エドはるみ
エドはるみが、「女性自身」で江原啓之と対談していた。
この人は、どこに向かおうとしてるのだろうか。
まあ、どうでもいいけど。
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最近話題に上がらなかったので江原啓之のことなど忘れていたのだが、「週刊現代」で江原啓之の新連載が始まった。
ったく、何考えてるんだ、「週刊現代」は。
まあ、前世だのオーラだのといった露骨に胡散臭い話は江原も避けているようだから、それで言い訳が立つと思ったんでしょ、きっと。
第一回目は、インターネットについて。
悪口ばかり書いてある匿名サイトを読んでいるだけで、悪いカルマが積まれるらしいですよ。
このブログを読んでいる人も気をつけてください(笑)。
江原ウォッチャーとしては資料としてスクラップしておこうかと思ったのだが、江原の連載が載っている雑誌に金を落とすのもイヤなのでやめにした。
江原の連載が載っているうちは「週刊現代」は買わないことにする。
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これでフジテレビには出られなくなるのかな。
まあ、けっこうなことではあるのだけれど。私はあまり楽観はしてない。
江原啓之の本を読んで分かったのは、この人が、かなりの戦略家だということ。壇れいの件ではしくじったけど、その前から、ちゃんと予防線を張ってるんですよ。霊能者と言えど、霊的世界の50から60パーセントを視ているにすぎないって。
批判する側から見たら、とってつけたような言い訳だけど、信者にとっては筋の通った説明なわけです。だから、江原をインチキをいくら叩いたところで、信者は考えを変えない。
ある意味、茂木健一郎なんかより、江原の方が利口なんじゃないか。茂木は単にチヤホヤされたいだけのお調子者だが、江原は先のことまで見越して戦略を立てていると思う。マスメディアから姿を消して、カウンセリングの仕事に従事する、ということも既に数年前に本で書いているのだから。
江原も、もうテレビには期待していないでしょう。知名度は十分に得たわけだし、公演をすれば武道館を満杯にするくらいのファンは集まるし、本を出せば売れる。テレビから姿を消しても、忠実なファンを相手に商売していけば、今後も十分やっていけるでしょう。
結局、江原は最後まで”逃げ切る”んじゃないかな。
まあ、江原自身は逃げ切るかも知れないけれども、今後出てくる”江原的”なもののために、今のうちにキッチリ批判しておこうと思う。
「江原啓之を読む」シリーズは、あと5回くらいで終了する予定。
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いやね、私だって、こんなに茂木健一郎のことばかり書きたくないんですよ、ホントは。くだらないんだもん。
本来は、もっとブック・レビューの方を充実させたいと思っていたのに、そっちの方は全然かけなくて、今の状態は不本意なんですよ。
茂木だの江原だのに、かかずらうのはイヤなんだけども、向こうがつっこんでくれといわんばかりの言動をし続けるからねえ。
他に茂木や江原をキッチリ批判してくれる人がいてくれれば、私は喜んで手を引きますよ。
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第二章(まとめ)
この章では、江原の言う「人生の地図」である「八つの法則」を見てきた。その内容を振り返ってみよう。
「波長の法則」「因果の法則」「運命の法則」は、結局のところ、ほとんど同じことを言っている。すなわち、まわりに起こることは自分しだいであり、今ある状況はすべて、これまでの自分のあり方の結果である、ということである。ここで気がつくのは、江原の説明が非常に「機械的」だということである。
「霊的波長を放って生きている人間は、たとえてみればラジオのようなもの」
「低いエネルギーを出していると、「邪霊」、「未浄化霊」と呼ばれる低級霊と同調する」
「高い波長を持って生きていれば、あなたと類魂のプラグはつながり」
「この法則が働く正確さはスーパーコンピュータをはるかに凌ぐもの」
「スピリチュアル」であるはずのものごとを説いているにも関わらず、これらの説明は、非常に即物的であり、現世的なものごとの説明の仕方を「霊界」のレベルに単純に移しただけのものでしかない。そこには、宗教の持つ「超越性」がない。そもそも「法則」という言葉が、江原の霊界の説明のが機械性を示しているではないか。江原の説く「スピリチュアリズム」が、精神性が希薄で底が浅いと感じられると感じられるのは、このためであろう(もちろん、「精神性」や「深遠さ」は、その主張が真実であることを保証しないのだが、それはまた別の話である)。江原は、「エネルギ-」や「波長」が「高い」とか「低い」といったことを言うが、どのような意味で「高い」のか、なぜそれが「高い」のか、という説明は全くない(そもそも、「エネルギ-」や「波長」というのが何なのかもハッキリしないのだが)。結局、前向きな態度で、良い行いをしていれば、「高いエネルギ-」や「波長」が出る、と行っているだけで、なにが良くて何が悪いかという基準は、世間一般の常識に丸投げである。江原は、第一章で「全然スピリチュアルじゃない」「当たり前な内容」という批判に反論を試みているが、実際のところ、全く反論になっていない。「人々がもはや定義を失ってしまった「常識」に対して霊的真理による裏づけをしたいと思った」という言葉は、自らの主張が常識なものでしかないことを自ら告白しているようなものだ。江原の「スピリチュアリズム」は、常識の裏づけになっていない。逆に、常識の上に組み立てられたものなのである。江原が大衆的な人気を得たのは、江原の説くスピリチュアリズムが、宗教やオカルトに胡散臭さを感じるような「世俗的」な感覚の持ち主にとっても受け入れやすいものであるためだろう。
「霊魂の法則」「階層の法則」では、たましいすら、神から低級霊まで、直線的にランクづけされる。
死後の世界は無数の階層からなる、厳然とした「差別界」です。
その自然霊にも、高級なものから低級なものまで、さまざまな段階があります。私たちが「神」と呼ぶ愛のエネルギーは、この世に姿を持ったことのない自然霊の中でも最高級、超高級の霊です。
低いエネルギーを出していると、「邪霊」、「未浄化霊」と呼ばれる低級霊と同調することになるのです。
一方で、江原は現代の社会を以下のように批判する。
少年たちによるホームレス殺人事件もまさに象徴的です。汚いからと、虫けらのように殺す。その人が歩んできた人生、愛し愛されてきた人たち、奥底にある人生観など、存在するとさえ思っていないでしょう。もっとも、少年たちが育った社会そのものが白黒の価値観に支配されているのは否めない事実です。おまえはいい。おまえはだめ。能力や点数で子どもの価値を決める物質主義的社会の中で、ランクづけされ、時には切り捨てられながら育ってきたことの影響は確かに大きいと思います。
江原は、口先でこそランクづけを否定しているが、実際には自分が否定するものに自身が似ているのである。
「幸福の法則」では、江原は「真の幸せ」を定義する。だが、その「幸せ」は、根本的に「自己中心的」なものである。
霊的真理を知り、つねに愛と思いやりを、まわりの人たちに施していきましょう。「してもらったから、してあげる」という受身の姿勢ではなく、あなたが「まずははじめに」愛と奉仕の気持ちをまわりに与えることが大切です。愛情がほしければ、自分から率先して愛情を与えられる人になり、幸せがほしければ、誰よりも先に幸せを与えられる人になることです。
結局、他人に愛や思いやりを施すのも自分自身のためでしかないのである。
もちろんそこに打算の気持ちがあってはいけない。計算づくの愛は、本物ではない。
そのように言ったところで、誤魔化しきれていないのだ。江原自身もそのことに気づいたのだろう。江原は、唐突に「家、会社、国、地球」のカルマについて説き始める。
ところで、因果、すなわちカルマには、もう一つ大事な側面があります。カルマは人間一人ひとりに働いているだけではなく、家、会社、国、地球にも作用しているということです。
とってつけたような説明である。「家、会社、国、地球」は霊的存在なのだろうか。「家、会社、国、地球」は霊界にも存在するのだろうか。「家、会社、国、地球」も霊界から現世に再生するのだろうか。カルマを個人から「家、会社、国、地球」にまで広げることは、江原自身の霊界の説明と整合性がとれないのである。
その教えが「即物的」で、すべてを「ランクづけ」し、「自己中心的」である、という意味で、江原は「現代日本社会の申し子」なのである。
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『スピリチュアルな人生に目覚めるために』
第二章
江原は、スピリチュアルな人生に目覚めるために欠かせない「人生の地図」として八つの法則を提示する。
一.霊魂の法則
人はみな霊的な存在である。
霊魂こそが人間の本質であり、肉体はこの世を生きている間だけ借りている乗り物にすぎない。誕生とともに肉体に宿った霊魂は、死と同時に肉体を離れ、霊的存在として生き続ける。この真実を知ることで、人生の中で体験する三つの大きな苦しみから逃れることができる。
死に対する恐怖心。霊界こそが本当の世界であって、この物質界は仮の世界。だから死を恐れる必要はない。
死別の苦しみ。あなたが喪った大切な人も、永遠に生き、あなたを見守っている。
「人生は不幸なもの」という思い。人間が考える不幸とは、その時の自分にとって都合が悪い状態であるというだけ。霊的な視点で見れば、その状態こそがたましいに学びを与え、成長を促す。
仮に、人間が霊的な存在ではなく、肉体の終わりとともにすべてが消滅してしまうとしたら、いったい世の中はどうなるか。限られた人生をやりたい放題に生きるほうが幸せだということになる。そんな物質的な「幸せの価値観」から追い求めた幸せは、たとえ実現しても、心の底から幸せとは実感できないはず。幸せは霊的視点で考えなければならない。
二.階層の法則
霊的世界は無数の階層に分かれていて、死んだ後は、たましいの成長レベルに応じた境地に行く。
霊的世界においては、人間のたましいだけでなく、動物や植物のたましい、この世に姿を持ったことのないたましい(自然霊)も、一つのまとまりであり、そのまとまりの中心こそが、大霊すなわち神である。すべてのたましいは、みずからを浄化し、神である中心に統合されていくことを志している。たましいを浄化向上させるために最適な場所が、この物質界であり、そのために、たましいは、死と再生を繰り返しながら、何度もこの世への旅に来ているのである。感動の多い人生では、たましいは大きく浄化向上する。たくさんの経験と感動を積み重ね、より透明なたましいとなってあの世に帰ることが、私たちがこの世に生まれてきた意味である。
三.波長の法則
自分の心のあり方が出会う人や出来事を決めている。
人間が持つ全ての思いは、想念という霊的なエネルギーを生み出す。同じレベルの想念の波長を持った者同士がお互いに引き寄せあう。
現世に肉体を持たない霊魂にも、人間が出す波長は作用する。低いエネルギーを出していると、「邪霊」、「未浄化霊」と呼ばれる低級霊と同調することになる。場合によってはそれが「憑依霊」となる。
低級な霊にとり憑かれた人に対し、浄霊を行うことがあるが、これは対症療法にすぎない。憑依を招いたのはその人自身の波長だから、本人の心のあり方がその後も変わらなければ、また同じレベルの霊を招いてしまう。本人の心のエネルギーさえ高まれば、憑依霊は自然と離れていく。すべては自分自身の波長しだいである。
四.守護の法則
一人ひとりに、いつも寄り添って見守っている霊的な存在がある。「守護霊」や「背後霊」と呼ばれている霊である。
守護霊は役割によって四種類に分けることができる。
中心となってサポートするのが「主護霊」。常にあなたに寄り添い、途中で入れ替わることはない。
二つ目が「指導霊」。あなたの職業や才能、趣味を指導する霊である。江原自身の指導霊は、戦国時代の霊的能力に長けた僧侶、昌清之命(まさきよのみこと)である。
三つ目は、あなたの運命をコーディネイトしている「支配霊」。
これらのほかに「補助霊」がいる。
守護霊以外の、指導霊、支配霊、補助霊は、あなたの波長が高くなれば、より高いエネルギーを持った霊魂と入れ替わる。逆に傲慢になったり、増長したりすれば、あなたの波長は著しく低下し、今ついている指導霊が去って、代わりに一段下の霊魂がつくかもしれない。
五.類魂の法則
誰もが霊界に、現世の家族以上に深い絆で結ばれた「たましいの家族」を持っている。それが類魂である。
類魂を構成するたましいは、霊界においてはみなつながっている。
守護霊、指導霊、支配霊、補助霊は、この類魂の一部である。
類魂の部分部分が持つ「経験」はばらばらだが、あなたが死んで霊界へ行き、類魂の中へ再び溶け合ったとたんに、類魂に内包されるすべての記憶が、自分自身の記憶のように蘇る、と江原の指導霊である昌清之命は言う。
六.因果の法則
自分がしたことは、いつか自分に返ってくる。
今ある状況はすべて、これまでの自分のあり方の結果である。この世には奇跡も偶然もない。すべては「因果の法則」という自然の摂理にもとづいた必然である。
あなたが、愛情やいたわりを人に与えれば、必ずそれは同じだけあなたのもとに帰ってくる。逆に、憎しみや妬みなどの思いを人に振りまくと、それが同じだけ戻ってくる。
因果、すなわちカルマは人間一人ひとりに働いているだけではなく、家、会社、国、地球にも作用している。日本に生きる私たちは、日本という国のカルマを背負っている。現在の地球環境の悪化も、経済の不況も、さまざまな社会不安も、今までのツケによって表面に出てきた日本のカルマであり、私たちがともに学ばなければならない課題である。
七.運命の法則
あなたの人生の流れはあなた自身が作り出すもの。
あなたの運命は一つに定められているものではない。あなた自身が自由意志で決めていくのが人生であり、生きることの喜びである。
しかし人生には、帰ることができないものもある。それは生まれたときから決まっていた要素、すなわち「宿命」と呼ばれるものである。
八.幸福の法則
霊的法則は私たちが真の幸福を得るために働いている。
これらの法則が働いているのは、すべてのたましいが、やがていつか大霊、つまり神と一つになるためである。ときには苦難に遭い、試練を克服しながら、愛を学び、みずからのたましいの濁りをきれいにしていくこと。それこそがたましいの真の幸せであり、神に近づいていく唯一の道である。
霊的な視点で見ると、他人に対する見方が変わってくる。あなたを憎む人は、あなたに「憎まれることの悲しみや苦しみを教えてくれる人」である。あなたは憎まれた経験から、愛のすばらしさを知るチャンスをもらえたのだから、決して人を憎み返してはならない。その人は大事なことを教えてくれた上、あなたを憎んだという負のカルマを背負ってくれてもいるのである。霊的真理を知り、つねに愛と思いやりを、まわりの人たちに施していこう。「してもらったから、してあげる」という受身の姿勢ではなく、あなたが「まずははじめに」愛と奉仕の気持ちをまわりに与えることが大切である。愛情がほしければ、自分から率先して愛情を与えられる人になり、幸せがほしければ、誰よりも先に幸せを与えられる人になることだ。もちろんそこに打算の気持ちがあってはいけない。計算づくの愛は、本物ではない。
人類はすべて広い意味での類魂である。今、どんな状況も自分自身のこととして受けとめ、考え、ともに改めていく感性が必要とされている。遠い国の戦争も、日本のどこかで起きた事件も、無関心でいてはならない。身近な社会現象にも同じことが言える。隣の家の問題も、友達の悩みも、他人事とは言い切れないのである。
以上が、第二章の内容である。
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”スピリチュアル”なものを否定すると、”死生観がない”と言われるのがよく分からない。「死んだら無だ」というのも、立派な”死生観”だと思うのだが。
「死んだらそれっきりなら、生きていても虚しくないですか?」と言う人もよくいるのだが、これも理解できない。全然逆だと思うのだが。死んでもいくらでもやり直しがきくなら、どんな生き方をしても同じことではないか。「現世での生き方が、来世を決めるのだ」などと言われても困る。私は別に来世のために生きているつもりはない。
私としては、逆に聞き返したい。「死んでからじゃないと人生の価値が決められないなんて、生きてて虚しくないですか?」
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第一章(まとめ)
世間での知名度が上がるにつれ、批判を受けることも多くなった。江原は、人をおとしめるような悪感情というものは自分の心に内在する感情の映し出しだ、と言う。他人を表向きの現象だけを見て「金儲け主義」と邪推する人間は、自身の心の中に「自分もうまく金儲けがしたい」という感情が内在していることの表れなのである。人を頭ごなしに批判する人は常に心の中に不満を持っている人だ、と江原は決め付ける。
江原は、自分自身の今後について語る。この15年間で、世の中に「スピリチュアル」という考え方の土台を作ることができた。今後、後進にバトンを譲る渡すときも来るだろうし、そういう人が出てきてほしいと願っている、と江原は言う。今後しばらくはマスメディアの活動するが、近い将来、その役目を終える時が来ることは分かっている、その後も残すべき大切な仕事は、書籍の執筆と、講座および講演と公演活動だ、と江原は言う。自分の願いは、霊的真理を伝えていきたいということだけ、人が本当の幸せを得るために必要な「人生の地図」を広めていきたいというだけ、どうかみなさん、本当の幸せを得るため、心のうちに「人生の地図」をお持ちください、という言葉で江原は第一章を結ぶ。
以上が第一章の内容である。
江原の”手の内公開”という感じの内容である。既存の宗教や”スピリチュアリズム”に付きまとう胡散臭さを打ち消すのが江原の戦略だったということがよく分かる。こうして手の内をさらけ出すこと自体が胡散臭さを打ち消すための一つの手段だ、とも考えられる。江原は、服装やカウンセリング・ルームのデザイン、しゃべり方などをカジュアルなイメージに統一することで、スピリチュアリズムの ”カジュアル化”を意識的に行い、スピリチュアリズムへのしきいを低くすると同時に、他の霊能者との差別化を行ってきたようだ。また、「宗教」があって「霊的世界」があるのではなく、「霊的世界」があるのが先で、それをイエスやブッダといった霊能者たちが現世の言葉で表そうとしたのが「宗教」である、という発言は、ある意味、既存宗教の否定とも言える。この点から見ると、江原を他の宗教や霊能力者と十把ひとからげにして批判するのは、あまり得策ではないと考えられる。批判する側から見れば、江原と他の”霊能力者”との違いなど大したものではないが、江原ファンにしてみれば大きな違いであり、スピリチュアリズム一般を批判しても、「江原さんは違う」と言い抜けられてしまうだろう。
批判に対する言い訳がましい自己弁護が多いのも興味深いところである。とくに、成金呼ばわりや「金儲け主義」という批判を気にしているようで、現世利益の否定をしきりに強調しているが、逆にそういう部分にこそ江原の本音が裏返しの形で出ている、と勘ぐることもできる。
注目すべきは、本書が出版された約5年前の時点で、マスメディアでの活動を終えて書籍の執筆と、講座および講演と公演活動に移行することを示唆していることだ。最近の江原のマスメディアでの活動から講演等の活動へのシフトという動きは、ある程度、既定の路線だったということになる。江原という人は、なかなか”オリコウサン”であると思う。今後江原を批判する際は、この点にも注意が必要だろう。テレビでの失態を叩いて江原をテレビから追放するのが成功したとしても、江原ファンは都合よく解釈するだけで、結局江原は別の場所で生き延びることになるだろう。
これで第一章は終わりだが、当初考えていたよりも大幅に分量が多くなってしまった。この後の章に関しては、もっと大雑把にまとめたいと思う。正直言って、江原の本を読むという作業は、あまりにも不毛で、私にとっては苦行に近いものなのである。
第2章に移る前に、サービスカットをどうぞ。
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結局のところ、茂木健一郎の言う「ドーパミン」なんて、「魔法の言葉」でしかないんですよ。
効率的な学習法の話をしているときに、ドーパミンを持ち出したって、全然意味がない。今、自分の脳の中でドーパミンが出ているかどうかなんて、素人には分からないんだから。やる気が出ているときに分泌されるのが、ドーパミンだろうがアドレナリンだろうが、そんなのどうでもいいことだ。自分が乗っている車がガソリンで動いているのか灯油で動いているのかなんてことは、上手く運転することに何の関係もない。やる気が出ているときは脳からドーパミンが分泌される、なんていう説明は、車の運転方法を教わるときに、車が動いているときはエンジンでガソリンが燃焼しているのです、と説明されるようなものだ。「だから何なんだ」っていう話である。
そういうことは脳科学の内部で議論をするときに初めて意味を持つのであって、そういう文脈から外れて、「ドーパミン」という言葉を使うのは、オマジナイを唱えるのと変わらない。「脳科学の観点からは」などと注釈をつけてみたところで、学習法の議論が脳科学の議論になるわけではない。単なる後づけの理屈にしかならないだ。
素人にとっては、「ドーパミン」という単語は、なんとなく良さそうなもの、ということしか意味しない。そういう意味で、茂木の「ドーパミン」は、江原啓之の「高い波長」と大して変わらない。いたわりや優しさの心を持てば「高い波長」が出て、同じく「高い波長」を持った人や出来事が集まってくる、というが「高い波長」というのが実際には何物なのかサッパリ分からないし、目にも見えはしないのである。”霊能力者”が、「高い波長が出ている」というから、「高い波長が出ている」と思うだけ。「高い波長」が「低い波長」と比べて何が良いのかまるで分からないが、”霊能力者”が、いいことだと言うから、何となくいいことだと思っているだけ。「ドーパミン」と「高い波長」が違うのは、「ドーパミン」は脳科学の体系の内部ではちゃんと意味を持つが、「高い波長」の場合は体系自体が虚偽だ、ということだけである。
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第一章(続き)
本がベストセラーになれば、多くの批判も受ける。「当たり前な内容」、「常識的でちっともスピリチュアルじゃない!」。たしかに「当たり前で常識的」な内容かも知れない。だが現世で言う「常識」とは、何なのか?当たり前のことや常識的なことがもはやよく分からなくなってしまって、何を信じたらよいのかを迷っているのが、今の時代ではないか。江原は、人々がもはや定義を失ってしまった「常識」に対して霊的真理による裏づけをしたいと思った、と言う。
書籍の出版と並行して、もう一つの夢であった「講演会」が実現した。まだ本を読んでいない人をも、言霊の力で霊的真理の探求へと誘いたい、と江原は言う。
講演ではなく「公演」と銘打つイベントも始めた。これは今までの講演会に「癒し」の要素を加え、三部構成で行うものである。最後の第三部では江原が歌を歌う。最近は、公演でのほか、老人ホームへ行って、ボランティアで歌のコンサートをすることもあると言う。人が芸術などの美しいものに感動するのは、そこに神の美を見るからである、美にふれると人は、自分が霊的存在であるということをたましいのレベルで思い出し、霊的世界の美しさを懐かしむのだ、そのような美に感動する「感性」を、今のような時代だからこそ呼び戻さなければならない、と江原は言う。
今の現世でもっとも考えねばならない問題は、人間のたましいの「自然霊化」だ、と江原は言う。最近のニュースや新聞を見ていると、殺伐とした事件ばかりである、これには霊的な背景が大きく影響しているのである。人類が「人霊」としての感性を失いつつあり、「自然霊」に近くなっているのである。「自然霊」とは、この世に姿を持ったことのない霊のことである。いわゆる稲荷、天狗、龍神、狸と言われる霊は、この自然霊である。狐や狸といっても、動物の霊ではなく、そのような性質を持つエネルギー体である。自然霊には、天候などの自然現象を司る働きがある。自然霊にも、高級なものから低級なものまで、さまざまな段階がある。私たちが「神」と呼ぶ愛のエネルギーは、この世に姿を持ったことのない自然霊の中でも最高級、超高級の霊である。今、世界中に低級な自然霊が増えている、と江原は言う。低級自然霊が増えているのは、私たち人霊が、自然霊界に対する感謝の心を忘れてしまったからである。低級自然霊は、感性や感動に乏しい無機的な波長を持つ人霊にどんどん憑依してしまうのである。人霊と自然霊の大きな違いは、情があるかないかである。自然霊は人間のような情愛といったものがなく、白か黒か、二つの一つしかない。今の人霊は、このような自然霊の性質を帯びてきてはいないか、と江原は問いかける。江原は驚くべき発言をする。幼児虐待や戦争や自殺も自然霊の影響だというのである。
今の人霊は、この自然霊の性質を帯びてきてはいないでしょうか。まず幼児虐待などの親子にまつわる悲惨な事件がその表れです。戦争もそうです。やられたらやり返す。人命に対してさえあまりにもデジタルになっています。
少年たちによるホームレス殺人事件もまさに象徴的です。汚いからと、虫けらのように殺す。その人が歩んできた人生、愛し愛されてきた人たち、奥底にある人生観など、存在するとさえ思っていないでしょう。もっとも、少年たちが育った社会そのものが白黒の価値観に支配されているのは否めない事実です。おまえはいい。おまえはだめ。能力や点数で子どもの価値を決める物質主義的社会の中で、ランクづけされ、時には切り捨てられながら育ってきたことの影響は確かに大きいと思います。
世間で問題を起こしている新興宗教集団も、まさに自然霊による憑依の産物が大半です。宗教観のようなものを語っていますが、その内容は物質主義に終始しています。本来宗教は高級霊界を表現しているべきものなのに、彼らのすまい、服装、行い、言葉には、まったく神聖さが感じられません。教団のために親子の縁を平気で断ち切らせるのも、自然霊の性質の表れです。信仰のためなら親から盗んででも金を持ってこさせるなど、低級自然霊だからこそできることです。
増加している自殺者の心理にも「自然霊化」の影響が見えます。自分の人生をリセットするという考えは、だめだったら死ぬという、白か黒かの自然霊的発想です。
この事態に対し、私たちがすべきことは、今すぐにでも人霊としての「感性」を取り戻すことです。特に、人霊にしかない親子の絆を見直すことです。人霊は今、動物以下になってしまっています。動物だってわが子は守ります。
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第一章(続き)
江原は、一対一のカウンセリングから、しだいに、書籍という多数の人たちに話しかけることのできる道に向かうようになった。一冊のまとまった本を書かせてくれる出版社はなかなかなかったので、悩んだ挙句、江原はマスメディアへ登場することを決めた。出版社のあてもないまま、第一作の原稿を書き始めた。雑誌からの取材依頼が日を追うごとに増えていき、『an・an』にレギュラーとして登場できるようになった。原稿書き上げてから三年経ち、最初の単行本を出すことができ、二冊目も出版したが、どちらもほとんど売れなかった。江原は、世の中の人が理解してくれないことに途方に暮れたが、ある人からの助言で、心を切り替え、人々の「たましいの知識」の段階に応じて語ってゆこうと決意した。
雑誌での活動が盛んになってくると、テレビ出演の依頼も舞い込み始めた。出演にはずいぶんと悩んだが、これにも挑むことにした。その理由は、まず一つにはそれまでにテレビに出ていた霊能力者にあまりにもキワモノが多かったからだ、と江原は言う。江原は霊能力者を批判する。霊の世界を本当に理解しているなら、何も視聴者を怖がらせる必要はないはずだ。だのに大げさに騒ぎ立て、霊の世界をあまりにも不気味に演出し、霊を悪意的に扱っている。霊について正しく理解している霊能力者なら、死後の霊に対して居丈高な態度をとるはずがない。霊と言っても、ついこの間まではこの現世に生きていた人間である。生きている人間の「人格」が大切であるように、霊たちの「霊格」も尊重すべきだ。よほどわからずやの霊は別として、全ての霊にそのような失礼な態度をとる霊能力者は、霊というものを正しく理解していないニセ霊能力者だと断言して構わない、と江原は言う。
江原は、テレビに出るときは、なぜ死んだ人がこのようにさまよっているのかを解明し、視聴者の完成に正しく伝えていこうと心に決めた、と言う。そこで既存の「霊能力者」のイメージをすべてくつがえすことにした。いかにもと思われるような衣装は着ない。むしろ明るいファッションを心がけること。いつもニコニコと笑っていること。おどろおどろしい演出はやめてほしいと、テレビ番組の制作者とはいつも戦っている。何度も不愉快な思いをしたが、今ではなるべく信頼できる人格の制作者の番組だけに出演するようにしている。スピリチュアル・カウンセリングが中心の番組は別として、今後は少しずつテレビの仕事から離れて行こうと考えている。テレビは難しい仕事だ、正しいことがなかなか貫けない世界だと学んだ、と江原は言う。
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第一章(続き)
スピリチュアリズム研究所を設立して1年過ぎた頃には、相談希望者が増えて専任のスタッフが必要となってきた。アパートからもう少し広い事務所に移転。二年間の契約期限が近づき、引越しを考えなくてはならなくなった頃に「オウム事件」が起きた。どこでも断られ、やっとよい返事がもらえたのは、家賃50万円を超える一軒家だった。家賃が高いだけに、一見とても豪華で、事情を知らない人からは冷やかされ、相談料金を値上げしたこともあって、成金呼ばわりもされた。現在スピリチュアル・カウンセリングは休止しているが、休止直前の相談料金は5万円だった。江原は、お金にまつわる批判に対して反論する。この金額には、遊び半分の気持ちで相談されては困るという意味もこめていた。相談者によっては必要上ヒーリングや浄霊を施す場合もあるが、全ては料金に含むものと考える、すなわち、重い相談事を抱える人にとっては「安く」、たいした悩みではない人にとっては「高い」のである。相談者が経済的に苦しいときには、守護霊が教えてくれるのですぐにわかる。そのようなときは、帰り際にお金をお返ししたこともある。本心では富を望みながら、現実にそうは行かない人に限って、お金にまつわることで他人を執拗に批判する。みずからのポリシーで、心から「清貧美徳」を実行している人は、心にゆとりがあるから他者のお金についてあまり批判しない。どれだけ稼いでいるかは問題ではない。大切なのは、どれだけ正しい動機をもってお金を扱っているかであり、自分は、つねにお金を「生かし」、世の中に役立てていきたいという信念を持っている、と江原は自己弁護する。
スピリチュアル・カウンセリングを15年続けた経験から学んだことの一つは、人が霊的な真理に目ざめるためには、スピリチュアル・カウンセリングという「たましいのカンフル剤」が必ずしも有効ではないということだった、と江原は言う。人にはそれぞれ目覚める時期があるのだ、機が熟してこそスピリチュアル・カウンセリングの意義があるのではないか。目覚める時期が来ていない人たちには、スピリチュアル・カウンセリングはむしろ依存心ばかりを増長させて、目覚めの時を遅らせてしまうのではないかという危惧を抱いた、と江原は言う。
15年間、スピリチュアル・カウンセリングと同時に、月に1回「スピリチュアル講座」を開催してきた。スピリチュアル・カウンセリングの相談時間は一人あたりたったの1時間、その中でできることは限られている、だからこそ、講座の役割が重要なのだ、と江原は言う。
相談者と1対1でないとできないことの一つに、「浄霊」がある。しかし深刻な憑依や霊障といった相談事は、百件に一件あるかないかで、それほど多くはない、という。憑依というのは、実は誰にでもあることで、取り立てて騒ぐほどのことではなく、よほど重症な憑依でない限り、本人には伝えない。世間の霊能力者たちは、金儲けのためか、あまりにも憑依という言葉を口にしすぎる、と江原は批判する。高い人格には高い霊、低い人格には低い霊が憑依するのだから、人格を高めることに精進すればいいだけだ。たましいの幼さにより自分自身を内観することができずにいると、どんどん憑依が増えていき、通常の生活もままならないほど、にっちもさっちも行かなくなる、そのような時に初めて、霊能力者による浄霊という、緊急救命的な手助けが必要となる。浄霊を済ませればそれで終わりということではなく、本人に「人生の地図」に目覚めてもらわなければ本当の意味の解決にはならない。一番大切なのは「人生の地図」である霊的真理を知ることであり、一人ひとりが霊的真理を得ることができれば、霊能力者など不要になる、と江原は言う。
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『スピリチュアルな人生に目覚めるために』
本書は四つの章からなる。章ごとに内容を見ていこう。
第一章
第1章が思ったより長くなってしまったので、お忙しい方は「江原啓之を読む(6)」の「まとめ」だけ読んでください。(追記 2008.3.23)
江原自身のスピリチュアル・カウンセラーとしての歩みを振り返り、今後について語る。
江原は23歳でスピリチュアリズム研究所を設立した。江原がスピリチュアル・カウンセリングを行うにあたり、いくつかのこだわりがあった。
一つは、「シッティング」形式を取り入れること。これは、ロンドンでの留学時代に学んだものである。「シッティング」とは、霊的世界を実証するために、霊能力者が霊的世界とコンタクトを取り、その人に関わるさまざまな情報メッセージを一方的に伝えていく方法である。江原は、日本の「心霊相談」が現世利益中止であることを批判する。江原は、「シッティング」により霊的世界を証明し、その感動を通じて霊的真理の福音を広めていこうと考えた。カウンセリングは、一人あたり一時間、前半は「シッティング」を行い、残りの時間で質問を受け、具体的問題に対しての対処方法を助言するという形式をとることにした。
二つめは、仰々しい演出はしないということ。江原は、ここでも日本の霊能力者を批判し、現世的な演出効果を狙っている、と断じる。それに止まらず、宗教一般も批判の対象となる。「宗教」があって「霊的世界」があるのではなく、「霊的世界」があるのが先で、それをイエスやブッダといった霊能者たちが現世の言葉で表そうとしたのが「宗教」である。教会、神殿、仏殿、法衣、儀礼のほとんどは、人々に宗教的信仰心を湧かせるために用いた演出にすぎない。江原は、平服を着、カウンセリング・ルームは、相談者が安らぎを得られるよう、かわいらしいサロン風にした。
三つめは、この仕事は「求められてこその仕事」だということ。世の中から必要とされない限りは、この仕事をする必要はない。求められなくなったときは、潔く辞める、と江原は言う。
江原は「霊能力者」という肩書きはなるべく避けてきた、と言う。江原は、自分が現世利益を叶える魔法使いや、拝み屋というイメージで見られることを拒否する。江原にとって霊能力とは、「スピリチュアルな人生」に目覚めるための道具であり、人生の指針は、霊能力そのものではなく、霊能力を使って得た人生哲学、すなわち霊的真理だ、と言う。
江原は、ロンドンで出会った霊媒の影響で「スピリチュアル・カウンセラー」と名乗るようになった。スピリチュアルなメッセージを相手のたましいの成長の度合いに合わせて処方するのが、スピリチュアル・カウンセラーの役割である。「お告げ」のような一方的な伝え方は正しくない。幼いたましいにとって「お告げ」は「現世利益の甘い蜜」でしかなく、「たましいの成長」を妨げる危険がある。「現世利益の甘い蜜」ばかりを伝えてくる霊は低い霊であり、高い霊が伝えるメッセージは、「たましいの成長」を望んでいるから厳しい助言であることが多い。また、霊能力を持つことと、高い人格は必ずしも比例しない。低い霊がつかさどる波長の低い霊能者にも、「よく当たる」現象が起きる。世の中ではこのような波長の低い霊能者こそ、もてはやされる。
現世はたましいを成長させる学びの場であり、「たましいの成長」こそが「人生の目的」である。霊的真理から見れば、この世に「偶然」はなく、全てが意味のある「必然」である。人生のすべての行きづまりには、そこから学ばねばならない何かがある。
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江原啓之の著作を読んで、その内容を検討してみたいと思う。きっかけは、もちろん江原の「旭川大学保健福祉学部客員教授就任」である。
27時間テレビや『オーラの泉』での失態のあと、江原は、”オーラ”や”前世”といった言葉を前面に押し出した胡散臭いスピリチュアリズムから、それほど胡散臭く見えない「ターミナル・ケア」などの方向に急速に重心を移そうとしているように見える。
『週刊現代』のインタビューで、江原は以下のように語っている。
私は以前からホスピスの運営をライフワークにしたいと考えていて、それを公言してもいるのですが、私が大学で講義するのは、そこにつながる終末期ケアや緩和ケアについてであって、霊能力とはまったく関係のないことです。私自身、両親や家族、そして、5年間の個人カウンセリングの経験をとおして、数多くの人の死と向き合ってきました。ですから、死との向き合い方を私なりに学生たちに伝えられることもあると考えてのことです。
3/4放送の「学校へ行こう!MAX」では看護学校の生徒に対するカウンセリングを行っているし、 旭川大学客員教授就任も、そのような動きの一部と見ることができるだろう。
それでは、江原は、大学で何を教えようとしているのか。江原が看護について人に教える資格があるのか。江原が生や死について、どのような考えを持っているのか。江原の著作を元に検討してみよう。
検討の対象として選んだのは、新潮文庫の『スピリチュアルな人生に目覚めるために』と、中公文庫の『江原啓之のスピリチュアル人生相談』『あなたのためのスピリチュアル・カウンセリング』の三冊である。
まずは、『スピリチュアルな人生に目覚めるために』の内容を一通り眺めてみる。後の2冊に関しては、ターミナル・ケアに関連する部分を取り上げてみよう。
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読みもしないで批判するな、という天の声があったので、古本屋で江原啓之の本を3冊買ってきた。3冊とも文庫本。新潮1冊と中公2冊(中公もこんなもの出してたんだな。落ちたもんだ)。これだけだとレジに持っていくのが恥ずかしかったので、関係ない本を3冊買って(ピーター・ラヴゼイ2冊に「クイーンの定員 Ⅳ」)、江原本は間に挟んで店員に渡した。我ながら自意識過剰だ。全部あわせても千円にもならなかったので、ふところは痛まなかった。後で読んでじっくり批判します。
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今日は書かないとつもりだったが、簡単に書いておく。
週刊現代のインタビューでは、「大学で講義するのは、終末期ケアや緩和ケアについて」と語っており、「学校へ行こう!MAX」で「別居の父が孤独死した」という看護学生を”カウンセリング”していたのも、その流れなのだろうと思うが、どうもおかしい。
Wikipediaに書いてある通り、ターミナルケアとは
主に延命を目的とするものではなく、身体的苦痛や精神的苦痛を軽減することによって、人生の質(QOL)を向上することに主眼が置かれ、医療的処置(緩和医療)に加え、精神的側面を重視した総合的な措置がとられる
ということなのだから、当然、これは患者のためのものである。看護する側を慰めてどうするのだ、と思う。
江原は、「自分の身に起きていることは全て必然だ」というようなことよく言うが、これを、わずかな余命を宣告され、病気で苦しむ人間に対しても同じように言うのだろうか。それとも、来世では幸せになれます、とでも言うのだろうか。先に死んだあなたの親があの世で待っています、とでも言うのだろうか。私には、死の際に置かれた人間に対する言葉を、江原が持っているとは思えないのである。
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週刊現代の江原啓之インタビューの概要。kikulogの方にも書いたのだけど、こちらにも書いておく。内容に対するツッコミは、また後でやるつもり。
それから、前にも書いたけど、明日放送の「学校へ行こう!MAX」に江原が出演、「高校生ながら死と向き合い、様々な悩みを抱える看護学生に江原さんが個別カウンセリング!そして最後は特別授業!」ということなので、こちらも注目。
-FNS27時間テレビについて-
BPOから意見されたのは、私(江原)ではなくフジテレビ。週刊文春は話をねじ曲げている。正しくは、BPOが番組の制作サイドに、ドッキリという手法は人権侵害にあたるのではないかと忠告したということ。
Aさんは、収録中は喜んでいた。狐につままれたような感じ。
番組側から「Aさんは『オーラの泉』のファン」と聞かされたり、Aさんの美容院のスタッフからも、「Aさんを励ましてほしい」という強い要望があると聞いて引き受けた。
今回のトラブルは、私(江原)自身の傲慢さにも一因がある。番組内容を選ぶ慎重さに欠けていたと反省している。
Aさんに対しては、結果的に望まれていない霊視をしてしまい、申し訳ないと思っている。
-壇れいの件について-壇さんに二人の父親がいることは知っていたが、『オーラの泉』はゲストに恥をかかせないというのがモットー。ゲストの過去を暴いてまで伝える公益性はない。
私(江原)は、壇さんのその時々の声を伝えた。壇さんにはそれが分かっていたはず。
霊能はあくまでもデモンストレーションであり、そのことによって、ゲストの人生がよくなるようにメッセージを提示しているに過ぎない。霊能はつねに完璧なものではない。
目に見えないものを押しつけるつもりはない。大切なのは、私から伝えるメッセージが相手の心に響く言葉かどうか。
-旭川大学客員教授就任の件について-私(江原)は以前からホスピスの運営をライフワークにしたいと考えていて、それを公言していた。大学で講義するのは、終末期ケアや緩和ケアについてであって、霊能力とはまったく関係ない。個人カウンセリングの経験をとおして、多くの人の死と向き合ってきた。死との向き合い方を私なりに学生たちに伝えられることもあると考えてのこと。
バッシング報道が激しくなり、辞退させていただいたほうがよいのではないかとお伝えしたが、学長は「私の意志は変わらない」とおっしゃってくださった。
ところで、霊能者でも、「狐につままれたような感じ」になるんですね(皮肉)。
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江原啓之の「大学教授」就任が問題になっていますが、
江原啓之「大学教授」就任 スピリチュアルではなく「生命倫理」教える(J-CASTニュース)
追い討ちをかけるような情報が。 3/4(火)放送予定の「学校へ行こう!MAX」(TBS)に江原が出演予定。「TVガイド」によると内容は以下の通り。
江原啓之が坂本昌行、三宅健とともに看護専門学科のある都内の高校を訪問。
江原が看護師を目指す生徒達の相談に乗る。一行が実習中の教室を訪れると生徒たちから大きな歓声が上がる(予定)
番組のホームページには、まだ情報は出ていませんね。もちろん、私は録画してチェックしますよ。
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さっきテレビをつけたら、「ザ!世界仰天ニュース」でジェームズ・ランディと”カルロス”の”ペテン”事件についてやっていた。
どういう事件か、番組を見なかった人は以下を参照。
Skeptic's Dictionary: "Carlos," Jose Alvarez and the Randi Hoax
細木数子のテレビからの撤退が決まり江原啓之の一連の騒動があったこの時期に、この話題を採り上げるというのは、実に意味深長ですな。テレビ局の人間もこの手の番組を作るのが嫌になってきているのかもしれない。
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ヨミウリ・ウィークリーの連載確認しました。
「オーラの泉」騒動には触れていませんでした。
「クオリア日記」の方も、今のところ言及なし。
そろそろ「オーラの泉」祭りもオシマイかな。
そう言えば、林真理子も反応ありませんね。
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昨日の記事の訂正を訂正しました。実は、コンビニで立ち読みした記憶で書いて、後で裏をとろうかと思いつつ、めんどくさくなってそのままにしてしまったのです。申し訳ない。
当該記事は、以下。「週刊TVガイド」から。
美輪明宏、江原啓之がスピリチュアルトークを繰り広げる番組にゲストとして出演。現在、満腹になると20年後が見える不思議な力を持った女性を描くドラマの脚本を手がけている。「実は前世とか守護霊とか、スピリチュアルなことには興味を持っていないんです。テレビで占いをやってるとチャンネル替えちゃいますね。江原さんにも言われましたが、人に何かを言われたりするのが嫌なのかもしれないです」。だが、江原には普段のある行動を言い当てられた。「うちの奥さんに変装して見ていたのかなーって思いました(笑)」。
江原を見ていてドラマのヒントも得られたという。「目をつぶっていて、寝たのかと思った時があったんですが、あれは使えると思いました(笑)」。
というわけで、昨日の放送を見て、クドカンってこういうの信じてるの?と心配したファンの皆様、ご安心ください。あれは、テレビ的に調子を合わせただけみたいです
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クドカンがゲストだし、霊の、じゃなかった、例(*1)の事件の後なので、初めてこの番組を見る。いくら物好きな私と言え、こんな番組にあまり時間を費やしたくないので、録画してサーチで視聴。
事前インタビューの映像では「20年後の未来が知りたい」と、いきなりパブリシティ臭が漂う。
オープニング「スピリチュアル・チェック」と称して、いくつかの質問を。「好きな言葉は」との質問に「低姿勢」。クドカンらしい。「人生の転機は?」「一番充実感を感じるのは?」と質問は続く。これってホット・リーディングの調査をやってるようなもんじゃないのか?
「宮藤さんから見てどうですか、この「オーラの泉」という番組は」と国分がきくと、「まあ、僕自身ほとんど霊感とかもないですし」という言葉の後、カットが切り替わって、「(そういう人に)見てもらったこともないですし、だから、ものすごくマッサラな、ハイ」とクドカンが答えるのだが、これがアヤシイ。テレビ雑誌の紹介記事では、「スピリチュアルなことにはあまり興味がない」というようなことを言ったことになっていたのだが、もしかしたら、この部分をカットするために、こんなつなぎ方になったのではないだろうか?
子供時代からの話、父親は教師で厳しいかったという話。父親が節分の日に「なぜ豆まきしないんだ!」と怒ったというエピソードを披露。美輪が「しきたりや秩序を教えていたのだ」とまとめる。
これまでのところ、江原は発言せず、なんか単なるインタビュー番組じゃないか、という感じがしてくる。
大学の脚本コースの選抜を落ちた、という話。びっくりさせることしか考えてなかった、という話。
長瀬智也のインタビューが挿入された後、「発想がどこから来るのか」という話題に移行。この辺りから、江原が目をつぶってうつむき加減になっている。
「自分の部屋では仕事がはかどらない」「なんででしょう」とネタ振りをするクドカン。「なんかあるんですかね、理由は」と国分。「あります」と江原。「オー、来たぞ」と盛り上がるクドカン。何かモゴモゴした感じになってから「今から話します?」ともったいぶる江原。「後にとっておくことにしましょう」と国分。
哀川翔と深田恭子のインタビューの後、発想法についてクドカンと美輪がやり取りしていると、「全然違うこと言っちゃってていいですか?」と江原が割り込む。「トイレにふっと入るところが見えるんですよ」。「ホォォォ」とクドカン。「さほどもよおしてないのにトイレに」「アーとか変な声をあげているのが聞こえる」と「霊視」する江原。クドカン「うーわ、ビックリしましたよ」でCMへ。テレビ雑誌の紹介記事では「覗いてたんじゃないですか」とクドカンが突っ込んだことになっていたのだが、「シャレにならない」と判断したのだろうか、放送されず。
CM明け、「宮藤さんのテーマは”型”だ」と指摘する江原。「オーラに繊細さが表れている」「(オーラが)ブルー」と江原。神妙に聞くクドカン。だが、ちゃかしているようにも見える。江原は吐き出すように一気に分析を語る。クドカン「ハァー」の連続。
「小さいときからのお話をうかがっているときに、実は私ちょっと抜けさせていただいて」「ヘヘヘ、いたじゃないですか」とクドカンがツッコミ。これくらいは許容範囲内だったのだろうか。
「”型”が大嫌い」、お父さんが”型”だったのだ、大学のときに第一の脱却、大学を止めたのが第二の脱却、と説明する江原。今までクドカンがしゃべったことをまとめただけじゃん、全然スピリチュアルと関係ないじゃん。
と思っていたら、江原が「大元、どうしてそういう人生になるのか、象徴的に見えてくるのが」と「前世」について語りだす。
「フランスの方」「ちょっと田舎の立派な家」「貴族」と情報を小出しにしていく。「乗馬も剣も大嫌い」「このうちに生まれてはいけなかったんだというところまで行った」。なんか、それも、今までの話を昔のフランスに置き換えただけじゃないの?
「納得いく部分はありますよ」と話を合わせるクドカン。
「脚本家として成功したのは型を破ろうと戦い続けたから」とまとめに入る。
「20年後はどうなっているのか知りたい」というクドカンに対して、「”宿命”と”運命”は違う」という話に強引に持っていく江原。「”宿命”と”運命”は、”素材”と”料理”。人生の素材は決まっているけど料理は決まっていない」「それドラマで使っていいですか?」と返すクドカン。
子供が生まれて変わったという話。美輪が「緑色の植物のような光がさしてきて、そっちの方の雰囲気になっていませんか?」と曖昧なことを言う。
美輪が「自縄自縛」という言葉を使ったら、スーパーで説明が表示される。この番組の視聴者のレベルはその程度に設定されているということなのだろうか。
いくらかやり取りがあった後、 「オーラなできごと」のコーナーへ。クドカンとは関係ないので、とりあえず観賞終了。
エンディングで注意書きが表示される。
「前世」や「守護霊」は
現在の科学で証明されたものではありません
人生をよりよく生きる、ひとつのヒントです「オーラの泉」では、番組のVTRを使用した
物品の販売・勧誘などを一切許可していません
悪質なセールス等にご注意ください
悪質なセールスに利用されていることを分かった上で放送しているんですね。サッサと江原も切り捨てちゃった方がいいと思いますよ、テレ朝さん。
(*1)後で気がついたが、「壇れい」ともかかっているぞ。トリプル・ミーニングだ!
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昨日の記事の絡みで、ペテン師にだまされた科学者について書かれた記事があったはずだと思い、マーティン・ガードナーや松田道弘の本をひっくり返しているうちに、面白いエピソ-ドを見つけた。松田道弘の「トリック・とりっぷ」(私の中学時代の愛読書 講談社文庫版は「トリックのある部屋」と改題)の「サイキック」スレイドのお話である。これが、「オーラの泉」の壇れいの一件にかなり似ているのである。
まずは、スレイドにだまされた科学者について。
十九世紀の終り頃です。だました人物は「ドクター」スレイドというアメリカ人のサイキック(今でいう超能力者)で、だまされた人物は、ヨハン・カール・フリードリッヒ・ツェルナーという天門学者・物理学者であり、ライプチヒ大学の教授でもありました。ツェルナーは分光分析ではかなりいい仕事を残したらしいのですが、「超物理学」(1879)という本のなかで、ペテン師と烙印をおされたスレイドの弁護にあたって珍説を展開し、気の毒に今では、いかさま心霊術師にだまされた学者の例として、心霊関係の文献にはかならずその名前を引きあいに出されるほどの有名人となりました。
では、スレイドのイカサマはどのように行われたのか。
死者の霊(スピリッツ)が、石板にメッセージ(通信文)を書きしるすというスレイドの実験はつぎのようにして行われました。
テーブルに腰をかけ、石板をテーブルの裏側にあてて両手で支えていると、石板にメッセージが現れてくるというのです。
スレイドが用いた石板トリックの手口はおおまかにいうと二通りです。
ひとつは相手の目の前で、相手に気づかれないように、ひそかに石板に文字を書きつけるというものです。
これにはいく通りものやり方がありますが、スレイドは爪の先に石筆あるいはチョークのようなものをとりつけて、ひそかにテーブルの裏側の石板に、指先だけで文字を書きつけるという方法を多用していたようです。
もうひとつは、何もかいていない石板と、あらかじめメッセージを書きつけておいた石板とを、ひそかにとりかえるやり方です。
死者のだれと通信したいかがあらかじめわかっていれば、「お前も元気かい、お前の父(または母)も元気だよ」といった通信文をはじめから用意しておけばよいわけです。
(略)
石板のすりかえは、たとえばつぎのような単純かつ厚顔なやり方で行えます。これは相手がひとりの場合、演者とその助手がグルになってだます方法です。
被実験者が椅子に腰かけています。サイキック(演者)はその前に立ちます。演者が何も書いてない石板を示し、被実験者に、石板をわたすから頭の上でうけとってくれといいます。演者が石板をさし出し、被実験者が頭の上に手をのばすと同時に、カーテンのかげにいた助手が、あらかじめ通信文を書きこんだ石板をさし出して被実験者の手の上におき、演者からは何も書いていない石板をうけとります。
ここまで読んでこんな簡単なトリックにだまされる人がいるなんてとうてい信じられない、という人がかならずいるでしょう。しかしそんなことがいえるのも種あかしを先に知って読んでいるからです。
被実験者のみえないところ(頭の上)で行われるこの図々しいすりかえが気づかれることはぜったいありません。
こうして、人々をだまし続けたスレイドにも年貢の納め時がやってくる。
あるとき二人のイギリス人の教授が、スレイドのいかさまをあばく共同作戦をたてました。
教授はあるとき、スレイドに、「私を生前もっともかわいがってくれたのはジョン叔父だ」と話したことがあります。その後のスレイドの実演で石板には「またお前にあえてうれしい、ジョン叔父」と書いたメッセージが現れました。
しかしジョン叔父というのは教授のつくりばなしでした。イカサマ・サイキックがあべこべにトリックにはめられたのです。
この二人はスレイドがあらかじめ用意しておいた石板をとりおさえ、動かぬ証拠として裁判所に提出しました。
「私にはジョン叔父などいないのです」
ロンドンの法廷で教授が証言したとき、法廷は爆笑のうずにつつまれたそうです。このときマスケリンという奇術師が、スレイドのやり方を実演してみせ、有罪判決に追い込みました。
「歴史は繰り返す」というべきだろうか。スレイドの時代から一世紀以上が過ぎて21世紀になってもペテン師にだまされる人間は無くなりはしなかった。むしろ、江原のやり方は、スレイドのやり方よりも単純だとも言える。スレイドは曲がりなりにも石板を使ったトリックを工夫したが、江原はただ、あなたの前世は誰それだと断言するだけなのだ。私たちはスレイドにだまされたか科学者を笑えないのである。
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前の記事でコメント欄でのやり取りがあったので、再度書いておく。
「面白かった」というのは文脈によってどうとでも取れる言葉だが、何の文脈もなければ「肯定的」なものだと考えるのが普通だろう。すぐ後で「江原さんがなぜ今のような活動をされているのか、その個人史的必然性を受け取ったように思った」などと書いていれば、なおさらでそうである。「一定の距離を持って、対談に臨んで」いたなどといっても、そんなことは当たり前だ、というしかない。いくら茂木といえども、「霊視」や「前世」をあからさまに肯定したら科学者としてマズイということが分からないほどバカではないだろうし、おそらく本気で信じてもいないだろう。では、なぜ茂木が江原啓之などと対談するかと言えば、それはおそらく「イメージ戦略」のためだろう。つまり、自分は、「霊視」や「前世」などの不可思議なものを頭から否定してかかるような頭の固い偏狭な科学者とは違うのだ、「霊能者」を名乗る人間に対しても、オープンな態度で接することができる、心が広く頭の柔らかい、一味違った科学者なのだ、科学だけでは割り切ることのできない心の問題にも理解のある人間なのだ、ということを世間にアピールしたいからである。ようするに、意味もなく審査員やコメンテーターとしてバラエティ番組に出演するのと同様、お茶の間に対する「営業活動」なのだ。
問題は、茂木が「霊視」や「前世」を本気で考えているか、などということではない。茂木の態度が世間一般の人間に、どう受け止められるか、ということなのだ。「霊能者」と対談して、自分のブログで「とても面白い話だった」などと書けば、科学者が「霊能者」にお墨付きを与えたと思う人間が出てくるに決まっている。そのような社会的影響を考慮しない態度が軽率だと言いたいのである。
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