カテゴリー「本」の記事

2008年7月15日 (火)

「人間の測りまちがい」読了

懸念事項だった翻訳に関しては、それほど大きな問題はなかったのではないかと思います。
何箇所か、曖昧な構文や日本語として成立していない文章、文脈から考えて誤訳ではないかと思われるか文章がありましたが、ひどく読みにくいというわけでもなかったので、いちいちあげつらうのは止めておきます。

内容の方はと言うと・・・「5章までなら名著なんだがなあ」。
6章の議論は混乱しているし、7章でのIQ論争と社会生物学論争を結びつけた議論は、乱暴すぎてほとんど無意味じゃないかと思いました。
詳細に関しては、また後で。
併せて取り上げたい本が3冊ほどあるので、いつになることやら。

人間の測りまちがい 上―差別の科学史 (1) (河出文庫 ク 8-1) Book 人間の測りまちがい 上―差別の科学史 (1) (河出文庫 ク 8-1)

著者:スティーヴン J.グールド
販売元:河出書房新社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

人間の測りまちがい 下―差別の科学史 (2) (河出文庫 ク 8-2) 人間の測りまちがい 下―差別の科学史 (2) (河出文庫 ク 8-2)

著者:スティーヴン J.グールド
販売元:河出書房新社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

トンデモ系新書 2冊

角川の新書から、トンデモ系の新書が2冊。

自然治癒力で生き返る (角川oneテーマ21 C 150) (新書)
帯津 良一 (著)

西洋医学と代替医療を組み合わせ、生老病死を丸ごととらえた統合医療の第一人者に、日々の命のエネルギーを高める「攻めの養生法」を学ぶ。

これだと分かりませんが、ホメオパシーの本です。

胎内記憶―命の起源にトラウマが潜んでいる (角川SSC新書 41) (新書)
池川 明 (著)

母親の胎内にいたときの環境格差がバーストラウマとなって、その後の人生に多大な影響を与えているという。胎内記憶を語る子どもたちの驚くべき証言を手がかりに、トラウマの連鎖を断ち切るための家庭や社会のあり方を考える。

こちらは、アホらしくて中身を見る気になれませんでした。

このところ、新書ブームに伴うレベルの低下が著しいですな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月13日 (日)

ちくま文化人

「ちくま日本文学」の澁澤龍彦の巻を手にとってみたら、解説が養老孟司。
この時点でもうウンザリなわけだが、内容が「博物学の復権」とか言って、ダーウィニズム批判になっていて、さらにウンザリ。
何で澁澤龍彦とダーウィニズム批判を結び付けなきゃいかんのか。
まあ、澁澤龍彦は高校の頃に読んだきりで、大して興味がないから、別にいいのだけれど。

それにしても、「ちくま文化人」(勝手に命名)って大概ダーウィニズム嫌いだな。
古くは森毅、浅田彰あたりから、養老、池田清彦あたりまで。
そういえば、ヴァレラの「知恵の樹」もちくま学芸文庫に入ってるな。
amazonのレビューを見たら、4人中2人が星一つという、この手の本ではめったに見かけないような低評価で笑ってしまった。
意外なことにモギケンは例外的にダーウィン好きなんですよね。
どういうわけか分からないけど。

とにかく「ちくま文化人」って目障り。
さっさと消えてほしい。
「岩波・朝日知識人」批判なんて古いですよ。
どうせ、ああいう連中はもうほとんど影響力無くなっちゃってるんだし。
(あ、加藤周一は尊敬してますよ。私)
柄谷行人なんて、かつては「岩波知識人」を罵っていたくせに、今ではすっかり「岩波知識人」の一人におさまり返ってるけど、まあ、どうでもいいですよ。
どうせ、もう影響力ないんだし。
批判すべきなのは「ちくま文化人」の方だな。

(追記)
福岡伸一も早晩ちくまとつながりを持つだろうと予測する。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月12日 (土)

買わなかった本

ちくまプリマー新書から2冊同時に生物学関係の新刊が出たのだが

『遺伝子がわかる!』(池田清彦)
『進化論の5つの謎 いかにして人間になるか』(船木亨)

池田の方は、まあ、例によって例のごとく、って感じですよ。
今回はDNAのメチル化を持ち出して、獲得形質は遺伝する!とか言って大ハシャギ。
くだらない藁人形論法によるダーウィニズム叩き。

船木の方はもっとひどい。
断続平衡説がダーウィニズムに対立するものであるかのような書き方をしている、と言えば、どれだけレベルが低いものか見当がつくでしょ。
そもそも、この人は生物学者ではない。
コイツとか小泉義之とかフランス現代思想の馬鹿に科学について書かせちゃダメだってば。
なんで、ちくまはこんなヤツに進化論の本を書かせるのかねえ。
まあ、茂木健一郎に書かせるくらいだから不思議じゃないか。
ちくまって、日本におけるfashionable nonsenseの発信源になってるような気がするな。(*1)
これも「ちくまイデオロギー」の一環なんだろうか。

この2冊は読む価値なし、と断言しておく。

『本当のところ、なぜ人は病気になるのか? 身体と心の「わかりやすくない」関係』(ダリアン・リーダー、デイヴィッド・コーフィールド)

早川書房なんで、『病気はなぜ、あるのか―進化医学による新しい理解』( ランドルフ・M. ネシー , ジョージ・C. ウィリア)みたいなダーウィン医学の本かと思って手に取ったのだが、ラカンがどうのフロイトがどうのとか書いてあってウンザリ。
著者の一人は精神分析医だそうで、ダメだコリャと思って棚に戻しました。

(*1)ポストモダニストたちが科学の言葉をメタファーとして安易に使っているのに対して、この連中は科学そのものを語っているつもりなわけだが、何か通低するものを感じるのだ。

病気はなぜ、あるのか―進化医学による新しい理解 Book 病気はなぜ、あるのか―進化医学による新しい理解

著者:ランドルフ・M. ネシー,ジョージ・C. ウィリアムズ
販売元:新曜社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月 2日 (水)

トンデモ本 二題

渋谷のHMVでPUPAのCDを買った帰りに、ブックファーストに寄って立ち読み。

新版 300人委員会[上]支配される世界
ジョン・コールマン (著), 太田 龍 (翻訳)

「獲物」とされた日本が最終処理されないために、コールマン警告を心して聞け!

過去80年間の激変は、直接あるいは間接的に、すべて300人委員会の新世界秩序=ワン・ワールド政府計画によってもたらされた。あなたがた日本人はこの暗黒時代とも呼ぶべき世界情勢に目を開いていただきたい。この2008年、300人委員会は日本破壊計画の最終段階を迎えている。しかし私が見据えているのは現在と未来だ。この考えにもとづいて、300人委員会について書く使命に取り組んだ。私の取り組みがあなたがた日本人読者にとって真に有意義であることを願うばかりだ。 ジョン・コールマン博士

早い話が「陰謀論」の本なのだが、「ビートルズの初期の作品はアドルノが作ったものだった」と書いてあるのを読んでのけぞった。
よりによって、なんでアドルノ

ジュセリーノの予言
テレビ東京「史上最強の預言者ジュセリーノ 未来を変える5つの警告」製作班 (著)

「大地震サバイバルマニュアル」とか書いてあって、中の1項目に「デマに惑わされるな!」とあるのに笑った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月18日 (水)

「ナンシー関 全ハンコ 5147」

「ナンシー関 全ハンコ 5147」を買ったのだが、「不明」に分類されている作品が167点もあるのが気になる。
誰を彫ったものか見当がつくものもいくつかある。

#30  今井美樹?
#33  たぶん、大瀧詠一。
#45  中野翠じゃないかな。
#66  上野千鶴子?
#90  反町?
#150  高野寛だと思うんだけど。
#158  明らかにマーク・ボラン。

他にも、見覚えのある顔だが名前が出てこないものも何点か。
まとめサイトを作って指摘を集めたら、おおよそは判明すると思うのだが。
誰かやりません?(私はやらない、ゴメン)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月 6日 (金)

『人間の測りまちがい』文庫版

スティーヴン・J・グールドの『人間の測りまちがい』が河出文庫に入った。
あの悪名高い訳文にも手を入れたらしい。

これまで本書へは科学、教育、心理学、統計学、あるいは人権関係などいろいろな分野の方々が関心を示されてきたことを見聞きしている。そうした中には訳文に対して厳しいご批判もあった。ありがたく受け止め、今回、可能な限り修正を行った。

文庫版訳者あとがき

1998年に改訂版を出した時も手を入れてるはずなんだがな。
今度は大丈夫なんだろうか。

それはともかく。
問題は値段だ。
上下巻に分かれていて、各1500円。
高っ!
ありえないだろ、この値段。
買っちゃったけど。

これで、訳文がひどかったら、ただではすまさんぞ。
後で読む。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月24日 (土)

新刊2冊

イタタタタ。

ニュートン・コード
塚原 一成 (著)

アイザック・ニュートンが書き記した、1枚の原稿が発見された!そこに記されていたのは、"地球滅亡の年"、「地球は、2060年に滅亡する!」。そしてその横には、暗号が・・・「ひと時とふた時と半時が始まった」。これは、一体どういう意味なのか?どのような根拠をもとに、2060年という数字を導き出したのか?そして、何より本当に地球は滅亡するのか?!
真相を探ってゆくと、ニュートンの知られざる顔が見えてくる。秘密結社、錬金術、異端者、浮かびあがる謎めいた記号。真相は、ダ・ヴィンチ・コードの延長線上にあった!
そして、ついに、2060年の根拠が明かになる!ニュートンは、科学のメスで人類のタブーを見つけ出してしまったのだ。それは、地球滅亡の法則。

「ダ・ヴィンチ・コードの延長線上にあった!」ってことは、デタラメの延長線上にあったってことですね。
夏にテレビでもやるそうです。

次。
青土社さん、これはひど過ぎます。

生命と非生命のあいだ―NASAの地球外生命研究 (単行本)
ピーター D.ウォード (著), 長野 敬 (翻訳), 野村 尚子 (翻訳)

過去にこれだけ同じようなタイトルの本があるっていうのに。

「生命と非生命のあいだ」アイザック・アシモフ    
「生物と無生物のあいだ 」福岡 伸一
「生物と無生物の間」川喜多愛郎

原著のタイトルともかけ離れているし。
内容の方は面白そうだけど。

ダ・ヴィンチ・コード最終解読 Book ダ・ヴィンチ・コード最終解読

著者:皆神 龍太郎
販売元:文芸社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

Book 生命と非生命のあいだ (ハヤカワ文庫 NF 24 アシモフの科学エッセイ 4)

著者:アイザック・アシモフ
販売元:早川書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月19日 (月)

『錯視芸術の巨匠たち』アル・ケッセル

「世界のだまし絵作家20人の傑作集」という副題がついていて、ダリやエッシャーはもちろん、もっと最近のアーティストも取り上げている。日本人では福田繁雄と北岡明佳の二人。
版形も大きく、カラー図版も豊富で、それだけでもうれしいのだが、さらにスゴイのは

「まえがき」が、ダグラス・ホフスタッター!

訳と「あとがき」が、坂根厳夫!

何か私の好みを思いっきり狙い撃ちしているような感じだ。

webとも連動していて、いくつかの作品は動画で見ることができる。
(ロードに若干時間がかかるので注意)

Masters of Deception:Escher, Dali & the Artists of Optical Illusion

この本に取り上げられているアーティストの中で、今回紹介したいのは、球体の表面に絵を書く、ディック・タームズ(DICK TERMES)という画家である。

球体に書いた絵の何が面白いんだって?
それは動画を見てもらえば分かる。

フル・スクリーンで見てほしいので、埋め込まずに直接YouTubeにリンクする。

コツは、球の表面を見ているということを忘れること。

そうすると、見ているうちに空間が歪む!

Reflecting Back

Patterns of Reflection

これは球じゃないけど。

Lakota Headmen

もっと色々見たければ

Spherical Thinking Web Demo

ディック・タームズのホームページは以下。

http://www.termespheres.com/

Book 錯視芸術の巨匠たち―世界のだまし絵作家20人の傑作集

著者:アル・セッケル
販売元:創元社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『生命とは何か』岩波文庫版

 シュレーディンガーの『生命とは何か』が岩波文庫に入ったので、買って読んだんですけど。
 何だ、読んでなかったのかよ、と言われそうなんですが、イヤ、新書版の方は昔読んで、今でも手元にあるんですけど。
じゃあ、なんでわざわざ買い直したかって言うと、文庫版向けに鎮目恭夫の解説が新しく追加されてまして、これが......。
  長くなるので、後で書きます。

Book 生命とは何か―物理的にみた生細胞 (岩波文庫 青)

著者:シュレーディンガー,岡 小天,鎮目 恭夫
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月16日 (金)

「もう牛を食べても安心か」と「疑似科学入門」(1)

「やさしいバイオテクノロジー」で 池内了の 「疑似科学入門」が批判されている。

「疑似科学入門」(岩波新書)はニセ科学? その1 遺伝子組換え

「疑似科学入門」(岩波新書)はニセ科学? その2 BSE

私も、この本を本屋で手にしたのだが、結局買わなかった。私にとっては、池内了というのは全く魅力の感じられない書き手なのだ。
しかし、読まなくても、この本がダメな本であることは分かる。

この本の中で展開されているBSEの話題はすべてと言い切っていいくらい「もう牛を食べても安心か」(ブルーバックス)に依存しています。

福岡伸一の「もう牛を食べても安心か」については、以前少し書いたことがある。(「福岡伸一は統計学の基礎を理解していない」)。

実は、「もう牛を食べても安心か」もちゃんとは読んではいないのだが、ちょっと目を通しただけでも、これが駄本であると断言することにためらいは感じない。

駄本に依存して書いた本が駄本になるのは当たり前である。

(ところで、「もう牛を食べても安心か」はブルーバックスではなくて、文春新書ですね。ブルーバックスから出ているのは「プリオン説はほんとうか?」の方)

 以下、「やさしいバイオテクノロジー」の記述と、「もう牛を食べても安心か」に書かれていることを並べて見てみたいと思う。
福岡の文章の論理性の欠如ぶりを堪能していただきたい。


まずは、BSEのリスク分析について。

p160にもおもしろいことが書いてあります。

まずは、BSEのリスク分析について。

『アメリカの農務長官が「BSEの牛を食べてクロイツフェルト=ヤコブ病に罹るリスクは交通事故に比べて圧倒的に小さいのだから、あまり神経質になるのはおかしい」と述べたことがあった』

まっとうなリスク評価だと思うのですが、著者は『何かおかしいのではないだろうか』と疑問の投げかけています。
なんでなんかなぁ?

「もう牛を食べても安心か」の方を見てみよう。

では、リスク分析がいうところのリスクの数値化とは一体何か。それは端的にいって、死者の数である。狂牛病の問題に際して、食品安全委員会の専門調査会は、日本で汚染狂牛病肉を食べて死ぬ人間が出るとしても最大〇・九人と見積もった。これがリスクの数値化である。この数字自体、イギリスの狂牛病発生数、潜在的感染者数、日本で見逃されたかもしれない狂牛病数など極めて誤差の範囲が大きい推定数値を掛け算して求められた全くの概数でしかない。

死者の数の見積もり値が概数なのは当たり前である。
福岡は、それ以上の何を期待するのだろうか?
「極めて誤差の範囲が大きい推定数値」と言うが、その根拠は何なのか?
「極めて大きい」「誤差の範囲」とは一体どの程度の誤差なのか?
福岡は具体的な根拠は何一つ示さない。 (*2)
全ては福岡の主観的な判断でしかない。

しかし、議論はこれをもとに進むアメリカ産牛肉輸入解禁派はもっと小さい推定値を採用している)。そしていきなり、フグ毒と比較される。フグ毒に当たって死ぬ人間は、今でも年間数十人いる。それに比べると狂牛病のリスクは圧倒的に小さい。リスクの大きさからいって狂牛病はそれほど心配すべき問題ではないのだ。安全対策として危険部位の除去を行えばリスクは低減する。フグの卵巣を取り除くことと牛の特定危険部位を取り除くことは、安全対策上同じである、と。

「いきなり、フグ毒と比較」というのは、全く理解できない言い方だ。
なぜフグ毒と比較してはいけないのだろうか? (*1)
一体、福岡はBSEと何を比較すれば納得したのだろうか?

 フグ毒と狂牛病病原体が同列に扱いうる"毒"ではないことは明らかである。プリオンは可変的で可動的で増殖を行うのだ。しかし、ここで驚かざるを得ないのはリスク分析思考が不可避的に体現しているある種の感性の欠如だ。それは政治的なものが示す感性の欠如と同種のちのである。歴史性や原因をすべて捨象して死者の数を比較する。ここにリスク分析の本質が如実に現れている。

  「フグ毒と狂牛病病原体が同列に扱いうる"毒"ではない」ことは、(少なくとも私にとっては)全く「明らか」でない。(*1)
  プリオンが「可変的で可動的で増殖を行う」からといって何だと言いたいのだ?

 つまりリスク分析は極めてポリティカルな方法論なのだ。限られた予算をどのように分配するか、対立する利害をどのように調整するか。このような政治的問題を前に、本来甲乙つけがたいものに優先順位をつけ、本来線引きできないところに強引に線を引いて白黒をつける。それが政治であり、月齢で判断できる問題ではないにもかかわらず二〇ケ月齢以下の牛は全頭検査から除外してもリスクは増えないとした判断の正体がここにある。

リスク分析というのは政策を決定するための考えなのだから、「ポリティカルな方法論」なのは当たり前で、まさにそうあるべきなのだ。

「優先順位をつけ」「線を引いて白黒をつける」のが政治だというのは全く正しい。
政治の存在意義は元々そこにあるのだ。
それで、何がいけないのだろうか?

 死者の数を比較し、フグ毒と狂牛病を比較する。死者の数だけを比較して物事を論ずるのであれば、年間一万人が死ぬ自動車事故に比べてすべてのリスクはたいしたものではなくなるだろう。リスク分析はあらゆる死者をフラットな数値に浄化してしまう。しかし、フグ毒で死ぬ人と狂牛病で死ぬ人は同じではない。これは実質的に同等ではない死者である。フグはある意味で時間の試練をくぐり抜けて私たちに納得されたリスクである。対して、狂牛病は人災であり、人為的な操作と不作為によって蔓延した、全く納得できないリスクなのだ。

  一億数千万人に対して最大〇・九人ならば、自動車事故と比較するまでもなく、きわめて確率の低いものではないか?
 
また、「あらゆる死者をフラットな数値に浄化してしま」って何が悪いのだろうか? 
国民の安全に関わる政策を考える人間が、死者の数を重視するのは当たり前ではないか?

「フグ毒で死ぬ人間は昔からいるのだから、重く考える必要はない」ということだろうか?
福岡は、フグ毒で死んだ人間の家族の前で、同じことが言えるのだろうか? (*1)
 
人間が見慣れたものより未知のものの方により恐怖を覚えるのは自然なことである。
そのような性質は人間の性質が形作られた過去においては淘汰上有利だったのであろう。
だが、人間は科学によって合理的に判断する術を手にしているのだから、いつまでも原初的な感覚のみに従って判断をしているわけにはいかないのである。
個人個人が自分たちの死についてどう判断するかはともかく、不特定多数の人間のための政策を考える立場にある人間ならば、合理的な判断を第一に優先すべきなのだ。

 リスク分析は現状を受け入れてその順位づけと線引きを行うことしかできず、リスクのもつ歴史的な意味を解読する力はない。リスク分析は現状を改革する熱意もその力も待ち合わせてはいない。
 しかし、狂牛病が私たちに問いかけているものはまさにこのことなのである。いかに現状を改革し、いかに損なわれた平衡の回復を求めればいいのか、それを狂牛病は問いかけているのである。

  結局、福岡は死者の数よりも、「平衡の回復」の方に興味を持っているのだ。

  福岡が「平衡の回復」に興味を持つのは勝手だが、我々が福岡の趣味に付き合わなければならない義理はないのだ。


(追記 2008.5.16)
(*1)フグに関しては、個人が危険性を承知して食べるのだし、フグ毒に対して国が何か積極的に対策をとる必要はない。
そういう観点からすれば、「フグ毒で死ぬ人と狂牛病で死ぬ人は同じではない」と言えるかもしれない思う。
だが、BSEを「人災」扱いするのは、やはり不適切だと思し、BSEを過剰に危険視するのも不合理であると思う。

(*2)前の方のページで、いくらか根拠を述べていたので(説得力があるかは別として)、削除。

(追記 2008.5.25)
「感情と合理性 ~若干の弁明~」の方も参照ください。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2008年5月15日 (木)

盲目の時計職人

あけてくれ - おれカネゴンの「算数できんのやっぱり気にしすぎとや」日記 

「オルガスムスのウソ (文春文庫)」という本の冒頭で見かけた「盲目の時計職人」という言葉の意味がどうしてもわからず、たまらずググるとあのリチャード・ドーキンスの本のタイトルだった。

ドーキンスはどうやら「目的を持たないのにものすごく精密なものを作り出す」進化というものを比喩で表そうとしているらしいのだけど、カネゴンの中では「盲目」と「目的を持たない」がどうしてもつながらないどころか、「盲目のハガキ職人」という全然関係ないことを思いついてしまう始末【いつでも迷走おれカネゴン】。

「盲目」ではなく「盲滅法」ならわかる。「盲滅法な時計職人」の方が賑々しくてカネゴンこっちの方がよいと思うのだけど、ドーキンスとしてはこういうのは許し難かったりするのだろうか【無礼で討たれるおれカネゴン】。

それとも本当は「白痴の時計職人」とか「自閉症の時計職人」としたかったのだけど、ちょっとしたことでキーキー騒ぐ世間の目を欺くためにしぶしぶ半端な比喩を選んだのだろうか。それなら無難なところで「ちょっとタリない時計職人」というのはどうだろう【激しく足りぬおれカネゴン】。

それともドーキンスを含む西欧の南蛮人たちは、数千年も続いた目的論(=あらゆるものには目的があるという考え方)にすっかり毒されてしまっていて、30年ほど生物学を研究したぐらいでは「目的を持たないのものが精密で壮麗な生命システムを構築する」という不気味な様を的確に比喩で表すことができず、生物機械論っぽいたとえから離れたくても離れることができなかったりするのだろうか。

「盲目」で何がまずいのか、よく分からないな。

 ペイリーは、生命のからくりにメスを入れ、美しくも敬虔なる記述で描写することによって自分の論点を明確にしている。彼は、ヒトの眼の話から説き起こしているが、それは後にダーウィンのお気に入りの例となり、本書でもあちらこちらに顔を出すだろう。ペイリーは眼を望遠鏡のような設計された道具と比較し、「望遠鏡が視覚を助けるためにつくられたということが自明であるのとまったく同じように、眼が視覚のためにつくられたということが証明できる」と結論する。望遠鏡にデザイナーがいたのとまさしく同様に、眼にもそのデザイナーがいたはずだというわけである。
 ペイリーの議論には熱意のこもった誠実さがあり、当時の最良の生物学的知識がこめられている。
にもかかわらず、それは間違っている。みごとなまでに完全に間違っている。望遠鏡と眼、時計と生きている生物体とのアナロジーは誤りである。見かけとはまったく反して、自然界の唯一の時計職人は、きわめて特別なはたらき方ではあるものの、盲目の物理的な諸力なのだ。本物の時計職人の方は先の見通しをもっている。心の内なる眼で将来の目的を見すえて歯車やバネをデザインし、それらを相互にどう組み合わせるかを思い描く。ところが、あらゆる生命がなぜ存在するか、それがなぜ見かけ上目的をもっているように見えるかを説明するものとして、ダーウィンが発見しいまや周知の自然淘汰は、盲目の、意識をもたない自動的過程であり、何の目的ももっていないのだ。
自然淘汰には心もなければ心の内なる眼もありはしない。将来計画もなければ、視野も、見通しも、展望も何もない。もし自然淘汰が自然界の時計職人の役割を演じていると言ってよいなら、それは盲目の時計職人なのだ。

『盲目の時計職人』リチャード・ドーキンス

ついでに言っておくと、「白痴」だって「自閉症」だって、ちゃんと「目的」を持ってると思うけどね。
(「盲目」だって目的を持ってるだろ、と言われたらその通りであるが、まあ、これは比喩だしなあ。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月12日 (月)

『進化論と倫理』内井惣七

内井惣七の『進化論と倫理』のウェブ版が公開されている。

http://homepage.mac.com/uchii/Papers/FileSharing83.html

読みたいと思っていたのだが、入手困難になっていたので、これはうれしい。
読むべし!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 5日 (月)

『哲学ファンタジー』レイモンド・スマリヤン

 特にこれと言った理由はないのだが、レイモンド・スマリヤンの『哲学ファンタジー』から、抜粋してみる。
  茂木健一郎について書くという、不毛な作業の間の気分転換にはいいだろう。
  大好きな本なのだが、この本については、あまり見たり聞いたりしたことがない。私のようなねじれた論理が好きな人間にとっては、たまらなく面白い本なのだが。
  脳の活性化だの、ナントカ勉強法だのといった本のかわりに、こういう本が売れてくれたらうれしいのだが、まあ、無理な相談だろう。

      10
 意味論の問題。哲学者のアラン・ロス・アンダーソンが、あるセミナーで、次のようなおもしろい出来事を話したことがある。アンダーソンは、第二次世界大戦中に合衆国海軍に所属し、日本車の暗号を解く部門に勤務していた。暗号文書に何度も出てくる一語(数字で表されている)があったが、その意味を解読するのに全員が必死になっていた。苦労の末、その単語は、国や国民を形容する単語(「この国は~である」・「あの国は~でない」)であることが判明し、その後、多量のデータを収集した結果、それは親日派と解読されるに至った。終戦になって、極秘暗号衣が押収された。その言葉の本当の意味は、誠実であった。

      13      
 最近、星占いを信じているかどうかを、私に尋ねた人がいる。私が、「自分は双子座の人間だからそんなものは信じない」と言ったところ、その人はかなり困惑したようだ。

      14
 私は長年手品を演じてきたので、女性を半分に切ったことがあるかと、しばしば尋ねられることがある。私は、次のように答えることにしている。「ああ。もちろんですよ。今までに、七十人以上の女性を半分に切ってきました。切った後のトリックをどうすればいいのかを、今、練習しているところなんです。」

      18
 神の存在の証明について、お話ししよう。私が今までに聞いた中で、最もおもしろかった証明は、ある大学一年生のレポートである。彼女は、次のように書いていた。「神は、存在しなければなりません。なぜなら、もし神が存在しないとすれば、私にその存在を信じさせるほど、神が意地悪であるはずがないからです!」この論法は、アンセルムスやデカルトの提唱した神の存在の本体論的証明に比べて、実際にそれほど劣るものだろうか?

       19
 私が常々不思議に思うのは、非常に多くの敬虔な信仰者が、神は、神を信じる人々に恩恵を施すであろうと、当然のように信じている点である。実は神は科学的で、証拠ではなく信仰に基づく信念に対して、我慢ならないお方であるという可能性はないのだろうか?

       20
 神の本質に関するこのような考え方は、パスカルの賭けによって生じた問題と無関係ではないかもしれない。パスカルは、神を信じないより信じる方が得だと言う。なぜなら、もし神が存在しないにもかかわらず神を信じる場合の損失は、神が存在するにもかかわらず神を信じない場合の計り知れない損失に比べて、微々たるものだからというわけである。(もし神が本当に存在し、その神を信じなければ、天罰は永遠に下されるだろうから、損失は無限大である!)それゆえに(パスカルによれば)、純粋な確率理論から客観的に考察した上から、神を信じることは合理的なのである。
 さて、もし神を信じることが少しでも救済の確率を増加させるのであれば、私も神を信じる方が得であることに同意しよう。しかし、なぜこの仮定が真だと言えるのだろうか? 一人の魂に天罰を永遠に下すほど非道な神に対しては、どんな議論においても信用できないように思えるのだが!

       21
 19で述べた考え方に対する気の利いた反例がある。以前、あるプロテスタントの牧師が、次のように言った。「私の知る限り、神の恩恵を受けた優れた人々は、みんな無神論者なのです。なぜでしょう?」
 「そのような人々を、どのようにして信者にするおつもりですか?」と、私は遂に尋ねた。「信者ですって?」と答えて、彼は言った。「誰が信者にしたいなどと恩うものですか。」

       22
 かなり若いころ、私は興味深い会話の交わされた場面にいた。一人が、「僕は神が存在することを知っている!」と言った。
 すると、別の一人が「そうかい。僕は神が存在しないことを知っている。」と言った。
 二つの相反する命題が両方とも知られているとは、驚くべきことである。実際、これらの命題は、どちらにしても、いかにして知ることができるのだろうか? もし本当に神が存在するとして、その事実は、ただ信じられるばかりでなく、知られうるものだろうか? おそらく、何か神秘的な洞察によって知ることができるのかもしれない。一方、もし神が存在しないとして、その事実は知られうるものだろうか? もちろん、どんな科学的な方法によっても、それは不可能である! すると、やはり何か神秘的な洞察によって知ることができるのだろうか? こちらは、何者かの存在ではなく、何者かの非存在を洞察するという、興味深いタイプの神秘主義だと考えられるだろう!

       24
 フロイトは、彼の著書において、文明が宗教の幻想を見破り、拒絶するようになることの必要性を、全精力を傾けて論じている。彼は、そのような幻想が文明に浸透した際に、どのような心理学的な帰結が生じるかを解明しようとして、しかもこれを有意義な研究だと考えて、宗教側からの反論を一掃しようと多大な時間を費やしたのである。
 私のような現実主義者にとっては、宗教が文明に有害か有益かというよりは、むしろそれが真実かどうかが問題だと思われる。しかし、フロイトは、この問題をほとんど考慮していない。彼は、宗教が偽であることを当然の事実だと考えており、なぜ人が神を信じるのかについて、純粋に心理学的に説明を行っている。さて、私もフロイトとほとんど同じ理由によって、もし神が存在しないとしても、人は神を信じ続けるに違いないと思っている。しかし、このような予測は、有神論の真偽に関する根本的な問題については、何の解決にも光明を投げかけない。すでに多くの学者が明らかにしてきたように、信念の起源についての純粋に心理学的な説明は、信念そのものの真実性を肯定あるいは否定するための理性的な根拠にはならない。(もっと多くのマルクス主義者に、このことを実感してほしいものだ!)
 多くの親は、子供に宗数的な教育を与えることについて、それが子供のためになるからだと正当化している。しかし、私は、実際には親自身が宗教を信じるかどうかが、教育に大きな影響を及ぼしていると思う。ただし、常にそうだというわけでもない。
「私自身は神を信じないんだが、それでも私は、すべての子供が宗教教育を受けるべきだと思う」と言う父親がいた。なぜ彼がこのように言ったのか、私は不思議に思っている。彼は、子供に嘘をつくことがよいことだと信じていたのだろうか? それとも、彼の深層心理では神を信じていることを、彼自身では気付いていなかったのだろう
か?
 一方、これとは逆に、神を信じるにもかかわらず、宗教教育が子供のためによくないと思う人の話は、これまでに聞いたことがない。つまり、有神論と無神論の問には、興味深い非対称性があるようだ。多くの無神論者は、神を信じることを悪いことだと思っている。しかし、この悪いことだという感覚は、無神論から導き出された帰結ではない。一方、すべてではないだろうが、多くの現存する宗教においては、神を信じないことの悪は(信じることの善と同じように)宗教自体によって導かれている。事実、多くの宗教は、教義の一部に明確にその善悪を提示している。
 フロイトは、彼の反宗数的な思想が与える一般的な影響を、非常に気にしていたようだ。彼の著作自体はおもしろいが、結果的に、宗教の幻想を一掃することができたかといえば、もちろんどれはどの影響力があったかは疑問である。宗教は、私たちには理解不能な独特な法則に従って、流行したり衰退したりしているようだ。そして、私たちの宗教問題についての選択は、おそらく私たちが思っているよりもずっと意昧のないことであろう。

       25
 唯我論者とは、「私しか存在しない」と主張する人のことである。(私は、実際に唯我論者がそんなことを言う必要があるのかと思う。そう信じているだけで十分なはずだが!)アラン・ロス・アンダーソンのある講演で、唯我論について二時間ほど討論したことがあった。論争も終わりに近づいたころ、私は立ち上がって言った。「この時点で、私は逆唯我論者になってしまったようだ。私は、私を除いた全員が存在するのではないかと思う!」
 
       26
 論理学者のメルヴィン・フィッティングは、彼独特のユーモアで、私に言ったことがある。「もちろん私は、唯我論が正しい哲学だと信じているよ。ただし、これは私一人の意見にすぎないがね。」

       27
 このコメントは、バートランド・ラッセルに宛てて手紙を書いた女性の有名な話を思い起こさせる。「なぜあなたは私が唯我論者と聞いて驚くのでしょう。誰もがそうなのではありませんこと?」

       28
 私は、実際に多くの唯我論者に会ったことがある。その中の一人が、私に言った。
「スマリヤン、君は存在しないんだ!」
「君が存在しないと言っているのは、いったいどこののことだい?」と、私は答えた。
 
       29
 別の唯我論者が言った。「私しか存在しない。」
 「そうだ」と私は答えた。「私しか存在しない。」
 「違う、違う!」と彼は言った。「私は、私しか存在しない、と言っているんだ。」
 「それは私が言っていることだよ。私しか存在しない。」
 「違う、違う、違う!」と彼は興奮して叫んだ。「存在してるのは、君じゃなくて私だ!」
 「そのとおり。」私は繰り返した。「存在しているのは、君じゃなくて私だ。完全に意見が合いますね!」
 この時点で、彼は完全に混乱したようだ。
 
        31
 私は、ときどき不思議に思うことがあった。攻撃的な唯我論者は、もし周囲の人が彼に反論せず、ただ賛成ばかりしていたら、どのように反応するのだろうか! そこで、ある日このことを精神分析医に尋ねてみた。披は答えた。「その唯我論者は、ぞっとするだろうと思うよ!」

       34
 精神分析医から哲学者の話に戻ろう。ある哲学者が、次のような夢を見た。最初にアリストテレスが現れたので、その哲学者は言った。「あなたのすべての哲学について、十五分ほどで概要を教えてくださいませんか?」その哲学者の驚いたことに、アリストテレスはわずか十五分の間に、莫大な量の事柄を凝縮した見事な解説をしてくれた。しかし、あることを哲学者が反論すると、アリストテレスは答えられなかった。論駁されたアリストテレスは、消えてしまった。次に、プラトンが現れた。だが、このときも同じことが起こった。プラトンに対する哲学者の反論は、アリストテレスに対するものとまったく同じだった。プラトンもこれには答えられず、結局消えてしまった。続いて、歴史上の著名な哲学者が次々と現れた。しかし、この哲学者は同じ反論を唱えて、全員を論駁することができた。最後の哲学者が消えた後に、この哲学者は独り言を言った。「私は今眠っている。これが全部夢であることも知っている。それでも、私は、すべての哲学に対する普遍的な反論を発見したのだ! 明日目を覚ましたら、この反論を忘れてしまっているかもしれない。それでは、人類にとって大損失になる!」彼は、不屈の精神で自分の目を覚まさせ、机に駆けつけると、その普遍的な反論を書き付けた。そしてベッドに飛び込み、ほっとして眠った。翌朝目を覚ますと、彼は机に駆け寄って、自分が何と書いていたかを確認した。そこには、次のように書いてあった。「それは、あなたが勝手に言っているだけでしょう!」

       35
 「人生とは何か?」この問題に集中するため、十年間押し入れにこもっていた哲学者の話がある。彼が押し入れから出て街へ行くと、者の同僚と出会った。彼は、この長い回、いったいどこにいたのかと聞かれた。
 「押し入れの中にいた」と彼は答えた。「人生とは何かを知りたかったんだ。」 「それで、答は見つかったのかね?」
 「見つけた」と核は答えた。「人生は橋のようなものだというのが、最も核心に近いと思う。」
 「それは実に興味深い」と同僚は答えた。「しかし、もう少し明確に説明してくれないか。人生は、どのように橋に似ているのかね?」
 「うーん」と考え込んで、哲学者は言った。「君はなかなか鋭いな。もしかすると、人生は橋には似ていないかもしれない。」
       
       39
 論理実証主義の基本原理の一つに、どんな文も、それが真か偽かを検証する方法がない限り、意味があるとはみなされないというものがある。この意味では、論理実証主義という言葉など聞いたことがなくとも、多くの人が論理実証主義者であろう。
 ピアニストのアルトゥール・シュナーベルは、おそらくこの意味では、論理実証主義者に違いなかった。私は、シカゴ大学で、シュナーベルのすばらしい集中講義に参加したことがあった。質疑応答のとき、誰かが彼に、最近の批評記事についてどう思うかと尋ねた。
 「私は、自分に対する批評は読まない」とシュナーベルは答えた。「少なくとも、アメリカでは読まないね。アメリカの批評で困るのは、私がどうすればいいのか、よくわからないことだ。ヨーロッパでは事情が違う。たとえば、いつかベルリンでコンサートをしたときだが、批評家はこのように書いた。『シュナーベルは、ブラームスのソナタの第一楽章を遠く弾きすぎた』とね。思い返してみると、たしかにこの男の批評は正しかった。こういう批評ならば、どう対処すればよいのか、すぐにわかる。つまり、その第一楽章を少しゆっくりと弾けばいいんだ。ところが、アメリカの批評家ときたら、『シュナーベルの問題は、彼のピアノに遊びがなさすぎることだ』なんて書いているんだ。こんなこと言われたって、どうしたらいいかわかりやしないよ!」
 
       40
 別の講義で、シュナーベルは言った。「信じられないかもしれないが、イーゴリ・ストラヴィンスキーは、論文に次のように書いている。『偉大な音楽は、完全に冷徹かつ無感情でなければならない』それで、先週の日曜日のことだが、アーノルド・シェーンベルクと朝食をとったとき、彼に言ったんだよ。『ストラヴィンスキーが、偉大な音楽は、完全に冷徹かつ無感情でなければならないと書いたなんて、信じられるかね?』シェーンベルクは、これを聞いてかんかんに怒って、言ったよ。『その言葉を最初に言ったのは私だ!』とね。」
 
        45
 私は、ピアニストのアルトゥール・ルビンシュタインのラジオ・インタビューを聞いたことがある。全体的な印象として、聞き手はかなり陳腐で、まぬけだった。インタビューの最初に、彼は突然尋ねた。「ルビンシュタインさん、あなたは神を信じますか?」緊張の沈黙があった。「いや」とルビンシュタインは、はっきりと答えた。「いいかね。私が信じているのは、もっと偉大なことだ!」

       47
マーク・トゥエインは、リヒャルト・ワーグナーの音楽をどう思うかと問われて言った。「うん。実際に聴こえるほど悪くはないんじゃないか!」

       48
 音楽と数学。数学者フェエリツクス・クラインがあるパーテイーに行くと、集まっていた人たちが、音楽と数学の相関関係について話し合っていた。議論がその性質や形式の類似にいたるにつれて、クラインは徐々に困惑の表情になっていった。しまいに、彼は言った。「私には、数学と音楽がどう似ているのか、よくわからん。だって、数学の方は、とても美しいんだよ!」

       55
 何かの本に、真の哲学者とは、九歳の少女であると書いてあったのを読んだことがある。彼女は、窓から外を眺めていたが、突然振り向いて、母親に言ったそうだ。「それにしても、どうしてこんなに何でもあるのかわからないわ!」
 次にご紹介するのは、私の出会った子供たちが語った言葉だが、明らかに哲学的なニュアンスを含んでいる。
 ヴィンセント (三歳)。ヴィンセントは、生まれて初めて飛行機に乗ろうとしたとき、父親に聞いた。「空に昇ったら、僕たちも小さくなるの?」
 バリー(五歳)。ある日、バリーが言った。「九九歳にならないといいなあ!」
 「どうして?」と私は聞いた。
 「だって、そこまで年とったら、死んじやうかもしれないよ!」
 ミリアム(八歳)。ミリアムは、数理論理学者の娘だ。彼女は、父親の性格を受け継いだか、または習得したらしい。夕食の途中に、彼女の父親が言った。
 「何ですか。そのミリアムの食べ方は!」
 彼女は答えた。「私、ミリアムなんて食べてないもん!」
 ジェニファー(六歳)。ジェニファーは哲学者の娘である。ある朝、彼女の兄ジョニー(八歳)が朝食に降りてきて、両親に次から次へとエイプリル・フールの嘘を披露した。そこヘジェニファーが降りてきたので、ジョニーは彼女にも嘘をついた。
 「いったいどうしたの、ジョニー。」と彼女は言った。「今日はエイプリル・フールじゃないわよ!」
 「えっ、違ったっけ?」彼は驚いて叫んだ。
 「エイプリル・フールでしたあ!」
 あるとき、ジェニファーは、映画に連れて行ってもらった。帰ってきた彼女は、母親に言った。「ママ、今まで作られた中で、一番おもしろい映画はなあに? ママが一番おもしろいと思うのじゃなくて、一番おもしろい映画を敦えてほしいの。」
 デイビッド(十歳)。妻と私とで、デイビッドの家族と一緒にドライブ・イン劇場に行ったときのことだ。最初の映画はすばらしかったが、次に始まったのはひどくつまらなそうだったので、大人の一人が出ようと言った。デイビッドはもちろん残っていたかったので、議論が始まった。
 「多数決で決めたらどうだい?」と私が提案した。
 「だめだよ!」デイビッドが言った。「多い方が勝つんだから、不公平だ!」
  ナタリー(八歳)。ナタリーも、数理論理学者の娘である。彼女の一家が、週末に私の家に遊びにきた晩、「時間」について、活発な哲学的議論をしたことがあった。どういうわけか、私は時間は実在しないという立場をとることになった。
 翌朝、朝食のとき、誰かが二人の知人のどちらが年上かを尋ねた。
 「ビルが二歳年上だよ」と私は答えた。
 「どうしてそうなるの?」とナタリーが間いた。「時間は、実在しないって言ってなかった?」

Book 哲学ファンタジー

著者:レイモンド スマリヤン
販売元:丸善
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2008年5月 3日 (土)

再び、タクシー運転手の脳について

  念のために断っておくが、イグ・ノーベル賞を受賞したからといって、トンデモ科学だということではない。

『老いて賢くなる脳』(エルコノン・ゴールドバーグ)から補足しておく。

 さらに最近では、人間でも同様の結果が報告されるようになり、科学や医療の現場で大きな話題を呼んでいる。
  そのひとつが、おとなの海馬でも新しいニューロンが出現しているという衝撃的な事実だ。これを最初に報告したのは、スウェーデン人のぺーラル・エリクソンである。
続いて、健康な脳だけでなく、アルツハイマー病に冒された脳でも、新しいニューロンが増殖することがわかった。「筋肉が使いこむと太くなる」ように、ニューロンは「使えば使うほど増えていく」ものらしい。

P232

 環境によって脳の一部の構造が変り、肉眼でもはっきりわかるくらい大きくなるという証拠は、ほかならぬタクシードライバーによってもたらされた。この報告は、あまりにシンプルな、なおかつ因果関係がはっきりしていただけに、とても印象的だった。ロンドンのタクシードライバーは、市内のあらゆる道に精通し、行きかたや目的地をすべて頭に叩きこんでいるそんな彼らの海馬は、ふつうの人より明らかに大きいのである。しかもその大きさは、ドライバーとしての経験年数にきれいに比例していた。ドライバーを長くやっている人ほど、海馬が大きいということだ。これはある種の認知的活動の量が増えると、その活動と関係する神経構造が大きくなるという直接的な関係を物語っている。
 
P235

ゴールドバーグは他に2つの研究を挙げる。

・バイリンガルとモノリンガルの左角回をくらべたら、バイリンガルのほうに灰白質がたくさん存在した。

・音楽家のヘッシェル回は、ふつうの人の二倍も大きかった。

 だがへそまがりな人からは、こんな反論が出るだろう。音楽家は生まれつきヘッシェル回が大きかったのではないか?つまり、音楽の才能に恵まれていたということだ。タクシードライバーにしても、もともと海馬が大きくて、複雑な道順を記憶しやすい人だけが、ドライバーとして長続きしたのだろう。そうでない人は途中で挫折してしていたのだ。生まれたときから左角回が大きい人は、言語が得意だから、母語のほかにもうひとつ習得する余裕があるのだ。たしかに生まれもった傾向や特徴は、私たちの運命を大きく左右するが、それだけですべてが説明できるわけではない。なぜなら、海馬やヘッシュル回の大きさは、特定の認知作業を長い時間やりつづけた人ほど大きくなるし、ジャグリングの特訓のあと、一度増えた灰白質は減ってしまうのだ。生まれたときに持っている傾向が、実際にどの程度まで表現されるかは、その後いかに練習したり、脳を使ったりするかにかかっている。
 
P238
 
  この本で描いた「精神の自然史」は、心強い二つのメッセージを投げかけている。ひとつは、頭脳を駆使して、知的活動を精力的に行ってきた人は、脳が「頑丈なよろい」で武装しているようなもので、神経の衰退を寄せつけないということだ。(略)前半生に行った知的活動の質と規模が、晩年の質を左右する。
  もうひとつのメッセージは、いくら若いときの研鑽によって脳が「頑丈なよろい」で守られていても、その上にあぐらをかいてはいけないということだ。人は何歳になっても脳に課題を与え続けなくてはならない。
 
P259

 茂木と同じ研究を取り上げていながら、茂木の「脳は、何歳からでも、いくらでも鍛えられる!」という無責任な調子のよさとは、大分ニュアンスが異なっていることに注意。
 
  それから、茂木が紹介しているような脳科学の知識のうち大概のものは、一般向けの解説書の類を調べただけで、もっと正確で詳細な情報が得られるということにも気がついたほうがいいだろう。
そういう意味で、茂木は単なる「紹介者」としてもレベルが低いのである。
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月26日 (土)

再び「神は妄想である」について

macskaさんが、アメリカの無神論者について書いていて

米国を席巻する「新しい無神論者」の非寛容と、ほんの少しの希望

その中で、リチャード・ドーキンスの「神は妄想である」について触れている部分が変だったので、批判しようと思っていたら、先に弁明されてしまった。

「新しい無神論者」エントリのブクマコメントに一斉お応え

「新しい無神論者」エントリのブクマコメントに一斉お応え(2)

今でもあまり納得し、色々言いたいことはあるのだが、なんだかめんどくさくなってしまったので、手短にすませる。

一番変だと思ったのは最初の文書の以下の箇所。

ドーキンスらによれば、肝心なことは理性を尊重し、根拠の無いことを事実だと信仰しないことだという。たとえばスターリンら共産政権の指導者たちはたしかに無神論者ではあったかもしれないが、恐怖政治や個人崇拝の制度を作り、かれら自身が信仰の対象--理性の審判を受け付けないもの--となってしまったために間違いをおかした。すなわち対象が神であれ指導者であれ問題なのは信仰であり、理性こそ世界のあらゆる問題に対する答えなのだという。

こうしたユートピア思想と選民思想(自分たちこそ最も優れた人間であるという思い込み)は、わたしが参加しているグループにおいても頻繁に感じた。

前半の文章がどうして「ユートピア思想と選民思想」に繋がるのかサッパリ分からない。「理性こそ信頼すべきものである」という主張は、「理性さえあれば理想の社会が築ける」とか「理性を持った者こそが世界の支配者になるべきである」といった主張とは全く別物である。

それから、2番目の文章の以下の箇所。

しかしドーキンスも『神は妄想である』英語版 p.307 でイスラム研究者を引用してコーラン解釈に踏み込み、「穏健なイスラム教という神話」という表現を使っています。また、イスラム教特有の性質ではないにせよ同 p.302-306 では一部の論者がよく言う「テロリズムの真の原因は、国際的な経済体制や過去の植民地主義、貧困や米国の軍事政策である」という主張を否定し、「宗教が」原因であると言っています。

 かなりミス・リーディングな書き方だと言わざるを得ない。日本版の該当箇所の前後を引用するので、ドーキンスの言わんとしたことがどのようなものであるか、各自判断されたい。「神は妄想である」の内容については、私が以前に書いた「池澤夏樹の欺瞞 -ドーキンスを擁護する-」も参照のこと。

 宗教上の信念は、それが宗教上の信念であるというだけの理由で尊重されなければならないという原則を受け入れているかぎり、私たちはオサマ・ビン・ラディンや自爆テロ犯が抱いている信念を尊重しないわけにはいかない。ではどうすればいいのか、といえば、こうして力説する必要もないほど自明なことだが、宗教上の信念というものをフリーパスで尊重するという原則を放棄することである。
それこそが、私がもてるかぎりの力をつくして、いわゆる「過激主義的な」信仰に対してだけでなく、信仰そのものに対して人々に警告を発する理由のIつなのである。「中庸な」宗教の教えは、それ白身には過激なところはなくとも、門を開けて過激主義を差し招いているのである。
 ただここで、宗教上の信念になんら特別なところがあるわけではない、という反論が出てくるかもしれない。自分乃国や民族集団に対する愛国主義的な信条もまた、それ独白の過激主義に都合のいい世界をつくろうとすることがありえる、そうじゃないのか? そう、日本の神風特攻隊やスリランカのタミール・タイガーのように、そういうこともありうるのだ。しかし、宗教上の信念は合理判断を沈黙させるもっとも有効な手段であり、通常、他のあらゆるものに勝つ切り札のように見える。私の思うに、これはもっぱら、死が終わりではなく、殉教者の行く天国はとりわけ栄光に満ちたものであるという、安易で魅惑的な約束のゆえであろう。しかし、宗教上の信念がまさにその本性において、疑問を抱くことを抑圧するというのも、理由の一部になっている。
 キリスト教は、あるいはイスラム教でもまったく同じことであるが、疑問を抱かない無条件の信仰こそ美徳であると、子供たちに教える。こと信仰の問題に関しては、自分が信じていることを論証する必要はなし。もし誰かが、それは自分の信仰の一部であると宣言すれば、その社会の残りの人間は、同じ信仰を持っていようが、別の信仰を持っていようが、あるいは無宗教だろうが、根深い慣習によって、疑問を発することなくそれを「尊重」するよう強いられる。ただしそれは、世界貿易センタしビルの破壊、あるいはロンドンやマドリードの爆破事件などにおける犬虐殺という形でその信仰が表明される目がこないかぎりのことである。そういう事態が起きたいま、この過激主義が「真の」信仰からの逸脱であると説明するために、聖職者や「共同体の指導者」 (ついでながら、誰が彼らを選んだのか?)たちが雁首を揃えて、白分たちはかかわりがないとしう大合唱がなされている。しかし、もし信仰が客観的な正当化の理由を欠き、何か逸脱かについていかなる明白な基準ももたないのであれば、そもそも信仰の逸脱なるものがなぜ存在しうるのか?
  10年前のこと、イブン・ワラックはその『なぜ私はイスラム教徒でないか』というすばらしい本の中で、深い学識をもつイスラム学者としての立場から、同じような論証をおこなった。実際のところ、ワラックのこの本につけるのならば、『イスラム穏健派という神話』のほうが適切だったかもしれないが、その表題は、もっと最近の《ロンドソ・スペクテーター》紙(二〇〇五年七月三〇目付け)に掲載された別の学者、イスラム教学・キリスト教学研究所所長のパトリック・スツクデオの記事の実際の表題として用いられている。「現代のイスラム教徒の圧倒的多数は、暴力に頼ることなく生活を送っており、コーランは方々から寄せ集めた選集のようなものである。もしあなたが平和を求めるなら、平和的な詩句を見つけることができる。もしあなたが戦争を求めるなら、好戦的な詩句を見つけることができる」。
  (略)      
 より一般的に言えば(そして、これはイスラム教だけでなく、キリスト教にも同じようにあてぱまる)、本当の意味で有害なのは、子供に信仰そのものが美徳であると教えることである。信仰は、それがいかなる正当化の根拠も必要とせず、いかなる議論も許さないという、まさにその理由によって悪なのである。子供に、疑問を抱かない絶対的な美徳であると教えることは、彼らに--手に入れることがむずかしくないいくつかのその他の要素が与えられれば--、将来のジハードまたぱ十字軍のための潜在的な凶器となるべく育つ素地を与えることにほかならない。(略)

| | コメント (1) | トラックバック (1)

2008年4月16日 (水)

『トポフィリア』イーフー・トゥアン

書きたいネタはたくさんあるのだが、文章をまとめる余裕がないので、いま読書中の本からの抜書きでお茶を濁す。

 一八世紀になるまで、山に対する一般的な見方は好意的なものではなかった。文学的な証拠は、このような嫌悪感をはっきり示している。マージョリー・ニコルソンは、一六五七年に出版されたジョシュア・プールの『イギリスのパルナッソス』について述べている。その本の中で、著者は野心的な詩人に、いずれも山を記述する三種類ほどのうまい形容詞句を使うように提案している。いくつかの形容詞句は中立的なものであった〔岩だらけの、でこぼこした)。いくつかは、雄大さに対する一時的な感情をしめすものであった(堂々たる、星に届くような)。そして多くは、嫌悪感を表現したものであった。「横柄、険悪、野心的、殺風景、威嚇的、高慢、荒涼、粗野、無愛想、寒冷、不毛、背曲がり、無人、荒廃、憂鬱、未踏」(小黒和子訳)。その上さらに、山は「大地の乳頭、隆起、腫瘍、火ぶくれ、瘤」と記述されたのである。
  およそ一00年余りの後に、ロマン主義の詩人たちは、山の壮麗さを賞賛し、魂を揺さぶって恍惚状態にするような、荘厳な高さを賞賛する詩を歌い始めた。山はもはや遠くにあるものではなく、不吉なものでもなく、地上で神に最も近いものとしての崇高な美を持つようになった。詩人たちだけが、そのような情熱にとらわれていたのではない。イマニュエル・カントは、山を一度も見たことがなかったにもかかわらず、崇高の観念をアルプスの景色によって定義した。何がこれほど顕著な変化をもたらしたのであろうか。ニコルソンは、一七世紀と一八世紀における、山の評価の逆転に貢献した知の変化のいくつかを跡づけている。
  最も重要な変化は、円が完全を象徴しているという観念が、しぶしぶ捨てられたということである。この信念は根が深く、強固に浸透していた。もし完全というものがどこかに存在しているならば、それは天にある。そして実際に、惑星の軌道が円であることが見出されていたのだ。しかしながら、地球は完全な球体ではなかった。一八世紀に支配的だった観点からすれば、山という突起や海という深みだらけの、地球の不規則な形態は、単に堕罪の結果としてのみ解釈されたのである。本来の滑らかで無垢な地殻は、内部の水の層に落ち込んだのだ。われわれが山や谷としてみているものは、痛ましい廃墟なのである。しばらくの間、(ニュートンを含む)著名な学者たちは、この考えに賛成していた。しかしそれをくつがえすような科学的証拠が出てくるにつれて、またさらにその上、新しい審美感が、単純な幾何学的形態を美と同一視することを否定するにつれて、賛意は着実に取り下げられていった。不規則なものや無用なものをかつてのように不思議で恐ろしいものとせず、それ自体の中に美を認めて擁護する著述家や思想家が、一八世紀の間にますます増えていったのである。中国風装飾様式への人気や中国の景観デザインの目新しさやその受容は、左右対称なものや、規則的なものだけを美の規範とするしぶとい主張を、さらに取り除くことになった。当時これらは、山の評価に対して道を開いた知的な趨勢(トレンド)の一部だったのである。
  山に対する態度は、また他の理由によっても変化した。時代がたつにつれ、旅行が容易になり、近づき易くなった山は、その近寄りがたい様子の多くを失ったのだ。感情は、親密さとともに和らいだ。もちろん一七五〇年以前にも、あきらかに恐怖感を持たずに、山を歩きまわる勇敢な人間がいた。一六世紀でさえ、楽しむためにアルプスを横断した人々がいたのである。引き続く世紀には、より多くの人々が楽しみと科学的な目的のために旅行するようになったので、一七〇〇年代までには、科学と空想が入り混じった数多くのアルプス旅行記が出版された。偉大なアルプス旅行者であったチューリッヒのヨハン・ヤコブ・ショイヒツァーは、一七〇二年から一七一一年までには、広範囲にわたってアルプスを九回旅行した。彼は植物学者であり地質学者であった。彼は高度を気圧から測定し、氷河がどのように移動するかについての理論をたてたが、また、州ごとに配列した、スイスのドラゴン(竜)についての理路整然とした目録も作成したのである。
  ショイヒツァーは、山の評価を変化させる上で、別の役割も果たした。彼は、山の軽い空気が健康に良い理由を説明する理論を、発展させたのだ。彼の考えの解説を見ると、ホテル案内の萌芽といった感じを受ける。山が回復力を生み出すと考えられたとき、山には違った光が当てられることになった。最終的に、この信念は、サナトリアムやホテルや旅行施設に結びついたのである。それらは非常な成功を収めたので、金持ちの目には、スイスは保養所となり行楽地となった。一九世紀の中頃、山のイメージは完全に逆転した。大胆な人間だけに適した、恐怖の身震いを起こさせる場所というイメージを遠く離れて、それは、不健康な人々の要求にぴったりの、恵み深い場所となったのである。アメリカもまた、この時期に、西部の山の魅力を認識した。一八七〇年代には、ロッキー山脈の澄んだ空気や、乾いた土や、鉱泉に目を向けさせるための活発なキャンペーンが始められた。コロラドはアメリカのスイスであると淵源され、あるいは、もっと熱狂的な雰囲気の中で、スイスがヨーロッパのコロラドであるとされたのである。

Book トポフィリア―人間と環境 (ちくま学芸文庫 ト 2-2)

著者:イーフー・トゥアン
販売元:筑摩書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月12日 (土)

『シンポジウム』柄谷行人 編・著

中井久夫の本をひっくり返しているうちに、この本が出てきて、久しぶりに読み返したらけっこう面白かったので、抜書き。    
中井久夫と木村敏がゲスト。「市川」は市川哲史。
    
精神病者の責任能力について。

木村 だから、反精神医学の人達のかなりティピカルな考え方として、分裂病にも責任能力を持たせよう、そのほうが彼らの人権を認めることになるんじゃないだろうかという意見がありますよね。全部が全部じゃないけれど。どちらがいいかというのは、ぼくはいえないですけど。
中井 犯罪の瞬間の責任能力を認めないということは、ただちにその人の人権を否定することになるのかな。裁判の過程は、修復の過程であり、ゆっくり時間をかけて法廷弁論を展開をしてゆくという過程が重要なので、判決や刑の執行が最重要なのではないとも考えられる。責任能力だって、最初からこれはだめだと検事が不起訴にする場合もあるけども、多くは法廷で時間をかけて論じられる。この過程も考えに入れるべきでしょうね。死刑の是非は棚上げして言うのですが、鎮魂の過程とも考えられませんか。日本の死刑囚の裁判は非常に長くかけているでしょ。あれはそれなりの理由があるんですよ。迅速に死刑執行したらどうなるか。死刑される人は、まだ昂ぶりが残っているからかえって楽かもしれないという意見もあるんですけど、しかし迅速に死刑を執行した結果は、加害者、被害者双方の家族その他の自殺が非常に多い。したがって家族が、それなりに心の中で折り合いをつけて、そして自分の新しい人生をそれぞれを歩みだしてからこっそり死刑執行する。それはあるわけです。実際、社会に的に合意が得られそうにない死刑を執行しないのは、戦後の日本の著しい特徴です。

ラカンについて。

中井 ぼくはラカンじゃないから何とも言えないけど、大体ラカンというのはよくわからんですよ。あれは本物か贋物かよくわからんので、誰か教えていただきたいんですが、たとえば無意識というのは言語的に構造化されていると言うでしょう。どうなんですかね。
木村 「言語のように」というか。
中井 「ように」なんですか。
木村 コムを使っていますね。とにかく「として」、あるいは「ように」でしょうね。どう訳すのかの問題ね。
中井 「言語のように組織されている」と言うと、これ全然違うから。
木村 「言語として」と訳すか......。
中井 うーーん。ラカンさん、その辺、はなはだ不透明なんですよね。
木村 ラカンというのは非常に不透明ですよ。だからそれをラカニアンの人達が、バイブルにするものだから(笑)。
中井 でもあれは、全員を破門して一人で死んでいくわけで。
柄谷 あれはフランス的現象ですよ、明らかに。なぜみんながラカンについて語るのかわからなくて、いろいろ聞いても、みんなが語るからとか......。
木村 日本もそうですよ。
中井 ラカンは単に回しているだけじゃないかと。
市川 日本人はあんなもの信じてないとおもうけど(笑)。
木村 いや、信じている人達が何人かいて......。
中井 ぼくはたまたまラカンの訳文を少し校訂させられたんですけど、あれはおじいさんの言葉として、おじいさんがわりと内輪の社会でしゃべっておるフランス語としてはそうおかしくはないんじゃないかと思ったんですね。そいつを哲学の文章みたいに訳そうとするから、さっぱりわけがわからなくなってくるんじゃないかとおもったんですけどね。

ダブルバインドについて。

柄谷 中井さん、ベイトソンのダブルバインドなんていうのは、どういうふうにお考えですか。
中井 分裂病に向かって人間を、キャナライズするのは、あにダブルバインドのみならんや、とぼくは思ってますけどね。ごく一部でしょ、これは。

| | コメント (0) | トラックバック (0)