第二章(まとめ)
この章では、江原の言う「人生の地図」である「八つの法則」を見てきた。その内容を振り返ってみよう。
「波長の法則」「因果の法則」「運命の法則」は、結局のところ、ほとんど同じことを言っている。すなわち、まわりに起こることは自分しだいであり、今ある状況はすべて、これまでの自分のあり方の結果である、ということである。ここで気がつくのは、江原の説明が非常に「機械的」だということである。
「霊的波長を放って生きている人間は、たとえてみればラジオのようなもの」
「低いエネルギーを出していると、「邪霊」、「未浄化霊」と呼ばれる低級霊と同調する」
「高い波長を持って生きていれば、あなたと類魂のプラグはつながり」
「この法則が働く正確さはスーパーコンピュータをはるかに凌ぐもの」
「スピリチュアル」であるはずのものごとを説いているにも関わらず、これらの説明は、非常に即物的であり、現世的なものごとの説明の仕方を「霊界」のレベルに単純に移しただけのものでしかない。そこには、宗教の持つ「超越性」がない。そもそも「法則」という言葉が、江原の霊界の説明のが機械性を示しているではないか。江原の説く「スピリチュアリズム」が、精神性が希薄で底が浅いと感じられると感じられるのは、このためであろう(もちろん、「精神性」や「深遠さ」は、その主張が真実であることを保証しないのだが、それはまた別の話である)。江原は、「エネルギ-」や「波長」が「高い」とか「低い」といったことを言うが、どのような意味で「高い」のか、なぜそれが「高い」のか、という説明は全くない(そもそも、「エネルギ-」や「波長」というのが何なのかもハッキリしないのだが)。結局、前向きな態度で、良い行いをしていれば、「高いエネルギ-」や「波長」が出る、と行っているだけで、なにが良くて何が悪いかという基準は、世間一般の常識に丸投げである。江原は、第一章で「全然スピリチュアルじゃない」「当たり前な内容」という批判に反論を試みているが、実際のところ、全く反論になっていない。「人々がもはや定義を失ってしまった「常識」に対して霊的真理による裏づけをしたいと思った」という言葉は、自らの主張が常識なものでしかないことを自ら告白しているようなものだ。江原の「スピリチュアリズム」は、常識の裏づけになっていない。逆に、常識の上に組み立てられたものなのである。江原が大衆的な人気を得たのは、江原の説くスピリチュアリズムが、宗教やオカルトに胡散臭さを感じるような「世俗的」な感覚の持ち主にとっても受け入れやすいものであるためだろう。
「霊魂の法則」「階層の法則」では、たましいすら、神から低級霊まで、直線的にランクづけされる。
死後の世界は無数の階層からなる、厳然とした「差別界」です。
その自然霊にも、高級なものから低級なものまで、さまざまな段階があります。私たちが「神」と呼ぶ愛のエネルギーは、この世に姿を持ったことのない自然霊の中でも最高級、超高級の霊です。
低いエネルギーを出していると、「邪霊」、「未浄化霊」と呼ばれる低級霊と同調することになるのです。
一方で、江原は現代の社会を以下のように批判する。
少年たちによるホームレス殺人事件もまさに象徴的です。汚いからと、虫けらのように殺す。その人が歩んできた人生、愛し愛されてきた人たち、奥底にある人生観など、存在するとさえ思っていないでしょう。もっとも、少年たちが育った社会そのものが白黒の価値観に支配されているのは否めない事実です。おまえはいい。おまえはだめ。能力や点数で子どもの価値を決める物質主義的社会の中で、ランクづけされ、時には切り捨てられながら育ってきたことの影響は確かに大きいと思います。
江原は、口先でこそランクづけを否定しているが、実際には自分が否定するものに自身が似ているのである。
「幸福の法則」では、江原は「真の幸せ」を定義する。だが、その「幸せ」は、根本的に「自己中心的」なものである。
霊的真理を知り、つねに愛と思いやりを、まわりの人たちに施していきましょう。「してもらったから、してあげる」という受身の姿勢ではなく、あなたが「まずははじめに」愛と奉仕の気持ちをまわりに与えることが大切です。愛情がほしければ、自分から率先して愛情を与えられる人になり、幸せがほしければ、誰よりも先に幸せを与えられる人になることです。
結局、他人に愛や思いやりを施すのも自分自身のためでしかないのである。
もちろんそこに打算の気持ちがあってはいけない。計算づくの愛は、本物ではない。
そのように言ったところで、誤魔化しきれていないのだ。江原自身もそのことに気づいたのだろう。江原は、唐突に「家、会社、国、地球」のカルマについて説き始める。
ところで、因果、すなわちカルマには、もう一つ大事な側面があります。カルマは人間一人ひとりに働いているだけではなく、家、会社、国、地球にも作用しているということです。
とってつけたような説明である。「家、会社、国、地球」は霊的存在なのだろうか。「家、会社、国、地球」は霊界にも存在するのだろうか。「家、会社、国、地球」も霊界から現世に再生するのだろうか。カルマを個人から「家、会社、国、地球」にまで広げることは、江原自身の霊界の説明と整合性がとれないのである。
その教えが「即物的」で、すべてを「ランクづけ」し、「自己中心的」である、という意味で、江原は「現代日本社会の申し子」なのである。
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