奏。
全編、アンビエントな感じの演奏でとっつきやすい曲はやらなかったので、おじさんおばさん達は早々に退散していきました。
ブライアン・イーノの曲とYMOの「CUE」「Epilogue」のカバーもあり。
染物のショー(?)のために書いたという自作曲もかっこよかったな。
内容的には大満足。
最後の方、ハウリングが鳴り続けてたのがちょっと残念。
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ナポレオンの剃刀の冒険 (論創海外ミステリ 75 シナリオ・コレクション 聴取者への挑戦 1) 著者:エラリー・クイーン |
エラリー・クイーンのラジオドラマのシナリオ8編を収録。
1939年から1945年まで放送されたものですが、<聴取者への挑戦>つきで、初期クイーンの香りが楽しめます。
飯城勇三氏の解説も、いつものことながら周到ですね。
以下一編ずつ。
ナポレオンの剃刀の冒険
これは、宝石の隠し場所も犯人も完璧に当てました(ちょっと、自慢)。
宝石の隠し場所が分かれば犯人も自動的に分かるんですけどね。
<暗雲>号の冒険
これも当てました(ますます自慢)。
これは簡単だから、ほとんどの人が当てられるんじゃないかな。
悪を呼ぶ少年の冒険
おおよその真相は見当がついたんですけどねえ。
最後のツメが足りなかったなあ。
ショート氏とロング氏の冒険
これは全然当てられなかった。
呪われた洞穴の冒険
足跡の謎の方は解けたけど、犯人特定のロジックがダメでしたですね。
殺された蛾の冒険
犯人の見当はついたんですけど、これも犯人特定のロジックが立てられなかった。
ブラック・シークレットの冒険
これは完全にだまされました。
ほとんどアンフェアすれすれの感じなんですが、私は楽しめました。
三人マクリンの事件
これは<挑戦状>が入ってなかったので、推理のタイミングが分からなかった。
ヒントが出た時点で犯人の見当はつきましたけど。
犯人当てとしては、難しすぎず簡単すぎず、という感じなので、ミステリ・ファン同士で朗読会でもすれば楽しいんじゃないでしょうか。
と、宣伝めいたことを書くのは、噂によると売れ行きがあまり良くないらしく、そうなると第二弾が出なくなってしまうからです。
というわけなので、クイーン・ファンなら買いましょう。
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一読して、頭の中に10個くらい疑問符が浮かぶ文章。
FodorやFillmoreを引用しながら、フレーム問題に言及していないのは奇妙だが、フレームの概念はもともと人工知能の行き詰まる中から出てきたものだ。(略)
その影響を受けたクーンのパラダイムの概念は、フレームの典型だ。
まあ、「パラダイムとは思考の枠組みのことだ」みたいなことは言われますけどねえ。
だけど、それって「フレーム問題」と関係あるのか?
この人は、言葉の見かけだけでものを考えちゃう人みたいですね。
言葉のイメージだけで連想ゲーム的に考えてしまう人っていうか。
概念を概念として捉えることができなくて、表面的な類似性だけで判断して、違う概念を同じものと考えてしまったり。
逆に、同じような概念でも違う言葉で説明されると同じものだと気がつかなかったり。
まあ、そういう人は別に珍しくないんですけど。
ソシュール的な構造(ラング)を否定してエクリチュールの生成を論じたデリダの議論も、認知論に近い。
デリダの議論が認知論に近い?
ハア?って感じなんですが。
まあ、世の中にはハイデガーと認知科学がどうのこうのとか言う人も存在するくらいだから、デリダの議論が認知論に近いと言う人間がいても不思議ではありませんが。
コメント欄のほうもすごいなあ。
言語論的転回の元祖はヒルベルトなどの数学的公理主義、認識論では新カント派(したがって社会学ではウェーバー)です。
これもハア?って感じ。
数学的公理主義と言語論的転回がどうつながるんですかねえ。
私にはサッパリ。
数学的公理主義->ラッセル->ウィトゲンシュタイン->言語論的転回
って感じなんでしょうか。
ほとんど連想ゲームですな。
新カント派と言語論的転回とのつながりも分からん。
新カント派->カッシーラー->象徴形式->言語->言語論的転回
みたいな感じなんでしょうか。
ウーン、苦しい。
この人の読解力はdankogaiと同じくらいのレベルじゃないかと。
よく知りもしないことを自信たっぷりに書くことができるっていうのは、ある種の才能かもしれませんね。
私にはマネできないです。
マネしたいとも思いませんけど。
(追記)
「言語論的転回」とか「認知言語学」っていうのに対して、「言語によって動的に現実の認識が組み替えられていく」みたいな大雑把なイメージがあって、それでデリダのエクリチュールやら新カント派(カッシーラー)なんかとつながっちゃったのかなという気もしてきました。
それにしても、デリダと新カント派じゃあ、大違いだよなあ。
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コンピレーション・アルバム「SONGS OF SEVEN COLORS」発売に合わせたタワーレコード新宿10周年記念インストア・ライブ。
Gutevolk+ausは5曲演奏。
コンピに入っているausの「flags」にGutevolkが違うメロディーをつけて歌ったバージョンを最後にやって、これが特典CD-Rにも入ってたんだけど、これがステキすぎます。
これはちゃんとした形でリリースしないともったいないんじゃないかと思うんですが。
I am robot and proudは今月だけで3回観たことに。
こちらも5曲くらい演奏。
エレクトロニカって、ライブハウスで馬鹿でかい音で聴くより、こういうこじんまりした場所で聴いたほうが、音もクリアでいいよなあ、と思いました。
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以下のようなステキすぎるラインナップ。
13:50 【Grand Opening】d.v.d
14:30 相対性理論
15:05 nhhmbase
15:40 渋さ知らズセブン
16:25 group_inou
17:00 OGRE YOU ASSHOLE
17:35 nisennenmondai
18:15 Shing02
19:00 I AM ROBOT AND PROUD
19:40 toe
20:25 Dosh
21:10 トクマルシューゴ&ザ・マジックバンド
21:55 エンディング
8時間以上続けて音楽を聴き続ける(しかも、ずっと立ちっぱなし)というあまりない体験をしてしまいました。
最後のあたりでは、さすがに疲れて耳もヘンになってしまってましたが。
これだけ揃ってはずれなしという奇跡のようなイベントだったけど、ベストはやっぱりtoeですかね。
収穫だったのは、nhhmbase。
名前すら知らなかったけど面白かった。
複雑な変拍子の曲を楽しげに演奏していて、若いのにすごいなー、と思いました。
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福岡伸一は、『できそこないの男たち』で、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という言葉を「これは生物学的に見て明らかに誤りである」と断じている。
"アルファブロガー"のdankogaiもそれに同調してみせる。
404 Blog Not Found:弱き者、汝の名は男なり - 書評 - できそこないの男たち
404 Blog Not Found:The world according to a feminist男女は、同権ではない。
女性の方が、上なのだ。いくら社会学的にそうではないといっても、より上位のフレームである生物学的にそうなっているんだからしかたがない。ボーボワール(Simone de Beauvoir)は女性を第二の性といったが、彼女は生物学を知らなかった。今では我々は「男に生まれるのではなく、男になるのだ」というのを知っている。染色体がXYになっているだけでは充分ではなく、Y染色体(上のSRY遺伝子)が発現しないと男にならないのだ。実際男になりそこねる例というのは、女になり損ねる例より遥かに多い。性同一性障害でも、「誤って男の魂が女の体に宿った」という例は驚くほど少なく、ほとんどがその逆である。
この二人が、ボーヴォワールの『第二の性』に目を通してもいないのは明らかである。
ボーヴォワールは、男女の間の生物学的差異を無視したわけではない。
まず、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という言葉が、どのような文脈に置かれているかを確認しておこう。
人は女に生まれるのではない、女になるのだ。社会において人間の雌がとっている形態を定めているのは生理的宿命、心理的宿命、経済的宿命のどれでもない。文明全体が、男と去勢者の中間物、つまり女と呼ばれるものを作りあげるのである。
ボーヴォワールが問題にしているのは、「社会において人間の雌がとっている形態」である。
それが「生理的宿命」によって定められているのではない、とボーヴォワールは主張しているのであって、生物学的差異そのものの存在を否定したわけではない。
このことは、『第二の性』の第Ⅰ巻第1部第1章全体が生物学的条件の議論に当てられていることからも明らかである。
そこには、発生時の性の分化に関する議論も含まれているのだ。
人類では、大部分の種と同様に、男女の個体の出生数はほぼ同じである(女児100に対し男児104)。胎児の発達は男女とも似ている。ただし原上皮が中性にとどまっている期間は女の胎児のほうが長い。その結果、女の胎児の方がホルモン環境の影響を長く受け、発生が逆転する場合も多い。両性具有者の大部分は遺伝子型では女だったものが後で男性化したらしい。雄性の生物体がすぐに男であることを受け入れるのをためらっているかのようである。しかし、こうした胎児の生命の初期の模索段階は未知の部分があまりにも多いので、何らかの意味づけをすることはできない。
性の分化は、二つの型の配偶子の一方に異形の染色体があることに由来する。たとえば哺乳類では、精子の方が雄になるか雌になるかの可能性をにぎっている。精子または卵子が形成されるとき、いったい何が雌雄の配偶子の特性を決定するのかはよくわかっていない。ともかく、メンデルの統計的法則は、それが規則正しく配分されていることを十分に示している。
ボーヴォワールが否定しようとしたのは、男女の生物学的差異ではなく、「永遠の女性的なもの」といった本質主義的な見方である。
(略)反フェミニストは、女と男は同じではないと苦もなく証明するだろう。もちろん女も男も同じ人間である。けれどもこうした主張は抽象的だ。すべての具体的な人間はつねに一人ひとり個別の状況におかれているのが事実だ。永遠の女性的なもの、黒人魂、ユダヤ人気質などといった観念を拒否することは、現にユダヤ人、黒人、女性が存在するのを否定することではない。こうした否定は、当事者たちにとって解放にはならず、非本質的な逃避にすぎない。どんな女も、自分の性を無視して自分を位置づけようとすれば、自己欺瞞に陥るのは明らかだ。
このように、ボーヴォワールは、男女の生物学的な差異を認めながらも、それを男女の社会的なあり方に直接結びつけて論じることには慎重な態度をとっているのである。
そのことを見ずに、ボーヴォワールが言ったことは「生物学的にはあやまり」と斬り捨てるのは、トンチンカンであり、傲慢でもある。
挙句に、福岡は「ボーヴォワールは、もう少しリラックスすべきだったのかもしれない」と、上から目線で軽くいなしてみせるのである。
福岡やdankogaiが、嬉々として男の弱さを説く態度の裏には、男の優位を疑わないマッチョな姿が透けて見える。
山形浩生は、竹内久美子の書いたものを「オヤジギャグ」と評したが、福岡が『できそこないの男たち』で描いて見せたストーリーは、竹内久美子の「オヤジギャグ」と大した違いはない。
いくら華麗なレトリックで飾り立ててみせたところで、「男は女のできそこない」などというのは、下卑た冗談に過ぎないのだ。
(追記 2008.11.7)
参考までに、『第二の性』の目次を以下に示す。
第Ⅰ巻 事実と神話
第一部 運命
第一章 生物学的条件
第二章 精神分析の見解
第三章 史的唯物論の見解
第二部 歴史
第三部 神話
第一章
第二章 Ⅰ モンテルランまたは嫌悪の糧
Ⅱ D.H.ロレンスまたは男根の誇り
Ⅲ クローデルと主の婢女
Ⅳ ブルトンまたは詩
Ⅴ スタンダールまたは真実のロマネスク
Ⅵ
第三章
第Ⅱ巻 体験
第一部 女はどう育てられるか
第一章 子ども時代
第二章 娘時代
第三章 性の入門
第四章 同性愛の女
第二部 女が生きる状況
第五章 結婚した女
第六章 母親
第七章 社交生活
第八章 売春婦と高級娼婦
第九章 熟年期から老年期へ
第十章 女の状況と性格
第三部 自分を正当化する女たち
第十一章 ナルシストの女
第十二章 恋する女
第十三章 神秘信仰に生きる女
第四部 解放に向かって
第十四章 自立した女
結論
なお、1997年の新潮社から出ている訳者の解説によると、過去に翻訳されたものは翻訳と構成に問題があったようなので、注意されたし。
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福岡伸一は、『できそこないの男たち』で次のように主張する。
<生命の基本仕様>は女であり、本来、すべての生物はまずメスとして発生する。
オスはメスの系譜を橋渡しするための"使い走り"に過ぎない、と。
デイヴィッド・ベインブリッジは、その著書である『X染色体 男と女を決めるもの』において、正反対の方向から議論を進めている。
生殖腺はなにも起きなければ卵巣になるからといって、卵巣が発達しそこなった精巣のようなものだというわけではない。しかし、近代にいたるまでは、まさにこのように考えられていた。血液の循環を発見したウィリアム・ハーヴェーは、大きな影響を与えた1651年の著書『動物の発生』のなかで卵巣について次のように書いている。おそらく当時の多くの人もこれと同じ考えだったのだろう。「これほど不完全であいまいとした器官から、あれほどまでに精巧に調合された生命の素である精液に相当する液体が作られ、男性に勝るほどの力と生気と生殖能力がそこに宿るなどと信じることはできない。わたしは、こう強く感じる。」
「生殖腺はなにも起きなければ卵巣になる」という事実から、女性は男性の「なりそこない」のようなものだ、という全く反対の結論が導き出されていたわけである。
ヨーストの実験を契機に半世紀にわたる研究が続けられ、アナクサゴラスとハーヴェーの男性中心主義の考え方がどうやら正しかったと裏付けられるようになると、二つの性の発生のしかたが平等ではないという事実に医師や、動物学者、マルクス主義者、宗教原理主義者、フェミニストから、ときには実存主義者にいたるまでが注目するようになった。シモーヌ・ド・ボ-ヴォワールも、『第二の性』のなかでこの問題についてじっくり考察している。20世紀の後半、西洋社会における女性の地位が向上したのにたいし、女性は男性の「なりそこない」のようなものだと科学的に実証する結果が導き出された。これはあまりに矛盾しているのではないだろうか。
男性の生物教師がこの話を生徒に説明するとき、自分が正当化されるようなちょっとした喜びを感じることがないのだろうか。わたしのはそう思えてならない。男性上位の観念は過去の砦であるが、どうやらそれが、最先端の科学の領域に新しく座をあてがわれたらしい。男たちは昔もっていた生まれながらの特権を失い、かつては男のものだと信じていた人生のあらゆる場面において女性に成功してのけられ、その自信はすっかり蝕まれてしまった。こんな時代となっては、性が割り当てられる方法は、男性上位主義に残されたたったひとつのよりどころなのだろうか。なにもしなければ女性になるという考えは興味をそそれれる。政治的には不適切であっても、少なくとも科学的には否定できないものだからだ。
しかし、同じ事実から正反対の結論を導き出すことができるのであれば、どちらをとるかは恣意的なものでしかないということになるのではないか。
そのような議論に実質的な意味があるのだろうか。
しかしながら、科学というものは、それが導き出した結果の価値を判断するためにもちいることはできない。女性はなにも起こらない結果生まれるものと設定されているとして、これが女性についてなにか特別なことを意味しているのだろうか。さらに、X染色体のなかに女らしさを生み出す閃きがなさそうだからといって、Xの重要性が軽んじられるわけではない。ボーヴォワールはむしろ、全体像を書き直して見せた。わたしたちはみな、遺伝子を一時的に保管する貯蔵庫にすぎないと指摘したのだ。現代生物学は、すべての人間は遺伝子を入れた容器なのだと教えてくれた。わたしたちは遺伝子を両親が死ぬ前に受け継ぎ、その遺伝子はわたしたちが死んでから未来の世代へと分散されていく。生命によってどこまでも受け継がれる永続的な遺伝子に比べると、つかの間の人間の命が悲しき思えてくる。こうした視点で見てみれば、このはかない生き物のうちどれが男か女かということは、遺伝子が未来へ受け渡されていくことと比べれば取るに足らないことのように思われる。どちらか一方の性が優位に立つように人間は作られていないし、性がどうやって区別されているかが重要なわけでもない。大切なのは、何らかの方法で二つの性が創造され、私たちの遺伝子が生き延びることができるようになっている、ということだ。
ボ-ヴォワールは、なにもなければ女性になるという正統とされる学説から一歩身を引き、まっこうからそれに攻撃をしかけた。男性優位の思想を支えているのは、自然の気まぐれなできごとにすぎない、というもっともな指摘をしたのだ。それ以前にも、さまざまな面白い生物学の俗説が、男性の立場を強める目的で利用されていた--精子は積極果敢に泳ぎ、卵子はひつら受身で待つとか、さかりのついた雄鹿に雌鹿が言いなりになるとかいう話が思い出されるだろう。ところが、なにもなければ女性になるという思想に 女性蔑視の考えが幻想だったことがすぐに明らかになった。つまり、胚が女の子になるのをY染色体が力づくで阻止しなければならないということは、女の子である状態こそが優勢だと言っているようなものではないだろうか。すべての初期の胚に女の子になる意図が作り込まれているとするのであれば、なにもなければ女性になるということの意味を読み解く観点が、がらりと変わるのではないか。
結局のところ、「男は女のなりそこないである」と言おうが「女は男のなりそこないである」と言おうが、単なる言葉のあやに過ぎないのではないか。
したがって、人間の赤ん坊は最初は女の子になるようにできているが男の子へと路線を修正させることもできる、というように、いくらでも好きなふうに解釈をすることができる。女のほうが男よりも優れているとでも、男のほうが女よりも優れているとでも言えるのだ。どちらに転ぶかは、言葉のいじくりかたで決まるにすぎない。おそらく、結局はこういうことなのだ。性決定の仕組みが発見されても、男性と女性それぞれがもつとされている価値が変わったりはしなかったのだ。
福岡伸一が『できそこないの男たち』で展開したような通俗的なストーリーは、既にベインブリッジによって批判されていたのである。
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