茂木健一郎 in 「正論」(追記x2あり)
「正論」1月号から。
茂木健一郎の発表。
茂木 私は脳科学をやっており、どうしてもグローバリズムと闘わざるを得ない定めにあります。クローバリズムと闘うことは自分の出自、アイデンティティを忘れることではないと考えています。では、私から見て日本的可能性の中心はどこにあるか。それは生命哲学です。私は今後も、自ら発見した視点を発表していきたいと思っています。日本語はもちろん、英語でも発信したいと考えています。
出た! 「生命哲学」。
例えば本日の会場である明治神宮ですが、ここは明治大帝が亡くなられたあとに三百六十五種の木を植林して出来、今日では原生林のような風情を見せている。私は代々木から原宿に向かってよく明治神宮の森を歩くのですが、北参道に夏になると「光の川」が出来るのをご存じでしょうか。参道の両側に梢がせり出して、真ん中からちょうど太陽が直接差し込むのです。木漏れ日はありますが、暗いなかを光の川がすっと延びている。とても美しい光景です。これを美しいと感じる感性が日本人の自然観を象徴するものでしょう。私たちは自然を放ったらかしにはせず、丹念に整えるのですが、ベルサイユ宮殿の庭園のような幾何学的なものは好まない。自然の成り立ちに寄り添って計算しない美を考える。まったく彼我の間で美に対する感覚が違うのです。
本居宣長が「もののあはれ」ということを言いました。私も宣長は大変好きです。文化勲章でいうと、百個分くらいの仕事をした人だと思う。というのは彼の仕事は、科学的な立場から見ても大変なものです。日本人はシステムをオープンな形で捉えて、そのなかで規則的なものと偶然のものとを巧みに織り交ぜる。いわば「偶有性」を培い、発揮していくと言っていい。宣長の仕事である「もののあはれ」は、科学的に言えばそういう「偶有性」に通じるものがあり、これは日本固有の感性であり、思想と言えます。
「文化勲章でいうと、百個分」とか「ノーベル賞、百個分」とか、この人、表現が貧困だね。
問題は、そのことが世界的によく知られていないことで、大変な損失だと思います。特に今日のように地球環境問題がクローズアップされているなか、ヨーロッパ流の考え方では全てを人為的にコントロールしようとする。そのような文明が行き詰まりを見せる状況下、日本人の生命の根幹に対する洞察は、私たちが自覚している以上に普遍的価値を持っていると思っています。
もうひとつ。日本古来の発想様式に「何かを秘する」ということがあります。これもとても面白いものです。例えば伊勢神宮の御霊代は八咫鏡です。ところが、それがあるのか、ないのか。模造の神鏡は宮中の賢所に奉安されていますが、あるならどこにあるのか。これは語らない。これは″秘仏″という考え方が関連しており、日本でだけ発達したものです。秘仏は六十年に一回ご開帳して、そのときだけ拝顔可能なものもありますが、絶対秘仏もある。例えば長野の善光寺の秘仏は絶対秘仏です。誰も見たことがない。どうもぐるぐる巻きになってそのなかにおられるようですが、誰も見たことがない。
秘仏という思想がなぜ日本で発達したのか。これはとても凄いことなのです。例えばハリウッド流のCGでサンタクロースを描く。赤い服を着て温和に微笑む少し太めの男を描いて「これがサンタクロースです」と見せられて、皆さん信じますか。納得しますか。実はサンタクロースというのはどこにも存在しないからこそ、リアリティがあるのではないでしょうか。
つまりご本尊である仏様の姿を秘仏という形で敢えて見せないことで無限の可能性を拓く。これは私たちにとってあまりにも当たり前の発想なのですが、この知恵は途轍もないものなのです。
サンタクロースにリアリティを求められても…。
大体、なんでサンタクロースと秘仏を比較するかね。
比較の対象がおかしいだろ。
私は日本語が大好きだし、素晴らしい言語だと思っています。しかし、一方で私は日本語に対してアンビバレントな感情を抱かざるを得ない。日本語で表現すること自体がモラルハザードを内在してしまうのです。つまり日本語で書いた瞬間に読み手は日本人になってしまう、内なる言語になってしまうのです。ハッキリ言って悔しい。これだけの宝物があるのに、と思うのです。
私は英語万能主義ではありません。英語で書くことはありますが、そのときいつも日本語で込められる機微やニュアンスを英語にする作業にいつも苦しみます。これは我々が背負った十字架です。
「日本語で表現すること自体がモラルハザードを内在してしまう」って。
「モラルハザード」の意味、分かってる?
漫画とかアニメーションといったサブカルチャーは世界を席巻していますが、ではハイカルチャーはどうか。我々の周りには素晴らしい思想家はいるのに、英語をベースに活動している人たちほどには読まれない。日本語という壁があるためです。
グローバリズムの荒波のなかで私たちは右往左往する必要はない。幕末当時、加賀百万石に住む人たちは「私たちにとっては江戸に徳川某がいようが関係ない。前田の殿様が一番だ」と考えていた。この気概ですね。今は何でも東京に傲う風潮が多い。
いたずらにスケールの大きさを求めるのではなく、自分の内なる基準や倫理観を日本人はしっかり持たなければならない。これは英語で私たちの価値観を広く発信していくことと決して矛盾しない。出来損ないの日本像をつくるのではなく、我々自身の本当の姿を伝えるべきです。そのためには右往左往せずに、私たちの内なる基準を本気でつくりあげる。
「右往左往する必要はない」って言ってる割には、思いっきり右往左往しているように見えるのだが。
私が産経の連載で取り上げた夏目漱石は、英国の栄華を見て本気で小説に取り組んだのです。だから欧米にひけを取らぬあれだけの作品を残せたのだろうと思う。本気でやるということがポイントなのです。
「本気でやるということがポイント」って、つまんない結論だな。
以下、討論に。
日下公人の
京都大学の山中伸弥教授が万能細胞を開発しました。受精卵というのは成長とともに分化して、骨や臓器など異なる組織が次々出来て人間になっていく。それは受精卵の細胞には全能性があると言います。ならば分化を重ねて内臓や骨、大脳をつくれるのではないか。しかし、ヒトの受精卵を直接使うと倫理上の問題が発生する。そこで山中さんは既に分化した皮膚の細胞を初期化(バック)させて全能ではなく万能の細胞を開発するという画期的な仕事をやってのけたわけでらす。この初期化という考えは、日本人に極めて近い発想に基づいている。つまり、欧米などのキリスト教圈では人間とは神がつくったものである、神の御手の秩序は進歩のみを生み出すという思いこみがまずある。初期化という発想自体が神の生み出す秩序とは対極にあると言ってもいい。
しかし、それはとんでもない思いこみに立っていると思う。日本人はそうした思いこみから解放されていますから、既にできあがった組織を退化させれば万能細胞が生まれるという根本的な発想の転換が柔軟に生まれるわけです。
という発言を受けて
茂木 ユーモアを交えた日下さんのお話には感服致しました。たしかに生命科学の分野で日本人の感性を発揮する場面はこれから沢山あると思います。というのはキリスト教の世界観というのはそこからニュートンの機械論的宇宙論などを生み出したわけですが、それではどうしても生命という分野を扱えない。そういうジレンマを抱えているのは事実で、その意味で日本人が生命科学の分野で活躍する可能性は大いにあると考えています。
西洋の人間には「生命という分野を扱えない」そうです。
日本人、スゲー。
渡辺京二氏という文化人類学者が『逝きし世の面影』という幕末の頃の日本に関する本を書いていますが、ある事柄の本質は外から見ないとわからないことがあるのです。決して日本の本質とは、私たち日本人だけがわかっていると思いこむ必要はない。外からの眼を当てにして右往左往するのは愚かしいけれど、あくまでも我々が、「私たちの内なる基準」を追求した結果、ミシュランのようなフランスのガイドが認めてくれたというのが一番美しいのかなあと思います(拍手)
発信したいのか、発信する気がないのか、どっちなんだろう。
茂木 本当にそうですね。今、櫻井さんがおっしやったことは実に大変な問題だと考えています。華道や茶道もそうです。私は武者小路千家の官体庵に行き千宗匠さんのお茶席に招かれるまで、千利体がやろうとしたことがわかりませんでした。それがそのとき、初めてわかった。本当に驚愕する思いでした。要するに広がっているものをいくら見たところで本質的なものは-私の言葉では、それをクオリアというのですが-わからない。柔道もそうでしょう。いくら国際試合を見ても、柔道の原点にあった美意識はわからない。同じようなことは沢山ある。
伊勢神宮もそうで、いろいろな人がいろいろなことを語っていますけれど、やっぱり実際にお参りをしてみないと絶対にわからない。仮にお参りをしても、妙な思い込みが少しでもあれば、全くわからない。私は本当に凄いと思った。伊勢神宮に参拝したとき、全ての現代美術は敗れたと本気で思いました。それくらいの衝撃を味わいました。でもそれは私がいくら語っても、流通している数多くの本を読んでもわからないのです。
現代美術、敗れたり!
結局、伊勢神宮がどう凄いのか、さっぱり分からないんだが。
今日のシンポジウムですが、一貫して問題になっているのは、日本人自身が日本人の価値を知らないことです。実は我々自身が本物を知らない。それが「君に伝えたい日本」ということだと思うし、メディアの責任も重い。櫻井さんもテレビのお仕事を長年なさってきましたが、本物を伝えるという意味で、テレビには限界がありますね。
また、他人事のようにテレビ批判ですか。
茂木 今日は脳科学者としての発言がありませんでした(笑い)。脳は楽観的でなければちやんと働きません。みなさん誰しも平均余命より長く生きると思っていますが、統計上はおかしな話なのです。つまり人間はそのくらい図々しくなければ脳がちゃんと働かない。私が最も心配しているのは、日本人は将来に対して悲観的過ぎるのではないかということです。極端にいえば前頭葉楽観回路がちゃんと働かなければ僻になりますから、あえて「根拠のない自信を持て!」と(笑い)。これがあれば明るいと思います。
日本はこれだけ凄い!と並べ立てておいて、結論は「根拠のない自信を持て!」ですか。
何か全然筋が通ってないような。
(追記)
参考までに。
風景の原型は、人類全体に共通の元風景を出発点として、地球上の至るところでしばしば類似点を見せる動機づけの影響を受けてはいるものの、相異なるさまざまな風景に分化してきた。これらの風景は相互に共通するものをあまりもたないように感じられる。こうした差異が存在するために、われわれは諸文化問のコントラストを過大評価しがちであり、時としてそれらの間に単純きわまる二項対立をもち込み、絶対的な対立物を明確なものにしようとして現実を戯画化してしまうほどである。この種の悪癖は「日本人論」に頻繁に見られ、そこでは日本人のアイデンティティが西欧文化との二元的な対立として定義されることが多い。特にしばしば、それも絶対的なものとして対立させられるのは、日水庭園とフランス式庭園である。
図式的に見ると、このふたつのタイプの庭園がほぼ正反対の空間性を表現していることは事実である。全体的なパースペクティヴと部分的視界(展望)、対称と非対称、直線と不規則な曲線、幾何学的秩序と場所への適合、支配的眺望(ヴェルサイユ宮殿のテラスのようにトから下へと見下ろす眺望)と被支配的眺望(心砿獄の縁側から東山の彫果に向かうような、下から上へと見Lげる眺望)等々を指摘できる。
したがって図式的にはこれらふたつの空間の捉え方には、共通点は存在しない。ヴェルサイユ宮殿やヴォーの庭園と無鄰菴や桂離宮は、環境に対する人間の趣味を表わすものとしては、その考えられる表現の幅の両極端に位置するものといえよう。前者の場合は自然を征服すること、後者の場合は自然を尊重することが問題となるのである。
しかし現実には事情ははるかに複雑である。どちらのタイプの庭園も「自然」といえるような客観的実体との関連で規定されてはいない。どちらも人間の考えだした自然というものを、それなりのやり方で表現しているにすぎない。そしてどちらも人間の営為、すなわち自然環境の人為的変形によるものである。これは桂離宮にとってもヴェルサイユ宮殿にとっても同様であり、あるいはソウルの秘苑についてもあてはまることだが、しかし韓国人は秘苑を例にとって、自分たちの美意識はもっとも自然を尊重するものであると言う。周知のように日本人も自身の美意識について同じことを言っている。スウェーデン人、中国人もまた然り。そして彼らの庭園が、彼らの文化に固有の自然についての概念を表現している以上、誰もが正しいのである。その点にこそまさに普遍的な規則があって、その規則のなかに原型的な動機を突きとめることができる。しかしながらこの動機の表現はそうとうに異なった形をとることがある。
別の文化から見ると、これらの異なる表現は人為的で、したがって自然に反するように見える。そのため他の文化は自分の属する文化ほど自然を尊重してはいないと、簡単に結論を下してしまう。同様にひとつの文化の枠内でも、こうした表現は変化して行き、同じ原型的な動機から出発した先行表現を人為的と感じさせてしまうことがある。フランス式の庭園が日本人には人為的と見え、日本庭園が韓国人にはやはり人為的と感じられるのとまったく同じである。
一八世紀の英国・中国式庭園(かの「シャラワジ」趣味)の愛好家にとっては、ル・ノートル (1613~1700)の庭園の秩序だった構成は、反自然的に見えるだろう。けれどもル・ノートルにとっては、逆にこの規則性が宇宙の深遠な掟、すなわち自然の本質自体を意味し「神に授けられた権利」によって宇宙論的な秩序のなかで確立するとされ、自然に関する科学が近代的な発展を開始した時代であれば当然の発想といえよう。ガリレオは一六二三年に、自然は数学の言葉で記述されていると断言してはいなかっただろうか。
(略)
時代が下ると今度は英国・中国式庭園が装飾過剰、つまり「建物」過剰のものとして人為的に感じられるようになった。たとえばレ〔Retz パリ郊外、サン=ジェルマン=アン=レ近くにあった一八世紀の英国・中図式庭園〕においては、廃墟を模したゴチック教会、ピラミッド(氷室に用いたもの)、「中国風の民家」、オベリスク、円柱形の家などがあった。
こうして文化の違いと歴史上の変化により、庭園と風景に関する趣味はたえず変わってきたが、一方風景を眺め、庭園を整備する人間はしばしば同じ理想を掲げてきた。すなわち自然の本質を尊重し表現するということである。(略)
『日本の風景・西欧の景観』オギュスタン・ベルグ
(さらに追記)
もう一つおまけに。
空間と眺望を水平的に拡大しようとする衝動が、もっともぜいたくなかたちで表現されたのは、さらにあとであり、それは北西ヨーロッパの平坦な景観の中においてであった。アンドレ・ル・ノートルの芸術は、人間が自然に対して審美的な嗜好を押しつけることができるという信念の風刺画を作り出した。庭園は見せるためのものとなった。それは人間を称賛した。ヴェルサイユ宮殿の王の寝室から、フランスの太陽王は長くのびた中央の眺望をすっかり見渡すことができた。その眺望は、平坦な一面の水と歩哨のような樹木によって、さらに長く見えるように作られていた。左右対称的なデザインにおける、このような人間の意志の表示には、自然と神性に関する感覚はもはや残っていなかった。ヴェルサイユに神や女神の彫像が欠けていたのではない。それらはただ、人間の観念への無情な隷属状態の中で、従僕のようにおとなしく傍観していたにすぎなかったのである。大臣たちがルイー四世に、国庫の金を減らしかねず、さらに地形の障害をも克服しなければならない計画には乗り出さないよう進言した時も、王は思いとどまることがなかった。「困難の克服においてこそ」と、彼は悦に入って述べた、「われわれの力が明らかとなる」。イングランドもまた、ヴェルサイユ型の雄大な景観を自慢することができた。もっとも野心的な計画をもったものの一つは、二〇本の放射状の通りが田園のなかにずっと延びている、バドミントンのビューフォート公爵の地所であった。公爵に目をかけてもらおうと願ったあるジェントルマンたちは、公爵の眺望を広げるために自分かちの地所に本を植えたと言われている。
一八世紀には、イングランドでいわゆる自然造景が普及した。自然景観は、普通の景観と同様、芸術作品であり、かつ技術者の功績でもあった。それは、直線や大きな通りや線状の池を避けたが、しかし人目を引く好ましい眺望への意図は変わっていなかった。ただそれを達成する手段だけが、より巧みになったのである。例えば、ランスロット・ブラウンは、後退する遠景(パースペクティヴ)を強調するために、両翼の遮蔽に木立を利用して、家からの眺望も考慮したので、その自然庭園には、左右対称な庭園よりももっと特権的な眺望点がたくさんあった。
『トポフィリア』イーフー・トゥアン
モギケンってケンブリッジに留学してたのにねえ。
なんていうか、モギケンってあまり教養ないよね。
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コメント
読み始めてすぐに「イギリス式庭園」って
言葉が思い浮かびましたが読み進めていって
それどころじゃない面白さ...。ま、「サヨク」風
にまとめさせて頂くと戦前も似たような事言った
人々が沢山出て、それでその連中の言う通りに
自らを大としたらどうなったか、それが何かを
物語っていると思いますねえ。
あとちょっと見返して「ミシュラン云々」には
なんて言うか、もう情けないを通り越した寒々と
した気持ちになりましたよ。本当に奴隷根性で生
きて来て、それで阿Qのような誇りを持ってるん
だなあ、と痛感。ま、ある種の典型なのかも
知れないけど、ベタ過ぎないか???
投稿: うさぎ | 2008年12月28日 (日) 16時12分
>読み始めてすぐに「イギリス式庭園」って
言葉が思い浮かびましたが
いいことを言ってくださいました。
書いてるときに、これに関連した本を最近読んだような気がしたのに思い出せなかったのですが、「イギリス式庭園」で思い出しました。
オギュスタン・ベルグでした。
と言うわけで、上に追記してみました。
>読み進めていって
それどころじゃない面白さ...。ま、「サヨク」風
にまとめさせて頂くと戦前も似たような事言った
人々が沢山出て、それでその連中の言う通りに
自らを大としたらどうなったか、それが何かを
物語っていると思いますねえ。
何か、最初から最後まで、どこかでみたような主張ばかりでしたね。
投稿: a-gemini | 2008年12月28日 (日) 21時10分
このひとの場合、「標榜している立ち位置からは本来語り得ないことを語る」のが問題なだけじゃなくて、「そうして語る内容が(文章力でごまかされがちだけど)ひどく底が浅い」点が不快だったりするんですよね。
そのあたり、著書よりも対談とかテレビ番組とかでよりあらわになりがち、と云うのはあるようにも思います。
投稿: pooh | 2008年12月29日 (月) 06時51分
>このひとの場合、「標榜している立ち位置からは本来語り得ないことを語る」のが問題なだけじゃなくて、「そうして語る内容が(文章力でごまかされがちだけど)ひどく底が浅い」点が不快だったりするんですよね。
底は浅いですよね。
言ってることは大雑把な一般論ばかりなんですけど、それを熱く語ると、「パッションがある」ということになって、「茂木さん、ステキ!」ってファンの人たちは思うみたいですね。
>そのあたり、著書よりも対談とかテレビ番組とかでよりあらわになりがち、と云うのはあるようにも思います。
この人は、対談だと、いやらしいほど相手を持ち上げるんで、そういうのに乗せられない人間に対しては弱いと思いますね。
投稿: a-gemini | 2008年12月29日 (月) 09時22分