カテゴリー「科学」の記事

2008年7月17日 (木)

脳の活性化

茂木健一郎先生の特別授業が開催されました!

(略)
どちらの勉強法でも生徒の方には、脳のどの部分が活動しているかを近赤外線を使いリアルタイムに画面上に表示できる装置(島津製作所)を付けて頂いているので勉強法の違いによる脳の動きがすぐに画面で見ることができます。

まずは、鶴の恩返し勉強法から。黙読しての暗記と、声を出し手を動かしながらの暗記での脳の動きの差を見ます。

(画像)
   
脳の色が赤みがかり、黙読時より活動していることが分かります。
茂木先生からのアドバイスは「リズムよく、とにかく体を動かそう!」

次はタイムプレッシャー法。自分にプレッシャーをかけてみると、その差は歴然!

(画像)
   
この違いには本人もびっくり。

「プロフェッシナルSP」でも同じようなことをしてたけど、こういうのって子ども騙しじゃないかと思う。
そもそも、「脳の活性化」って無条件にいいことなのだろうか。

これも、D.C.ギアリーの「心の起源」から。

 現時点では、IQと複雑な問題解決と学習の際のグルコース消費パターンとの関係についての研究は決定的なものとはいえない。(Deary,2000;P.A. Vernon et al.,2000)。とはいえ、ここまでの結果は、高い流動性知能はさまざまな認知的要求にうまく対処するための必要な脳システムをより効果的かつ集中的に利用することと結びついているという仮説と一致するものである。特に、この結果が示唆するのは、知能が高い人たちは注意の資源を集中させることにすぐれており、ゆえに目の前の課題に必要な脳と認知のシステムだけを働かせ、同時に課題にとって不必要な脳領域を抑制するということだ。これはEagleのいう注意のコントロールと抑制システム(Eagle,2002;Kane & Eagle,2002)と一致する。脳活性のレベルでは、それと結びついた神経の効率のよさによって、課題を遂行しているあいだに働くニューロンがより少なくなり、ゆえに全体的なグルコース代謝が低くなるという結果になる。

抑制が重要だという考え方もあるのである。

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澤口俊之

「人間の測りまちがい」のからみで、D.C.ギアリーの「心の起源」を読んでいたら

Pawlowskiらと澤口は、霊長類においてオス間競争の激しさと新皮質サイズのあいだに相関があることを発見した。

という文章に出くわした。
澤口って、もしかして、あの・・・と思って巻末の引用文献のリストを見てみたら、やっぱりあの澤口俊之だった。
澤口ってほんとにちゃんとした実績があるんだな、と感心したのだが、そういう人間が何故「モンゴロイドはコーカソイドから分岐し、とりネオテニー化がすすんでいるので、モンゴロイドはコーカソイドに比べて教育が余分に必要だ」などというアホなことを言うのか、理解に苦しむ。

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2008年7月15日 (火)

「人間の測りまちがい」読了

懸念事項だった翻訳に関しては、それほど大きな問題はなかったのではないかと思います。
何箇所か、曖昧な構文や日本語として成立していない文章、文脈から考えて誤訳ではないかと思われるか文章がありましたが、ひどく読みにくいというわけでもなかったので、いちいちあげつらうのは止めておきます。

内容の方はと言うと・・・「5章までなら名著なんだがなあ」。
6章の議論は混乱しているし、7章でのIQ論争と社会生物学論争を結びつけた議論は、乱暴すぎてほとんど無意味じゃないかと思いました。
詳細に関しては、また後で。
併せて取り上げたい本が3冊ほどあるので、いつになることやら。

人間の測りまちがい 上―差別の科学史 (1) (河出文庫 ク 8-1) Book 人間の測りまちがい 上―差別の科学史 (1) (河出文庫 ク 8-1)

著者:スティーヴン J.グールド
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人間の測りまちがい 下―差別の科学史 (2) (河出文庫 ク 8-2) 人間の測りまちがい 下―差別の科学史 (2) (河出文庫 ク 8-2)

著者:スティーヴン J.グールド
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2008年7月14日 (月)

カテゴリー違反

人が考えていることが変われば、彼の脳の活動も変化します。しかし「脳が考える」という言い方は、たとえそれが日常の表現であっても、哲学的には奇妙な語法違反です。考えるのは脳ではなくて人です。誰かが「私の脳は考える」といったら、それは間違いというよりもナンセンスです。(略)
 このカテゴリーの違いはこれからもぜひとも注意しなくてはなりません。(略)
 
「ビハインド・アイ」D・M・マッケイ

ここに、思いっきりカテゴリー違反している男が約一名。

感動する脳 茂木 健一郎 (単行本 - 2007/3/17)
それでも脳はたくらむ (中公新書ラクレ 264) 茂木 健一郎 (単行本 - 2007/12)
欲望する脳 (集英社新書 418G) 茂木 健一郎 (新書 - 2007/11/16)

Book ビハインド・アイ―脳の情報処理から何を学ぶか

著者:D.M. マッケイ
販売元:新曜社
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2008年7月12日 (土)

買わなかった本

ちくまプリマー新書から2冊同時に生物学関係の新刊が出たのだが

『遺伝子がわかる!』(池田清彦)
『進化論の5つの謎 いかにして人間になるか』(船木亨)

池田の方は、まあ、例によって例のごとく、って感じですよ。
今回はDNAのメチル化を持ち出して、獲得形質は遺伝する!とか言って大ハシャギ。
くだらない藁人形論法によるダーウィニズム叩き。

船木の方はもっとひどい。
断続平衡説がダーウィニズムに対立するものであるかのような書き方をしている、と言えば、どれだけレベルが低いものか見当がつくでしょ。
そもそも、この人は生物学者ではない。
コイツとか小泉義之とかフランス現代思想の馬鹿に科学について書かせちゃダメだってば。
なんで、ちくまはこんなヤツに進化論の本を書かせるのかねえ。
まあ、茂木健一郎に書かせるくらいだから不思議じゃないか。
ちくまって、日本におけるfashionable nonsenseの発信源になってるような気がするな。(*1)
これも「ちくまイデオロギー」の一環なんだろうか。

この2冊は読む価値なし、と断言しておく。

『本当のところ、なぜ人は病気になるのか? 身体と心の「わかりやすくない」関係』(ダリアン・リーダー、デイヴィッド・コーフィールド)

早川書房なんで、『病気はなぜ、あるのか―進化医学による新しい理解』( ランドルフ・M. ネシー , ジョージ・C. ウィリア)みたいなダーウィン医学の本かと思って手に取ったのだが、ラカンがどうのフロイトがどうのとか書いてあってウンザリ。
著者の一人は精神分析医だそうで、ダメだコリャと思って棚に戻しました。

(*1)ポストモダニストたちが科学の言葉をメタファーとして安易に使っているのに対して、この連中は科学そのものを語っているつもりなわけだが、何か通低するものを感じるのだ。

病気はなぜ、あるのか―進化医学による新しい理解 Book 病気はなぜ、あるのか―進化医学による新しい理解

著者:ランドルフ・M. ネシー,ジョージ・C. ウィリアムズ
販売元:新曜社
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2008年7月10日 (木)

小倉千加子 中井久夫 丸山ワクチン(4)

「週刊朝日」の次号のコラムは、前回にも増して支離滅裂な内容である。

小倉は、前回の内容に対する読者からのメールに対して答える。

 先ず、「宏観異常現象」について、「そういう現象はすべて『あとだしジャンケン』の類で、これをあたかも普遍的、科学的現象であるかのような書き方をすることはどんなものでしょうか」。
 その方は自身、がん患者の体験がある。即ち、17年前にがんの手術を受け、7ヵ月後に転移した別の臓器のがんに対し、その臓器の65%を切除されたが、今は元気に暮らしておられるという。その立場から、こう書かれている。
 「もし仮に病院から丸山ワクチンでの治療を薦められたら、その病院で手術を受けるこヽとは絶対にしなかったでしょう。当時、すでに 『丸山ワクチン』は『過去の遺物』でした」
 「巷間では未だに民間療法に頼って命を落とすがん患者が後を絶ちません。この記事を読んだ人の中に、丸山ワクチンに走る人が出たら、あなたはどうされますか?」という内容である。

小倉千加子の文章を読んだ人間がこのような問いかけをするのは当然ではないだろうか。

私が「宏観異常現象」と「丸山ワクチン」を併記して書いたたため、民間の迷信・俗信を斥ける「科学的精神」そのものを批判したと見なされたのだろう。

実際、そのように読むのが自然だろう。

 宏観異常現象は、もちろん「あとだしジャンケン」だと思う。結果が出てから前の現象を論じるので、「ジャンケン」に勝つのは当然のことである。結果が出ない時には、現象は不問に付され、「ジャンケン」そのものが成立しない。
 テレビで取材に応じた複数の研究者が、「宏観異常現象」を「やんわり否定した」態度を、私は好感を持って眺めていた。科学者であればそう答えるのが誠実であると思うからである。

宏観異常現象が「あとだしジャンケン」だと言うなら、前回の「予知能力」の話はどういうことなのか。
私には全く理解できない。

  しかし、そのことと「俗信」とは別である。結果から遡及的に原因を追求する俗信とは「安産だったのは妊婦が妊娠中に便所の掃除をよくしたから」という類の俗信を指すものであり、中に徳目が紛れ込んでいる。しかも前の現象があとの現象を必然的に生み出す保証は何もない。

一体何が言いたいのか。
「徳目が紛れ込んで」いなければ、それは「俗信」ではないと言いたいのだろうか。
「必要十分条件」と同様に、小倉は「俗信」という言葉に自分勝手な定義を与えて使っているようだ。

が、「宏観異常現象」は、天変地異との間に因果関係があるのではなく相関関係があることの示唆なのであり、俗信と断じることはできない。複数の研究機関が注目して収集し地震予知に役立たないかを探っている。 

「動物に地震を予知する能力がある」というのは、地震と動物の異常行動の「因果関係」に関する主張だと思うのだが。
地震と動物の異常行動に「因果関係」が存在するなら、統計的な「相関関係」を確認できるだろう。(逆は必ずしも真ではなく、「相関関係」があるからと言って「因果関係」があるとは言えない)
問題は、実際に地震と動物の異常行動に「相関関係」があるかどうかということで、「相関関係」がなければ、それは「俗信」に過ぎなかった、ということになるだろう。
「複数の研究機関が注目して収集し地震予知に役立たないかを探っている」からと言って、それが俗信ではないとは言えない。
科学者は「地震と動物の異常行動の相関関係」を仮説として扱っている。
仮説として扱わず事実として信ずるなら、それは「俗信」である。
地震と動物の異常行動の「相関関係」は、現在までのところ認められていないのだから。

そして、「丸山ワクチン」に関する意見であるが、月刊「みすず」に「SSM、通称丸山ワクチンについての私見」を書かれた中井久夫先生は、カルト的心理学に対して以前から厳密な距離を保ってこられたきわめて冷静な精神医学者である。
 日本で動物ウィルスを最初に結晶化された中井先生が「フ癌ウイルスワクチン〃が『ほんもの』であるかどうかを調べるよう求められた」若き日の経験からエッセイは書き出されている。
 ある癌ワクチンについては、その実験手続きの杜撰さに腰を抜かしそうになったという笑えないエピソードも紹介されている。
 ウィルス学者としての緻密な視点と、一使用者・一治験協力者としての検証を通して、丸山ワクチンを公平かつ冷静に評価されたものである。もちろん、効果には個人差はあると断っておられる。
 癌細胞は先ず叩け、そして攻撃せよ、疑わしきは切除せよという癌治療は、「戦争の比喩」で語られるものである。生体も消耗する。
 が、生体にとって癌を無害なものにしていくワクチン療法は、癌と共存する「平和の比喩」を使用する。
 それは「過去の遺物」ではなく、「実際的にも思想的にも新しい光」なのである。是非とも先生のエッセイの全文を読まれんことを。月刊「みすず」3月号です。

結局のところ、なぜ丸山ワクチンを「宏観異常現象」と結びつけて書いたのか、理由が全く分からない。
挙句の果てに、自分自身がいい加減な紹介をしておいて、「全文を読まれんことを」などと言うのだから呆れるほかない。

私自身は、丸山ワクチンについて意見を述べる能力を持っていない。
ただ一つ自信を持って言えるのは、小倉千加子という人には、学者として必要な能力が何か欠けている、ということだ。

(了)

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2008年7月 9日 (水)

小倉千加子 中井久夫 丸山ワクチン(3)

小倉千加子が言及している中井久夫の文章は、「みすず」3月号の「臨床瑣談5  SSM、通称丸山ワクチンについての私見」である。
豊富な示唆を含む文章であるが、小倉のコラムに関係する部分だけ引用する。

書き出しはこのようである。

  癌ワクチンというものは過去半世紀以上、「方丈記」の一節ではないが、かつ消えかつ結ぶうたかたのような運命を辿ってきた。
  私はかって駆け出しのウイルス学者であったころ、ある資産家に、ある”癌ウイルスワクチン”が「ほんもの」であるかどうかを調べるように求められたことがある。

このワクチンは丸山ワクチンとは別物なので、このエピソードについては省略する。

  SSM(丸山ワクチン)との出会いはこれと全く異なる。
  原発巣不明でいきなり転移から始まった三十六歳の義姉のためであった。当時はフルオロウラシルが旧ソ連で開発されたところで、私はロシアの研究所にも手紙を出したが、返事が来たのは一年余り後で、義姉はとうに世を去っていた。他に手段は?と義兄に聞かれて丸山ワクチンだけでしょうね、と私は答えた。「頼む」と姉の夫は言った。

中井自身の丸山ワクチンとの個人的な関わりが語られた後、ワクチンの入手方法が記される。 
丸山ワクチンをもらうには 「乗りこえなければならないバリヤー」がある。それは

  (一)治験協力者となって、一日置きの注射を引き受け、四十日ごとに報告書を書いてくれる医師をみつけ、承諾書を書いてもらうこと
  (二)東京の日本大学へ少なくとも一回は赴くこと
  (三)第二回に提出する詳細な病状報告書の書き手を見つけること
 
である。

  長々と記したのは、SSMをもらうのは大変なことで、いわゆるコネとか大金が必要だと思っておられる方が少なくないからである。

それでは、丸山ワクチンの医学会における評価はどうなっているのか。 

  丸山ワクチンについての医学会における評価は定まっていない。生物学の世界ではどうか。丸山ワクチンに多少とも関心を持つ人は、発想が面白いという。
  もちろん、医学は端的に実践の学であるから、理論が整備されていなくても極端に言えば有効性がある程度で有害性がある程度以下であればよい。

丸山ワクチンは、なぜ効くと考えられているのか。

  先生は、肺のX線写真で肺癌が縮小しているのを見せ、またその病理標本をみせて下さった。病理標本をみせてくださった。病理標本をみせながら「線維芽細胞が動員されて癌細胞の塊を囲い込み、やがて線維化して、癌細胞が兵糧攻めになるのではないか」という仮説を話された。
 
(略)

 抗癌剤や放射線治療は癌に対する直接的アプローチである。(略)
  抗癌剤を癌に向かう動脈から注入するとか、放射線をちょうど患部に交点が来るようにセットして多方向から照射するなど、多くの工夫が見られるが、生体全体に大きな影響を与えることは否めない。直接的アプローチは、この場合、味方と敵の区別がつきにくいことに問題がある。 
  これに対して、丸山ワクチンは間接的アプローチの一つといえよう。癌細胞を攻撃するのではなく、それを囲いこむからである。臓器などの「実質」に対して詰め物的な「間質」に注目するという点からも間接的アプローチということができるだろう。癌治療の間接的アプローチは丸山ワクチンに限らない。たとえば前立腺癌に対する抗男性ホルモンの投与も間接的アプローチである。逆に、丸山ワクチンの効果は繊維芽細胞の動員だけではないという可能性もあるが、それはここでは置こう。

中井自身は、丸山ワクチンの有効性をどう考えているのか。

 丸山ワクチンは身体における万能の保安官ではない。私の身体が治験の対象となって以後も、良性ではあるが、胃と大腸のポリプを一度づつ摘出しているし、ウイルス性と思われるイボも発生している。しかし、そもそも、抗生物質が細菌を抑えるといっても、細胞の数を一桁から二桁減らすのであって、あとは自然治癒力の仕事である。癌の場合もおそらくそうであろう。
 
(略) 
 
  丸山ワクチンに有効性とみてよいものが存在することも、また百パーセント有効ではないことも認めてもよかろう。(略)
  1944年に丸山先生が皮膚結核の瘢痕を治すという別の目的でつくられてから64年経った。百人を一時的にだますことも一人を永続的にだますこともできるが、百人を永続的にだますことはできないという法則を適用してもよかろう。

最後の部分。

  この小文は、丸山ワクチンの一使用者であり、一治験協力者として考えたところをベースに、多少、癌という現象を細胞と間質の織りなす模様の一端をかいまみようとしたものである。
 
(略) 
 
  QOLの積分値をその人にとっての最大値にするという広いコンテクストで眺めると癌との共存を考えることは丸山ワクチンに一端をみせた生物学に実際的にも思想的にも新しい光を投げかけると思う。

上に引いた箇所を読めば明らかだと思うが、中井は「東洋医学」と「西洋医学」を対置しているわけではない。医学における「直接的アプローチ」に対する「間接的アプロ-チ」について語っているのである。 
 
 
(付記)
「みすず」の次の号には、編集者の以下のコメントが載っている。

  なお、今後、丸山ワクチンについての詳細やお問い合わせは、「日本医科大学付属病院ワクチン療法研究施設」までお願いいたします。
 
  http://vaccine.nms.ac.jp/general/index.html

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2008年7月 8日 (火)

小倉千加子 中井久夫 丸山ワクチン(2)

 それでは、問題があるのは小倉の表現方法や「必要十分条件」に関する無理解だけであって、全体の主張には問題がない、ということになるのだろうか。
  そう簡単に済ますわけには行かないのである。 
このコラムのタイトルが「科学が解明できない「真実」」という言葉を含んでおり、文章が以下のように結ばれているのを見れば、小倉が、(西洋の)科学に超自然的な現象や東洋医学を対置することによって科学の限界を指摘している、という風に判断せざるを得ない。(*1)

  実は、医師は家族が癌になると丸山ワクチンを使用することが多いのだという。
  科学者が非科学的として一応は否定しながら、実はそれを信じているというダブルスタンダードである。
  中井先生は、漢方薬の効果についても言及されている。
  「漢方薬は、漢方を信用していない医者が出しても効かないという」
  (西洋)薬という得体の知れない化学物質を体内にとりこむことには不安があるが、漢方は「服薬に伴う生体反応のマイナス面を打ち消すことによって自然治癒力を促進する」からではないかと述べられている。
  「宏観異常現象」も元は漢方の指摘である。

上の文章は、中井の書いていることを歪めて伝えている点でも問題がある。
中井の文章の該当箇所を引用してみる。

 一般論として、信頼関係が医療の効果を左右する力は予想を上廻る。よくいわれているのは、抗精神病薬はプラセボー効果が30パーセントで純粋の薬効はそれに10パーセントを上積みしたものにすぎないという話である。
(略)
 私の考えでは、プラセボー効果は暗示によるものではない。いや、結果的に暗示のように見えるかも知れないが薬の服用にまつわる不安が薬の効果を減殺しているほうが大きいと私は思う。この不安を最小限にすることが重要であると思う。そもそも向精神薬、すなわち外界の見え方や自己感覚をどの方向にどれほど変えるかわからないものをとりこむとなれば不安になるのは当然である。(略)
  漢方薬は、漢方を信用していない医者が出しても効かないという。逆に、北里大学東洋医学研究所を先日訪問したが、非常によく治るそうである。方々の医師を巡礼した挙句に最後の望みを託するところだからという。プラセボー効果は医学界では「幻の足し算」とみなされがちなようだが、「服薬に伴う生体反応のマイナス面を打ち消すことによって自然回復力を促進する」と考えてみてもよいのではないだろうか。その中には心理的要因とともに生理的要因もあると私は思う。

これを読めば明らかなように、中井が「服薬に伴う生体反応のマイナス面を打ち消すことによって自然治癒力を促進する」と言っているのは「プラセボー効果」のことである。漢方薬のことではない。
小倉は中井の文章を完全に誤読してしまっているのだ。

小倉の主張はひとまず置くとして、ここで言及されている中井久夫は、丸山ワクチンについて、どう書いているのだろうか。
中井の文章を実際に読んでみよう。

(*1)このタイトルをつけたのは小倉ではなく編集者かもしれないが、そうだとしても責任は免れないだろう。

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2008年7月 7日 (月)

小倉千加子 中井久夫 丸山ワクチン(1)

「週刊朝日」2008.5.30号の連載コラム「お代は見てのお帰りに」で、小倉千加子が丸山ワクチンと「宏観異常現象」について書いている。
これが、あまりにもひどい代物なので批判しないわけにはいかない。
コラムのタイトルは、「蛙の大群と丸山ワクチン 科学が解明できない「真実」」である。

 四川大地震の前、無数のひき蛙が道路上を移動する写真が中国の新聞に掲載された。その写真が地震後に日本のテレビで紹介された。
 動物が地震を予知することを「宏観異常現象」という。大地震の前に、動物が異常な行動を示す。
  ニュース番組で取材に応じた日本の複数の研究者は、やんわりと宏観異常現象を否定していた。
  動物が異常な行動を示してもその後に必ず地震が起こるわけではない。それは必要条件であっても十分条件ではない。
  しかしそうなると、十分条件を求めるあまり、少数の必要十分条件を無視することになりはしないだろうか。

まるで筋の通らない文章である。 
小倉千加子は「必要条件」「十分条件」とは何かを分かっていないのではないか。
「動物が異常な行動を示」すことが「地震が起こる」ことの「必要条件」だということは、「地震が起きる前には必ず動物が異常な行動を示す」と主張することになるのだが。
「十分条件を求めるあまり、少数の必要十分条件を無視することになりはしないだろうか」というのも分けがわからない。

「動物が異常な行動を示」すことが「地震が起こる」ことの「必要条件」であるとは

Photo
「動物が異常な行動を示」すことが「地震が起こる」ことの「十分条件」であるとは

Photo_3 

ということである。
「動物が異常な行動を示」すことが「地震が起こる」ことの「必要十分条件」であるとは、「地震が起こること」と「動物が異常な行動を示すこと」の領域が完全に一致することである。
小倉の書きぶりからすると、小倉は「必要十分条件」というものを以下のように考えているのではないだろうか。

Photo_4

「動物の異常な行動」と「地震が起こる」のが一致している場合があっても、それが「動物が地震の前兆を察知した」ためなのか、単なる偶然なのかは、統計的に判断するしかない。

 この後、小倉は知り合いの女性(「この女性の息子の奥さんが私の職場の同僚」)の体験談を持ち出す。
阪神・淡路大地震の前、大阪湾沿いに住む女性が窓を開けると、河口の堤防に夥しい数の海鳥が群れていた。「50年も暮らしているが、こんな光景は初めて見た」。その2日後に地震が起きたという。

  このお母さんが見た「宏観」異常現象を、「その直後に地震がたまたま来ただけ」と解釈することにはやはり抵抗がある。

小倉がいくら「抵抗」を感じようが、たった一例だけでは「たまたま」か、「たまたま」ではないかなど判断しようがないではないか。

  海鳥だけではなく、その風景が異常であると見なすお母さんも予知能力があったのである。

結局、小倉は、お母さんに「予知能力」があると決め付けてしまっている。
呆れるしかない。

  動物の能力に科学では未だ知ることのできない多くのものがあることは誰しも否定できないことだと思う。そして、動物の中には人間も含まれる。

  確かに「誰しも否定できない」が、それが「予知能力」となると簡単に肯定するわけにはいかない。
人間の感覚では捉えられないような地震の前兆を動物が感知して普段と違う行動をする、ということは考えられるだろう。それならば、「動物が地震の前兆を察知した」と言えばよい。それを「予知能力」などという言葉を使うのは一種のレトリックである。「予知能力」という言葉を使うと、(ジュセリーノのような)「超自然的な能力」を意味しているように見えてしまう恐れがある。(*1)
大阪の女性に関しても、「地震を予知した」などと言わずに、「異常なできごとに敏感である」とでも言えばいいのである。

(追記 2008.7.8)
(*1)Wikipedia「宏観異常現象」の項より。

宏観異常現象をとりまく諸問題

宏観異常現象はそれ自体が宏観異常現象といえるかどうかあいまいな定義の現象を扱い、再現性、定量性を正しく評価することは難しく、科学的とは言いがたい面をもつが、災害対策や地震のメカニズムの解明を目的とし、難しいながら可能な範囲での科学的、統計的なアプローチから研究を行っているものも存在する。

とはいえ、科学的な証明の難しさや俗説を背景に、地震後の証言、あるいはオカルトを元に、地震予知を行うといったものも存在し、ときとして無責任に口コミやマスコミ、ウェブサイトを通して扱われデマが流布することもある。

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2008年7月 6日 (日)

ライアル・ワトソン死去

作家、動物学者のライアル・ワトソンさん死去
2008年7月4日1時19分
    
 ライアル・ワトソンさん(作家、動物学者)英紙デーリー・テレグラフによると、6月25日死去、69歳。

 南アフリカ出身。ロンドン大で動物行動学の博士号をとったほか、オランダやドイツなどで博物学、心理学などの学位も取得した。主な著書に「スーパーネイチュア」、「生命潮流」などがある。

 大の相撲ファンで、相撲を英国に紹介し、大相撲ロンドン公演ではテレビ解説した。(ロンドン)

私自身はライアル・ワトソンの本はもともに読んでないんですけど。
最初から胡散臭いヤツだと思ってたし。 
ライアル・ワトソンと言えば、茂木健一郎も参照したと思しき『ネオフィリア』とか、ドーキンスの『利己的な遺伝子』を悪用した『ダーク・ネイチャー』とか、色々あるけれども、有名なのは何と言っても「百匹目の猿」の『生命潮流』でしょう。

「百匹目の猿」については以下を参照。

百匹目の猿
hundredth monkey phenomenon

そこからリンクしている以下もどうぞ。

忘却からの帰還 「百匹目の猿」の嘘を暴いた"The Hundredth Monkey

忘却からの帰還 「百匹目の猿」Lyall Watsonの言い訳を読む 
 
僕のおしゃべり 百匹目のサル(河合先生へのインタビュー)

日本にもワトソンとコラボした方が。

  松岡正剛の千夜千冊『スーパーネイチュア』ライアル・ワトスン
   
 
   本書に書いてあることを、ぼくは今回読みなおさなかった。理由ははっきりしている。ここに書いてあることの大半が、その後いろいろな科学領域の深化や前進によって少しずつあきらかになり、その叙述がかなり過去のものになってしまっているからだ。そのことはワトソン自身もよく知っていて、本書の内容の一部はその後、彼の著書のいろいろな場面で補充され、訂正された。

確かに「その叙述がかなり過去のものになってしまっ」たけれども、それは「いろいろな科学領域の深化や前進によって」ではなく、インチキがバレちゃったからですね。

ついでに。
「百匹目の猿」と言えば「シェルドレイクの仮説」ですが、日本の哲学者にもこれに乗せられてしまった人がいましたね、中村雄二郎という方なんですけど。
この方は現在もご活躍中で、最近もいとうせいこうと共著を出したりしています。

ここで、一気に話が飛ぶ。

死亡記事の中に「大の相撲ファンで、相撲を英国に紹介し」と書いてあるので調べたら、大相撲のロンドンプロデュースしたのだそうで。
2週間前にピーター・ラヴゼイの『単独捜査』を読んだんですけど、なぜか途中でロンドン公演中の力士が登場しまして。
その力士が、元刑事の日本人少女捜索のサポートを名乗り出るというところまではまあいいとして、クライマックスのシーンで、悪役を捕まえるために走る車のフロントウィンドーに突っ込むという大活躍をするに至っては、読んでいて頭を抱えたくなりました。
ラヴゼイ好きなんですけどねえ。
これは止めてほしかったな。

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2008年7月 2日 (水)

マグニチュード

ジュセリーノの予言の件、まだツッコミ足りないので、もう少し。

「防災科学技術研究所 地震の基礎知識」から。

 地震の震源域で生じた現象そのものの大きさを表す尺度がマグニチュード(M)です.日本語では「規模」と称される場合もあります.規模の大きな地震でも遠く離れていれば地面の揺れは小さいし,逆に小規模の地震でもごく近傍で発生すれば大きな揺れが記録されます.このため,地震の規模の大小を公平に判断するためには,震源から同じ距離だけ離れた地点において揺れ具合を比較せねばなりません.

 マグニチュードは,このような趣旨で,米国カリフォルニア州に発生する地震の規模を客観的に評価する尺度として,1935年,リヒター(Richter)によって導入されました.すなわち,震源から100km離れた地点に置かれた当時の標準地震計(ウッド・アンダーソン型地震計)で記録された揺れの最大振幅をミクロン(μm)単位で表わし,その数値の対数をマグニチュード(M)として定義しました.
 このため,欧米では,マグニチュードよりも「リヒター・スケール」という用語がよく使われます.現実には,震源からちょうど100kmの地点に都合よく地震計が設置されているとは限らず,また地震計にも様々なタイプのものがあるため,当初定義されたマグニチュードに準拠する形で種々の補正式が考案され,各国で使用されるようになっています.

何種類かの計算式がWikipediaの「マグニチュード」の項に書いてあります。 

と言うわけで、前にも書いたけれども、予知夢で地震の発生した様子を見てもマグニチュードは分かりません。
ジュセリーノは予言の能力だけでなく、マグニチュードを測定する特殊能力(しかも小数点以下1桁まで)を持っているのでしょうか。

そもそも、予知夢で地震の様子を見たのなら、マグニチュードではなく震度で地震の大きさを表現すればいいのに、ジュセリーノが地震の予言をするときは、なぜかは震度については言いません。
不思議ですね。

気象庁マグニチュード(2003年9月25日以降)
変位マグニチュードは、系統的にモーメントマグニチュードとずれることがわかってきたため、2003年9月25日からは計算方法を改訂し、合わせて過去の地震についてもマグニチュードの見直しを行った。ただ、モーメントマグニチュードと気象庁マグニチュードにはバラつきがあるため注意が必要である。

もしかして、マグニチュードの値は、助言者がささやいくれたのでしょうか。(*1)
だとしたら、助言者は、どの種類のマグニチュードを教えてくれたんでしょうね。
ちゃんと日本人に合わせて「気象庁マグニチュード」で教えてくれたんでしょうか。

「SPA!」の記事に戻ると

-それにしても、なぜ、こんなに地震ばかり起きるのでしょうか?

地震だけではありません。地球環境がよい方向へ持ち直すためのタイムリミットだった'07年12月31日を過ぎた今年からは、環境問題は10倍悪化していくはずです。今後は、台風やサイクロンが各国で発生するほか、世界的な水不足にも陥ることになります。少しでも状況をよくしていくためには、温暖化を防ぐ対策を取ることが必要です。

ジュセリーノさん、質問をすり替えちゃってます。
地震の話が、なんで台風やサイクロンの話になってしまうのでしょうか。
地震が起きるのも温暖化のせいだと言いたいのでしょうか。(*2)

それにしても、「地球環境がよい方向へ持ち直すためのタイムリミット」が「'07年12月31日」だったとは。

ずいぶんと切りのいいタイムリミットです。

で、ジュセリーノさん、洞爺湖サミットに合わせて再度来日するんですって。

今度インタビューする記者は、ジュセリーノの言うことをノホホンと聞いてないで、「マグニチュード9.1って言うのは、モーメントマグニチュードですか?気象庁マグニチュードですか?それによって実際の規模が違ってくるんですけど」ぐらいのツッコミを入れてほしいものです。

(追記 2008.7.3)
(*1)「ジョセリーノの予言」によると、頭に「マグニチュード9.1」という文字が浮かんだのだそうです。
(*2)色々インタビューとか読んでみると、何か本当にそう思ってるっぽいです。

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2008年6月29日 (日)

ジュセリーノ

『SPA!』7/1号にジュセリーノのインタビュー記事が載っているのだが、これがツッコミどころ満載である。

注釈で、

『続・未来からの警告』では「'08年6月、日本の大坂でM6.3の地震が発生し多くの問題が生じる」との記述があり、誤差はあるにせよ、今回の岩手・宮城内陸地震との関連が噂されている。

とか書かれているのだが、

岩手と大阪とどれだけ離れてると思ってるんだよ。 (*1)

J1

ジュセリーノ(以下J) 肉体はベッドに置いたまま、魂(エーテル体)だけが体から離れて、出来事が起きている現場へと移動するのです。夢の中では、どんな国の言葉も理解できます。そして、目覚めてからは目にした事実を忘れないようにすぐにメモを取り、手紙にするのです。また、手紙と同じ内容のものを公文書として登録しているので、手紙をいつ書き、どこに送ったかは確実に証明できます。

「夢の中では、どんな国の言葉も理解できます」って、いかにも後付け設定って感じだな。
「外国の夢なのに、どうして言葉が分かったんだよ」とか、突っ込まれたんだろうな(私みたいな人間に)。

-出来事が発生する日付も夢の中で見るのですか?

 夢を見ているときに、助言者(ガイド)が、さまざまな情報を与えてくれるのです。それを基に、古代エジプトの数学を用いて算出するとほぽ正確な日付と場所がわかります。

-助言者とは何者ですか?

 スピリチュアルなメッセージを伝えてくれる存在ですが、はっきり何だとは言えません。実は、私も正体を知りたくて、今までに何度か(ガイドに)問いかけたのですが、わかりません。向こうから一方的に電話がかかってくるようなもので、こちらから話しかけることはできないのです。

これまた後付け設定くさい。
夢の中で、いちいちカレンダーを見た、なんて嘘っぽいからでしょ。
それにしても、なんで「古代エジプトの数学を用いて算出」?
助言者はエジプト人なのか?

で、地震について予言してるのだが

J まず、8月6日に東京都でM6・5の地震が起きます。しかし、これは序章にすぎません。9月13日には、愛知県の岡崎市でM9.1の地震が発生し、3万人が被災して600人以上の死者が出ることになるでしょう。ただし、この地震は日本でなく中国で起きる可能性もあります。
中国なら、震源はトンキン湾沿岸の南寧と海南島であり、死者は100万人を超えるでしょう。この地震が中国で起きれば、日本では起きず、東海大地震は18年にずれこむでしょう。

予言に岩手と大阪くらいの「誤差」があるのに、「愛知県の岡崎市」って、なんでそんなにピンポイントなんだよ。

岩手と大阪くらいの「誤差」が許されるなら、北海道以外のどこで起きてもおかしくないってことだぞ。

J2

意味ないだろうが。

-2つの地震は、どのような映像になって見えたのですか?

 地震に関する予知夢は、たくさんありすぎて、ひとつひとつを具体的に思い出すことはできません。
しかし、9月の東海大地震が発生する可能性は、かなり高いですね。

「目覚めてからは目にした事実を忘れないようにすぐにメモを」取ってるくせに、「地震に関する予知夢は、たくさんありすぎて、ひとつひとつを具体的に思い出すことはできません」って何なんだよ。
ちゃんとメモしとけ。

それから、前に戻るけど、「この地震が中国で起きれば、日本では起きず、東海大地震は18年にずれこむでしょう」って、どういうことだ?

仮定法の夢か?

どういう映像なんだよ。
説明してみろ。

それとも「助言者」の情報なのか?
そんなアイマイな情報を教える「助言者」って、一体何?

幾度となくこの地震の映像を見ているという氏だが、'90年に初めてこの予知夢を見たときは中国語の会話が聞こえたため、中国での地震と断定。しかし最近の'07年に見た夢では、それが日本語になっていたため、日本か中国かの判断が分かれているという。

日本語の会話が聞こえたから日本だっていう理屈は分かるが、「愛知県の岡崎市」だっていうのはどうして分かったんだ?
道路の標識でも見たのか?
だったら、「日本語の会話が聞こえたから日本だ」なんて回りくどい推測する必要なんか最初からないだろうが。(*2)

そもそも、なんでマグニチュードが分かるんだ?

Wikipedia:マグニチュード

マグニチュードっていうのは、地震のエネルギーの大きさを表してるんだが。

震度なら体感で判断できるが、マグニチュードなんて、震源近くにいたからって分かるもんじゃないぞ。
計算しないと分からんのだぞ。

それに「M9.1の地震」とかサラッと言っちゃってるが、

M8.8以上 : 日本で発生したことはない

かって日本で起きたことのない程の大規模な地震だぞ。

岡崎市の人口が約37万人。
それなのに、「3万人が被災して600人以上の死者」って。

全然大したことないじゃん。

岡崎市の一部しか揺れないのか?

そのくせ、

予知夢の中では震源地から東京へと衝撃が走る映像がはっきりと現れたという。首都機能にも大きなダメージを与える被害になるという。

とか書いてるし。

一体、どういう映像なんだよ。

おまけに、「中国なら、震源はトンキン湾沿岸の南寧と海南島であり、死者は100万人を超える」って、もうワケ分からん。

(*1)2ちゃんで、オオサカとオオサキの翻訳ミスだ、とか言ってるヤツがいるが、コジツケすぎ。

(追記 2008.7.3)
(*2)他の日本の都市にはないのに、南寧と海南島にはある岡崎市の特徴って一体何?
教えて! ジョセリーノ。

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2008年6月17日 (火)

結論は正しいのだが

Skepticism is beautiful  懐疑主義者が批判的思考を実行しているとは限らない

結論は正しい方が良いのは大前提であるものの、結論の正しさは思考の良さを証明しないということには注意を払うべきでしょう。

それで思い出したのだが。

生物学専攻の学生が、ゴキブリを馴らすことに成功した。
彼は訓練の結果を誇らしげに教授に示した。
学生はゴキブリを一列に並べて命令した。
「前へ進め!」
ゴキブリは前進した。
「左向け左!」
全員が左へ方向転換した。
教授はすばらしい訓練の結果に感心した。
次に、学生は列から一匹をつまみだし、その肢をすべて取り去って、元の場所に戻した。
そして、もう一度、「前へ進め!」と命令した。
ゴキブリはふたたび前進したが、当然のことながら一匹だけは、そこにじっとしたままだった。
「左向け左!」
前と同じことが繰り返されたが、一匹のゴキブリだけは、前の場所から動かないままだった。
いぶかしげな顔をして、教授は学生を見た。
学生は胸を張って、
「これでゴキブリが肢で音を聞くことが証明されました。」

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2008年6月 9日 (月)

SeaMountさんへの応答(2)

超スローペースになってしまっていますが、続きです。

科学者が科学のためにすべきこと

科学者が科学のためにすべきこととは何でしょうか。
科学者は自分の研究だけをやっていればいいのだ、というのは、科学者の役割をあまりにも狭く考えているように思えます。

知識は存在するだけでは意味がありません。
社会の中で活用されることによって初めて意味を持ちます。
最先端の科学の研究は、日常生活とは無縁に見えますし、素人には手の届かないもののように思えます。
しかし、科学は日常生活に無縁なものではありません。

現代社会においては、多くの科学に関連した問題が存在します。
環境問題、エネルギ-問題、食物の安全性、脳死や臓器移植の問題など、生活に直結する様々な問題は、正確な知識と理解なしには適切に扱うことができません。
このような問題において、何を目的にすべきか、どのような手段を用いるべきか、といった判断を一部の専門家のみにゆだねるわけにはいかないのです。

それでは、そのような判断に必要な知識を、専門家以外の「素人」が持つことは可能でしょうか?

最先端の研究と言えども、基礎の上に積み重ねられたものであり、科学の体系の中に位置づけられて初めて意味を持ちます。
それぞれの知識は、互いに関連し合い、つながっているのです。
基本的な知識と考え方を知れば、最先端の研究をそのままの形で理解できなくても、その研究がなぜ重要なのか、どのような意味を持つのかを理解することは可能でしょう

知識は「上」から「下」に自動的に流れていくわけではありません。
広く行き渡らせる 役割を受け持つ人間が必要です。
そういう仕事をするのは、科学者ではなくジャーナリズムの人間の役割だ、という声もあるでしょうが、日本の科学ジャーナリズムの現状を見ると、あまり期待できそうにありません。
(私見ですが、日本で「科学ジャーナリスト」と呼ばれる人達は、「科学」よりも「科学技術」の方に重点を置いて活動している人が多いように思えます。)
ジャーナリズムに啓蒙の役割をゆだねるにしても、ジャーナリストと科学者が協力し合うことが必要でしょう。
黙っていても、自分たちの研究の成果が社会に還元されていくはずだと考えるのは、科学者の怠慢でしょう。
科学の知識や考え方を普及させるのも科学者の役割の一つであると私は考えます。

疑似科学批判と啓蒙について

科学の本質は疑似科学批判と無関係なものなのでしょうか。

科学による疑似科学批判を、唯一の「正しい説明」に照らし合わせて、それ以外の「間違った説明」を切り捨てる、といったものとして考えるのは、偏見であると思います。
科学に対する理解を欠いた人たちは、科学というものを「科学的に正しいと認められた学説の集合」といったようなものとしてイメージしがちなようです。
しかし、「科学的に正しいと認められた学説の集合」は科学という活動の結果ではありますが、それが科学の全てではありません。
科学は、仮説を作り出し、それを実験等で検証し、妥当なものごとの説明の体系を組み立てていく過程です。
仮説を立てる段階で、説明として無意味なものや検証不可能なものは排除されます。
疑似科学やニセ科学と言われるものは、このように実験で検証するまでもなく排除される種類の説明なのです。
どのような仮説が科学的に意味のあるものかを判断することは、それ自体科学の一部をなしていると言えます。
そのように考えると、「科学と似て非なるもの」と「科学」を峻別しようとする疑似科学批判は、科学という活動の本質とつながったものであると言えるでしょう。

日本の科学者には、疑似科学批判は学問上の業績にならないためなのか、疑似科学批判に熱心な人は少ないように見えます。
大槻教授が目立つのも、他に積極的に疑似科学批判活動している科学者が少ないからでしょう。
残念ながら、日本では科学の不確かさや相対性を強調したものの方が受けるようです。このような状況においては、疑似科学批判に積極的な専門家はむしろ貴重であると思います。
ネット上での「素人」による批判よりも、権威ある人物によるマスメディアでの発言は効果が大きいでしょうから。
(残念ながら、現実には、マスメディアでの「権威」の発言は無責任なデタラメであることが多いようですが)

でんじろう先生の実験は、現象面の面白さで興味を引くものです。
それは、子供を科学の入り口まで連れてくる役割は果たすかもしれませんが、それだけでは、十分ではありません。
科学の考え方を身につけさせるような教育が必要でしょう。
科学の啓蒙には、色々なスタンスや様々な方法がありますから、それぞれの立場でできることをして行くべきでしょう。

次回で終わりです。

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2008年6月 6日 (金)

『人間の測りまちがい』文庫版

スティーヴン・J・グールドの『人間の測りまちがい』が河出文庫に入った。
あの悪名高い訳文にも手を入れたらしい。

これまで本書へは科学、教育、心理学、統計学、あるいは人権関係などいろいろな分野の方々が関心を示されてきたことを見聞きしている。そうした中には訳文に対して厳しいご批判もあった。ありがたく受け止め、今回、可能な限り修正を行った。

文庫版訳者あとがき

1998年に改訂版を出した時も手を入れてるはずなんだがな。
今度は大丈夫なんだろうか。

それはともかく。
問題は値段だ。
上下巻に分かれていて、各1500円。
高っ!
ありえないだろ、この値段。
買っちゃったけど。

これで、訳文がひどかったら、ただではすまさんぞ。
後で読む。

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2008年6月 1日 (日)

小倉千加子と中井久夫

小谷野敦がこんなことを書いていて

猫を償うに猫をもってせよ  カリスマ中井久夫

 小倉千加子が『週刊朝日』に丸山ワクチンのことなど書いているから、一瞬小島千加子のような似た名前の医者かと思った。まあ小倉は医学博士なのだが…。で、丸山ワクチンはもう効果のない薬とされているけれど、中井久夫が、そうでもないことを書いているという話。

 丸山ワクチンのことはどうでもいいが、中井久夫という人はカリスマ的なところがあって、精神医学者だが人間への洞察に満ちた随筆を書き、果てはギリシャ誌の翻訳までやって文学賞を受賞する人だというので、崇拝者が多い。私も一時期、ちょっと崇拝しかけて、手紙を書いたことすらある。もちろん、お返事も来た。

 しかし何ごとであれ、カリスマ化、個人崇拝というのはいいことではない。特に中井の文章を読んでいると、要するにその臨床は職人藝みたいなもの、あるいは天賦の才能に幾いと思わせるものがあり、ということは科学ではない、ということになる。カリスマ的人物がいる分野というのは、それだけ科学から遠いということで、民俗学など特にそうだし、経済学でも、その嫌いはある。哲学はむろんそうだが、あれは科学とは違うものだ。ノースロップ・フライや中村幸彦、荒井献がいかに偉大であろうと、カリスマにはならない。

 ところで「精神分析などという非科学を教えるのはやめろ」と言っていた石浦章一先生は、とうとうトンデモ本の著者になってしまったようだ・…。

おやまあ、中井久夫もお歳を召されてトンデモの世界に足を踏み入れちゃったのかと思って件の記事を図書館に行って読んでみたのだが・・・・・・。

何のことはない、バランスのとれた冷静な文章で、トンデモなんかじゃありませんでしたよ。

中井久夫に関しては、最近はあまり読まなくなってしまったのだが、以前は著作集を揃えるくらい興味を持って読んでいたので、正直ホッとした。

結局、小倉千加子が悪いのである。
あんな書き方では、中井久夫がトンデモの方に行ってしまったいう風に思われてもしかたがない。
しかし、小谷野敦も、中井久夫の書いたものも確認せずにいい加減なこと書くなよな。

と言うわけで、『週刊朝日』の小倉千加子の文章を検証する記事を書く。
ほんとは、そういうのは中井ファンに書いてほしいのだが。
SeaMountさんへの応答の続きも書かなくちゃならないし、他にも書きたいネタがたまってるし。
なんか頭がゴチャゴチャしてきた。

おまけに明日はpupaのライブだ!
ウーン、忙しいな。

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2008年5月27日 (火)

SeaMountさんへの応答(1)

SeaMountさん、お待たせしました。
「科学による偽似科学攻撃は、警察が自分を擬態するガードマンをいじめるようなものでは?」への応答です。

考えていると中々まとまらないので、思いついたところから書きたいと思います。
残りについては、近々に公開します。

「嘘も方便」について

「嘘も方便」という言葉には確かに真実があります。
ですが、この言葉が成立するのは特殊な状況が必要でしょう。
「嘘も方便」という言葉は、「一般的に嘘は望ましいものではない」という事実を背景にして初めて適切な意味を持つ言葉です。
「嘘も方便」という言葉は、「嘘が許されるような状況も存在する」ということを言い表すものであって、嘘一般を肯定するものではありません。
嘘が望ましいものであるかは、個別的に判断すべきものでしょう。

 ただし、疑似科学が常に人に不利益を与えるとは限らない。嘘も方便として利用され、役に立っていることは普通にあるであろう。「嘘も方便」という言葉は、「法華経」から来ているそうであるが、宗教の場に限らず、たとえば医療の場でもそれは使われているであろう。命が際どいときに、科学的説明が寿命を縮めてしまうこともあるであろうから。もちろん「嘘」であるから、終末医療で使われるモルヒネのようにその扱いには十分注意が必要であろう。

確かに疑似科学が常に人に不利益を与えるとは限りません。
しかし、例外があるからといって、疑似科学一般を肯定することは正当化されません。
SeaMountさんの仰るとおり、「嘘」を「方便」として利用するには「十分注意が必要」であり、十分注意するためには、「嘘」は本来は望ましいものではない、という意識が必要です。
そのためには、普段から「嘘は望ましいものではない」という一般原則に則った行動が必要なのです。
「嘘は望ましいものではない」という一般原則に則った行動を取るためには、「嘘は望ましいものではない」という一般論を主張するだけでは十分ではありません。
個別の「嘘」を、その都度批判していく必要があるのです。
口先だけで「嘘は望ましいものではない」などと言っていても、目の前の「嘘」を見過ごすのであれば、それは一貫性のある態度とは言えません。

色々と書きましたが、「擬似科学批判者」が擬似科学を批判するのは、「疑似科学は虚偽である」という明白な事実と「虚偽は(一般的に)望ましくない」という至極シンプルな「原則」によるのであり、それ以上の正当化が必要だとは私には思えません。
(もちろん、世の中には小説や映画のように(基本的には)無害な「虚偽」も存在しますが、小説や映画をを「虚偽だから」という理由で批判する「擬似科学批判者」は存在しません。)
「この虚偽は無害である」あるいは「この虚偽は有用である」と主張したいのであれば、「虚偽は望ましくない」という一般原則を棚上げにできるほどの説得力のある根拠を挙げる必要があり、説明責任は「虚偽」を擁護する側にあります。
「大きなお世話だ」「余計な口出しをするな」「思い上がってるんじゃないか」などというのは、「擬似科学批判者」に対する批判とし説得力があるものとは思えません。

「擬態」について

「疑似科学」を「ガードマン」に例えるのは、少々ずれている気がします。
ガードマンには社会的に認められた使命がありますが、疑似科学はそうではありません。
擬似科学を例えるなら、

「警官に変装してイタズラや詐欺をしている」 あるいは
「警官のコスプレをして本当の警官のつもり」

といったところでしょうか。
そのように見れば、「警察」が取り締まるのは当たり前ではないかという気がします。何も「警官」が「思い上がっている」などと勘ぐる必要はないでしょう。

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2008年5月26日 (月)

そこはスルー?

池田信夫blog 生命とは何か

『生物と無生物のあいだ』に感動した読者が本書を読むと、そのアイディアが基本的にシュレーディンガーのものだということがわかるだろう。福岡氏もそれを認めていて、「原子はなぜそんなに小さいのか?」という問いを本書から引用している。そして生物が「負のエントロピーを食べて生きている」複雑系だという洞察も、本書のもっとも重要な結論である。

池田先生、解説で『生物と無生物のあいだ』が否定的に扱われていることはスルーですか、そうですか。

註1 ただし、第六章60節(145ページ以下)の「負エントロピー」という言葉は、その直後の原註にもかかわらず、やっぱり誤解を招きやすい言葉だ。なぜなら、今日の物理的科学には熱力学のエントロピーと通信工学に由来する情報理論のエントロピーという二種類のエントロピーがあって、この両者が分子生物学の大学教授などによっても、しばしば混同され過誤や混乱を助長しているからだ。私はたまたま最近(二〇〇七年)出版された通俗科学書のベストセラーものの一つに、この混同と過誤の誠に見事な標本を見つけたので、ここに引用する。
 「シュレーディンガーは誤りを犯した。実は、生命は食物に含まれている有機高分子の秩序を負のエントロピーの源として取り入れているのではない。生物は、その消化プロセスにおいて、タンパク質にせよ、炭水化物にせよ、有機高分子に含まれているはずの秩序をことごとく分解し、そこに含まれる情報をむざむざ捨ててから吸収している。なぜなら、その秩序とは、他の生物の情報だったもので、自分自身にとってはノイズになりうるものだからである。」(講談社現代新書『生物と無生物のあいだ』150ページ)

しかも、「負のエントロピーを食べて生きている」というのは、まさに解説者が批判している部分なのですが。

ああ、そうか。池田先生は新書版を持っているので文庫版の方は実際には読んでないんですね。
これは失礼しました。

今ではゴミのような本ばかり出している岩波書店も、半世紀前には本書のような名著を出していたわけだ。岩波はもう新刊を出すのはやめて、古典と復刊専門の出版社になってはどうか。

この部分には同意。

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2008年5月25日 (日)

感情と合理性 ~若干の弁明~

「福耳コラム ケーキ」の件で。

口を出すつもりはなかったのだが、「「もう牛を食べても安心か」と「疑似科学入門」(1)」で書いたこととつながっているような気がして、色々考えているうちに、前に書いたことに関して弁明の必要があるような気がしてきた。
ということで、以下に書いてみる。

「「もう牛を食べても安心か」と「疑似科学入門」(1)」で、「リスク分析」を無条件に肯定しているかのような書き方になってしまっているが、それは私の本意ではない。
私は、いわゆる「リスク分析」の考え方が必ずしも唯一の合理的な考え方だという風には思っていない(それじゃあ、他にどんな考え方があるのだと聞かれると、明確な考えがあるわけではないのだが)。
そう受けとめられても仕方がないような書き方になってしまっているような気がするので、書き方が性急過ぎたと反省している。

私が福岡を批判したのは、福岡が「リスク分析」を退けるために、それが極めてポリティカルな方法論だから、という言い方をしているためであった。
ポリティカルだからダメだというのは、政治性を嫌悪し科学の純粋性を奉る、あまりにナイーヴでロマンティックな態度だと思う。
私が福岡を批判したときの主眼はそこにあったのだ。

元の「福耳コラム」のエントリに関しても、しごく大雑把に書いておく。
議論を追いきれてないので、検討外れなことを書くかもしれないが。

「経営学」の話と「災害時のトリアージ」つなげてしまったのがまずかったと思う。おまけに、「ボランティア活動」にまで話を広げてしまう人まで出てきたために、益々混乱してしまったように見える。

「感情に流されず合理的な行動を選択せよ」というのは一般的な議論としては正しいと思うのだが、「経営学」と「災害時のトリアージ」と「ボランティア」それぞれにおいて、何が「合理的」かは異なってくると思う。「トリアージ」において合理的な考えが、そのまま単純に他の領域に適用できるとは限らない。
件のエントリだと、「経営学」と「災害時のトリアージ」とで同じような考え方が適用できる主張している、と受けとめられてしまうような書き方になってしまっていると思う。

また、特定の領域においても、立場によって何が合理的な行動かは違ってくると思う。個々の行動する人間と、「政策」を決定する人間とでは、立場が異なるだろう。
議論が紛糾しているのは、そのあたりの混乱のためでもあるのではないかと思う。

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2008年5月23日 (金)

科学図書館

これは素晴らしい。

科学図書館

Wikpediaの「戸坂潤」の項目からリンクで見つけた。
後で読む。

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2008年5月22日 (木)

目を開いているのに閉じていると感じる錯覚作成法

これまた、錯覚ネタです。

医学都市伝説 目を開いているのに閉じていると感じる錯覚作成法

まず、かろうじて光が入る暗めの場所を探す。私の場合はトイレの電気を付けなければ条件にあう事が判ったので、ドアの隙間から入る光でものの輪郭が判るようになるまで、5分ほど籠もる。ここで注意が必要なのは、ドアの隙間の光はかすかに判る程度で、初めからものが見えるほど明るくてはいけないというのと、真っ暗闇でもダメだという二点である。

暗順応が成立したところで右目を手でふさぎ、明るいところに出る。左目の明順応の方は一分もせずに完成するので、また先ほどの暗い場所に戻り、そこで両目を開く。右目は暗順応が成立しているので、何とか視力は保たれているが、左目ではドアからの光以外は何も見えない。

この時不思議なことに、単に左目が見えないと感じるのではなく、「左目は閉じられている」と感じるのである。さらに不思議なのが、ここで見えない左目を手で覆うと、目が閉じられていると言う錯覚は瞬時に消失することだ。「目を閉じているのではなく、手で覆っているから見えない」と、理屈で判断した結果だとは、ちょっと考えにくい。

さっそく、やってみました。

私の場合は、「左目は閉じられている」という感じとは微妙に違うような気がしました。
左目の方に黒い幕が半分かかってるような感じが数秒続いた後、パッと幕が消えるような感じがしました。

ところで、関係あるのかないのかよく分からないのだが、ウィトゲンシュタインが、「わたしは、片目をつぶったときに、視野の半分が真っ暗に見えないことの説明を聞いたことがない」というようなことを書いていたはず。
(「哲学探究」だと思ったのだが、見つけられなかった)
片目の前に手を置いて、段々目の方に近づけていくと、最後には手が「透明」になりますね。
これの説明も考えてみると面白いかも。

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