「やさしいバイオテクノロジー」で 池内了の 「疑似科学入門」が批判されている。
「疑似科学入門」(岩波新書)はニセ科学? その1 遺伝子組換え
「疑似科学入門」(岩波新書)はニセ科学? その2 BSE
私も、この本を本屋で手にしたのだが、結局買わなかった。私にとっては、池内了というのは全く魅力の感じられない書き手なのだ。
しかし、読まなくても、この本がダメな本であることは分かる。
この本の中で展開されているBSEの話題はすべてと言い切っていいくらい「もう牛を食べても安心か」(ブルーバックス)に依存しています。
福岡伸一の「もう牛を食べても安心か」については、以前少し書いたことがある。(「福岡伸一は統計学の基礎を理解していない」)。
実は、「もう牛を食べても安心か」もちゃんとは読んではいないのだが、ちょっと目を通しただけでも、これが駄本であると断言することにためらいは感じない。
駄本に依存して書いた本が駄本になるのは当たり前である。
(ところで、「もう牛を食べても安心か」はブルーバックスではなくて、文春新書ですね。ブルーバックスから出ているのは「プリオン説はほんとうか?」の方)
以下、「やさしいバイオテクノロジー」の記述と、「もう牛を食べても安心か」に書かれていることを並べて見てみたいと思う。
福岡の文章の論理性の欠如ぶりを堪能していただきたい。
まずは、BSEのリスク分析について。
p160にもおもしろいことが書いてあります。
まずは、BSEのリスク分析について。
『アメリカの農務長官が「BSEの牛を食べてクロイツフェルト=ヤコブ病に罹るリスクは交通事故に比べて圧倒的に小さいのだから、あまり神経質になるのはおかしい」と述べたことがあった』
まっとうなリスク評価だと思うのですが、著者は『何かおかしいのではないだろうか』と疑問の投げかけています。
なんでなんかなぁ?
「もう牛を食べても安心か」の方を見てみよう。
では、リスク分析がいうところのリスクの数値化とは一体何か。それは端的にいって、死者の数である。狂牛病の問題に際して、食品安全委員会の専門調査会は、日本で汚染狂牛病肉を食べて死ぬ人間が出るとしても最大〇・九人と見積もった。これがリスクの数値化である。この数字自体、イギリスの狂牛病発生数、潜在的感染者数、日本で見逃されたかもしれない狂牛病数など極めて誤差の範囲が大きい推定数値を掛け算して求められた全くの概数でしかない。
死者の数の見積もり値が概数なのは当たり前である。
福岡は、それ以上の何を期待するのだろうか?
「極めて誤差の範囲が大きい推定数値」と言うが、その根拠は何なのか?
「極めて大きい」「誤差の範囲」とは一体どの程度の誤差なのか?
福岡は具体的な根拠は何一つ示さない。 (*2)
全ては福岡の主観的な判断でしかない。
しかし、議論はこれをもとに進むアメリカ産牛肉輸入解禁派はもっと小さい推定値を採用している)。そしていきなり、フグ毒と比較される。フグ毒に当たって死ぬ人間は、今でも年間数十人いる。それに比べると狂牛病のリスクは圧倒的に小さい。リスクの大きさからいって狂牛病はそれほど心配すべき問題ではないのだ。安全対策として危険部位の除去を行えばリスクは低減する。フグの卵巣を取り除くことと牛の特定危険部位を取り除くことは、安全対策上同じである、と。
「いきなり、フグ毒と比較」というのは、全く理解できない言い方だ。
なぜフグ毒と比較してはいけないのだろうか? (*1)
一体、福岡はBSEと何を比較すれば納得したのだろうか?
フグ毒と狂牛病病原体が同列に扱いうる"毒"ではないことは明らかである。プリオンは可変的で可動的で増殖を行うのだ。しかし、ここで驚かざるを得ないのはリスク分析思考が不可避的に体現しているある種の感性の欠如だ。それは政治的なものが示す感性の欠如と同種のちのである。歴史性や原因をすべて捨象して死者の数を比較する。ここにリスク分析の本質が如実に現れている。
「フグ毒と狂牛病病原体が同列に扱いうる"毒"ではない」ことは、(少なくとも私にとっては)全く「明らか」でない。(*1)
プリオンが「可変的で可動的で増殖を行う」からといって何だと言いたいのだ?
つまりリスク分析は極めてポリティカルな方法論なのだ。限られた予算をどのように分配するか、対立する利害をどのように調整するか。このような政治的問題を前に、本来甲乙つけがたいものに優先順位をつけ、本来線引きできないところに強引に線を引いて白黒をつける。それが政治であり、月齢で判断できる問題ではないにもかかわらず二〇ケ月齢以下の牛は全頭検査から除外してもリスクは増えないとした判断の正体がここにある。
リスク分析というのは政策を決定するための考えなのだから、「ポリティカルな方法論」なのは当たり前で、まさにそうあるべきなのだ。
「優先順位をつけ」「線を引いて白黒をつける」のが政治だというのは全く正しい。
政治の存在意義は元々そこにあるのだ。
それで、何がいけないのだろうか?
死者の数を比較し、フグ毒と狂牛病を比較する。死者の数だけを比較して物事を論ずるのであれば、年間一万人が死ぬ自動車事故に比べてすべてのリスクはたいしたものではなくなるだろう。リスク分析はあらゆる死者をフラットな数値に浄化してしまう。しかし、フグ毒で死ぬ人と狂牛病で死ぬ人は同じではない。これは実質的に同等ではない死者である。フグはある意味で時間の試練をくぐり抜けて私たちに納得されたリスクである。対して、狂牛病は人災であり、人為的な操作と不作為によって蔓延した、全く納得できないリスクなのだ。
一億数千万人に対して最大〇・九人ならば、自動車事故と比較するまでもなく、きわめて確率の低いものではないか?
また、「あらゆる死者をフラットな数値に浄化してしま」って何が悪いのだろうか?
国民の安全に関わる政策を考える人間が、死者の数を重視するのは当たり前ではないか?
「フグ毒で死ぬ人間は昔からいるのだから、重く考える必要はない」ということだろうか?
福岡は、フグ毒で死んだ人間の家族の前で、同じことが言えるのだろうか? (*1)
人間が見慣れたものより未知のものの方により恐怖を覚えるのは自然なことである。
そのような性質は人間の性質が形作られた過去においては淘汰上有利だったのであろう。
だが、人間は科学によって合理的に判断する術を手にしているのだから、いつまでも原初的な感覚のみに従って判断をしているわけにはいかないのである。
個人個人が自分たちの死についてどう判断するかはともかく、不特定多数の人間のための政策を考える立場にある人間ならば、合理的な判断を第一に優先すべきなのだ。
リスク分析は現状を受け入れてその順位づけと線引きを行うことしかできず、リスクのもつ歴史的な意味を解読する力はない。リスク分析は現状を改革する熱意もその力も待ち合わせてはいない。
しかし、狂牛病が私たちに問いかけているものはまさにこのことなのである。いかに現状を改革し、いかに損なわれた平衡の回復を求めればいいのか、それを狂牛病は問いかけているのである。
結局、福岡は死者の数よりも、「平衡の回復」の方に興味を持っているのだ。
福岡が「平衡の回復」に興味を持つのは勝手だが、我々が福岡の趣味に付き合わなければならない義理はないのだ。
(追記 2008.5.16)
(*1)フグに関しては、個人が危険性を承知して食べるのだし、フグ毒に対して国が何か積極的に対策をとる必要はない。
そういう観点からすれば、「フグ毒で死ぬ人と狂牛病で死ぬ人は同じではない」と言えるかもしれない思う。
だが、BSEを「人災」扱いするのは、やはり不適切だと思し、BSEを過剰に危険視するのも不合理であると思う。
(*2)前の方のページで、いくらか根拠を述べていたので(説得力があるかは別として)、削除。
(追記 2008.5.25)
「感情と合理性 ~若干の弁明~」の方も参照ください。