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2009年5月 5日 (火)

茂木健一郎と音楽

茂木健一郎のモーツァルト・モード
モーツァルトの音楽は脳の活性化をもたらすそうです。

現代人の脳の活性化をもたらすモーツァルトの楽曲をセレクションしたアルバム。モーツァルトの音楽の脳への効果、そのメカニズムの解説付き。それを脳の最先端の研究者として話題の茂木健一郎が監修。

「別冊ぶらあぼ 熱狂の日音楽祭2006公式アフターガイドブック」から。
モーツァルト、サイコーってことみたいです。

やっぱりモーツアルトの音楽による気分の高揚って、他の音楽の場合と違うんですよね。単に自分が好きな音楽を聴いて気分が高揚しているというわけじゃなくて、たとえばロックを聴いてる感じは、友達と楽しくしゃべってる時に似ている。それに対して、モーツアルトの音楽を聴いている時は、創造的に脳を働かせてる時の感じに似ている。イギリスの科学雑誌「ネーチャー」でも、「モーツアルト効果」ということが話題になったことがありますけど、僕自身が実体験的に思っていることです。

MySony Mail Magazine 
別にモーツァルトじゃなくてもいいそうです。

すごく簡単なことで、脳によい音楽は、その人が好きな音楽なんですよ。昔、「モーツァルト効果」という研究があって、モーツァルトの曲を聴きながら勉強するとIQが10上がるって言われていたのですが、よく調べたら、モーツァルトの曲が好きな人にしか効果がないとわかりました。モーツァルトの曲が嫌いで聴きたくない人には、効果がなかったのです。好きな音楽ならば、ロックでもIQが上がることもわかった。好きな曲を聴いていると、脳の中の報酬系という回路が活性化されてIQが上がるんです。ビデオでも同じ。韓流でも、コメディでも、好きなものを見ると脳が活性化するのです。

脳科学者・茂木健一郎さんが語る熱狂の日
音楽サイコーってことみたいです。

どれほどの文字や数字を尽くしても、音楽体験のすべてを説明できません。それが音楽の魅力であり、すごさでもあると思います。「音楽にはかなわない。すべての表現ジャンルは音楽に嫉妬すべきだ」というのが、物理学、法学、生物学、脳科学を研究してきた私の素直な気持ちです。

「すべては音楽から生まれる」より。
クラシック音楽サイコーってことみたいです。

 もう一つ特筆したいのは、ジャンルとしてのクラシックである。
  私は、ポピュラーミュージックもボサノヴァも聴くし、好きである。また、一般的にも、クラシック以外の音楽の方が好まれ、その場にふさわしいということは多い。
  しかしながら、クラシック音楽の、ある種の作曲家が作った曲のすばらしさは、絶対に揺るがない価値として私の中にある。単なる好みということ以上に、音の密度や様式の美といったクラシック音楽の構造が、自分の思考運動と相性がよく、脳内をエネルギッシュに働かせてくれるのである。これほどの快感は他にない。 

「涙の理由」(重松清, 茂木健一郎)より。
揺らがない価値が揺らいじゃったようです。

茂木:島田雅彦が――あいつは時々面白いことを言うのですが――「文学と接点を持てないと偉くなれない」と。要するに、生きること、人生のブックキーピング(帳簿付け)を考えたとき、音楽や美術・アートは、パーツになる。たとえばアート界の偉い人の「偉さ」は、小説家、文学の世界の偉さ――というのも変だけれど――、ある種の重みと比べると一段落ちる。島田はそう言いきる。リアルなことだと思った。重松さんが言われたことと関係するんだよね。小説を通して得られる感動・涙は、特別なものなんだよ。モーツァルトやバッハでさえ文学の領域まで行っていないのかもしれない。

重松:僕は逆に、「個人の人生の体験や、社会・歴史の文脈があって成立するのが小説の感動」で、音楽はそれが抜き。僕はそっちのほうが、社会化できない分、プリミティブで深い気がするんだけど。

茂木:なぜ、文学や小説が我々の実存においてセントラルな位置を占めているのか。バベルの塔以降、世界は六千の言語に分裂して「お互いに不可視の領域」を築いてしまっている。「だからこそだ」という気がするのです。音楽は普遍的だから、かえって我々の自我に深く入ってこないんじゃないか。「外から見えない・不可視であること」と「人格に入り込んできている」ことは、「同じことではないのか」と。「万人にとっての共通のもの」は、逆説的だけれども、自我の深いところまでは行けないのだと思います。

茂木健一郎にとって、音楽って何?

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コメント

モギケン氏は、機会主義者であるという思いがますます強まります。目の前の相手にゴマをする?ことしか考えてないんでしょうね。「大阪脳」もそうだけど。

投稿: h-tee | 2009年5月 5日 (火) 11時43分

こんにちは。

誰か注意するスタッフがいないんですかねぇ。
これじゃ脳科学者じゃなくて幇間学者ですって。

投稿: うさぎ林檎 | 2009年5月 5日 (火) 15時13分

h-teeさん>

その場の思いつきだけでしゃべってるとしか思えませんよね。

うさぎ林檎さん>

まあ、これくらいのことが気になるくらいなら、茂木先生と一緒にはやっていけないんじゃないかと。

投稿: a-gemini | 2009年5月 6日 (水) 08時35分

前から薄々気づいてたんですが、この人には葛藤と言うものがないんですね。
自分の中に、Aという主張とBという主張があって、両者が対立するもののように見えても、どちらか一方を否定するとか、新たなレベルで止揚するということがない。
葛藤がないから、その場その場でAとBを使い分けて、そのまま、と。

投稿: a-gemini | 2009年5月 6日 (水) 09時07分

>前から薄々気づいてたんですが、この人には葛藤と言うものがないんですね。

 それは「意識とはなにか」を読んで強く感じましたね。たとえば永井均とか、そもそも意識の実在を否定しているのような人の文献を参考文献にあげときながら、本文でそれに反駁するでもなく、乗り越えるでもなく触れたか触れないかでスルーしている。
 私が抱いた彼の最初の印象は、人文的な議論ができないやつだなというものでしたね。自分の頭の中でまとまってないものをアウトプットしているからこうなるんでしょう。理論的にまずだめな感じ。
 あとで実証もだめだと知りましたが。こちらは研究者としては致命的でしょう。とくに神経科学は、理論をごちゃごちゃ言うより、自分で実験して新たなファクトを積み上げる分野ですから。
 実証系の研究者だったら、自分の仮説の真偽を決定する責任が生じ、葛藤の習慣みたいなのができるだろうが、彼のようにりくつをこねくり回してきただけの人には難しいんでしょう。


投稿: blupy | 2009年5月 7日 (木) 00時30分

>たとえば永井均とか、そもそも意識の実在を否定しているのような人の文献を参考文献にあげときながら、本文でそれに反駁するでもなく、乗り越えるでもなく触れたか触れないかでスルーしている。

モギケンの文書には、「論理の骨格」みたいなものが感じられないんですよね。
いくら哲学者の名前や哲学用語を散りばめられていても、「哲学っぽい」文章ではあっても、「哲学的」ではないなあ、と思いますね。
あの手の文章を「哲学的で難解だ」とか受け止めちゃう人が多いみたいで、何だかなー、と。

投稿: a-gemini | 2009年5月 7日 (木) 21時00分

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