『細胞の意思』団まりな
モギケンのことはひとまず置いといて、「団まりな問題」です。
発端は、TAKESANさんのところでのコメント欄でのやりとりです。
団まりなは、どういう意味で「細胞の意思」という言葉を使っているのか、実際に『細胞の意思』に目を通して確認してみました。
団まりなは、「意思」という語を以下のように定義しています。
以上を総合して本書では“意思”という語を、”ある何らかの主体(たとえば人間個人または人間集団など)が、他者(ほかの人間や生きもの)によって強制されるのではなく、自己の純粋な立場において、何らかの活動や思考などを想起し、行うこと”という意味で使うことにします。
『細胞の意思』、P63
要するに、人間と同じように意思を持っているのだ、と言っているように見えます。しかし、これだけでは額面通りに受け止めるのは躊躇したくなるでしょう。
説明のため便宜上の比喩として、こういう言い方をしているのではないか、という疑いが捨てきれないかもしれません。
しかし、以下のような記述を読むと、本気で「細胞には意思があるのだ」と主張していると解釈せざるをえないのです。
「生物は合目的的な存在である」という記述と、「生物学(科学)に合目的性を持ちこんではならない」という言葉が、どちらも同じように深い説明もなしに、べつべつの著者によって、当然のことのように書かれています。この問題がまだ感覚的なレベルにあって、それぞれの根拠を示すのがむずかしいというのが、この問題をめぐる現在の状況の正直な位置づけということでしょう。では、なぜ、このように重大な問題が、これほど真っ向から対立したまま放置されているのでしょうか。なぜ、どちらの側も決定的な証明を見つけられないのでしょうか。
私は、その理由が、どちらの陣営も細胞の存在や行動にいっさい目的性を持たせてはならない、という第3章で規定した“科学的考え方”の人々はもとより、生命の合目的性を認める人々さえもが、細胞が“思い”“悩み”“考え”“決断する”とまでは考えられないのです。私たちが受けてきた“科学的教育”は、それほどまでに重く、深いために、せっかく細胞に認めた合目的性や自発性も、どこかぜんまい仕掛けのように、私たちの頭の中ではぎごちなくしか動いてくれないのです。私は本章で、細胞にも“意思”があるという立場から、その合目的性のあり方を何とか説明してみようと思います。
同、P145~146
著者は、単に表現のしかたを問題にしているのではなくて、従来の“科学的考え方”そのものを批判しているわけです。
ここには著者の混乱があるように思えます。
著者は、「生物は合目的的な存在である」という記述と、「生物学(科学)に合目的性を持ちこんではならない」という言葉が矛盾したものだと考えているようです。
しかし、この二つの記述は観点が異なるのですから、互いに矛盾するものではありません。
「生物学(科学)に合目的性を持ちこんではならない」というのは、「説明に”目的因”のようなものを持ち込むな」ということです。
「生物は合目的的な存在である」というのは、「目的があるかのように振舞う」ということを記述しているに過ぎないのであって、「目的因」のようなものを持ち込んでいるのではないのです。
言い方を変えれば、前者は「なぜ」を説明しようとしているのに対し、後者は「いかに」を記述しているのです。
なぜ団まりなはこのような奇矯な主張をするのでしょうか。
私はそこに、団まりなの研究対象である細胞の複雑さや柔軟さに対する思い入れを見ます。
細胞膜で包まれた状態ではぜんまい仕掛けの機械のように見えていた胚の細胞たちは、不慮の事態に直面しても、誰の命令も受けず、これだけの仕事ができるのです。化学反応の連鎖に突き動かされて、否でも応でもなく変化させられているというようなイメージにはまったく合いません。そのようなイメージは、人間が安直に細胞たちに押し付けたものに過ぎません。
同、P143
「化学反応の連鎖」を「ぜんまい仕掛けの機械」に喩えること自体が、機械論に対する偏見だと思うんですがね。
機械と言っても、「ぜんまい仕掛けの機械」のような単純なものもあれば、コンピュータのように複雑な機械もあるわけで。
今後、機械がもっと発達すれば、生物のような柔軟性を持つかもしれない。
少なくとも、それを否定するような原理的根拠はないでしょう。
人間の個体が意思を持つ、と言っても、それも結局は「化学反応の連鎖に突き動かされ」た結果なわけです。
以下ような記述も興味深いものです。
「科学的考え方」でこの問題をとらえる場合は、次のようになります。これらの輸送タンパク質は、細胞が進化の過程で遺伝子の変異によりつぎつぎと手に入れたもので、その種類や作用は、たまたま細胞が環境条件にうまく適応するのに役に立ったものが蓄積して、現在の姿があるのである。つまり、これらの輸送タンパク質は、環境条件とともにすべて細胞にとって所与のものであり、それぞれの性質に応じて粛々と化学反応を行っているに過ぎない。細胞は、環境の微細な変化に応じて、多少はそれらの数や活性をコントロールする分子メカニズムを与えられているが、総じて受身的にこれらの反応の結果に従っているに過ぎない。
これに対し、擬人的になることを恐れず、細胞を主体的に外界に立ち向かう生き物ととらえる「擬人的考え方」の立場からは、細胞は、時々刻々と環境条件をモニターする目的のために、状況に応じてしかるべき輸送タンパク質の種類や数や活性を出し入れしている、と見えます。この二つの考え方の、はたしてどちらが本当らしいのでしょうか。
同、P150
こんな臨機応変な、柔軟な対応が、細胞メカニズムからの積極的な参加なしに、遺伝子の偶然的な変異や、その結果の外部環境への適応という偶然的なことがらの集積としてなしうるとは、私にはとうてい考えられません。細胞がただただそのような能力を付与されてしまった受身な存在とする考え方が、現在は“科学的”と思われていますが、私には、このような考え方は、ほとんどサイエンス・ロマンとか、サイエンス・フィクションのように見えてしまいます。現に、遺伝子環境の変異をもとにした細胞進化の仮説では、遺伝子変異から先のメカニズムは、実は何もわかっていないのです。細胞たちの現在の姿を、彼らがさまざまな状況に直面して、自分たちに与えられた能力の範囲で必死に工夫し、自分を改良してきた結果とする“擬人的考え方”もそれを裏付けるメカニズムは何もわかっていません。しかし、メカニズムはわからなくても、現象を把握することはできます。まず虚心に現象をとらえること、そして知ることのできたメカニズムを応分に現象に当てはめて理解を重ねること、これが本当に科学的な態度と私は考えています。皆さんは、いかがでしょうか。同、P156~157
ダーウィニズムに対する反感を見て取ることができます。
「こんな臨機応変な、柔軟な対応が、細胞メカニズムからの積極的な参加なしに、遺伝子の偶然的な変異や、その結果の外部環境への適応という偶然的なことがらの集積としてなしうるとは、私にはとうてい考えられません」というのは、典型的な「主観によるダーウィニズムの否定」ですね。
そもそも、「目的因」のようなものを持ち込まずに、生物が合目的性を持ってるかのようにふるまうということを説明するのが、自然淘汰の理論なんですけどね。
細胞が合目的に活動していることは明白だ、だが自然淘汰による説明は気に入らない、何か違った説明が必要だ、といったところから「意思」のようなものを持ち出さざるを得なくなってしまったのではないでしょうか。
おそらく、団まりなも実証的な研究の枠内では「まともな生物学者」なのでしょう。しかし、実証的な研究の枠を外れて個人的な信念や哲学のようなものを語り出すと、研究対象に対する思い入れが暴走してトンデモに接近、という感じになっているのではないでしょうか。
……と書いたところで、以下の団まりなの文章を発見。
「現代思想」2008年7月号から。
タイトルは「あえて擬人化のすすめ」。
私は、敬遠されるタイプの研究者だと思う。その理由は、この時代に分子や遺伝子を毛嫌いし、細胞をむやみに擬人化しか妙な感情移入を止めず、その非科学的な語り口は鼻につき、聞くに堪えない。良いことも言っているんだろうけれど、あれではそれも帳消しだ、といったところだろう。長く続くこの批判に、ただむやみに突っ張っていたわけではない。ようやく最近になって、自分の態度の根幹が見えてきた。本橋でそれを表現してみようと思う。
ああ、やっぱり同業者からは敬遠されてたんですね。
そりゃそうだろうと思います。
で、結びの文章。
「細胞を理解したい」というときに我々が真に求めているのは、細胞を成立させている分子メカ号スムを徹底的に解明することではなく、細胞にとって生きているとはどういうことか、細胞はなぜ話し介うのか、細胞にとって他の生物の遺伝子を導入されるとはどういう変化なのか、未分化な細胞に戻るとは、分化した細胞にとってどういう経験なのか、といったことではないのか。
「そんなこと、分るはずがない!」という声が聞こえる。
果たしてそうだろうか。細胞から作られている我々が、細胞を直感的に理解できないはずがあるだろうか。まして、細胞の分子メカ号スムについての膨大な知見を手にしている我々が、直感の内容を取り違える可能性は極めて小さいのではないだろうか。擬人的な表現によって、細胞の振る舞いに寄り添うことが許されれば、さまざまな自由な発想が浮かび、これまでとは違った視点で問題を立てることができ、細胞の、そして生命の理解も大きく膨らむのではないだろうか。
私の近著(NHK出版、題名未定)で、幾つかの具体例をもって、細胞に寄り添うことを試してみた。こちらも合わせて読んでいただけると、私の言わんとするところをより深く理解していただけると思う。
この「近著」というのが『細胞の意思』のようです。
しかし、上のような書き方だと、便宜的に擬人的な表現を使っているだけのようにも見えますよねえ。
やっぱり、この人の頭は混乱してると思います。
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コメント
こんにちわ.
私も年末に読みましたが,いろいろヘンでしたね.
全体として,「要素還元主義を毛嫌いするあまり,おかしなことになっている」という印象を受けました.
確かに「要素や素過程がわかった*だけ*では細胞はわからない」というのはわかるのですが,問題は,「要素や素過程が単純だったとしてもたくさん集まれば非自明な振舞いが出てくる」という統計力学や力学系なんかの話を,団氏は全くご存知ないらしい,ということです.そのせいで「化学反応の連鎖」=「単純なしくみ」→「細胞はそんなんじゃないよ!」という,なんだかおかしな反応になってしまっているのかなぁ,と.
「ダーウィニズムへの反感」に見える部分も,ダーウィニズムというよりそれに対するミクロな説明 (DNAのコピーミスが積み重なって…というような) への反感から来ているように読めました.違うかもしれませんが.
…しかしそうだとすると,団氏,次のエントリで取り上げられているような福岡伸一氏のコメントには激怒しそう :-p
投稿: たかぎF | 2009年1月13日 (火) 18時49分
>確かに「要素や素過程がわかった*だけ*では細胞はわからない」というのはわかるのですが,問題は,「要素や素過程が単純だったとしてもたくさん集まれば非自明な振舞いが出てくる」という統計力学や力学系なんかの話を,団氏は全くご存知ないらしい,ということです.そのせいで「化学反応の連鎖」=「単純なしくみ」→「細胞はそんなんじゃないよ!」という,なんだかおかしな反応になってしまっているのかなぁ,と.
ええ。私もそんな風な印象を受けました。
要素だけを見ていてはダメで、要素間の相互作用も含めて考えなくてはならないって言うのは当たり前の話で、要素に分解する「だけ」でいいと思ってる「要素還元主義者」なんて、実際にはいないと思うんですね。
要素間の相互作用から柔軟で秩序立った振る舞いが発生する、ということを「意思を持っている」という風に表現されるとちょっと困りますね。
>「ダーウィニズムへの反感」に見える部分も,ダーウィニズムというよりそれに対するミクロな説明 (DNAのコピーミスが積み重なって…というような) への反感から来ているように読めました.違うかもしれませんが.
まあ、それもダーウィニズムに対する反感の一典型のような気がするんですよ。
「ダーウィニズムは単純な機械論だ」って言う…。
>…しかしそうだとすると,団氏,次のエントリで取り上げられているような福岡伸一氏のコメントには激怒しそう :-p
ところが、団氏と福岡氏は思った以上に似たもの同士なのだ、ということを次のエントリで書きます。
投稿: a-gemini | 2009年1月13日 (火) 21時03分
TAKESANさんのところでも書いたんですが,「細胞の意思」という表現自体は,私はそんなに違和感がないんですよ.団まりなさんの書きっぷりはヘンだと思いますけど.
> まあ、それもダーウィニズムに対する反感の一典型のような気がするんですよ。
> 「ダーウィニズムは単純な機械論だ」って言う…。
あぁ,なるほど,そうなんですか.どのへんが単純なんだか,よくわからないですね (^^;
投稿: たかぎF | 2009年1月13日 (火) 22時40分
私は、やっぱり「細胞の意思」っていうのは違和感あります。
比喩的に言っているのだとしても、ちょっと気持ち悪い。
そういう言い方をすることに何のメリットがあるのだろうか、と感じます
投稿: a-gemini | 2009年1月14日 (水) 12時01分
せめて「意思」とカッコにくくってくれればねえ・・・
目的論と機械論の単純な2択ってのは、その辺の馬鹿ブロガーでおなかいっぱいなのににゃー。
投稿: 地下に眠るM | 2009年1月14日 (水) 12時18分
どちらの観点を取るかは、場合に応じて入れ替え可能だったりするんですよね。
投稿: a-gemini | 2009年1月14日 (水) 20時59分
反ダーウィニズムで親今西、親ラマルキズムな人って特に一般向け科学書を書いている分子・細胞・発生生物学分野の人にも結構多いと思うんですが(たとえばカブトムシと進化論の海野和夫氏とか構造主義進化論のひとたちとかもそうですよね)、実際は生物や細胞に意志や自主性があるとしても複雑な機能の進化が説明できるわけではないんですよね。なんとなく納得はしやすいけど。
意志や精神を認めると納得しやすいのは心の理論の副産物(自然現象を超自然的存在で説明するような)なのかな?と考えるとちょっとおもしろいです。
投稿: いとみみず | 2009年1月19日 (月) 22時39分
>反ダーウィニズムで親今西、親ラマルキズムな人って特に一般向け科学書を書いている分子・細胞・発生生物学分野の人にも結構多いと思うんですが(たとえばカブトムシと進化論の海野和夫氏とか構造主義進化論のひとたちとかもそうですよね)
発生学の人ってダーウィニズムに対する偏見を持っている人が多いような気が以前からしてるんですけどね。
最近はエボデボの隆盛とかで変わってきてるのかな?と思うんですが。
>意志や精神を認めると納得しやすいのは心の理論の副産物(自然現象を超自然的存在で説明するような)なのかな?と考えるとちょっとおもしろいです。
それは面白いですね。
ちょっとずれますけど、『現代によみがえるダーウィン』の鼎談で、生物に対する認識のバイアスの話が出てきていて、ちょっと面白かったです。
矢原:去年(1997年)の植物分類学会のシンポジウムで,分類学は認知科学で,認知パターンについて研究すべきだという主張を三中さんがされて,物議をかもしだしたんですが……
長谷川:ほんとうにそうだと思う、認知科学だと思う。赤ん坊からの発達の過程での,ヒトという生物が生物界をとらえるとらえ方だと思います。
三中:赤ん坊がどのようにものをカテゴリー化するかの生得的基盤を究明する研究は,発達心理学では研究されているんでしょう?
長谷川:やってます。発達心理学は進化的な理論を知らないけど,データは持ってるいと思います。そうそう,ケンブリッジでヘレナ・クローニンと会って話したんですが,すごくおもしろいと思ったのは,子どもが動物と非生物をどう認識するかを調べると,生きものというものは変化しない,ととらえてるんだって。
三中:生きものの「種」には本質(essence)があるととらえる。もちろん,現代の生物体系学ではこういう本質主義的な考え方はくり返し否定されています。にもかかわらずわれわれ人間は生類(living kinds)には本質があると現実に認識しているわけですね。生物学的本質主義とは別の心理的本質主義。
長谷川:そう,本質があるととらえる。だからウマにペンキを塗って「シマウマだ」と言っても,子どもはやはり「ウマさんだ」と言い張る。でも,ブリキの箱をとんとん叩いて丸い桶みたいなものにすると,これは「桶になった」と言う。生物的なものは,実体があって変化しないものだと思ってるんですね。
投稿: a-gemini | 2009年1月20日 (火) 21時22分