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2009年3月

2009年3月31日 (火)

第一種の誤り/第二種の誤り

「雑記 3.22-3.28」のフォローのエントリです。
「第一種の誤り/第二種の誤り」についての福岡伸一ハカセの説明を検討してみたいと思います。
統計学は得意ではないので、おかしなところがあったら指摘をお願いします。

まずは、統計学上の「第一種の誤り/第二種の誤り」とは何かを確認しておきましょう。
統計学的仮説検定においては、ある変数間の関連性の存在を主張する仮説を検定するために、まず、元の仮説とは逆の「帰無仮説」、すなわち「変数間に関連性が存在しない」という仮説を設定します。
検定の結果、「帰無仮説」が棄却されれば、変数間の関連性の存在を主張する仮説(対立仮説)が支持されることになります。

「第一種の誤り」とは
帰無仮説が正しいのに、棄却してしまう危険性、逆にいうと、(対立)仮説が支持されないのにも関わらず、支持されるといってしまう確率   

「第二種の誤り」とは
帰無仮説が棄却するべきときに、棄却しない確率、逆にいうと、(対立)仮説が支持されるはずなのに、支持されないと結論づけてしまう危険性

というものです。

以上の説明を言い換えてみましょう。

仮説:「変数XとYは関連がある」
   
帰無仮説:「XとYは関連がない」 すなわち
       「(標本で見出された)XとYの関連は偶然のものである」
 
検証:帰無仮説、すなわち
    「XとYの関連は偶然のものである」という仮説を検証する 

「帰無仮説を棄却する」とは
「XとYの関連は偶然のものではない」すなわち「XとYは関連がある」と結論すること

「第一種の誤り」とは
実際は「(標本で見出された)XとYの関連は偶然のものである」(すなわち「XとYは関連がない」)のに「XとYは関連がある」と結論すること

「第二種の誤り」とは
実際は「(標本で見出された)XとYの関連は偶然ではない」(すなわち「XとYは関連がある」)のに「XとYは関連がない」と結論すること

さて、以上のようなことを確認したうえで、福岡伸一先生が「第一種の誤り/第二種の誤り」をどのように説明しているかを見てみましょう。

福岡流「第一種の誤り」とは以下のようなものです。

  仮説を立ててそれを検証しようとある実験を行うと、多くの場合、いや九五%以上は、期待したような結果にはならない。それは仮説が間違っていたから実験結果がそうならないのだ、つまり、仮説が誤っていたと判断される場合が、実験科学「第一種の誤り」。これはシンプルかつ素直な解釈である。

何だかよく分からない説明です。
上の「仮説」というのが「帰無仮説」のことで、実験結果から判断して帰無仮説を棄却したけれども、実際には帰無仮説の方が正しかった、ということなら、「第一種の誤り」の正しい説明ですが。
 
では、福岡流「第二種の誤り」の方はどうでしょうか。

 ところが、多くの場合、いや九九%以上の科学者は、ああ、そうか、仮説が間違っていたのだとすぐには認めない。むしろ、私の仮説は正しいのだが、実験の方法か適切でないから期待する結果とならないのだ、と考える。つまり、実験のやり方が間違っていると判断されるのが「第二種の誤り」。

どうも私にはこの説明はひどく分かりにくく感じられます。
上の文章では、「誤り」とは「実験のやり方の誤り」である、とも読めますし、「実験のやり方が間違っている、と判断することの誤り」である、とも読めるような気がするのです。
前後の文脈から判断すると、どうやら、福岡ハカセが言っているのは、「仮説の方が誤っていた」というのが「第一種の誤り」であるのに対し、「実験の方が間違っていた」というのが「第二種の誤り」だ、ということのようです。 
(実際、『ちくま評論入門』の著者は、「第一種の誤り」は仮説の誤り、「第二種の誤り」 は実験の誤り、と解説しています。)
どちらの解釈を採るにせよ、福岡ハカセの説明はピントが外れています。
「第二種の誤り」は、帰無仮説の棄却(をしないこと)の誤りであって、実験のやり方(あるいは、実験のやり方の適切さの判断)の誤りのことではありません。

さらに、以下のような文章が続きます。

 そして問題は、「第一種の誤り」と「第二種の誤り」は、内実は正反対なのに、実験がうまくいかない(期待どおりにならない)という位置からは見分けがつかない、ということである。かくして、不幸なことに、多くの場合、いや九十九.九%以上のケースでは、本当は誤っている仮説に固執して、益のない実験が繰り返されている、というのが科学研究の実態なのである。そして、本当に問題なのは、そこに多大な税金が投入されている、ということである。

どうも福岡ハカセは、(福岡流)「第一種の誤り」は問題ではなく(?)、実際は(福岡流)「第一種の誤り」であるのに(福岡流)「第二種の誤り」であると判断してしまうことが問題だ、と考えているようなのです。
つまり、「本当は仮説に誤りがあるのに、実験のやり方が間違っていると判断すること」が問題だ、と言っているわけです。
統計学の概念の珍解釈と言うべきでしょう。
 
それとも、福岡ハカセが説明していたのは、統計学上の概念ではなくて、何か別の分野における概念のことだったのでしょうか?
ネットで「第一種の誤り」「第二種の誤り」を検索してみると、見たところ、統計学上の「第一種の誤り/第二種の誤り」ばかりのようです。
統計学以外の分野に「第一種の誤り/第二種の誤り」があったとしても、それはあまり一般的のものではなさそうです。
福岡ハカセの意図したのが統計学以外の分野の説明だとしたら、それはミスリーディングで問題がある説明ではないでしょうか。
それとも、福岡ハカセが説明していたのは、福岡ハカセ独自の概念だったのでしょうか?
一般的に知られている統計学の概念があるのに、何の注釈もなく同じ名前をつけた独自の概念を説明するのは、これもまたミスリーディングであり、乱暴過ぎる行為だと言わざるを得ないでしょう。
福岡ハカセに申し開きの道は残されていないようです。

統計学上の説明以上に問題なのは、福岡ハカセが科学者のあり方について歪めたイメージを作り出してしまっているということです。

 ところが、多くの場合、いや九九%以上の科学者は、ああ、そうか、仮説が間違っていたのだとすぐには認めない。むしろ、私の仮説は正しいのだが、実験の方法か適切でないから期待する結果とならないのだ、と考える。つまり、実験のやり方が間違っていると判断されるのが「第二種の誤り」。試薬の濃度が適切でなかったとか、測定器の感度が不良だからとか、はたまた実験動物が風邪をひいていたせいたとか、理由はいくらでもひねり出せる。そこで、科学者は、正しい実験を行おうと考えて、いろいろ条件を変えて実験を繰り返す。「研究」と呼ばれるものが非常なる時間を要するのはそのためなのである。

これは、科学者の無能さや不誠実さを不当に大きく描いているのではないでしょうか。
福岡ハカセの科学者としての自己イメージが上のようなものならば、私は福岡ハカセの科学者としての態度を疑わざるを得ません。

(参考1)

「第一種の誤り/第二種の誤り」が統計学の本でどのように説明されているか、図書館に行って調べてきました。

棄却すべきでないときに帰無仮説を棄却することを,統計学者は第1種の誤りと呼ぶ.

 『STATICTICS HACKS』
  Bruce Frey 著
  オライリー・ジャパン

第1種の過誤 type I error
仮説検定において帰無仮説が正しいときに,これを棄却する誤り


『統計科学事典』
B.S,EVERITT 著
朝倉書店

帰無仮説が正しくないとき,帰無仮説を棄却すれば正しい行動であるが,帰無仮説が正しいのに帰無仮説を棄却すれば誤った行動である.この誤りを第1種の過誤(type I error)という.

 『基本統計学〔第2版〕』
  豊田利久, 小川一夫, 谷崎久志, 大谷一博, 長谷川光 著
  東洋経済新報社

第1種の過誤〔error of first kind〕
 仮説が真のとき,すなわち仮説が採択されねばならぬとき,検定の結果その仮説が棄却されるならばそれは誤りを犯すことになる.この種の誤りは第1種の過誤とよばれており,これは,NeymanとE.S.Pearsonの名前を冠した統計的仮説検定論における基本的概念である.

 
  『ケンドール統計学用語辞典』
  Maurice G. kendel & William R. Buckland 著
  丸善株式会社
 

(参考2)

福岡ハカセが翻訳したドーキンスの『虹の解体』には、以下のような記述があります。 

  DNA指紋に関して簡単に述べたように、統計学者は、偽陽性の誤謬(間違った肯定)と偽陰性の誤謬(間違った否定)を区別して扱っている。これは、それぞれ、”タイプ1の誤り”“タイプ2の誤り”とも呼ばれる。タイプ2の誤り、つまり偽陰性は、実際はパターンが存在するのに、それを検出できない場合のことである。タイプ1の誤り、つまり偽陽性は、その逆、すなわち、実際にはランダムな現象以外のなにものでもないのに、何らかのパターンがあると結論づけてしまうことである。
p値とは、タイプ1の誤りを犯してしまう危険性をあらわす確率にほかならない。統計学的判断とは、このニ種類の誤謬のあいだで舵取りをして、いかに真ん中の進路を選び取るか、ということなのだ。
タイプ3の誤謬もあって、ちなみにそれは、タイプ1の誤りとタイプ2の誤りの、どちらがどちらであったかを思い出そうとして、頭が完全に空白になることである。これだけ長いあいだこの用語を使っている私でさえ、調べ直さなければならないときがあるのだから、区別が必要なときには、簡単に覚えられる名前、つまり、偽陽性と偽陰性を使うことにしたい。

『虹の解体』の翻訳が出版されたのは2001年、福岡ハカセの上の文章が発表されたのは2005年です。
福岡ハカセ自らが翻訳した文章にちゃんとした説明があるのに、上のようなトンチンカンの説明をしてしまったというのは、実に不思議なことです。 

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2009年3月28日 (土)

「科学者にも怖いものはある」最終回

きくち先生、「脳科学」ブームに一言。

科学者にも怖いものはある

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雑記 3.22-3.28

何だか、今週はやる気がなかったな。

                     *  

WBCの騒ぎがうっとうしくて、テレビをつける気がしない一週間でもありました。

                  *  *  *
    
芥川賞作家であらせられる川上未映子先生の推薦文来ましたー。

200903251110000

「この美しい文章」ねえ……。

                     *  

『ちくま評論入門』って本が出てたんで手にとってみたんですよ。
そしたら、福岡伸一の文章が載ってたんですよ。
それが、福岡ハカセが「第一種のの誤り/第二種の誤り」の俺様定義を展開している文章で。
で、「第一種のの誤りと第二種の誤りとは何か、説明せよ」みたいな設問がされてて。
何か、もうねえ……、泣けてきましたよ。
    
                     * 
   
んで、池袋のジュンク堂に言ったら「木田元書店」コーナーっていうのがあったんですよ。
「木田店長の著書、おすすめの本を集めた、期間限定の書店」っていうやつで。
どんな本があるかと眺めてみたら、福岡ハカセの本がずらっと並んでた……。

200903281300000

http://www.junkudo.co.jp/view2.jsp?VIEW=display&ARGS=4G&RCNT=66&MODE=0&PAGE=1&ROWS=10&SC=-2100000000
http://www.junkudo.co.jp/view2.jsp?VIEW=display&ARGS=4G&RCNT=66&MODE=0&PAGE=5&ROWS=10&SC=-2100000000
http://www.junkudo.co.jp/view2.jsp?VIEW=display&ARGS=4G&RCNT=66&MODE=0&PAGE=6&ROWS=10&SC=-2100000000

おまけに、金谷武洋の『日本語に主語はいらない』なんかも並んでた(爆)。

http://www.junkudo.co.jp/view2.jsp?VIEW=display&ARGS=4E&RCNT=234&MODE=0&PAGE=5&ROWS=10&SC=-2100000000
http://www.junkudo.co.jp/view2.jsp?VIEW=display&ARGS=4E&RCNT=234&MODE=0&PAGE=11&ROWS=10&SC=-2100000000
http://www.junkudo.co.jp/view2.jsp?VIEW=display&ARGS=4E&RCNT=234&MODE=0&PAGE=14&ROWS=10&SC=-2100000000

それから、堀越孝一の『中世の秋の画家たち』っていうのもあって。

http://www.junkudo.co.jp/view2.jsp?VIEW=display&ARGS=4G&RCNT=66&MODE=0&PAGE=4&ROWS=10&SC=-2100000000

これは、以前、中身にちゃんと目を通さずに買ってしまって、あまりの悪文に呆れて最初の数ページを読んだだけで投げ出してしまった本でして。

木田先生って趣味が悪いんですねえ。
最近になって「反哲学」とかワケが分からないこと言い出して、ヘンな人だなとは思ってたんですが。

                     * 
   
別の本屋でハヤカワ文庫で『はじめての現代数学』っていうのが平台にあったんで、オッと思って手に取ったら、帯に竹内薫の推薦文が。

200903271859000_2

それで一気に興味がなくなってしまいましたとさ。
ハヤカワさん、すみません。
ハヤカワ文庫から出ている数学の本は面白いのが多いと思うんで、この本もたぶんいい本なんでしょうけどね。

                     * 

で、その竹内薫センセイが福岡伸一と一緒に博報堂大学で講演をしたそうで。

薫日記

福岡さんの講演は新著「動的平衡」の中身を平易かつ効果的に紹介されていたように思う。非常に面白かった。

だそうです。
                  *  *  *
    
「プロフェッショナル 仕事の流儀」で、また「脳活用法スペシャル」やるんですね。
もうそろそろツッコミ入れるのも嫌になってきたな。
と言うことで今回はパス。
どうせまた、わざわざ脳科学に結び付けなくても言えるような常識的なことを語っておいて、「いいこと言ってるぞ」みたいな顔するんでしょ。
もう、ウンザリですよ、そういうの。

                     * 

んで、茂木センセイは映画の宣伝もするんですねえ。   
    
http://www.adnet.jp/nikkei/morning/young/pdf/2009/031901.pdf

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2009年3月27日 (金)

悩める宮崎哲弥

宮崎哲弥って、福岡伸一と仲がいいみたいなんですが、やっと福岡ハカセのヤバさに気がついたようです。

分子生物学者の福岡伸一氏をゲストに迎えての『ニュースの深層』(朝日ニュースター)。
 新著『動的平衡』(木楽舎)の紹介。それから若干の突っ込みを入れる。
 仏教者としては、福岡氏の関係論的生命論、自然観にはほとんど異論がない。
彼の話を聞いていると『ダマパダ(法句経)』や『ミリンダ王の問い(那先比丘経)』などの一節をつい想起してしまうほどだ。
 しかし、暫定的科学主義者としての私からすると、やや突飛に思えるところがなくはない。
 例えば『動的平衡』ではライアル・ワトソンが肯定的に紹介されている。だが、ワトソンは生物学の世界では「百匹目の猿現象」や「グリセリン結晶」など多くのデタラメ学説を流布した疑似科学者ということで評価が定まっている。
 福岡氏の奔放不羈な思考は魅力だが「ちょっとこれは……」と戸惑いを覚える。
 
  「週刊文春」3/26号

宮崎は、『もう牛を食べても安心か』に好意的なレビューも書いていたし(http://book.asahi.com/review/TKY200503120572.html) 、去年の「新書大賞」でも『生物と無生物のあいだ』を賞賛していたのだけれど、ライアル・ワトソンを持ち出されたら、さすがにフォローに困りますわなあ。    
さて、宮崎センセイ、どうやって辻褄を合わせますかね。

宮崎センセイを悩ませる問題がもう一つ。

去年からの宿題で、国籍法の問題が頭に引っ掛かっている。
  去年、関西のあるテレビ番組で「国籍付与の手続きにDNA鑑定を導入する」という改定案に不用意に同意してしまい、「早まったかな」という思いを残していたのだ。
  「正論」三月号に掲載された稲田朋美氏の論考、『「国籍法」改正-私がDNA鑑定に反対する理由』は大いに参考になったが、なお自説は定まらない。
  そうこうしているうちに、偽装認知による国籍不正取得事件で中国人男女が逮捕されたりして、予断を許さない状況だ。
 
  「週刊文春」3/5号

あー、宮崎センセイ、DNA鑑定云々の前に認識間違ってますから。
以下を読んで、ちゃんと理解しておいてください。

閑寂な草庵 - kanjaku -   国籍法改正と反対派の勘違い
 

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2009年3月22日 (日)

アリストテレスの錯覚

モギケン論文の件なんですが

クオリア日記 交差指錯覚における身体アウェアネスの異なる神経プロセス

「交差指錯覚」って、「アリストテレスの錯覚」のことかな?
「人差指と中指を交差させて、その間に1本の細い棒を挟むと、棒が2本に感じられる」ってやつなんだけど。

私の場合、小学生の頃、小学館の雑誌か何かで読んで知ったんですよね。
数年前に、ウィリアム・ジェームズの「心理学」を読んでたら、これが出てきて、「これが元ネタだったのか!」と感激したもんですよ。

最も古い例はアリストテレスにまで溯る。二指を交叉させてその間で豆かペン軸かその他の小さいものを転がすと、それは二個に感じられる。クルーム・ロバートソン教授はこの錯覚の最も明瞭な分析をしている。彼が言うには、もしそのものがまず人差指に触れ、次に中指に触れたならば、二つの接触は空間の異なった二点に与えられたと感じる。人差指は実際には下にあるけれどもその接触は上のように感じられ、中指は実際にはしにあるけれどもその接触は下のように感じられる。『われわれはこれらの接触を空間の別々の二つの部分にあるものとするからニ個と知覚する。』二指の触れられた側は普通は空間内で同じ所にはないので、習慣上一つの物に触れることはない。したがっていま両方に触れている一つの物が二つの場所に感じられる。すなわち二つの物に感じられるのである。

A

ネットで検索してみたけど、本当にアリストテレスが見つけたのかどうかは分からなかったですね。

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2009年3月21日 (土)

雑記 3.15-3.21

クオリア日記 交差指錯覚における身体アウェアネスの異なる神経プロセス

もしかして「茂木健一郎は論文を書かない」という批判を気にしてるんじゃないかと。

                     *  

クオリア日記 魂の探求

インターネットの第一原理。

「ネットに匿名で書かれた意見は、存在
しないのと同じである」

もちろん、匿名で意見を書いたり、それを
読んだりする人がいても、全く
かまわない。

オレは読まない、というだけのこと。

ないものにされちゃいました(泣)。

                  *  *  *
    
『経済政策を売り歩く人々』(ポール・クルーグマン)より。

 学者は大抵、他の学者を対象として論文を書く。仮に、もっと広く一般大衆を対象に書くとしたら、それがいかに優れていて、明快なものであっても、彼は常に自分の同僚の反応を頭の片隅においているであろう。その結果、学者は、自分や他の学者たちが間違っていると考えていることは、いかに聞こえが良かろうとも発言することを控えるようになる。
そして、学者の言葉の裏に潜むものは、どんなに簡単なことであっても、一般人が理解できないようなものであることが多い。
 政策プロモーターは、一般人だけを対象に書き、話す。その結果として、彼らの書くものは、学者的な自制心によって妨げられたりはしないのである。彼らは、学者の間で確定されていないことを非常に明快に説明し、また学者が簡単な答えが見つかるかどうか疑わしいと考えるような問題の答えを、いともたやすく提供したりする。
(略) 
   ジョン・ケネス・ガルブレイスの例を考えてみよう。マクニール-レーラー・ショーの視聴者やニューヨーカー誌の読者といった、一般的に教養があるとされている層は、ガルブレイスのことを重要な経済思想家だと思っている。確かにガルブレイスは、ハーバード大学経済学部教授ではあるが、同僚は彼を学者だとは思っていないし、むしろ「メディアのパーソナリティ」とみなしている。(略)一般人と学者のガルプレイスに対する認識の違いは、このとき一層明らかになった。この本は、マスコミに熱狂的に取り上げられたが、学界では全く相手にされなかった。ガルブレイスの著書は、学者たちが本物の経済理論であると考えているものとはほど遠いものだったのである。

日本の別の分野でも同じような事例があるような。
Mさんとか、Fさんとか……。 

                  *  *  * 
    
スポーツに関しては興味がゼロに近い私なんですが……。
イチローって、韓国がらみのことになると発言が下品になるよね。
なんで?

                  *  *  *
    
村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチと文藝春秋のインタビューの世間の反応を見ていると、胸クソ悪くてしかたがないのだが、他にも書くことがたくさんあるので後回しかな。
世間の人たちが忘れた頃に書くかも。

                  *  *  * 

私にも話させて 佐藤優氏から、公開質問状への回答が来ない/『週刊新潮』編集部とのやりとり

案の定、佐藤優からの回答は来なかったようで。
『週刊新潮』は公開質問状自体受け取ってないと言ってるようですけど。
仮に佐藤本人に届いていなかったとしても、ネットで自分に対する質問状が公開されているわけで、それに気がついてないのなら、佐藤の「インテリジェンス能力」(笑)も大したもんじゃないってことですね。   
新潮社も、公開質問状自体受け取ってなくたって、ネットで公開されてるって本人に伝えればいいだけの話なんですけどね。
今日の時点で「公開質問状 佐藤優」でググれば一番上に出てくるんだから。

Satou

そういうわけなんで、佐藤優の接触する機会のある方は、情報弱者の佐藤センセイに教えてあげてください。

                     *  
   
ところで、新潮文庫に佐藤優の著作が2冊入ってるんだけど、その解説を川上弘美と恩田陸が書いてるんですよねえ。
文学者って、こうやって”動員”されていくんだなあ、と。

                  *  *  *
    
「長めのエントリ」の方は、材料集めばかりで、文章の方が全然書けてない。
まあ、ボチボチやります。

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2009年3月20日 (金)

マッチ・ポンプ Part3

大きなお世話だとお思いでしょうが

今、ビジネスの世界で求められている手法はこれなんです。天気の話など、仕事とは関係ない話をダラダラしてから本題に入るのは、もう古い。いきなり核心をついていかないと、これだけのスピード社会、流動化の時代に、チャンスをつかむことはできないんです。自分の中に起きたバブルを一瞬のうちにすばやく察知し、行動に移していかないとダメだということですね。

http://rikunabi-next.yahoo.co.jp/proron/0848/proron_0848.html

仕事上、無駄を省くのはいいけど、どんなに忙しくても、人間関係だけは効率を追ってはいけないんです。家族、恋人、友達はもちろんだけど、たとえば、出張先でクライアントとの打ち合わせが終わって、ご飯を食べているときに新しい企画が生まれたりしますよね。だからこそ、人に対しては、思いっきり無駄に向き合ったほうがいい。僕にとっては人と会うことは、唯一の息抜きであり、次の仕事への活力なんです。

「DUAL」5月号

茂木健一郎ファンもいい加減目を覚ました方がいいんでないかい?

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2009年3月14日 (土)

連絡

長めのエントリを書き始めたので、しばらく更新が止まります。

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雑記 3.8-3.14

“麻生祭り”著書「とてつもない」ヒット

「2ちゃんねる」に詳しい札幌国際大学の大月隆寛教授は「インターネットの世界には、物見高いけれど無責任、それでいて正義感も持っていた江戸の町人気質が感じられる。マスコミの激しい麻生たたきに対して、町人気質が異議を唱え、多くの賛同者を生んだと考えるべきだ」と解説する。

そうなのか?大月。
「江戸の町人気質」が本当にそういうものなのなら、「江戸の町人気質」なんて大嫌いだな。

                  *  *  *

都教委、小学生に“自尊教育” 中高生の半数「自分に否定的」

 都教委も「自分のことが嫌いでは、学習意欲もわいてこない」と自尊感情の大切さを認識。試案ながら、「自分への気づき」「自分の可能性」などの観点で教員が子供の自主性や個性を積極的に評価し、失敗や間違いが大切な経験であることを強調する指導モデルも作成した。都教委は今後、具体的な指導方法について国内の大学と連携して研究を進め、4月からは小学校1校で試験的に“自尊教育”を実施する予定だ。

くだらない。
子どもが「失敗や間違い」を恐れるように仕立て上げているのは、もっぱら学校教育じゃないかと思うけど。
”自尊感情”なんて教育で植えつけることができるようなものなのかね?
「自分への気づき」って言葉も気持ち悪いなあ。

                  *  *  *

村上春樹さんがエルサレムに行った理由 誌上で告白    

 ウェブを中心に受賞辞退を求める動きもあったが、パレスチナで起きていることへ関心を集めた点で「有意義」な問題提起だったと見る。他方、「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思う」とも語っている。

ほう? 
「ネット空間にはびこる正論原理主義」ねえ。
「正論原理主義」ってのがどんなものなのかよく分からないけど、ネットのどの辺に「はびこって」いるのか教えてほしいな。
面白そうだから見てみたいよ。

                     * 
   
「文藝春秋」のインタビュー読んだけど、「ああ、ほんとに賞が欲しかったのね」「批判に反論しようと思ったのにできなかったのね、批判の方が”正論”だから」って感じ。
村上春樹というのは人間として信用できないヤツだと思ったな。

あ、文学者としての評価は、また別の話ね。
私は村上春樹の本を読んだことないし、今後も読むことはないでしょう。

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2009年3月11日 (水)

マッチ・ポンプ Part2

日本人の強みは“衆知を集めて独創を生む”

 しばらく前まで、アメリカ型経営手法がよしとされていた風潮においては、「個性」「個人」という文字ばかりが踊るようになり、日本人が古来より大切にしてきた「和」の精神は、「没個性」などと言われて大事にされませんでした。

 ところがインターネット時代に入り、その様相が少し変わってきたのです。一人の強烈なリーダーが何かを創造するのではなく、多くの人間の知恵を集める。そういう日本的な方法論が、むしろ輝く時代になってきました。日本的な「和」の精神や、「協調」を重要視した人間関係。そういう価値観が一回りして、今では時代の最先端になってきている。まずはそのことに気づくことです。「和」の精神など古い。そう言っている人ほど古い考え方であるということでしょう。
 
 
クオリア日記

組織の和を強調したり、
個が立たないようにすることは、
確かに、ある意味では日本の強み
でもあったと思う。

アメリカ式の競争社会には、影の部分もある。

これまでは日本のやり方でも、
それなりによかった。しかし、もはや
このままでは日本全体が沈む。

中村修二さんの言われるところの
「五教科のウルトラクイズ」という
人工的な競争をして、「有名大学」
という定員の限られたクラブの
メンバーになり、あとは真の向学心も
自己表現力も構想力も欠いたまま、
無批判に組織に奉公していく。

それはそれで国としての個性であり、
一つの強みだったかも
しれないが、もはやダメだ。

諸外国のコモンセンスに照らせば、
日本は、「集団発狂」としか
言いようのない惨状を呈している。

前から不思議に思ってるんだけど、モギケン・ファンって、こういうの読んで頭の中が混乱しないの?

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2009年3月 8日 (日)

マッチ・ポンプ

以下の発言は全て同一人物のものである。

インターネットというものが、「学ぶ」という最も根源的な、オープンエンドな(終わりのない)喜びを大爆発させる機会を与えている。まさに、「知のカンブリア爆発」です。(*1)

                  *  *  *
    
偶有性の喜び、自分の人格をより高度なものにしていく喜びは、おそらく人間が体験できる喜びのなかでもっとも強く、深い喜びではないでしょうか。食べる喜びなんて、おなかがいっぱいになっちゃえば終わりだし、性的な喜びだって限界がある。学ぶ喜びって、限界がないんですよ。(*2)    
    
                  *  *  *
    
「食のクオリア」について考えることは、人生を考えることでもあるのです。(*3)

                  *  *  *

 クオリアは、私たちの生命活動の
有機的組成と関連して立ち上がってくるもの
であり、だからこそインターネット上にも
ないし、断片的な知識の積み重ねの中にも
ない。

インターネットは、無知の知の欠如を
露呈しているような文章のオンパレードで
ある。
今の自分が全く知らない、巨大にして
深遠なる世界の予感を、いかに抱けるか。

一個人がアクセスできる情報が飛躍的に
増大した現代において、「無知の知」
は自分の可能性を活かすことができるための
必要不可欠な魂の態度であるような
気がしてならない。(*4)   

                  *  *  *
         

これはある意味、『知のビッグバン』だと言えると思うんです。つまり、インターネットの進化によって、自分の学びたいことだけを好きなときに好きなだけ学べるようになり、私たちは大きな喜びを得たというわけ。たとえば、食べ物なんかはたくさん食べるとすぐにお腹がいっぱいになってしまいますが、学ぶという行為には上限がありませんからね。いくら勉強しても、し過ぎるということにはならない。もう学歴で人と自分を比較することはナンセンスになってくると思うんです。ただ、インターネットでの専門的な情報の公開については、既得権益を守ろうとする人がいるとは思います。でも、それはそれほど重要なことではありません。なぜなら、『知』は万人に知られることを望まれるものですからね (*5)

                  *  *  *

ぼくは、現在のインターネット社会と文化に対しては、むしろ強烈なアンチテーゼが必要でないかと思っています。利便性という点から見れば、インターネットは重要なツールになりつつありますが、それに対する強烈なオルタナティヴ-懐かしい言葉ですね-を出すくらいの「思想の勇気」がなければ、現状は打開できないと思います。(*6)

こういうのを日本語では「マッチ・ポンプ」と言う。

(*1)『フューチャリスト宣言』
(*2)『フューチャリスト宣言』
(*3)http://www.amazon.co.jp/%E9%A3%9F%E3%81%AE%E3%82%AF%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A2-%E8%8C%82%E6%9C%A8-%E5%81%A5%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4791762762
(*4)http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2009/02/post-2276.html
(*5)http://celeb.cocolog-nifty.com/interview/2007/03/post_c73c.html
(*6)「図書」2008年5月号 「《座談会》哲学はいま」

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2009年3月 7日 (土)

福岡-石田対談

福岡ハカセは主婦層にまで取り入ろうとしているようで。
「週刊女性」3月17日号より、福岡伸一と石田純一の対談。

石田 縦糸と横糸をつなぐ役目。つまり、オスの仕事とは、遺伝子を運ぶことなんですね。
福岡 はい。ですから、たぶん、石田さんは正しいことをされています(笑い)。
石田 なんかお墨つきをいただいたみたいで。いままでは好きでやっていたんですけど、これからはオスの使命として遺伝子を運びます(笑い)。

生物学を石田純一の恋愛沙汰の正当化に使うな。
「自然主義の誤謬」と言うのもアホらしいって気分になるな。
これじゃあ竹内久美子と大して変わらんよ。

福岡 となると生命は、ただ生めよ増やせよだけでいきているわけではない。そういう時間は生物のごくごく限られた一部の時間であって、唯一無二の目的じゃないということです。
石田 そうか野蛮ですね。それこそ養鶏みたい。
福岡 だから悪しきダーウィニズムはその面だけで生物を説明しているわけで、適者が生き残るという考え方ですよね。そういう側面も確かにあるけれど、それだけが生命を動かしている要因ではないと思う。むしろ、効率とか生産性とかじゃなくて、自由にサボるというのも生物の大事な側面じゃないかなと。

「悪しきダーウィニズム」ねえ。
「オスはメスの遺伝子を運ぶための使い走り」っていうのは、それこそ竹内久美子的な「悪しきダーウィニズム」なんじゃなかろうかと思うんですが。
たまには「悪しき」じゃない方のダーウィニズムについても語ってほしいもんですね。

岡 ただし、親が子に伝えるのは遺伝子だけではない。やっぱり、そこも悪しきDNA至上主義が蔓延していて、遺伝子がすべて決めていると思いがちですけど、遺伝子がしていることはタカがトンビをを生まないようにしているだけです。どのようなタカになるかは環境が決めるわけです。だから、年配のお父さんは、若いお父さんとはまた違ったことを教えることができるわけです。そこが人間を遺伝子から自由にする重要なことだと思いますね。

今度は「悪しきDNA至上主義」ですか。
だけど、福岡が言うよう「なDNA至上主義者」ってどれだけいるんですかね。
そんなにいないと思いますけど。
一個前の発言もそうだけど、一見いいことを言ってるっぽいのがタチ悪いよなあ。

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雑記 3.1-3.7

神保町S書店にて。
「茂木健一郎氏 絶賛!!」帯付の『ザ・シークレット』でございます。

200903071336000

茂木先生は、もはや科学コーナーよりスピリチュアル・コーナーの方がお似合いですよねっ!

などと思いながら科学書のフロアに上がっていくと、「福岡伸一コーナー」がお出迎え(笑)。

Fukuoka02

「すべてを解くキーワード 動的平衡」ですってさ。

                     *  
   
『新書対象2009』なるものを購入。
なぜ買ったかと言うと、福岡ハカセの『できそこないの男たち』が第2位に選ばれていたからさっ!

                     *  

『ソトコト』4月号も購入。
これはKazumasa Hashimotoの付録CDが目当て。
『ソトコト』って大嫌いなんですけどね。
   
                     * 
     
『ソトコト』と言えば、福岡ハカセの連載であります。
今月号にはこんなことが。

そして、もし最初に挙げたような、ままならない、思うに任せぬ状況に直面したり、友人が溜息をついているのを目の当たりにしたら、きっとこう言っていただきたい。
「ああ、それは動的平衡だから」

「動的平衡」って、人生相談にも使えるんですねっ!
なるほど「すべてを解くキーワード」だっ!

                     * 
   
と言うことで、しつこいけど。

Fukuoka2

                     * 
   
同じく『ソトコト』の「憂国呆談」。
田中康夫が国籍法改正のDNA鑑定導入について、またバカなことを言ってる。
それを指摘できない浅田彰もダメダメですな。

                     * 
   
別の本屋にも寄って、『二瓶のソース』(ロード・ダンセイニ)、『Newton』ムックの「ダーウィン進化論」、『COOKIE SCENE』、『ヒアホン』等を買って帰宅。   
                     * 

『ヒアホン』活字小さ過ぎ!

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2009年3月 4日 (水)

往復しなかった書簡

斎藤環-茂木健一郎往復書簡の仕掛け人(?)の方も、とうとう匙を投げたようです。

双風亭日乗

つづいて連載「斎藤環さんと茂木健一郎さんの往復書簡 脳は心を記述できるか」については、すでにお知らせしておりますが、斎藤さんの往信を掲載したあと、茂木さんからの復信が届きません。したがって、いつか復信が来ることを信じつつ、連載は中断いたします。

「いつか復信が来ることを信じつつ」とは書いていますが、まあ、本気では信じてないでしょうなあ。

しかし、斎藤さんがしっかりとした往信を書いたのに、「長考中」という茂木さんは、わけのわからぬバラエティーに出演したり、オペラか何かのCMで脳がどうのとおっしゃっていたり……。茂木さんにかぎらず、なんだか「脳」という記号が日本のマスコミでは、儲けのマジックワードみたいになっているような気がしています。

おっしゃる通りで。

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2009年3月 2日 (月)

中田力

明日の「爆笑問題のニッポンの教養」に出演するようなんですが。

近代科学最後のフロンティアといわれるヒトの「こころ」の解明。その研究に独創的な仮説で一石を投じているのが、脳神経学者の中田力だ。中田によれば、私たちの意識は、脳内の神経細胞の活動によって生まれ、その活動は脳内部の水分子が熱によって動くことで起こるという。これまでにも多くの科学者が挑戦し、いまだに謎とされている「ヒトの意識の正体」に取り組む異才が、脳科学の最前線について爆笑問題と語りあう。

ちょっと調べた感じだと、「独創的な仮説」って言うより、「トンデモ」の方に近いような気がするんですけどね。
NHKさん、だいじょうぶ?
かえって、太田と話が合っちゃったりするかも。

脳のなかの水分子―意識が創られるとき

内容(「BOOK」データベースより)
今、麻酔学で意識をとる全身麻酔のメカニズムとして説明されるのは、「脂肪に溶けやすいから(脳に入りやすい)」。この定説に疑問をもった著者は1973年、ポーリング博士の「(全身麻酔は)水のクラスター形成をうながし、結晶をつくるから」という論文に出会う。著者の「脳とこころ」の探求の出発点はまさにここで、脳のなかの水分子から、意識の謎を説明する「脳の渦理論」誕生までの興奮に満ちた話を語る。

全身麻酔から話を始めるところがハメロフ/ペンローズの「量子脳理論」に似てるなあ。

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2009年3月 1日 (日)

「脳」「英語」「ネット」

先月、日本経済新聞を広げたら、見開き2面の広告記事でdankogaiのデカイ写真が目に入ってギョッとしたという経験をした人は多いと思いますが、その下の『日本語が亡びるとき』の広告にこんなことが書いてあるのには気がつきましたかね。

茂木健一郎さんも推薦!
 
自身を知ることから再生は始まる。
日本語という運命を引き受けて生きるために。
私たちの未来を取り戻すための、魂の必読書。

で、その茂木健一郎先生が水村早苗先生と『日経サイエンス』で対談するんですってさ。

クオリア日記 魂へのご馳走 

dankogai -> 日経広告 -> クオリア日記 -> 日経サイエンスで対談

と言う、dankogaiと茂木健一郎を介しての筑摩書房と日経の連携プレイ。

お見事!

ところで、今は「脳」「英語」「ネット」の三要素が入った本を書けば売れるんですね。
モギケンの本は三つとも入っているから売れる。
『日本語が亡びるとき』は、「脳」はないけど、「英語」「ネット」が入ってるからモッチーやdankogaiが過剰反応して売れた、と。
メアリアン・ウルフの『プルーストとイカ』なんかも、私はつまんない本だと思いますけど、三要素が入っているから世間ではやけに高く評価される、と。
ベストセラーを狙っている人は、「脳」「英語」「ネット」の三つを入れた本を書いてみたらいいんじゃないでしょうか。
そんな知識は持ってないって?
ナニ、いい加減なこと書いても、結構大丈夫みたいですよ。

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トンデモ科学者×2

竹内薫がまたこんな本を翻訳したようで。

奇跡の脳 ジル・ボルト・テイラー

薫日記より。

著者が語る「脳卒中で発見した<右脳>の世界」はきわめて神秘的だ。宇宙と一体化する感覚とはいったい何なのか・・・。

原書はこちら。

My Stroke of Insight: A Brain Scientist's Personal Journey (Hardcover)
by Jill Bolte Taylor (Author)

脳卒中から回復した脳科学者が、「右脳マインド」だの「宇宙との一体感」だの言い出すようになっちゃったというコマッタ本みたいなんですけど。
『大きく考えるための小さな本』もそうですけど、ちゃんとした科学者のはずの人間がコマッタ本を出したら、翻訳は竹内薫が担当するってことになってるんですかね。

もう一つ。
竹内薫のトンデモ仲間であらせられる茂木健一郎先生が『ザ・シークレット』の帯に推薦文を書いてるのを発見。
今まで気がつかなかったけど、新しい帯なのかな?
江原啓之との対談本を出したり、自己啓発の本を脳科学の本であるかのようなタイトルで翻訳して出しちゃうような人ですから、今更驚きはしませんけどね。

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『女性を宇宙は最初につくった』佐治晴夫

女性を宇宙は最初につくった

本屋でこのタイトルを見てピンと来てしまうのが私のカンのスゴさ(と、自分で言ってしまう)。
案の定、巻末に『できそこないの男たち』の書名が挙げてありました。
第4章の内容は『できそこないの男たち』が元ネタになってるようです。

佐治晴夫という人はよく知らなかったので調べてみたら、養老孟司との対談本を出しているのですね。
さもありなん、という感じ。

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