カテゴリー「福岡伸一」の記事

2008年5月26日 (月)

そこはスルー?

池田信夫blog 生命とは何か

『生物と無生物のあいだ』に感動した読者が本書を読むと、そのアイディアが基本的にシュレーディンガーのものだということがわかるだろう。福岡氏もそれを認めていて、「原子はなぜそんなに小さいのか?」という問いを本書から引用している。そして生物が「負のエントロピーを食べて生きている」複雑系だという洞察も、本書のもっとも重要な結論である。

池田先生、解説で『生物と無生物のあいだ』が否定的に扱われていることはスルーですか、そうですか。

註1 ただし、第六章60節(145ページ以下)の「負エントロピー」という言葉は、その直後の原註にもかかわらず、やっぱり誤解を招きやすい言葉だ。なぜなら、今日の物理的科学には熱力学のエントロピーと通信工学に由来する情報理論のエントロピーという二種類のエントロピーがあって、この両者が分子生物学の大学教授などによっても、しばしば混同され過誤や混乱を助長しているからだ。私はたまたま最近(二〇〇七年)出版された通俗科学書のベストセラーものの一つに、この混同と過誤の誠に見事な標本を見つけたので、ここに引用する。
 「シュレーディンガーは誤りを犯した。実は、生命は食物に含まれている有機高分子の秩序を負のエントロピーの源として取り入れているのではない。生物は、その消化プロセスにおいて、タンパク質にせよ、炭水化物にせよ、有機高分子に含まれているはずの秩序をことごとく分解し、そこに含まれる情報をむざむざ捨ててから吸収している。なぜなら、その秩序とは、他の生物の情報だったもので、自分自身にとってはノイズになりうるものだからである。」(講談社現代新書『生物と無生物のあいだ』150ページ)

しかも、「負のエントロピーを食べて生きている」というのは、まさに解説者が批判している部分なのですが。

ああ、そうか。池田先生は新書版を持っているので文庫版の方は実際には読んでないんですね。
これは失礼しました。

今ではゴミのような本ばかり出している岩波書店も、半世紀前には本書のような名著を出していたわけだ。岩波はもう新刊を出すのはやめて、古典と復刊専門の出版社になってはどうか。

この部分には同意。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月25日 (日)

福岡伸一新連載

週刊文春「福岡ハカセのパラレルターンパラドクス」第一回。
福岡伸一、「茂木メソッド」実践中。

「茂木メソッド」とは、「時の人に接近し、関係をひけらかすことによって、自分自身を大きく見せようとすること」である。今、私が造った言葉である。
川上未映子が芥川賞受賞作「乳と卵」を書くために出版社にカンヅメになっていたとき、逃避行動としてスターバックスで「生物と無生物のあいだ」を読んでいたそうで、その縁で川上のパーティーに呼ばれたことを自慢げに書いております。

それはさておき。

 そのうち、主人公の女性は、「わたくし」という存在が、ほんとうは奥歯の中に鎮座しているのでは、と思うに至る。
  今日、「わたくし」は脳の中にある、と普通には考えられている。「わたくし」を心といってもよい。わたくし・心・自己は、脳というごく局限された場所にある。わたくしが感じ、心が動揺し、自己を実現したいのはすべて脳が作り出したはかないなにものかに過ぎない。
  これが「わたくし」の脳局在論である。そしてここのところしばらく、ちまたは史上空前の脳ブームである。
  (略)
  だから川上さんはいう。例えば「わたくし」が奥歯の中にあってもいいじゃないか。「わたくし」率100%イン歯である。歯くらいなら実験できるかも。そして実際、小説の最後で、主人公はそれを確かめるべく歯を抜こうとする。ほんとうに「わたくし」が消えるかどうか見届けるため。あえて無麻酔で。
  かがくにできないことをあっさり小説で行う。そして、「わたくし」とは脳が作り出した幻想であるという脳局在論を嗤っているのだ。局在論は何かを説明したことには全然ならない。そう、彼女はこういいたいのだ。脳ブームなんてそろそろ終わりだよ、と。あっぱれ、川上未映子。

なぜ「局在論は何かを説明したことには全然ならない」のか、全然説明になってませんな。 

そもそも、その程度のことは、70年前に夢野久作が書いてるんだけどな。
福岡センセイ、「ドグラマグラ」読んでないの?

 吾輩ポカンは断言する。「物を考える脳髄が、物を考える脳髄のことを考え得ない」ということは「二つの物体が、同時に、同所に存在し得ない」という物理掌上の原則と同様に、万古不易の公理でなければならぬ。だから「物を考える脳髄」のことを考える「物を考える脳髄」は、一番最初に脳髄を発見した科学者ヘポメニアスが、自分の脳髄の作用を錯覚した「脳髄の幽霊」に悩まされ続けて来たのである。そうして今やまさに、自分の脳髄の幽霊に取り殺されようとしている現状である。
 だから吾輩……アンポンタン・ポカンはこれにたいして常々と挑戦したのである。
 ……物を考える処は脳髄ではない……
 ……物を感ずる処も脳髄ではない……
 ……脳髄は、無神経、無感覚の蛋白質の固形体にすぎない……
  ……こりゃあ怪しからん。諸君は何か可笑しくて、そんなに笑い転げるのだ。
 ……なんでソンナに往来を転がりまわるのだ。
 なんだって交番に這い込むのだ。……電柱に抱きつくのだ……赤いポストに接吻するのだ。
……諸君は精神に異常を来たしたのではないか。
 ……ナニナニ……????……。
 ……「脳随で考えなくてドコで考える」というのか……。
 ……「脳随で感じなくてどこで感じる」というのか……。
 ……「われわれの精神意識はどこにある」……「われわはドウして生きている」というのか……。
 ……ナアンダ……。
  チットモ可笑しい問題ではないではないか。不思議でもなければ、奇抜でもない。きわめて平々凡々の問題ではないか。
 ……パンツの泥を払え。 
 ……シャッポを冠り直せ。
 ……クラバアツを正して聞け……。
 
われわれの精神……もしくは生命意識はドコにもない。われわれの全身のいたるところに満ち満ちているのだ。脳髄を持たない下等動物とオンナジことなんだ。
 お尻を抓ればお尻が痛いのだ。お腹が空くとお腹が空くのだ。
 すこぶる簡単明瞭なんだ。
 しかしこれだけでは、あんまり簡単明瞭すぎて、わかりにくいかもしれないから、今すこし砕いて説明すると、われわれが常住不断に意識しているところのアラユル欲望、感情、意志、記憶、判断、信念なぞいうものの一切合財は、われわれの全身三十兆の細胞の一粒一粒ごとに、絶対の平等さで、おんなじように龍もっているのだ。そうして脳髄は、その全身の細胞の一粒一粒の意識の内容を、全身の細胞の一粒一粒ごとにもれなく反射交感する仲介の機能だけを受持っている細胞の一団にすぎないのだ。

  科学者だって書いてるよ。

  心はどの場所に存在するのでしょうか。脳の中に、という答えが、現代人なら一般的でしょう。けれども、意外に聞こえるかもしれませんが、他人に、という答えも十分可能だと思うのです。(略)
  このような議論をすると、「心」の中身をそれ以上特定できていない点で、問題を先送りしていりようにみえるかもしれません。しかし、向き合った鏡の中の像のように、あるいは閉じた空間の中のこだまのように、無限に投影しあい、反響しあうのが、意識の実像です。自分と他人の間でお互いに他人を認知し合うところから、意識は発生するのであって、脳内にいきなり他から孤立した「意識の中枢」が出現するわけではないのです。

  「<意識>とは何だろうか」下條信輔

  大衆の人気者になりたい科学者が「文学」に媚びる姿は見苦しいですな。

Book 夢野久作全集〈9〉 (ちくま文庫)

著者:夢野 久作
販売元:筑摩書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤 Book 「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤

著者:下條 信輔
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年5月16日 (金)

「もう牛を食べても安心か」と「疑似科学入門」(1)

「やさしいバイオテクノロジー」で 池内了の 「疑似科学入門」が批判されている。

「疑似科学入門」(岩波新書)はニセ科学? その1 遺伝子組換え

「疑似科学入門」(岩波新書)はニセ科学? その2 BSE

私も、この本を本屋で手にしたのだが、結局買わなかった。私にとっては、池内了というのは全く魅力の感じられない書き手なのだ。
しかし、読まなくても、この本がダメな本であることは分かる。

この本の中で展開されているBSEの話題はすべてと言い切っていいくらい「もう牛を食べても安心か」(ブルーバックス)に依存しています。

福岡伸一の「もう牛を食べても安心か」については、以前少し書いたことがある。(「福岡伸一は統計学の基礎を理解していない」)。

実は、「もう牛を食べても安心か」もちゃんとは読んではいないのだが、ちょっと目を通しただけでも、これが駄本であると断言することにためらいは感じない。

駄本に依存して書いた本が駄本になるのは当たり前である。

(ところで、「もう牛を食べても安心か」はブルーバックスではなくて、文春新書ですね。ブルーバックスから出ているのは「プリオン説はほんとうか?」の方)

 以下、「やさしいバイオテクノロジー」の記述と、「もう牛を食べても安心か」に書かれていることを並べて見てみたいと思う。
福岡の文章の論理性の欠如ぶりを堪能していただきたい。


まずは、BSEのリスク分析について。

p160にもおもしろいことが書いてあります。

まずは、BSEのリスク分析について。

『アメリカの農務長官が「BSEの牛を食べてクロイツフェルト=ヤコブ病に罹るリスクは交通事故に比べて圧倒的に小さいのだから、あまり神経質になるのはおかしい」と述べたことがあった』

まっとうなリスク評価だと思うのですが、著者は『何かおかしいのではないだろうか』と疑問の投げかけています。
なんでなんかなぁ?

「もう牛を食べても安心か」の方を見てみよう。

では、リスク分析がいうところのリスクの数値化とは一体何か。それは端的にいって、死者の数である。狂牛病の問題に際して、食品安全委員会の専門調査会は、日本で汚染狂牛病肉を食べて死ぬ人間が出るとしても最大〇・九人と見積もった。これがリスクの数値化である。この数字自体、イギリスの狂牛病発生数、潜在的感染者数、日本で見逃されたかもしれない狂牛病数など極めて誤差の範囲が大きい推定数値を掛け算して求められた全くの概数でしかない。

死者の数の見積もり値が概数なのは当たり前である。
福岡は、それ以上の何を期待するのだろうか?
「極めて誤差の範囲が大きい推定数値」と言うが、その根拠は何なのか?
「極めて大きい」「誤差の範囲」とは一体どの程度の誤差なのか?
福岡は具体的な根拠は何一つ示さない。 (*2)
全ては福岡の主観的な判断でしかない。

しかし、議論はこれをもとに進むアメリカ産牛肉輸入解禁派はもっと小さい推定値を採用している)。そしていきなり、フグ毒と比較される。フグ毒に当たって死ぬ人間は、今でも年間数十人いる。それに比べると狂牛病のリスクは圧倒的に小さい。リスクの大きさからいって狂牛病はそれほど心配すべき問題ではないのだ。安全対策として危険部位の除去を行えばリスクは低減する。フグの卵巣を取り除くことと牛の特定危険部位を取り除くことは、安全対策上同じである、と。

「いきなり、フグ毒と比較」というのは、全く理解できない言い方だ。
なぜフグ毒と比較してはいけないのだろうか? (*1)
一体、福岡はBSEと何を比較すれば納得したのだろうか?

 フグ毒と狂牛病病原体が同列に扱いうる"毒"ではないことは明らかである。プリオンは可変的で可動的で増殖を行うのだ。しかし、ここで驚かざるを得ないのはリスク分析思考が不可避的に体現しているある種の感性の欠如だ。それは政治的なものが示す感性の欠如と同種のちのである。歴史性や原因をすべて捨象して死者の数を比較する。ここにリスク分析の本質が如実に現れている。

  「フグ毒と狂牛病病原体が同列に扱いうる"毒"ではない」ことは、(少なくとも私にとっては)全く「明らか」でない。(*1)
  プリオンが「可変的で可動的で増殖を行う」からといって何だと言いたいのだ?

 つまりリスク分析は極めてポリティカルな方法論なのだ。限られた予算をどのように分配するか、対立する利害をどのように調整するか。このような政治的問題を前に、本来甲乙つけがたいものに優先順位をつけ、本来線引きできないところに強引に線を引いて白黒をつける。それが政治であり、月齢で判断できる問題ではないにもかかわらず二〇ケ月齢以下の牛は全頭検査から除外してもリスクは増えないとした判断の正体がここにある。

リスク分析というのは政策を決定するための考えなのだから、「ポリティカルな方法論」なのは当たり前で、まさにそうあるべきなのだ。

「優先順位をつけ」「線を引いて白黒をつける」のが政治だというのは全く正しい。
政治の存在意義は元々そこにあるのだ。
それで、何がいけないのだろうか?

 死者の数を比較し、フグ毒と狂牛病を比較する。死者の数だけを比較して物事を論ずるのであれば、年間一万人が死ぬ自動車事故に比べてすべてのリスクはたいしたものではなくなるだろう。リスク分析はあらゆる死者をフラットな数値に浄化してしまう。しかし、フグ毒で死ぬ人と狂牛病で死ぬ人は同じではない。これは実質的に同等ではない死者である。フグはある意味で時間の試練をくぐり抜けて私たちに納得されたリスクである。対して、狂牛病は人災であり、人為的な操作と不作為によって蔓延した、全く納得できないリスクなのだ。

  一億数千万人に対して最大〇・九人ならば、自動車事故と比較するまでもなく、きわめて確率の低いものではないか?
 
また、「あらゆる死者をフラットな数値に浄化してしま」って何が悪いのだろうか? 
国民の安全に関わる政策を考える人間が、死者の数を重視するのは当たり前ではないか?

「フグ毒で死ぬ人間は昔からいるのだから、重く考える必要はない」ということだろうか?
福岡は、フグ毒で死んだ人間の家族の前で、同じことが言えるのだろうか? (*1)
 
人間が見慣れたものより未知のものの方により恐怖を覚えるのは自然なことである。
そのような性質は人間の性質が形作られた過去においては淘汰上有利だったのであろう。
だが、人間は科学によって合理的に判断する術を手にしているのだから、いつまでも原初的な感覚のみに従って判断をしているわけにはいかないのである。
個人個人が自分たちの死についてどう判断するかはともかく、不特定多数の人間のための政策を考える立場にある人間ならば、合理的な判断を第一に優先すべきなのだ。

 リスク分析は現状を受け入れてその順位づけと線引きを行うことしかできず、リスクのもつ歴史的な意味を解読する力はない。リスク分析は現状を改革する熱意もその力も待ち合わせてはいない。
 しかし、狂牛病が私たちに問いかけているものはまさにこのことなのである。いかに現状を改革し、いかに損なわれた平衡の回復を求めればいいのか、それを狂牛病は問いかけているのである。

  結局、福岡は死者の数よりも、「平衡の回復」の方に興味を持っているのだ。

  福岡が「平衡の回復」に興味を持つのは勝手だが、我々が福岡の趣味に付き合わなければならない義理はないのだ。


(追記 2008.5.16)
(*1)フグに関しては、個人が危険性を承知して食べるのだし、フグ毒に対して国が何か積極的に対策をとる必要はない。
そういう観点からすれば、「フグ毒で死ぬ人と狂牛病で死ぬ人は同じではない」と言えるかもしれない思う。
だが、BSEを「人災」扱いするのは、やはり不適切だと思し、BSEを過剰に危険視するのも不合理であると思う。

(*2)前の方のページで、いくらか根拠を述べていたので(説得力があるかは別として)、削除。

(追記 2008.5.25)
「感情と合理性 ~若干の弁明~」の方も参照ください。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2008年4月25日 (金)

聖火と非聖火のあいだ

 科学書としては異例のベストセラーとなった、「聖火と非聖火のあいだ」から引用する。
 科学者が書いたとは思えない、文学的香気溢れる文章を堪能してもらいたい。

  よく私たちはしばしば聖火を受け継ぐとき、「お変わりありませんね」などと挨拶を交わすが(交わさないか)、数秒ほど会わずにいれば、分子のレベルでは聖火はすっかり入れ替わっていて、お変わりありまくりなのである。かつて聖火の一部であった原子や分子はもうすでに聖火の内部には存在しない。

  聖火とは何か?それは受け継がれる火である。私たちは聖火をそのように定義した。
  ならば聖火はまったく不変で、ギリシャで点火されて中国に着くまで、同一な原子で構成されたまま不動なのだろうか。そうではない。その内部では常に分子と原子の交換がある。

 秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない。

 聖火とは動的平衡にある流れである。

 聖火という名の動的な平衡は、それ自体、いずれの瞬間でも危ういまでのバランスをとりつつ、同時にギリシャから中国までを一方的にたどりながら折りたたまれている。 これを乱すような政治的介入を行えば、動的平衡は取り返しのつかないダメージを受ける。
  私たちは、欽ちゃんの走りの前に跪く以外に、そして欽ちゃん走りのありようをただ記述すること以外に、なすすべはないのである。それは実のところ、あの少年の日々からすでにずっと自明なことだったのだ。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月10日 (木)

さっさと福岡批判を再開したいのだが

 以前から、この人はものすごく頭がいいなと思っていた人が『生物と無生物のあいだ』を褒めててガックリきた。もしかしたら、私は見当違いのことをやってるんじゃないか、という気がしてきた。だけど、『もう牛を食べても安心か』の方は、どう考えてもヒドイ本だと思う。
  さっさと福岡批判を再開したいのだが、その前に江原啓之の方をケリをつけないといけない。それから、正直言うと茂木健一郎のことを書くのにもウンザリしてきてるんですよね。茂木ネタもそろそろ抑制しようかな。茂木のダメさは世間も気がつき始めてるようだけど、福岡に関しては、気がついている人は少ない様だから、今後はこっちの方を優先していきたいな。
 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年3月 8日 (土)

淘汰のレベル

 久しぶりに福岡伸一ネタを。
 スティーヴ・ジョーンズの「Yの真実」の訳者あとがきから。ブライアン・サイクスの「アダムの呪い」に言及している箇所。

私はここにもまた、リチャ-ド・ドーキンスに端を発する「遺伝子の悪しき擬人化」を見ていささか食傷せざるを得ない。遺伝子に目的はなく、また淘汰も遺伝子のレベル(ましてや染色体のレベル)で起こりうるものではない。

 はて、淘汰も遺伝子のレベルで起きるのではないとしたら、一体どのレベルで起こるというのか。個体なのか、群なのか、種なのか。この書き方だと少なくとも自然淘汰自体は否定していないようだから、福岡が淘汰が起こるレベルをどのように考えているのか知りたいところだが、福岡はそこのところをハッキリ書いていないのである。(*1)
  それに、この書き方だと、まるでドーキンスが遺伝子が目的を持っていると主張しているようにも読めてしまう(福岡そんなつもりはなかったのかもしれないが)。 
  福岡はドーキンスの本の翻訳もやっているのに、どうしてこんな書き方をするのか理解に苦しむ。とにかく困った文章である。
 
(*1)他人のことを書いたので、私自身の考えをはっきりさせておくが、私はバリバリの”ドーキンス派”であって、淘汰の単位は遺伝子だと考えている。これについては、そのうちに細かい議論をしようと思っているので、それまでは議論をふっかけないでほしい。(池田○夫のブログのような不毛な議論は真っ平御免である)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月21日 (木)

福岡伸一のネタ元(3)

前に書いた、「生物学的に男と女の差異を明らかにする著書」の件ですが、どうやら、これのことのようですな。

本が好き! 2008年3月号

福岡伸一   できそこないの男たち~Yの哀しみ~

タイトルからして、”パクリ感マル出し”っていうのは、いかがなものなんでしょうか、福岡センセイ。

Yの真実 -危うい男たちの進化論
スティーヴ ジョーンズ (著)

スティーヴ ジョーンズの本とどの程度内容が違うのか(あるいは、同じなのか)、後で確認させていただきますよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月17日 (日)

青空文庫で三木清を読む

「哲學はどう學んでゆくか」より。

すでに私は明晰に考へることを學ばねばならぬと述べた。考へるといふことは、元來、明晰に考へることである。もとより哲學には深さも大切である。しかし濁つてゐるために底が見えないに過ぎぬといつた場合もあるので、深さうに見えるもの必ずしも深いとは限らず、むしろ反對であることが多い。どこまでも澄んでゐて、しかも底の知れないものが、眞に深いのである。眞の深さにはつねに豐かさがある。盡きることなく湧いて出てくる豐かさのないものは眞に深いとはいへない。この豐かさはまた廣さともなるであらう。哲學に入る者が學ばねばならぬのは、物をはつきり考へること、廣く考へることである。廣く見、廣く考へることは、獨斷や偏見とは反對のものであるべき哲學の基本的な條件である。深さに至つては、學び得るといふものではない。深さといふものは、結局、人間の偉さであると思ふ。それ以外深さうに見えるものはペダントリ乃至センチメンタリズムに過ぎぬ。深さといふものは學問を媒介とする學問以上の人間修業によつておのづから出てくるものである。單なるペダントリ乃至センチメンタリズムに過ぎぬいはゆる深さに迷はされることなく、それを突き切つてゆくところに哲學的精神がある。明晰な書物はつねに有益であるが、深さうに見える書物は學問にとつて有害なことが多い。眞の深さについていへば、哲學することは眞の人間になることである。そしてすべての人間がめいめい獨自のものであるやうに、深さもそれぞれ獨自のものである。一般的な深さといふものを私は信じない。もし何かそのやうなものがあるとすれば、それは明晰に直觀され、明晰に思考され得るものでなければならぬ。

 茂木健一郎と福岡伸一批判として使えるな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月13日 (水)

中央公論 3月号

 特集「新書大賞ベスト30」。「全国紙三紙(『読売新聞』『朝日新聞』『毎日新聞』)書評委員11名、主要な新書の編集部から13名、大手書店の新書担当者6名、計30名に一人三冊ずつ挙げていただいた結果」、大賞は福岡伸一の『生物と非生物のあいだ』になりましたとさ。フーン。
  まあ、それはどうでもいいのだ。問題は福岡伸一の受賞インタビューだ。
 
  -福岡さんご自身は新書をお読みになりますか。
  福岡 新書は昔から好きですよ。中公新書でいえば、清水博さんの『生命を捉えなおす』は、大学に入ったころ読んで、画期的な生命論だと思いました。(略)
 
  イヤハヤ、驚きましたね。何で驚いたかっていうと、この本は、私が福岡伸一批判をしたときに、『生物と非生物のあいだ』に書いたあるようなことはとっくの昔に書かれているということの例証として挙げた本だったからだ。
  再度、『生命を捉えなおす』から引用する。

   結晶の形態が最も安定なのは、その構成要素である原子や分子の位置ができるかぎり動かないときですが、このことは生体の形態には当てはまりません。生体の形態は、生体を構成している原子や分子が運動したり、反応したり、入れ替わったりすることができるときだけ、すなわち生体が生きているときだけ、安定であるからです。この理由から結晶構造が持っているような秩序を静的秩序と名づけたのに対して、生体の形態にみられるような秩序を動的秩序と呼ぶことにしましょう。
  ここで、これまで考えてきたことをまとめてみましょう。
  (1)生きている状態は、特定の分子や要素があるかないかということではなくて、多くの分子や要素の集合体(マクロな系)が持つ、グローバルな状態(相)です。
  (2)生きている状態にある系は、高い秩序を自ら発現し、それを維持する能力を持っています。
  (3)その秩序は結晶にみられるような静的秩序ではなく、動的秩序であり、これから説明していくようにその秩序を安定に維持するためには、エネルギーや物質の絶えざる流れを必要としています。
「生命を捉えなおす」清水博 1978  p98

 ホラね、『生物と非生物のあいだ』と一緒でしょ。福岡は、この本を読んで「画期的な生命論だと思」ったくせに、『生物と非生物のあいだ』では、そんなことはオクビにも出さずに、さも目新しいことでも主張しているかのような書き方をしていたのだ。マッタク、呆れるね。
  ついでに言うと、同じ特集で、永江朗、宮崎哲弥、渡邊十絲子の座談会をやっているのだが、これがまたヤバイ。

  宮崎 福岡さんは教養人だし文章家だから。日本のスティーヴン・J・グールドでしょう。当人に「グールドみたいな科学随想を書きなよ」って言ってたんですよ。(略)

  気の毒なグールド。福岡伸一と一緒にされちゃいました。まあ、確かに文章が少々しつこくて冗長に流れるきらいがあるところは共通してますけどね。それにしたって、グールドと福岡じゃあ、教養のレベルが違うんじゃないかと思うのだが。
  それにしても、気がついたら「中央公論」っておそろしいことになっちゃってるな。何しろ、茂木健一郎と竹内薫が連載を持ってて、特集では福岡伸一と宮崎哲弥が登場だ。実にコウバシイ。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年2月 3日 (日)

福岡伸一のネタ元(2)

 福岡伸一がラジオで「生物学的に男と女の差異を明らかにする著書を執筆中」と語ったらしいのですが...。
  福岡先生、そ、それって、先生が翻訳したスティーヴ ジョーンズの「Yの真実-危うい男たちの進化論」では...。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月 2日 (土)

福岡伸一のネタ元

 福岡伸一批判のために色々調べているうちに思ったのだが、この人は案外、持ちネタが少ないのではないのだろうか。
  「もう牛を食べても安心か」の第五章で、マコーネルのプラナリアを使った記憶の移植実験を採り上げているのだが、流れ的にも唐突だし、論理的にもかなり無理がある書き方で、何でこの話題を採り上げたのだろうかと首をひねっていたのだが、福岡の翻訳したH・コリンズ T・ピンチ著「七つの科学事件ファイル」に目を通したら疑問が氷解した。この本の第一章でマコーネルの実験にまつわる騒動が採り上げられていたのだ。
  結局、自分が翻訳した本からネタを持ってきているわけだ。そうすると、「生物と無生物のあいだ」のキャリー・マリスのPCRのエピソードは「マリス博士の奇想天外な人生」からだろうし、ロザリンド・フランクリンのエピソードは「ダークレディと呼ばれて 二重らせん発見とロザリンド・フランクリンの真実」からだろう。
  野口英世については、何が元ネタなのか分からないが、なんにしろネタとしては珍しいものではない。「動的平衡」はシェーンハイマーが「元ネタ」だし、結局、福岡独自のネタは、マウスのGP2ノックアウト実験だけである。しかし、これは結局、失敗した実験に過ぎないわけで、「失敗した実験」が持ちネタの科学者って、どうよ、という気がする。
  福岡先生も、このままメディアの人気者でいたいのなら、茂木健一郎みたいに、「クオリア」だけでなく「aha!体験」だとか「セレンディピティ」だとか「脳が活性化」だとか、分かりやすい持ちネタを増やしたほうが良いのではないか、って何アドバイスしてるんだ、私は。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

「福岡伸一批判」前編終了

 と言うわけで、「福岡伸一批判」の前編が終了したわけですが、さて。
私の言いたかったことは、どれだけ伝わってるんですかね。私の心の耳には「コイツ、なんでこんな重箱のスミをつつくようなこと書いてるんだ?」という読者の声が聞こえるんですが。「動的平衡という言葉はベルタランフィが使っていた」とか「シェーンハイマーは忘れられた科学者ではなかった」とかいうのは枝葉末節であって、私が言いたいのは、福岡の書き方には一定方向へのバイアスがかかっている、ということなので、そのあたり、意を汲んでほしいと思うわけです。
 まあ、私がここでどんなに批判しても無駄だと思いますけどね。向こうは何しろベストセラーですから。茂木健一郎だって、もう10年以上も、クオリア、クオリアと何の中身もないことを大声でわめき続けて、それで世間には受け入れられているわけですから。福岡先生も「動的平衡!」と言い続ければ、後10年くらいは商売できますよ。お笑い芸人の持ちギャグみたいなもんです。
  とりあえず、世間に何の影響も与えられなくても、私は書きたいことを書きますよ。そうしないと気持ち悪いから。
  「福岡伸一批判」中編以降は遅くても今月中に公開する予定です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月 1日 (金)

福岡伸一批判 「生物と無生物のあいだ」を中心に(4)

4.シェーンハイマーは忘れられた科学者なのか

 「動的平衡」について更に検討する前に、福岡によるシェーンハイマーの扱いについて検討してみよう。
 先に引用した文章からも分かるように、「生物と無生物のあいだ」の中では、「動的平衡」という言葉はシェーンハイマーが生み出したものとしては書かれていない。シェーンハイマーの「生命の動的な状態(dynamic state)」という概念を「拡張」して、福岡が作り出したということになっている。
 奇妙なことに、これに関する福岡の記述は変化している。 「生物と無生物のあいだ」以前の福岡の著作「もう牛を食べても安心か」(2004)では、「動的平衡」という言葉はシェーンハイマー自身の言葉として扱われているのだ。

【引用】
 シェーンハイマーは、この事実に、身体の「動的平衡」という素敵な名前をつけた。
「もう牛を食べても安心か」 p62
【引用おわり】

【引用】
 生体を構成している分子はすべて高速に分解され・・・(略)。
  これを彼は"動的平衡"と呼んだ。
「もう牛を食べても安心か」  p14
【引用おわり】

「もう牛を食べても安心か」の2005/11/20付けのamazonのレビューでは、シェーンハイマーは一度も自分の説を「動的平衡」と呼んだことはないことが指摘されている。福岡は他から指摘されて「動的平衡」という言葉の扱いを変えたのだろうか。
 これだけならば、単に福岡が前著では勘違いしていて「生物と無生物のあいだ」で訂正した、と解釈できるかもしれない。だが、シェーンハイマーの業績の受容に関する福岡の記述については、さらに深い疑念を抱かざるを得ない。福岡はシェーンハイマーを「忘れられた科学者」のように描いているが、シェーンハイマーは本当に「忘れられた科学者」なのだろうか。福岡がどのように記述しているか見てみよう。

【引用】
このシンプルな、しかし転換的な生命観を私たちが本当の意味で発見したのはそれほど昔のことではない。私たち、という言い方はもちろん公平ではない。この事実を精密な実験で、つまりマクロな現象をミクロな解像力をもって証明したのは、ルドルフ・シェーンハイマーという人物であり、それがなされたのは1930年代後半のことだった。つまり私たちは、全く新しい生命観に遭遇してからまだたった七十年程度を経たにすぎず、しかも彼が明らかにしたものの意味を十分咀嚼できたわけでもない。むしろ私たちは彼の名と業績を忘れかけさえしているのだ。
(p154)
【引用おわり】

「もう牛を食べても安心か」では、 もっとはっきりシェーンハイマーを「忘れられた科学者」として描き出している。

【引用】
 シェーンハイマーはそれを『発見』した。それは、生物学史上のコペルニクス的革命であった。あるいは人間観の転回点といってもよい。生命がはかないものであることはずっと人間が知っていたことである。シェーンハイマーは分子のレベルでそれを証明したのである。なのに、彼は、ノーベル賞はおろか褒章と名のつくようなものは何も得ることはなく、この発見後、自ら命を絶ってこの世を去った。そして彼の発見は等閑にふされ、今では生物学のテキストにその名を見つけることはない。
「もう牛を食べても安心か」  p56
【引用おわり】
 
【引用】
  シェーンハイマーの生い立ちを知る資料はほとんどない。斬新な方法を導入することによって、生命科学にコペルニクス的転換をもたらし、私たちの生命観を一変させたこの人物は百科事典はおろか、生化学の専門書や辞書にもその名を見つけることはできない。ノーベル賞はもちろん化学的な褒章にも一切浴していない。十分過ぎるほどの資格があったのに、彼があまりにも生き急いだためである。
「もう牛を食べても安心か」  p70
【引用おわり】 

 しかし、福岡の書いていることはあまりにも不自然だ。このような科学的発見をした人物が「生化学の専門書や辞書にもその名を見つけることはできない」ということがありえるのだろうか。福岡の書いていることは本当なのか。
 試しに手元にあったアシモフの「科学技術人名事典」(共立出版株式会社)を調べてみると、シェーンハイマーの名前と業績はちゃんと記載されていた。それでは、と思い同じアシモフの「アイザック・アシモフの科学と発見の年表」(丸善株式会社)を調べてみると、「同位体トレーサー」の項にシェーンハイマーの名前を見つけることができた。さらに、「アシモフ選集 生物編1 生物学小史」にもシェーンハイマーの名前がでてくる。また、後に引くように、ベルタランフィの「一般システム理論」にも見つけることができた。つまり、私の手持ちの本だけでも4冊でシェーンハイマーの名前を見つけることができたのである。
 現在でも入手が容易な「アイザック・アシモフの科学と発見の年表」から、「同位体トレーサー」の項を引用しよう。

【引用】
 ヘヴェシーは、生化学の研究で初めてトレーサーとして放射性元素を利用した。(略)
  ドイツの生化学者シェーンハイマー(Schoenheimer,1898-1941)は、ユーリーから大量の水素-2を手に入れ...(略)
  この同位体濃縮脂肪がネズミに餌として与えられた。(略)そして1935年までには、驚くべき結果を引き出していた。(略) 
(略)シェーンハイマーは、同位体濃縮脂肪をネズミに餌として与えたとき、その与えた脂肪の半分は蓄えられた脂肪の中に発見したのである。これは換言すれば、摂取された脂肪が蓄積され、蓄えられていた脂肪が使われていたことを意味する。そこには速い代謝回転があり、身体の構成成分は静的なものではなく、定常的にそして動的に変化しているのである。
(略)
【引用おわり】

さらに図書館で調べてみると、以下の2冊でシェーンハイマーの名前を見つけることができた。

 「科学者人名事典」John Daintith,Sarah Mitchell,Elizabeth Tootil,Derek Gjerten 丸善株式会社

 「世界科学者事典 2 化学者」デービッド・アボット編 日本語版監修 伊東俊太郎 原書房

その中の記述から一部引用してみよう。

【引用】
かくして彼は、体内の化合物分子の多くは、常に分解され組み立てられているという事実を確立した。彼はこの発見を『体内構成分子の動的な状態』The Dynamical State of Bodily Constitutentsという本に要約した。   
「世界科学者事典 2 化学者」デービッド・アボット編 日本語版監修 伊東俊太郎 原書房
【引用おわり】

 ネット上ではどうかと調べてみると、日本語版のWIKIPEDIAでは見つけることができなかったが、英語版のWIKIPEDIAには、ちゃんとシェーンハイマーの項目が立てられている。

http://en.wikipedia.org/wiki/Rudolf_Schoenheimer

その記述を読んでみると、 Encyclopaedia BritannicaのDeluxe CDROM editionにもシェーンハイマーの項目があるようである。
 福岡はシェーンハイマーがノーベル賞を受賞できなかったことを強調しているが、これはとくに不思議なことではないだろう。ノーベル賞の受賞資格では「本人が生存中」というのが条件であり(例外はあるが)、シェーンハイマーが自殺したのは発見の6年後である。ワトソンとクリックがDNAの二重らせんの発見ですら、ノーベル賞を与えられたのは発見の9年後なのである。
  公平を期するために書いておくが、シェーンハイマーがアメリカの生物学で無視される傾向があったということはある程度は事実かも知れない。ベルタランフィは以下のように書いている。

【引用】 
  以上のような例をあげたのは、同位元素トレーサーを用いてシェーンハイマー(Schoenheimer,1947)とその一門が「体の構成分の動的状態」に関する基礎研究をおこなって以後、この分野がアメリカ生物学では奇妙に無視されているからである。すなわち、この国の生物学は、サイバネティクスの概念の影響を受けて、むしろ細胞や生物体の機械概念に戻ってしまい、したがって開放システムの理論が与える重要な諸原理を無視してきたのである。
「一般システム理論」フォン・ベルタランフィ  p155
【引用おわり】

とは言え、「百科事典はおろか、生化学の専門書や辞書にもその名を見つけることはできない」というのは、上で見たように(意識的なものかどうかはともかく)明らかに虚偽である。
 こうして調べてみると、福岡の記述においては、シェーンハイマーに対して「悲劇の天才」という劇化がなされていると言わざるを得ない。シェーンハイマーの名は、「同位体トレーサーを使用した生体構成物質の入れ替わりの発見者」としては忘れられてなどいないのだ。福岡の言う「全く新しい生命観」の発見者としてシェーンハイマーの名が出てこないのは、ベルタランフィのように、同様な認識を先に提出し体系的に論じた人間がいたからであろう。
  ここでも、福岡は実状を歪めて描き出しているのだ。
 
  ここでひとまず、ここまでの結論をまとめてみよう。

  結論:
  福岡は「生物と無生物のあいだ」において、関連する学説や人物を公平に扱っていない。福岡は、自分の意図したストーリーを作り上げるために、(意識的にか無意識にか)偏った視点から歪んだ描写を行っている。
 
 
  この後の節では、福岡が「生物と無生物のあいだ」の中で展開している「論理」について検討してみよう。

Book アイザック・アシモフの科学と発見の年表

著者:アイザック アシモフ
販売元:丸善
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年1月31日 (木)

福岡伸一批判 「生物と無生物のあいだ」を中心に(3)

3.「動的平衡」という言葉について

 ここで「動的平衡」という言葉について、もう少し調べてみよう。
 福岡の言う「動的平衡」とは、生命の特質を実現する生命固有のメカニズムであり、シェーンハイマーの発見した生体の構成成分の絶えざる入れ替わり(シェーンハイマー自身の言葉では「身体構成成分の動的な状態」)である。
このような概念を最初に提唱したのは誰だろうか。私は、一つの候補としてルートヴィッヒ・フォン・ベルタランフィ(1901-1972)の名を挙げたいと思う。
 ベルタランフィは、漁獲予想のための「ベルタランフィ成長方程式」、癌早期発見のための「ベルタランフィ・メソッド」などで知られる生物学者であるが、生物学の分野を越えた活躍をした人物であり、「一般システム理論」の創始者でもある。「一般システム理論」とは、システム一般に共通した法則を探し出し、科学統合を図ろうとする分野である。
 M・デーヴィッドソンによる評伝「越境する巨人 ベルタランフィ」(原著1983)には、以下のような記述がある。

【引用】
 ベルタランフィは、生命の謎に取り組むなかで生物を開放システムと規定した。彼はそのような結論に達した科学者の一人である。開放システムとは、従来の物理的、化学的限界をはみ出して機能するシステムである。彼は、この言葉を一九三二年に出版された「理論生物学」第一巻で初めて使い、自己を取り巻く環境との間で物質とエネルギーを継続的に交換することで、動的状態を維持するシステムと定義した。 (略)
「越境する巨人ベルタランフィ」M・デーヴィッドソン p98
【引用おわり】 

ここで書かれている「開放システム」が、福岡の言う「動的平衡」と同様なものであることは明らかだろう。年代の記述に注目してもらいたい。ベルタランフィが「開放システム」という言葉を使ったのは1932年、シェーンハイマーの発見は1935年である。ベルタランフィの方がシェーンハイマーの発見に先行しているのである。
 さらに、同書の記述を見てみよう。

【引用】
 生物学の分野では、ベルタランフィは開放システムの先駆者でありつづけた。細胞から生物圏に至る生物のあらゆるレベルで、彼は開放システムが「絶え間ない物質の流れ」によって維持されているのを見てきた。この点では、ギリシャの哲学者エペソス王家の出のヘラクレイトス(紀元前およそ540-480)を頻繁に引用して、「あらゆるものは流れの中にある.......。同じ川に二度足を踏み入れることはできない。新たな水が絶えず自分に向かって流れているからだ」と言っている。さらに彼は、生命は単に流れのなかにあるというヘラクレイトス的イメージを、生命は流れそのものであると主張することによって、人間認識の範囲まで広げようとした。「生命の形態は単に存在しているのではなく、成るのだ。生物とは、生物を構成し同時に生物を通過している物質とエネルギーの無限の流れの表現である」と書いている。
「越境する巨人ベルタランフィ」M・デーヴィッドソン p100 
【引用おわり】

【引用】
  余談だが、母国語のドイツ語で論文を書きながら、この生物の定常状態という概念を提唱したとき、彼は長たらしいフリースグライヒゲヴィヒト(Fliessgleichgewicht 流動平衡)という言葉を作りださねばならなかった。彼は、従来の物理的化学的平衡状態の受動的性格とは異なる、定常状態の能動的な正性格を明らかにするためにこの新しい言葉が必要だと考えた。
「越境する巨人ベルタランフィ」M・デーヴィッドソン p101
【引用おわり】

ベルタランフィ自身の著作からも引用しよう。

【引用】
(略)それゆえ、たえず連続的に仕事ができる能力は、できるだけすみやかに平衡に達してしまおうとする傾向のある閉鎖システムにおいてはありえず、開放システムにおいてだけありうる。生物体に見いだされるみかけ上の「平衡」は仕事のできない真の平衡ではない。それは真の平衡から一定の距離をつねに保っている動的平衡である。それゆえ仕事をすることはできるが、他方、真の平衡から距離を保つためにエネルギーの流入をたえず必要とする。
「一般システム理論」フォン・ベルタランフィ p123
【引用おわり】

【引用】
生きている細胞と生物体は、多少とも永続的な「構築材料物質」からなっていて、その中で「エネルギー産生物質」がこわされて生命過程のエネルギー要求を満たしているというふうな、静的なパターンないし機械類似の構造ではない。それはいわゆる構築素材物質もエネルギー産生物質も(古典生理学でいう建築物質と駆動物質bau-and Betriebsstoffe)ともにこわれてはまた作られるような連続過程である。しかしこの連続的なたえまない崩壊と合成はよく調整されていて、細胞と生物体はいわゆる定常状態(流動平衡Fliessgleichgewicht, von Bertalanffy)の中でほぼ一定に保たれる。これが生物システムの一つの根本的神秘である。代謝、成長、発生、自己調節、増殖、刺激-反応、自律的な活動などのような他の全ての特徴は結局のところこの基本的な事実からの結果である。
「一般システム理論」フォン・ベルタランフィ p151
【引用おわり】

上の文章で書かれているのが、福岡が繰り返し強調する「秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない」という認識と同じものだということは、容易に見て取れるだろう。
 ベルタランフィの「一般システム理論」の邦訳書の中では、「流動平衡」と「動的平衡」という二つの単語を見つけることができる。「動的平衡」に対応するドイツ語が分からないので、二つが同じ言葉であるのか確認できなかったのだが、どちらにせよ、この二つが同じ意味合いで使われていることは明らかである。前節で引用した文章の中では、福岡は、シェーンハイマーの「生命の動的な状態」という概念を「拡張」して、福岡自身が「動的平衡」という新たに作り出したかのように書いているが、すでにベルタランフィがこの言葉を使っていたのである。もちろん、上に引用した文章からも分かる通り、ベルタランフィは自身の唱える「動的平衡」が「真の平衡ではない」ということを知っているのである。
 「生物と無生物のあいだ」と他の著作との比較をもう一つ。

【引用】
よく私たちはしばしば知人と久闊を叙するとき、「お変わりありませんね」などと挨拶を交わすが、半年、あるいは一年ほど会わずにいれば、分子のレベルでは我々はすっかり入れ替わっていて、お変わりありまくりなのである。かつてあなたの一部であった原子や分子はもうすでにあなたの内部には存在しない。
(p162)
【引用おわり】

「生物と無生物のあいだ」では、上の部分が読者に受けたようだが、同じようなことは、前に挙げたベルタランフィの評伝書の中でも書かれていてる。

【引用】
さらに「定常状態」は、開放システムが単に流動状態にあるのではなく、流動そのものであることを意味する。その結果、一般意味論学派が使う便利な記述法を借りれば、フランス人Aはフランス人Bではないばかりか、昨日のフランス人Aは今日のフランス人Aであるとは限らない、と言うことになる。
「越境する巨人 ベルタランフィ」M・デーヴィッドソン P154
【引用おわり】

全く別な本からも似たような記述を見つけ出すことができる。脳の情報処理の研究者D.M・マッケイの著作から見てみよう。

【引用】
低いレベルでは、私たちの細胞や他の脳構造を作る分子は、私たちのアイデンティティに影響なく生涯のうちには何度も入れ替わるわけですから、この種の独立性は一層明白です。このレベルで変化する具体にかかわらず連続性が保たれるというのは、川に似ています。ギリシヤ人が言ったように、内容はつねに変わりながら川はいつも同じ川です。
  おかしなことと言って
    これほどおかしなことはない
    何を食べても
    T嬢はT嬢になる
   
    (註・Walter de la Mare の "Miss T"より)
   
「ビハインド・アイ」D.M.マッケイ p349
【引用おわり】

 ベルタランフィ以外で、「動的平衡」と同様な概念を提唱した人物として、アメリカの生理学者W・B・キャノン(1871-1945)が挙げられる。キャノンの「からだの知恵」(1932)から引用してみよう。

【引用】 
  われわれのからだの構造がきわめて不安定であること、きわめてわずかな外力の変化にも反応すること、そして、好適な環境条件が失われたときに、その分解がすみやかに始まることを考えると、それが何十年にもわたって存在し続けることは、ほとんど奇跡的なことであるように思われる。
  この驚きは、からだが外界と自由な交換をしている開放的な系であり、構造そのものは永久的なものでなく、つねに消耗され破壊され、修復の過程によって絶えず築き直されているのだということを知ったとき、さらに強いものとなる。
  「からだの知恵」W・B・キャノン p22
【引用おわり】 

【引用】 
  さらに、1900年フランスの生理学者、シャルル・リシェは、この驚くべき現象を強調してつぎのように述べた。
  「生物は、安定なものである。それを取り囲んでいる巨大な、そしてしばしば生物にとっては不利な力によって破壊され、分解され、あるいは崩壊してしまわないよう、生物は整然と秩序だてられていなければならない。一見矛盾するようだが、生物は刺激に反応しやすく、外部からの刺激に応じて自身の体を変化させ、その反応を与えられた刺激に適応させる能力を持つことによって、はじめてその安定性を保っている。ある意味では、生物は、変化しうるがゆえに安定なのである-なにほどかの不安定性は、個体の真の不安定性は、個体の真の安定性のための必要条件である。
  「からだの知恵」W・B・キャノン p24
【引用おわり】

【引用】 
  からだのなかに保たれている恒常的な状態は、平衡状態と呼んでよいかもしれない。しかしこの用語は、既知の力が平衡を保っている比較的簡単な、物理化学的な状態、すなわち、閉鎖系に用いられて、かなり正確な意味を持つようになっている。
  生体のなかで、安定した状態の主要な部分を保つ働きをしている、相互に関連した生理学的な作用は、ひじょうに複雑であり、また独特なもので(略)私はこのような状態に対して恒常状態(ホメオステーシス homeostasis)という特別の用語を用いることを提案してきた。
  この用語は、固定し動かないもの、停滞した状態を意味するものではない。それは、ある状態-変化はするが相対的に定常的な状態-を意味するものである。
  「からだの知恵」W・B・キャノン p28
【引用おわり】

 要するに、福岡の書いているようなことは、生物学の知識の乏しい文系の読者には新鮮なものに感じられただろうが、理系の読者にとっては全く目新しいものではなかったのである。「生物と無生物のあいだ」が理系の読者からは厳しい評価を受けている理由がこれで分かるだろう。   
 「動的平衡」について書いたのがベルタランフィが最初かどうかは分からない。ベルタランフィ以前にも同じようなことを書いているものがあるかも知れないが、それについてはここではこれ以上議論しない。私は、ベルタランフィの再評価などを意図しているわけではない。単に私の知識の範囲内にたまたまベルタランフィの名前があったというだけのことだ。ここでのポイントは、シェーンハイマー以前に、「動的平衡」に類する概念を提出した人間が存在したということなのである。

越境する巨人 ベルタランフィ―一般システム論入門 Book 越境する巨人 ベルタランフィ―一般システム論入門

著者:マーク デーヴィドソン
販売元:海鳴社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

Book 一般システム理論―その基礎・発展・応用

著者:ルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィ
販売元:みすず書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

からだの知恵―この不思議なはたらき (講談社学術文庫 (320)) Book からだの知恵―この不思議なはたらき (講談社学術文庫 (320))

著者:舘 鄰,舘 澄江,W.B.キャノン
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月30日 (水)

福岡伸一批判 「生物と無生物のあいだ」を中心に(2)

2.「動的平衡」とは何か

「生物と無生物のあいだ」は、どのような書物なのか。同書のプロローグから、福岡自身の説明を見てみよう。

【引用】
 私は先ごろ、シェーンハイマーの発見を手がかりに、私たちが食べ続けることの意味と生命のあり方を、狂牛病禍が問いかけた問題と対置しながら論考してみた(「もう牛を食べても安心」文春新書、2004)。この「動的平衡」論をもとに、生物を無生物から区別するものは何かを、私たちの生命観の変遷をとともに考察したのが本書である。
【引用おわり】

この記述からも分かるように、「生物と無生物のあいだ」の中心となるのは「動的平衡」という概念である。(同書の1章から8章までは、同書のテーマとは関係の薄い、生物学の裏面史ともいうべきエピソードの記述が中心なので本稿では議論せず、9章以降を議論の対象とする。)
では、「動的平衡」とは何か。まず、これから検討してみよう。
 福岡は、生命の本質とは何かという議論を、シュレーディンガーの古典的著作「生命とは何か」(1944)の紹介から始める。増大するエントロピーに抗するために、生物体は、周囲の環境から負のエントロピーを取り込み、自分自身が作り出したエントロピーの増加分を相殺し、低いエントロピー状態に保っている。シュレーディンガーは、これを、生物は「負のエントロピ-」を食べて生きている、と表現した。だが、シュレーディンガーは具体的な仕組みを提出することはできなかった。ここまでの記述は特に問題はないだろう。
 福岡独自の説明となるとなるのは、これ以降の記述である。生命の特質を実現する生命固有のメカニズムの意味と機構を明らかにしたのは、シェーンハイマーの発見である。重水素をトレーサーとしたネズミの実験で、それまでは使用されるまでは体内に蓄積されていると思われていた脂肪が絶えず入れ替わっていることを発見した。シェーンハイマーは、このような身体の構成成分の入れ替わりを「身体構成成分の動的な状態」( The Dynamical State of Body Constitutents)と呼んだ。
(以降の引用文は、特に断らない限り、「生物と無生物のあいだ」からのものである。)

【引用】
現在、私たちは、脳細胞のDNAでさえも不磨の大典でないことを知っている。脳細胞は発生時に形成されると一生の間、わずかな例外を除き、分裂も増殖もしないとされている。つまりここにはDNAの自己複製の機会はない。
 ならば脳細胞のDNAはまったく不変で、ヒトが生まれてから死ぬまで、同一の原子で構成されたまま不動なのだろうか。そうではない。脳細胞のDNAを構成する原子は、むしろ増殖する細胞のDNAよりも高い頻度で、常に部分的な分解と修復がなされている。(略)
  DNAの発見者であるオズワルド・エイブリーも、その構造を解き明かしたジェームズ・ワトソンとフランシス・クリック、そしてロザリンド・フランクリンも十分に意識していなっかたDNAの動的な姿がここにある。原子の乱雑なふるまいと秩序の維持を考え続けたエルヴィン・シュレーディンガーの省察もその地点には達していなかった。ただひとり、ルドルフ・シェーンハイマーだけがその秘密を感得することができた。
  秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない。
 (p165)
【引用おわり】

【引用】
 エントロピー増大の法則は容赦なく生体を構成する成分にも降りかかる。高分子は酸化され分断される。集合体は離散し、反応は乱れる。タンパク質は損傷をうけ変性する。しかし、もし、やがては崩壊する速度よりも早く、常に再構成を行うことができれば、結果的にその仕組みは、増大するエントロピーを系の外部に捨てていることになる。
 つまり、エントロピー増大の法則に抗う唯一の方法は、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろその仕組み自体を流れの中に置くことなのである。つまり流れこそが、生物の内部に必然的に発生するエントロピーを排出する機能を担っていることになるのだ。
 私はここで、シェーンハイマーの発見した生命の動的な状態(dynamic state)という概念をさらに拡張して、動的平衡という言葉を導入したい。この日本語に対応する英語は、dynamic wquilibrium(ダイナミック・イクイリブリアム)である。海辺に立つ砂の城は実体としてそこに存在するのではなく、流れが作り出す効果としてそこにある動的な何かである。私は先にこう書いた。その何かとはすなわち平衡ということである。  自己複製として定義された生命は、シェーンハイマーの発見に再び光を当てることによって次のように再定義される。
 
生命とは動的平衡にある流れである。
 
  (p167)
【引用おわり】

これが、「動的平衡」に関する福岡の説明である。
 しかし、いくらかでも熱力学や化学の知識を持つものなら、福岡の「平衡」という言葉の使い方に疑問を持つだろう。
熱力学的な意味での「平衡」とは何か。それは、エントロピーが最大に達した状態、熱力学的な駆動力がゼロの状態である。これは、生物で言えば死んだ状態のことである。これでは、福岡の「動的平衡」とは合わないだろう。
 それでは、化学的な意味での「平衡」とは何か。化学では、化学平衡のことを動的平衡と呼ぶ場合がある。化学平衡とは、反応は起こり続けているが、進行する反応と逆向きの反応とがまったく同じ速度で起こっているため、系の化学的性質に変化が起こらない状態である。つまり常に動いていながら、どこにも変化していかないという状態である。(*1)これは一見福岡の「動的平衡」と同じものに思えるが、落ち着いて考えれば似て非なるものだと分かる。生体内における化学反応は、多くの場合一方向に進んでいるのであり、状態が変わらないように見えるのは、物質が外から流れ込んでくるからである。このような状態は、通常、「平衡」とは呼ばず、「定常状態」という。
 熱力学的な平衡でも化学的平衡でもないとすれば、福岡の言う「動的平衡」とは一体何なのか。注意深く読んで見ると、福岡は「動的平衡」という言葉を明確に定義していないことに気づく。再度、福岡の文章から引用してみよう。
「海辺に立つ砂の城は実体としてそこに存在するのではなく、流れが作り出す効果としてそこにある動的な何かである。(略)その何かとはすなわち平衡ということである」
非常に曖昧である。「動的平衡」とは、「流れが作り出す効果」であり「動的な何か」であるということなのだが、その「効果」や「何か」とは一体何なのか。「その何か」を「平衡」という言葉に置き換えたところで何の説明にもなっていない。福岡の言う「動的平衡」は 熱力学的な「平衡」にも、化学的な「平衡」にも正確には当てはまらない。単に、体を構成する物質が出入りしていることを「平衡」と呼んでいるように見える。
 実は、エントロピ-を外部に排出するということ、福岡の言葉では「動的平衡」は、熱力学的には「平衡」ではなく「非平衡」なのである。散逸構造理論によりノーベル化学賞を受賞したプリコジンは、「開放系の非平衡状態」から動的秩序が生み出されることを明らかにした。

【引用】
 平衡から遠く離れた条件のもとでは、われわれの観察する構造は、コンプレクション数の最大に対応しないという意味で、ボルツマンの秩序原理の根底にある確率の概念は、もはや成立しない。そればかりか、平衡から遠く離れた条件は、自由エネルギーF=E-TSの最小にも関係付けることができない。均質化し、初期条件を忘れようとする傾向は、もはや一般的な性質ではない。この文脈では、生命の起源という古くからの問題に、今までとは異なる光があてられる。確かに、生命はボルツマンの秩序原理とは相容れないが、平衡から遠く離れた条件化で起こりうるような振舞いとなら相容れなくもない。
  (中略)
  このように、系と外界との相互作用、つまり非平衡状態に系をおくことこそ、物質が新しい動的状態-散逸構造-を形作る出発点となる。
  「混沌からの秩序」I・プリコジン/I・スタンジェール p204
【引用おわり】

物理学や生物学の分野では、「非線形非平衡系」や「自己組織化」といった言葉で、自然界に見られる動的な秩序について広く議論されている。 (誤解のないように書いておくが、「非線形非平衡系」に含まれるのは生物だけではない。)この分野では、プリコジン、アイゲン等の先駆的な研究が有名である。日本では清水博、蔵本由紀などの名が挙げられるだろう。両者の著作から引用しよう。

【引用】
 結晶の形態が最も安定なのは、その構成要素である原子や分子の位置ができるかぎり動かないときですが、このことは生体の形態には当てはまりません。生体の形態は、生体を構成している原子や分子が運動したり、反応したり、入れ替わったりすることができるときだけ、すなわち生体が生きているときだけ、安定であるからです。この理由から結晶構造が持っているような秩序を静的秩序と名づけたのに対して、生体の形態にみられるような秩序を動的秩序と呼ぶことにしましょう。
  ここで、これまで考えてきたことをまとめてみましょう。
  (1)生きている状態は、特定の分子や要素があるかないかということではなくて、多くの分子や要素の集合体(マクロな系)が持つ、グローバルな状態(相)です。
  (2)生きている状態にある系は、高い秩序を自ら発現し、それを維持する能力を持っています。
  (3)その秩序は結晶にみられるような静的秩序ではなく、動的秩序であり、これから説明していくようにその秩序を安定に維持するためには、エネルギーや物質の絶えざる流れを必要としています。
「生命を捉えなおす」清水博 1978  p98
【引用おわり】

【引用】
単調な坂道の途中にやや複雑な迂回路や起伏構造を作ってエネルギーの流れを制御し、そこに秩序だった運動を実現するようなシステムは、振り子時計以外にもいろいろあります。次章以後でもその多くの例を示します。それらは、外部からもらった分だけのエネルギーを放出し、発生したエントロピー分と等量のエントロピーを排出する非平衡開放系です。ごく大まかに見れば、そうした点では、本物の生きものも時計と共通した装置であるといえます。生物をこのような非平衡開放系として明確にとらえた人として、量子力学の創始者の一人エルヴィン・シュレディンガーが挙げられます。もちろん、生物は進化によって獲得された途方もなく複雑精妙な「起伏構造」をもっていますから、デカルトが考えた動物機械のようなものとはわけが違いますが。そして、この起伏構造の詳細についての膨大な知識を今日の生物学は蓄積しています。
「非線形科学」蔵本由紀 2007   p47
【引用おわり】

(福岡は「週刊現代」の「'07年「私の選ぶ年間ベスト3」」という記事で、上に挙げた蔵本由紀の「非線形科学」を選んでいる。福岡のコメントは次のようなものである。「生命とは絶え間なく交換される分子の流れにすぎないと考える私が、なぜ秩序を維持できるのか。それを解く鍵がある。」(どうでもいいことだが、この文章は主語と述語の関係がねじれてしまっていて変である)福岡は、非線形科学について本書を読むまで知らなかったのか、それとも知っていたのか、疑問である。)
また、次節で見るように、生物に見られる動的な秩序については、ドイツ人科学者のフォン・ベルタランフィによって1930年代に既に論じられているのである。
 つまり、福岡の書いているようなことは、古くから論じられてきていて、現在では科学の一分野として、既にある程度確立されているのだ。福岡は、これらの議論に全く触れようとしない。あたかも、シェーンハイマー(と福岡自身)だけが、他の科学者たちが到達できなかった認識にたどり着くことができた、という風に見えるストーリーを作り上げてしまっている。このような福岡の態度には疑問を持たざるを得ない。既に「非線形非平衡系」や「自己組織化」といった言葉で、広く議論されているものに、なぜ別の名前をつけて議論する必要があるのか。「生物と無生物のあいだ」の読者は「動的平衡」という言葉を覚えても、それに関連した広大で活発な学問領域があることを知ることができないのだ。
 「生物と無生物のあいだ」においては、個々の記述は正しいものだとしても、実際の学問の姿が公平な態度で伝えられていない。福岡は、シェーンハイマーの埋もれた発見を自分が再評価した、というようなストーリーを作り上げるために、現実を歪めて描き出してしまっているのである。

(*1)化学平衡については以下を参照のこと。 
  ボール物理化学 David. W. Ball(クリーブランド州立大学教授) 著
  www.kagakudojin.co.jp/pdf/c1542/Ball05.pdf

生命を捉えなおす―生きている状態とは何か (中公新書) Book 生命を捉えなおす―生きている状態とは何か (中公新書)

著者:清水 博
販売元:中央公論社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

非線形科学 (集英社新書 408G) Book 非線形科学 (集英社新書 408G)

著者:蔵本 由紀
販売元:集英社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月29日 (火)

福岡伸一批判 「生物と無生物のあいだ」を中心に(1)

1.イントロダクション

 福岡伸一の「生物と無生物のあいだ」は、科学書としては異例のベストセラーとなっている。各種メディアで絶賛され、福岡自身、テレビでは爆笑問題と対談し、ラジオにも多く出演して人気を博している。とくに文系方面からの同書の評価は高く、高橋源一郎、よしもとばなな、大岡怜といった作家たちから賞賛され、「サントリー学芸賞 2007年度 社会・風俗部門」も受賞している。
 これらの評価は妥当なものなのだろうか。文系方面からの高い評価に対して、理系の読者からは批判も多く出ている。「タイトルが内容とかけ離れている」「本筋と無関係な挿話が多い」「生物の知識があるものなら知っているようなことばかり」といったものが目に付く批判だが、私は、もっと本質的で体系的な批判が必要であると考える。一般向け啓蒙書に多くを求めても無意味だという意見もあるだろうが、「生物と無生物のあいだ」という本は、一般向け啓蒙書としても質の高いものではないのであり、ベストセラーとしての影響力の大きさを考えると、しかるべき批判が必要だと考える。
  本稿では、「生物と無生物のあいだ」を中心に福岡伸一批判を試みる。
 本稿は、全部で10節からなる。
最初の1節は、イントロダクションである。 
2から4節は、この本における学説や人物の記述が正確で信頼できるものなのかを検討する。
5から7節は、福岡の考え方や論理展開が妥当なものなのか、批判的に検討する。
8から9節は、「生物と無生物のあいだ」をめぐる状況について論評する。
最後の10節は番外編である。福岡の文章について批評する。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

「福岡伸一批判」開始

 予告していた「福岡伸一批判」を今日から開始します。実はまだ全部は書き終わってないのですが、全10節のうち、とりあえず、前編として4節までを1日1節ずつ公開します。中・後編は、あまり間を置かずに開始したいと思います。
  今回は「生物と無生物のあいだ」が中心となりますが、実は、後から読んだ「もう牛を食べても安心か」の方がもっと問題が多い本だと気がついてしまったので、そちらの方は、こっちが終わってから手をつける予定です。
  内容に関するツッコミは歓迎しますが、何分こちらはアカデミシャンでもなければ生物学の専門家でもないのでお手柔らかにお願いします。
  今日公開の第1節はイントロなので、本論に入るのは明日からになります。
  それでは、スタート。

| | コメント (0) | トラックバック (0)