カテゴリー「哲学」の記事

2008年6月30日 (月)

占い

ウィトゲンシュタインの「青本」より。
昨日の「マグニチュード」の話とちょっと似ている。

もし水脈占いが、占い杖を手にすると地下五フィートに水があるのを感じるのだと言ったとしたら。あるいは、地下五フィートに金銅鉱があるのを感じると言ったとしたら。そしてそれを疑う我々に、「君は目で長さを見積ることができるだろう。私が別の見積り方をしてどこがいけない」と答えたと考えてみたまえ。
 [だが】そのような見積り観念[の意味]をよく理解すれば、水脈占いや鼻の付け根の奥に視覚イメージを感じると言う人の言葉に、我々が抱く疑惑の性質が明らかになろう。
  「この鉛筆の長さは五インチだ」という陳述、そして「この鉛筆の長さは五インチだと感じる」という陳述がある。我々は、始めの陳述の文法と第二の陳述の文法との関係をはっきりさせねばならない。「私は手に、地下三フィートに水があるのを感じる」という陳述に対して「それは何を意味しているのかわからない」と答えたくなろう。
だが水脈占いはこう言うだろう、「いやその意味を君はもちろんわかっているのだ。君は『地下三フィート』が何を意味するか知っているし、『私は感じる』が意味することも知っているじやないか!」、と。これに対して私は答えよう、私はある文脈の中で語が意味する所を知っているのだ。例えば、「地下三フィート」という句を理解するのは、「測定によれば水は地下三フィートを流れている」 三フィート堀り下げれば水にぶつかるだろう」「水深は目測で三フィート」、こうしたつながりの中でなのだ。しかし、「水は地下三フィートにありとの私の手の感じ」という表現の使われ方は説明してもらわねば私にはわからない。
 水脈占いにこう尋ねることもできよう、「君は『三フィート』という語の意味をどういう風にして習ったのだ。
その長さのものを見せられたり、その長さを測ったり、といった式でだったろう。だがまた、水は地下三フィートにあるという感じ、君の手の中の感じでもいいが、その感じを云々することも教えられたのか。もし教えられていないとすれば、君が『三フィート』という言葉を君の手の中の感じと結びつけるのは何によってなのだ」と。我々はいつも長さは目で測って、指あてで測った経験がない、としてみよう。すると、[開いた]指を繰返しあてることで物をインチ単位で測ることが我々にどうしてできよう。つまり、インチ単位の指測りの経験をどうして理解できようか。問題は、例えば[指測りするときの]触感覚と物をヤード尺を使って[目で]測る経験の間にいかなるつながりがあるか、なのである。このつながりが「ある物が六インチの長さだと感じる」とはどういう意味なのかを教えてくれるのだ。それに対して水占い師が「私は水の地下深度と私の手の感じを対応付けるように習ったことは全然ない、しかし、私が手に或る緊張感を感じるときには『三フィート』という言葉が頭に涌きだしてくるのだ」と言ったとすれば、こう答えるべきだ、「それは、君が『深さが三フィートと感じる』で意味することの立派な説明になっている。そして君がそれを感じるという陳述の意味はまさに君が与えたその説明そのものであって、それ以上でも以下でもない。更にもし、実際の水の深度が君の頭に浮ぶ『nフィート』という言葉といつも一致することを経験が示すなら、君の体験は水の深度をきめるのに非常に役立つだろう」と。-―だがそういうためには、 「水の深度はnフィートだと感じる」という言葉の意味を説明してもらわなければならなかったことが君にもわかるだろう。普通の意味での(すなわち、普通の文脈の中での) 「nフィート」という語句の意味がわかっていても、上の言葉の意味はまだわかっていなかったのである。

占いで一番分からないのは、なぜそのことが分かるのか、どうやってそのことが分かるのか。ということだ。
「A型・双子座のあなたの今日のラッキー・アイテムは白いハンカチです」などと言われると、「なぜ、そうだと分かるんですか?」と聞きたくなる。
「霊感で分かったのだ」と言われても、どういうことなのかよく分からない。
「A型・双子座」という言葉と「ラッキー・アイテム」という言葉と「白いハンカチ」が頭に浮かんだと言うことなのだろうか。
誰かちゃんと説明してもらいたいものだ。

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2008年5月23日 (金)

科学図書館

これは素晴らしい。

科学図書館

Wikpediaの「戸坂潤」の項目からリンクで見つけた。
後で読む。

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「偽装した近代的観念論」

中央公論新社の「哲学の歴史 10」を読書中。
唯物主義者なので、解釈学について書いたものを読んでいるとムカムカしてしまう。
気分転換のために、戸坂潤の「偽装した近代的観念論」を読む。

 解釈という以上、夫は無論事実の解釈のことである。事実がない処に、どんな意味の解釈もあろう筈はない。と共に、解釈を伴わず解釈を俟つことのない如何なる事実も無い、ということも亦本当だ。過去の歴史上の事実ならば、解釈の如何によって事実であるとも事実でないとも決定されようが、例えば実験上の事実に就いて、解釈の余地がどこにあるか、と云うかも知れない。自分自身が直き直きにぶつかった事実のどこが解釈に依っているかと云うだろう。けれどもそう云うならば、純粋な事実としての事実というものは実はどこにもないことになるので、あるものは恐らく単なる孤立した印象か何かでしかないことになる。事実ということは、そういう意味では、事実と解釈されたもののことに他ならない。解釈のないところには事実も亦あり得ない。
 だから、問題が哲学などになれば況してそうであって、どんな哲学でも、解釈に依らず又解釈を通らずに、事物を取り扱うことが出来る筈はない。そういう意味では一切の哲学が解釈の哲学だと云っても云い過ぎではないのだ。元来事実の解釈ということは、事実が持っている意味の解釈のことであり、そして、事実はいつでも一定の意味を有つことによって初めて事実という資格を得るものだから(そうではない事実は無意味な事実だ)、事物間の表面からは一寸見えない連関を暴き、隠された統一を掴み出すべき哲学が、事実の有つだろう意味の在りかをつきとめるために、特にその解釈の力に於て勝れていなければならぬのは、寧ろ当然だろう。
 だが実は、この解釈自身に、事実の持っている意味のこの解釈自身の内に、問題が横たわっているのである。実は云わば、自分自身を活かし発展させて行くためにこそ意味を有つわけであって、従って事実のもつ意味とは、専ら事実自身の活路と発展のコースとを指すものに他ならない。で、この場合大事なことには、夫々の事実の持っている夫々の意味は、あくまで夫々の事実自身に対して責を負うているのであって、従って事実は自分の有つ意味を一旦通って自分自身に帰着することによって、初めて事実として安定を得ることが出来るわけだ。意味は事実そのものに戻って来るべく、元の事実に向って責を果すべくあるのだ。だから事実の解釈はいつも、事実を実際的に処理し、之を現実的に変革するために、又そうした目標の下に、下される他はない筈なのである。現実の事物の実際的処理は、いつも事物の有つ意味の最も卓越した解釈を想定している。
 処が他ならぬ「解釈の哲学」は、この解釈の機能そのものに於て躓くものなのである。ここでは解釈はこの本来の役割から脱線し、事実の実際的処置という解釈元来の必要と動機とを忘れて、専ら解釈としての解釈として展開する。と云うのは、事実の有っている意味が、もはや事実の意味であることを止めて、単なる意味だけとなり、かくて意味が事実に代行し、現実の事実は却って意味によって創造された事実とさえなる。こうした「意味」は意味の元来の母胎であった現実の事実自身の、活路や発展コースであることからは独立に、専ら意味自身の相互の連絡だけに手頼って、意味の世界を築き上げることが出来るようになる、ということを注意しなくてはならぬ。或る「意味」と他の「意味」とが連絡するのは、夫々の母胎である夫々の事実間の連絡を手頼りにしてであるべき筈だったのに、ここでは意味と意味とが、極めて、奔放に、天才的(?)に、短絡して了う。こうやって現実の代りに「意味の世界」が出現する。現実界はわずかに、この「意味の世界」にあて篏まる限りに於て、意味の御都合に従って、取り上げられ解釈されるだけである。――之が解釈哲学に於ける所謂「解釈」のメカニズムなのだ。ここで天才的(?)想像力や警抜や着想や洞察と見えるものは、実は狂奔観念や安直な観念連合や、又安易で皮相な推論でしかなかったのである。

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2008年5月22日 (木)

目を開いているのに閉じていると感じる錯覚作成法

これまた、錯覚ネタです。

医学都市伝説 目を開いているのに閉じていると感じる錯覚作成法

まず、かろうじて光が入る暗めの場所を探す。私の場合はトイレの電気を付けなければ条件にあう事が判ったので、ドアの隙間から入る光でものの輪郭が判るようになるまで、5分ほど籠もる。ここで注意が必要なのは、ドアの隙間の光はかすかに判る程度で、初めからものが見えるほど明るくてはいけないというのと、真っ暗闇でもダメだという二点である。

暗順応が成立したところで右目を手でふさぎ、明るいところに出る。左目の明順応の方は一分もせずに完成するので、また先ほどの暗い場所に戻り、そこで両目を開く。右目は暗順応が成立しているので、何とか視力は保たれているが、左目ではドアからの光以外は何も見えない。

この時不思議なことに、単に左目が見えないと感じるのではなく、「左目は閉じられている」と感じるのである。さらに不思議なのが、ここで見えない左目を手で覆うと、目が閉じられていると言う錯覚は瞬時に消失することだ。「目を閉じているのではなく、手で覆っているから見えない」と、理屈で判断した結果だとは、ちょっと考えにくい。

さっそく、やってみました。

私の場合は、「左目は閉じられている」という感じとは微妙に違うような気がしました。
左目の方に黒い幕が半分かかってるような感じが数秒続いた後、パッと幕が消えるような感じがしました。

ところで、関係あるのかないのかよく分からないのだが、ウィトゲンシュタインが、「わたしは、片目をつぶったときに、視野の半分が真っ暗に見えないことの説明を聞いたことがない」というようなことを書いていたはず。
(「哲学探究」だと思ったのだが、見つけられなかった)
片目の前に手を置いて、段々目の方に近づけていくと、最後には手が「透明」になりますね。
これの説明も考えてみると面白いかも。

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2008年5月12日 (月)

『進化論と倫理』内井惣七

内井惣七の『進化論と倫理』のウェブ版が公開されている。

http://homepage.mac.com/uchii/Papers/FileSharing83.html

読みたいと思っていたのだが、入手困難になっていたので、これはうれしい。
読むべし!

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2008年5月 5日 (月)

『哲学ファンタジー』レイモンド・スマリヤン

 特にこれと言った理由はないのだが、レイモンド・スマリヤンの『哲学ファンタジー』から、抜粋してみる。
  茂木健一郎について書くという、不毛な作業の間の気分転換にはいいだろう。
  大好きな本なのだが、この本については、あまり見たり聞いたりしたことがない。私のようなねじれた論理が好きな人間にとっては、たまらなく面白い本なのだが。
  脳の活性化だの、ナントカ勉強法だのといった本のかわりに、こういう本が売れてくれたらうれしいのだが、まあ、無理な相談だろう。

      10
 意味論の問題。哲学者のアラン・ロス・アンダーソンが、あるセミナーで、次のようなおもしろい出来事を話したことがある。アンダーソンは、第二次世界大戦中に合衆国海軍に所属し、日本車の暗号を解く部門に勤務していた。暗号文書に何度も出てくる一語(数字で表されている)があったが、その意味を解読するのに全員が必死になっていた。苦労の末、その単語は、国や国民を形容する単語(「この国は~である」・「あの国は~でない」)であることが判明し、その後、多量のデータを収集した結果、それは親日派と解読されるに至った。終戦になって、極秘暗号衣が押収された。その言葉の本当の意味は、誠実であった。

      13      
 最近、星占いを信じているかどうかを、私に尋ねた人がいる。私が、「自分は双子座の人間だからそんなものは信じない」と言ったところ、その人はかなり困惑したようだ。

      14
 私は長年手品を演じてきたので、女性を半分に切ったことがあるかと、しばしば尋ねられることがある。私は、次のように答えることにしている。「ああ。もちろんですよ。今までに、七十人以上の女性を半分に切ってきました。切った後のトリックをどうすればいいのかを、今、練習しているところなんです。」

      18
 神の存在の証明について、お話ししよう。私が今までに聞いた中で、最もおもしろかった証明は、ある大学一年生のレポートである。彼女は、次のように書いていた。「神は、存在しなければなりません。なぜなら、もし神が存在しないとすれば、私にその存在を信じさせるほど、神が意地悪であるはずがないからです!」この論法は、アンセルムスやデカルトの提唱した神の存在の本体論的証明に比べて、実際にそれほど劣るものだろうか?

       19
 私が常々不思議に思うのは、非常に多くの敬虔な信仰者が、神は、神を信じる人々に恩恵を施すであろうと、当然のように信じている点である。実は神は科学的で、証拠ではなく信仰に基づく信念に対して、我慢ならないお方であるという可能性はないのだろうか?

       20
 神の本質に関するこのような考え方は、パスカルの賭けによって生じた問題と無関係ではないかもしれない。パスカルは、神を信じないより信じる方が得だと言う。なぜなら、もし神が存在しないにもかかわらず神を信じる場合の損失は、神が存在するにもかかわらず神を信じない場合の計り知れない損失に比べて、微々たるものだからというわけである。(もし神が本当に存在し、その神を信じなければ、天罰は永遠に下されるだろうから、損失は無限大である!)それゆえに(パスカルによれば)、純粋な確率理論から客観的に考察した上から、神を信じることは合理的なのである。
 さて、もし神を信じることが少しでも救済の確率を増加させるのであれば、私も神を信じる方が得であることに同意しよう。しかし、なぜこの仮定が真だと言えるのだろうか? 一人の魂に天罰を永遠に下すほど非道な神に対しては、どんな議論においても信用できないように思えるのだが!

       21
 19で述べた考え方に対する気の利いた反例がある。以前、あるプロテスタントの牧師が、次のように言った。「私の知る限り、神の恩恵を受けた優れた人々は、みんな無神論者なのです。なぜでしょう?」
 「そのような人々を、どのようにして信者にするおつもりですか?」と、私は遂に尋ねた。「信者ですって?」と答えて、彼は言った。「誰が信者にしたいなどと恩うものですか。」

       22
 かなり若いころ、私は興味深い会話の交わされた場面にいた。一人が、「僕は神が存在することを知っている!」と言った。
 すると、別の一人が「そうかい。僕は神が存在しないことを知っている。」と言った。
 二つの相反する命題が両方とも知られているとは、驚くべきことである。実際、これらの命題は、どちらにしても、いかにして知ることができるのだろうか? もし本当に神が存在するとして、その事実は、ただ信じられるばかりでなく、知られうるものだろうか? おそらく、何か神秘的な洞察によって知ることができるのかもしれない。一方、もし神が存在しないとして、その事実は知られうるものだろうか? もちろん、どんな科学的な方法によっても、それは不可能である! すると、やはり何か神秘的な洞察によって知ることができるのだろうか? こちらは、何者かの存在ではなく、何者かの非存在を洞察するという、興味深いタイプの神秘主義だと考えられるだろう!

       24
 フロイトは、彼の著書において、文明が宗教の幻想を見破り、拒絶するようになることの必要性を、全精力を傾けて論じている。彼は、そのような幻想が文明に浸透した際に、どのような心理学的な帰結が生じるかを解明しようとして、しかもこれを有意義な研究だと考えて、宗教側からの反論を一掃しようと多大な時間を費やしたのである。
 私のような現実主義者にとっては、宗教が文明に有害か有益かというよりは、むしろそれが真実かどうかが問題だと思われる。しかし、フロイトは、この問題をほとんど考慮していない。彼は、宗教が偽であることを当然の事実だと考えており、なぜ人が神を信じるのかについて、純粋に心理学的に説明を行っている。さて、私もフロイトとほとんど同じ理由によって、もし神が存在しないとしても、人は神を信じ続けるに違いないと思っている。しかし、このような予測は、有神論の真偽に関する根本的な問題については、何の解決にも光明を投げかけない。すでに多くの学者が明らかにしてきたように、信念の起源についての純粋に心理学的な説明は、信念そのものの真実性を肯定あるいは否定するための理性的な根拠にはならない。(もっと多くのマルクス主義者に、このことを実感してほしいものだ!)
 多くの親は、子供に宗数的な教育を与えることについて、それが子供のためになるからだと正当化している。しかし、私は、実際には親自身が宗教を信じるかどうかが、教育に大きな影響を及ぼしていると思う。ただし、常にそうだというわけでもない。
「私自身は神を信じないんだが、それでも私は、すべての子供が宗教教育を受けるべきだと思う」と言う父親がいた。なぜ彼がこのように言ったのか、私は不思議に思っている。彼は、子供に嘘をつくことがよいことだと信じていたのだろうか? それとも、彼の深層心理では神を信じていることを、彼自身では気付いていなかったのだろう
か?
 一方、これとは逆に、神を信じるにもかかわらず、宗教教育が子供のためによくないと思う人の話は、これまでに聞いたことがない。つまり、有神論と無神論の問には、興味深い非対称性があるようだ。多くの無神論者は、神を信じることを悪いことだと思っている。しかし、この悪いことだという感覚は、無神論から導き出された帰結ではない。一方、すべてではないだろうが、多くの現存する宗教においては、神を信じないことの悪は(信じることの善と同じように)宗教自体によって導かれている。事実、多くの宗教は、教義の一部に明確にその善悪を提示している。
 フロイトは、彼の反宗数的な思想が与える一般的な影響を、非常に気にしていたようだ。彼の著作自体はおもしろいが、結果的に、宗教の幻想を一掃することができたかといえば、もちろんどれはどの影響力があったかは疑問である。宗教は、私たちには理解不能な独特な法則に従って、流行したり衰退したりしているようだ。そして、私たちの宗教問題についての選択は、おそらく私たちが思っているよりもずっと意昧のないことであろう。

       25
 唯我論者とは、「私しか存在しない」と主張する人のことである。(私は、実際に唯我論者がそんなことを言う必要があるのかと思う。そう信じているだけで十分なはずだが!)アラン・ロス・アンダーソンのある講演で、唯我論について二時間ほど討論したことがあった。論争も終わりに近づいたころ、私は立ち上がって言った。「この時点で、私は逆唯我論者になってしまったようだ。私は、私を除いた全員が存在するのではないかと思う!」
 
       26
 論理学者のメルヴィン・フィッティングは、彼独特のユーモアで、私に言ったことがある。「もちろん私は、唯我論が正しい哲学だと信じているよ。ただし、これは私一人の意見にすぎないがね。」

       27
 このコメントは、バートランド・ラッセルに宛てて手紙を書いた女性の有名な話を思い起こさせる。「なぜあなたは私が唯我論者と聞いて驚くのでしょう。誰もがそうなのではありませんこと?」

       28
 私は、実際に多くの唯我論者に会ったことがある。その中の一人が、私に言った。
「スマリヤン、君は存在しないんだ!」
「君が存在しないと言っているのは、いったいどこののことだい?」と、私は答えた。
 
       29
 別の唯我論者が言った。「私しか存在しない。」
 「そうだ」と私は答えた。「私しか存在しない。」
 「違う、違う!」と彼は言った。「私は、私しか存在しない、と言っているんだ。」
 「それは私が言っていることだよ。私しか存在しない。」
 「違う、違う、違う!」と彼は興奮して叫んだ。「存在してるのは、君じゃなくて私だ!」
 「そのとおり。」私は繰り返した。「存在しているのは、君じゃなくて私だ。完全に意見が合いますね!」
 この時点で、彼は完全に混乱したようだ。
 
        31
 私は、ときどき不思議に思うことがあった。攻撃的な唯我論者は、もし周囲の人が彼に反論せず、ただ賛成ばかりしていたら、どのように反応するのだろうか! そこで、ある日このことを精神分析医に尋ねてみた。披は答えた。「その唯我論者は、ぞっとするだろうと思うよ!」

       34
 精神分析医から哲学者の話に戻ろう。ある哲学者が、次のような夢を見た。最初にアリストテレスが現れたので、その哲学者は言った。「あなたのすべての哲学について、十五分ほどで概要を教えてくださいませんか?」その哲学者の驚いたことに、アリストテレスはわずか十五分の間に、莫大な量の事柄を凝縮した見事な解説をしてくれた。しかし、あることを哲学者が反論すると、アリストテレスは答えられなかった。論駁されたアリストテレスは、消えてしまった。次に、プラトンが現れた。だが、このときも同じことが起こった。プラトンに対する哲学者の反論は、アリストテレスに対するものとまったく同じだった。プラトンもこれには答えられず、結局消えてしまった。続いて、歴史上の著名な哲学者が次々と現れた。しかし、この哲学者は同じ反論を唱えて、全員を論駁することができた。最後の哲学者が消えた後に、この哲学者は独り言を言った。「私は今眠っている。これが全部夢であることも知っている。それでも、私は、すべての哲学に対する普遍的な反論を発見したのだ! 明日目を覚ましたら、この反論を忘れてしまっているかもしれない。それでは、人類にとって大損失になる!」彼は、不屈の精神で自分の目を覚まさせ、机に駆けつけると、その普遍的な反論を書き付けた。そしてベッドに飛び込み、ほっとして眠った。翌朝目を覚ますと、彼は机に駆け寄って、自分が何と書いていたかを確認した。そこには、次のように書いてあった。「それは、あなたが勝手に言っているだけでしょう!」

       35
 「人生とは何か?」この問題に集中するため、十年間押し入れにこもっていた哲学者の話がある。彼が押し入れから出て街へ行くと、者の同僚と出会った。彼は、この長い回、いったいどこにいたのかと聞かれた。
 「押し入れの中にいた」と彼は答えた。「人生とは何かを知りたかったんだ。」 「それで、答は見つかったのかね?」
 「見つけた」と核は答えた。「人生は橋のようなものだというのが、最も核心に近いと思う。」
 「それは実に興味深い」と同僚は答えた。「しかし、もう少し明確に説明してくれないか。人生は、どのように橋に似ているのかね?」
 「うーん」と考え込んで、哲学者は言った。「君はなかなか鋭いな。もしかすると、人生は橋には似ていないかもしれない。」
       
       39
 論理実証主義の基本原理の一つに、どんな文も、それが真か偽かを検証する方法がない限り、意味があるとはみなされないというものがある。この意味では、論理実証主義という言葉など聞いたことがなくとも、多くの人が論理実証主義者であろう。
 ピアニストのアルトゥール・シュナーベルは、おそらくこの意味では、論理実証主義者に違いなかった。私は、シカゴ大学で、シュナーベルのすばらしい集中講義に参加したことがあった。質疑応答のとき、誰かが彼に、最近の批評記事についてどう思うかと尋ねた。
 「私は、自分に対する批評は読まない」とシュナーベルは答えた。「少なくとも、アメリカでは読まないね。アメリカの批評で困るのは、私がどうすればいいのか、よくわからないことだ。ヨーロッパでは事情が違う。たとえば、いつかベルリンでコンサートをしたときだが、批評家はこのように書いた。『シュナーベルは、ブラームスのソナタの第一楽章を遠く弾きすぎた』とね。思い返してみると、たしかにこの男の批評は正しかった。こういう批評ならば、どう対処すればよいのか、すぐにわかる。つまり、その第一楽章を少しゆっくりと弾けばいいんだ。ところが、アメリカの批評家ときたら、『シュナーベルの問題は、彼のピアノに遊びがなさすぎることだ』なんて書いているんだ。こんなこと言われたって、どうしたらいいかわかりやしないよ!」
 
       40
 別の講義で、シュナーベルは言った。「信じられないかもしれないが、イーゴリ・ストラヴィンスキーは、論文に次のように書いている。『偉大な音楽は、完全に冷徹かつ無感情でなければならない』それで、先週の日曜日のことだが、アーノルド・シェーンベルクと朝食をとったとき、彼に言ったんだよ。『ストラヴィンスキーが、偉大な音楽は、完全に冷徹かつ無感情でなければならないと書いたなんて、信じられるかね?』シェーンベルクは、これを聞いてかんかんに怒って、言ったよ。『その言葉を最初に言ったのは私だ!』とね。」
 
        45
 私は、ピアニストのアルトゥール・ルビンシュタインのラジオ・インタビューを聞いたことがある。全体的な印象として、聞き手はかなり陳腐で、まぬけだった。インタビューの最初に、彼は突然尋ねた。「ルビンシュタインさん、あなたは神を信じますか?」緊張の沈黙があった。「いや」とルビンシュタインは、はっきりと答えた。「いいかね。私が信じているのは、もっと偉大なことだ!」

       47
マーク・トゥエインは、リヒャルト・ワーグナーの音楽をどう思うかと問われて言った。「うん。実際に聴こえるほど悪くはないんじゃないか!」

       48
 音楽と数学。数学者フェエリツクス・クラインがあるパーテイーに行くと、集まっていた人たちが、音楽と数学の相関関係について話し合っていた。議論がその性質や形式の類似にいたるにつれて、クラインは徐々に困惑の表情になっていった。しまいに、彼は言った。「私には、数学と音楽がどう似ているのか、よくわからん。だって、数学の方は、とても美しいんだよ!」

       55
 何かの本に、真の哲学者とは、九歳の少女であると書いてあったのを読んだことがある。彼女は、窓から外を眺めていたが、突然振り向いて、母親に言ったそうだ。「それにしても、どうしてこんなに何でもあるのかわからないわ!」
 次にご紹介するのは、私の出会った子供たちが語った言葉だが、明らかに哲学的なニュアンスを含んでいる。
 ヴィンセント (三歳)。ヴィンセントは、生まれて初めて飛行機に乗ろうとしたとき、父親に聞いた。「空に昇ったら、僕たちも小さくなるの?」
 バリー(五歳)。ある日、バリーが言った。「九九歳にならないといいなあ!」
 「どうして?」と私は聞いた。
 「だって、そこまで年とったら、死んじやうかもしれないよ!」
 ミリアム(八歳)。ミリアムは、数理論理学者の娘だ。彼女は、父親の性格を受け継いだか、または習得したらしい。夕食の途中に、彼女の父親が言った。
 「何ですか。そのミリアムの食べ方は!」
 彼女は答えた。「私、ミリアムなんて食べてないもん!」
 ジェニファー(六歳)。ジェニファーは哲学者の娘である。ある朝、彼女の兄ジョニー(八歳)が朝食に降りてきて、両親に次から次へとエイプリル・フールの嘘を披露した。そこヘジェニファーが降りてきたので、ジョニーは彼女にも嘘をついた。
 「いったいどうしたの、ジョニー。」と彼女は言った。「今日はエイプリル・フールじゃないわよ!」
 「えっ、違ったっけ?」彼は驚いて叫んだ。
 「エイプリル・フールでしたあ!」
 あるとき、ジェニファーは、映画に連れて行ってもらった。帰ってきた彼女は、母親に言った。「ママ、今まで作られた中で、一番おもしろい映画はなあに? ママが一番おもしろいと思うのじゃなくて、一番おもしろい映画を敦えてほしいの。」
 デイビッド(十歳)。妻と私とで、デイビッドの家族と一緒にドライブ・イン劇場に行ったときのことだ。最初の映画はすばらしかったが、次に始まったのはひどくつまらなそうだったので、大人の一人が出ようと言った。デイビッドはもちろん残っていたかったので、議論が始まった。
 「多数決で決めたらどうだい?」と私が提案した。
 「だめだよ!」デイビッドが言った。「多い方が勝つんだから、不公平だ!」
  ナタリー(八歳)。ナタリーも、数理論理学者の娘である。彼女の一家が、週末に私の家に遊びにきた晩、「時間」について、活発な哲学的議論をしたことがあった。どういうわけか、私は時間は実在しないという立場をとることになった。
 翌朝、朝食のとき、誰かが二人の知人のどちらが年上かを尋ねた。
 「ビルが二歳年上だよ」と私は答えた。
 「どうしてそうなるの?」とナタリーが間いた。「時間は、実在しないって言ってなかった?」

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2008年4月22日 (火)

「不完全性定理」と人間の心

『ゲーデルと20世紀の論理学 1』田中一之〔編〕の飯田隆執筆部分より引用。
私は「不完全性定理」なんぞ理解できないので、内容については聞かないでくれ。

 「ゲーデル」や「不完全性定理」といった名前は,いまでこそ,数学や哲学を専門とするわけではない多くのひとにも知られているが,こうした事態は,たがいに無関係ではない二つの原因によって引き起こされたと思われる.
ひとつは,コンピュータの存在であり,もうひとつは,皮肉にもテューリングが斥けた種類の議論である.第一不完全性定理は,数学の全体の完全な形式化が不可能であることを示した点て,知識の体系化についてのギリシア以来の理想が実現不可能であることを示した.さらに第二不完全吐定理は,数学を数学内部で正当化することをめざしたヒルベルトのプログラムが当初考えられていた形では遂行できないことを示すことによって,数学の基礎に関する研究の方向を大きく変えることになった.だが,数学以外の領域におけるわれわれの知識の非体系性・非形式性をみるとき,これらの定理の影響は数学の内部にとどまると考えるのが当然だろう.
 ネーゲルとニューマンの共著になる『数学から超数学へ』-原題はもっとそっけなく『ゲーデルの証明』というのだが-は,ゲーデルの不完全性定理を一般読者向けに解説した最初の本として,それが出版された1958年より現在に至るまで,多くの読者をもつ本である.そのごくはじめの方に,つぎのような文章がある.

この定理〔=ゲーデルの定理〕が教えるのは,人間の心に備わる構造と能力とは,これまで想像されたどんな機械にも及びつかないはど複雑かつ精妙だということである[Nagel and Newman 1958,p.10]

ここには,ゲーデルの不完全性定理に関して目にすることの多い文章の典型がある.そうした文章は,ゲーデルの定理が示したとされる機械のもつ原理的限界に触れ,ついで,そのことによって人間は機械から区別されるとする.
ゲーデルの定理についての一般向けの宣伝としてこれ以上に有効なものは考えられないだろう.
 だが他方で,事情に通じている哲学者や論理学者の目から見れば,それは,ゲーデルが証明した事柄についての誤解と,論理上の初歩的な誤謬の産物でしかない.パトナムは,1960年の論文「心と機械」のなかで,ネーゲルとニューマンの本からの先の文章を引いて,それは「ゲーデルの定理の誤用以外のなにものでもない」ときめつけている[Putnam 1960].ネーゲルとニューマンの議論をパトナムはつぎのように再構成する.--いま仮に,私の数学的能力がテューリング機械によって「表現」できるとしよう.つまり,それが証明できる数学的命題が,私が証明できる命題と同一であるようなテューリング機械TMが存在すると仮定する.ゲーデルの定理によれば,TMによっては証明できない命題Uを私は構成できる.しかも,私はこのUを証明できる.このことは,証明できる数学的命題の範囲が,TMと私とで一致するという最初の仮定と矛盾する.よって,この仮定は否定されなければならない.すなわち,私はテューリング機械ではない.
 こうした議論に対してパトナムは,任意のテューリング機械TMが与えられたとき,ゲーデルの定理から出てくることは,つぎの二つの条件を満足するような命題Uの存在でしかないことを指摘する.

   (1)TMが無矛盾ならば,TMはUの真偽を決定できない.
   (2)私は
     (*)もしもTMが無矛盾ならば,Uは真である
   
   ことを証明できる.

しかし,ここには,私と機械とのあいだの非対称性が存在する余地はない.なぜならば,第一に,(*)は私にとって証明可能であるだけではなく,TMもまた(*)を証明できるからであり,第二に,UをTMは証明できないとしても,私にもまたUを証明することは不可能である一一Uを証明するためにはTMが無矛盾であることを証明しなければならないが,TMが複雑であるな削よそうできる望みはありそうにないからである.
 パトナムのこうした指摘にもかかわらず,ゲーデルの定理が機械に対する人間の優越性を示すとする議論は根絶されなかった.それどころか,パトナムの論文が出た翌年ルーカスは,その論文「心と機械とゲーデル」[Lucas1961」のなかで,パトナムが批判したのとまったく同じタイプの議論を繰り返している.

ゲーデルの定理はサイバネティカルな機械にあてはまるはずである.なぜならば,形式的体系の具体化であるということは,機械であることの本質に属するからである.それゆえ,無矛盾であって,簡単な算術を行うことができるどんな機械についても,その機械によっては真として提示されえない体系のなかで証明不可能であるが,われわれには真であるとわかる式が存在する.よって,どんな機械も心の完全で十全なモデルではありえない,心は機械とは本質的に異なる.[Anderson 1964,p.44]

 ルーカスの議論はただちに多くの反論を招き,少なくともアカデミックな哲学のなかでは葬り去られたかのようにいったんみえた.ところが,1989年に出版された『皇帝の新しい心[Penrose 1989]のなかで,イギリスの物理学者ペンローズが,ゲーデルの不完全性定理をもとに,数学者の直観はどのようなアルゴリズムによっても表現できないと論じるに及んで,ルーカスは強力な援軍を得ることになった.『皇帝の新しい心』の続編『心の影』[Penrose 1994]でもゲーデルの定理は中心的な役割を演じている.『アメリカ数学会会報』に掲載された後者の書評[Putnam 1995]はパトナムによるものであるが,かれは,35年経ってもまた同じことを繰り返さなければならないのを嘆いているかのようにみえる.

『心の影』は「論争を呼ぶ」本として迎えられるだろうし,量子力学や計算機科学の難解な概念の説明を含むにもかかわらず,売れ行きはよいにちがいない.だが,評者には,この本の出現は,われわれの現在の知的生活における悲しむべき出来事だと思われ
る.ロジャー・ペンローズは,オックスフォード大学のラウズ・ボール数学数授であり,権威あるウルフ物理学賞をスティーブン・ホーキングと共同受賞してもいる.それにもかかわらず,かれは,数理論理学の専門家のすべてがずっと以前に誤謬であるとして斥けた議論を正しいと信じ,それを擁護するために,この本と,その前の『皇帝の新しい心』を書いたのである.悪名高いルーカスの議論を専門家のすべてが斥けたという事実は,ペンローズの目には何ら重要と映らない.かれは自分と論理学者たちとのあいだにあるのは哲学的な見解の相違であると信じているが,それは誤りである.実際のところ,そこにあるのは数学的誤謬以外の何物でもない.

日本にも、茂木健一郎や竹内薫のようにペンローズの「量子脳」理論を持ち上げる人間がいるが、こういう連中は信用しないこと。

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2008年4月21日 (月)

自由意志について

「意識による判断の7秒前に、脳が判断」:脳スキャナーで行動予告が可能

(略)
Haynes博士が行った実験は、神経生理学者Benjamin Libet氏による古典的な実験[1970年代の研究]を最新式にしたものだ。Libet氏は、被験者が実際にボタンを押すことを選択するほんの一瞬前に、運動を司る脳の領域が発火することを明らかにした。

その後の研究でも、意識的な選択の前に潜在意識の活動が行なわれており、潜在意識が意識的な選択を決定している、というLibet氏の理論が支持されてきた。しかし、今回の研究のように、脳内の決定とそれを認知するまでの間にこれほど大きな隔たりが認められたのは初めてのことだ。

(略)

今回の研究結果が示唆していることは、自分が自由意志を持っているという考えに慣れている人たちにとって、他の脳機能が生理学に基づいていることを学ぶ以上に、はるかに不安にさせられるものだろう。

この研究は、「自由意志」の問題とは関係ないと思うけど。脳内での決定とそれが意識されるまでにズレがあるってだけのことで。
「意識」と「自由意志」は別物だし。
そもそも、「自由意志」の問題というのは哲学の問題であって、実証的に検証されるようなものじゃないでしょ。
「自由意志」というものを、何か物理的法則から外れたものだとするなら、そんなものあるわけないでしょ、と思う。別に、ないという証拠があるわけじゃなくて、そんなものは合理的とは思えないってだけの話。

「生気論」と一緒ですよ。
「生気」なんてものは、今ならまともな科学者は信じないようになってるけど、それは「生気」が積極的に否定する証拠が乱されたからではない。生物に関する科学的な知識が積み重ねられていって、「生気」なんてものを持ち出さなくても生物のことを説明できるようになったから、「生気」なんてわけの分からないものを持ち出す必要がなくなった、ということ。
脳に関しては、まだまだ分からないところが多いから、「自由意志」の存在を信じたい人は、まだ分かっていない部分に「自由意志」の居所を求めることになるでしょう。その場所は、どんどん小さくなっていくわけだけど。

しかし、研究結果に疑問を呈する余地はあるし、自由意志の可能性も残っている。たとえば、今回の実験では、より複雑な決定に関する精神の活動が反映されていないかもしれないことが挙げられる。

ほらね。

「人間が機械だというようなことではない。人間の脳活動は生理学的な働きによるものであり、その中で人の性格や希望、欲望などが生まれているのだ」とHaynes博士は説明する。

「生理学的な働き」っていうのも、広い意味では「機械」ってことだと思うんですけどね。
別に「機械」でもかまわないと思うのだが。
人間が「自由意志」を持たない「機械」だったら、責任主体が存在し得ないから、社会秩序が崩壊する、とか心配する人がいるけど、そんなわけないでしょ。
例えば、「ロボット三原則」みたいに、ロボットにある程度の判断力と自分自身を守るような機能を持たせておいて、社会に害をなす行為をした場合は罰を与える、ということにしたら、ロボットだって「責任ある行動」をとるはずなんだから。

自由意志なんかないって言うと、「いや、私は自分が自由意志を持っていることを知っている。私は、自分の自由意志を感じる!」とか言う人がいるけど、理解できないな。私は、「自由」を感じることはできるけど、「自由意志」を感じたことなんかない。「自由意志」を感じるということがどういうことなのか、想像すらできない。

私は、「哲学的ゾンビ」なのかもしれない。それでも、別に不都合はないからかまわないですけどね。

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2008年4月13日 (日)

クオリア問題について

ついでに、クオリア問題についても簡単に触れておく。

クオリアに関する立場を、ごく大雑把に分類すると、三つのものがあると思う。
一つは、クオリアを科学では解明できないものと考え、そこに特別な価値を見出すもの。
一つは、クオリアは脳を研究することによって科学的に解明できるとするもの。
もう一つは、クオリアというのは哲学上の混乱から惹き起こされた擬似問題であるとするもの。
これらを仮に、「神秘派」「科学派」「哲学派」と呼ぼう。
この分類だと、斎藤は「神秘派」になるだろう。
茂木のヘンテコなところは、基本的に「科学派」のはずなのに「神秘派」的なところが入り混じってしまっているところ。(*1)
ちなみに、私自身は「科学派」と「哲学派」の折衷派である。

(追記 2008.4.17)
(*1)最近は、自分のことを「自然哲学者」といっているようで、ますますわけが分からない。

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「斎藤-茂木 往復(してない)書簡」の件

この件については、前から書こうと思っていたのだが、タイミングを逸して書けないままでいた。TAKESANさんのところのコメント欄で斎藤のことが話題になったので、いい機会だから書いておく。

このブログでは茂木の悪口ばかり書いているので、今回もそうだろうと思われるかもしれないが、そうではないのである。
茂木が返信しないのは問題だと思うが、責任の一端は斎藤の方にもあると思う。斎藤の書簡は、”内輪の言葉”で語ってしまっている上に韜晦が過ぎるので、何が言いたいのかよく分からないものになってしまっている。茂木が返信しないでいるのも、斎藤の言うことがよく分からないからではないかと思う。分からないなら「分からない」とはっきり言ってやればいいと思うのだが、クオリアを解明してノーベル賞100個分の業績をあげるつもりの茂木としては、単純に「分からない」とは言い辛いのだろう、と私は推測している。

内容的にも問題がある。
斎藤は、茂木が「倫理中枢」というものが存在すると考えている、と判断しているようだが、私の知っている限りでは、茂木は「倫理中枢」などということは書いていない。もし書いているとしても、それは茂木の扱っている問題の中では中心的なものではないだろう。茂木の興味は、芸術と脳を結び付きと、脳の知的な能力を拡大することにあるのであって、倫理的なものにあるのではないのだ。言い換えると、茂木の興味は「真・善・美」のうち、真と美にあるのであって、善にはそれほど興味を持っていないように見えるのだ。茂木が善について語っているように見えるのは、大抵の場合、凡庸な精神論を語っているときなのである。

そもそも、「倫理の中枢」があったとして何がまずいんだ、と思う。「倫理中枢」が存在したとしても、それだけでは倫理を説明するには不十分で、倫理的な問題というのは最終的には社会的に判断される必要があるということには変わりが無い。
斎藤は、倫理が脳に還元されることに警戒心を抱いているようだが、そういう警戒は不要なものだと思う。

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2008年4月 8日 (火)

偶有性について 2

日曜日に中央図書館に行って調べた結果を発表するぜ!

まずは『広辞苑 第五版』から、「偶有」と「偶有性」。用例等は省略。

偶有
ある性質や能力を偶然にそなえていること。

偶有性
ある事物を考える場合に、本質的でなく偶然的な性質。例えば人間一般を考える場合、その皮膚の色のようなもの。偶有的属性。偶性。

他にも何冊か辞書を引いてみたが、記述は大差なかった。当然だが。

次に、『研究社 新英和大辞典』から、「contingent」と「contingency」。

contingent
1 起こるかもしれないし起こらないかもしれない、発生の不確定な、あるいは可能な(posible)

2a 偶然的な、偶然の(accidental)
b 予測できない、不慮の
c 付随する、伴う(incidental)

3 依存的な;〔...次第で〕発生するかもしれない、〔...を〕条件として伴う(conditional)

4 《法律》不確定の

5 《論理》偶然的な

6 《哲学》偶然的な、(人間の意志など)決定論によらない、自由な(free)

contingency

1 (事件などの)偶然性、偶発(fortunity)

2a 偶然〔不足の〕の出来事;偶然的な出来事、不慮の事故
b (事件に伴う)付随的なこと、付随事件

ついでに、『認知科学辞典 日本認知学会編』から。

コンティンジェンシ
contingency

偶発性ともいう。人間の行為を特定の意味あることとして常に普遍的に理解することはできない。一定の意味ある行為として理解されるとしても、状況に応じて常に別様であり得るとすれば、それはコンティンジェントであるといえる。人間の行為は、その意図によって異なる解釈が存在し別様でありうる。人々の間にコミュニケーションが成り立つのは、それぞれが置かれたコンテクストを参照しながらそこに成り立つルールを共有することによって、それぞれの行為の意味が限定されていくからである。

 「偶有性」という言葉が、哲学用語であることは前にも書いたが、再度触れておこう。 小学館『万有百科事典』から。

 アリストテレスの用語でendekomenonの訳語。存在することもしないこともありうるものの在り方をいう。ラテン語ではcontingensという。論理的には「その存在が必然ではないが、それが存在するとしても、そのゆえに、いかなる不可能も生じてこないもの」と定義される。必然性に対する。必然的なものについては論証と理論的知識が成り立つが、偶有的なものについてはこれが成り立たない。

さらに

 ところでアヴィセンナの「偶有」の概念はまたもう一つの別の関連において、はからずもイスラーム哲学史上の大問題を惹き起こした。この問題はイスラーム思想界の内部では現在になお尾を引いて論議されており、西欧でも中世哲学の発展史を華やかに彩ったものである。
  この大問題というのは、偶有と実体の関係という次元で惹起された。それはアヴィセンナが「存在」を「本質」の一つの偶有と説いたところから始まる。それは西欧のスコラ哲学にいわゆる「存在」と「本質」、existentia(あるいはesse)とessentiaとの間に実質的に(あうなわち単に概念的にではなく)区別があるか否かという問題である。
 
  『イスラーム思想史』井筒俊彦
 
 
  実体の範疇に属するもの以外は「偶有」である。性質や量などの付帯性のあり方がそれである。これらは自存性を有していないものとして、実体の範疇の外に置かれる。
 
  『哲学の歴史 3』の「トマス・アクィナス」の項より

  と言うわけで、茂木健一郎の「半ば規則的で、半ばランダムな現象の性質」という「偶有性」の定義に近いものは見当たらない(そもそも「半ば必然」ってどういうことなんだ?)。
 意味合いとしては、「contingency」の「(事件などの)偶然性、偶発(fortunity)」という説明に近いだろう。だが、その場合は「偶有性」ではなく、「偶発性」「偶然性」といった言葉を当てるのが適切だろう。(*1)

(追記 2008.4.11)
(*1)「不確定性」でもいいかも知れない。実際、茂木が「偶有性」について語っているときには、「不確定性」という言葉も一緒に使われていることが多いから。
「偶有性」なんて、なじみの薄い言葉なんか使わないで、最初から「不確定性」って言えばいいじゃないか、と思う。

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2008年4月 2日 (水)

「偶有性」について

  またしても、茂木健一郎ネタである。
  「茂木ネタ提供」での書き方が中途半端だったと思うので、補足しておく。

 「偶有性」という言葉は、本来、哲学用語である。
 小学館『万有百科事典』の「偶有性」の項目から引用しよう。

 アリストテレスの用語でendekomenonの訳語。存在することもしないこともありうるものの在り方をいう。ラテン語ではcontingensという。論理的には「その存在が必然ではないが、それが存在するとしても、そのゆえに、いかなる不可能も生じてこないもの」と定義される。必然性に対する。必然的なものについては論証と理論的知識が成り立つが、偶有的なものについてはこれが成り立たない。

茂木の「半ば規則的で、半ばランダムな現象の性質」という説明は、哲学用語としては的外れなものであることが、これで分かるだろう。「偶有性」とは「必然性」に対するものであって、「規則的」であるかどうかとは関係ないのである。
 では、茂木は「偶有性」に関する「半ば規則的で、半ばランダムな現象の性質」という定義をどこから持ってきたのだろうか。
  茂木は「偶有性」という言葉を「contingency」に対応するものだと説明している。私の手元にある英語の辞書で「contingency」を引くと、次のような説明が書いてある。

  1 偶然性,偶発
  2 (偶然の)出来事,偶発事件

茂木の「半ば規則的で、半ばランダムな現象の性質」という説明は、哲学用語である「偶有性」よりも、上の「contingency」の説明の方に近いということが分かるだろう。
 念のために、英語版のWikipediaで「contingency」を調べてみると、以下のように説明されている。 

In philosophy and logic, contingency is the status of facts that are not logically necessarily true or false. Contingency is opposed to necessity: a contingent act is an act which could have not been, an act which is not necessary (could not have not been). Contingency differs from possibility, in a formal sense, as the latter includes statements which are necessarily true as well as not necessarily false, while a statement cannot be said to be contingent if it is true necessarily.

これは、上の哲学用語としての「偶有性」の説明と一致する。
さらに続きを読むと

In colloquial English, a contingency is something that can happen, but that generally is not anticipated.

 要するに、「contingency」という単語には、哲学用語としての「偶有性」という意味と、より日常的な「偶発性」あるいは「不確実性」という意味と、2つの意味があるらしいのである。 (ためしに、「contingency 不確実性」でgoogle検索してみよ。ただし、茂木絡みのものは無視すること)
   
  さて、では、なぜ茂木は「contingency」という単語に対して「偶発性」や「不確実性」ではなく「偶有性」という日本語を当てたのだろうか。
  以下は、私の推測である。
 
  1.茂木は、外国の神経科学の論文を読んで「contingency」という概念に注目する
  2.「contingency」という単語を辞書で調べてみる
  3.そこには、「偶有性」「偶発性」「不確実性」などの単語が書かれている
  4.さて、どれを選ぶか
  5.「偶有性」という単語は、あまりなじみがなくて、哲学的な香りがしてなんとなくカッコイイ
  6.これに決定!
 
まあ、こんなところだろう。だって、茂木だもの

 で、私が裏を取りたいのは以下のことなのである。
 
  1. 神経科学の分野では「contingency」はどのような意味合いで使われているか?
  2. 神経科学の分野では「contingency」は一般的に何と訳されているか?

 
  どなたか神経科学に詳しい方、情報をお待ちしております。

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2008年4月 1日 (火)

茂木ネタ提供

自分で書くのがメンドウなので、今まで温めていた茂木健一郎ネタを2つ提供します。
茂木がよく使う「偶有性」と「ホープフルモンスター」という用語を茂木自身が説明したものです。            
引用は、どちらも「BRUTUS 特集 脳科学者ならこう言うね!」から。

偶有性
僕にとって最大の栄養は、偶有性です。半ば予想できて、半ば予想できない。半ば規則的で、半ばランダムな現象の性質をいいます。

ホープフルモンスター
進化生物学上の概念で、いつか主流になることを夢見ている奇妙な生命体がホープフルモンスターです。
(略)
進化には、小進化と大進化がありますが、そもそも地を這っていたものが突然空を飛ぶようになる、というのが大進化です。大進化を遂げると、今までにいた生命体とはまったく異なる生命体なので、最初はどうしてもマイナー扱いです。主流にはなれません。それでも、大進化によって生まれたホープフルモンスターはいつか主流になることを夢見ている奇妙な存在なんです。

ちょっと知識があれば、簡単に批判できるでしょ。
特に「大進化」の説明はひどい。
何でこれが今まで批判されなかったのか、理解に苦しむ。
こんな男に『ダーウィンの「種の起源」 』(ジャネット・ブラウン)の解説を依頼したポプラ社は猛省すべき。

専門家の方の反応を、お待ちしております。

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2008年2月17日 (日)

青空文庫で三木清を読む

「哲學はどう學んでゆくか」より。

すでに私は明晰に考へることを學ばねばならぬと述べた。考へるといふことは、元來、明晰に考へることである。もとより哲學には深さも大切である。しかし濁つてゐるために底が見えないに過ぎぬといつた場合もあるので、深さうに見えるもの必ずしも深いとは限らず、むしろ反對であることが多い。どこまでも澄んでゐて、しかも底の知れないものが、眞に深いのである。眞の深さにはつねに豐かさがある。盡きることなく湧いて出てくる豐かさのないものは眞に深いとはいへない。この豐かさはまた廣さともなるであらう。哲學に入る者が學ばねばならぬのは、物をはつきり考へること、廣く考へることである。廣く見、廣く考へることは、獨斷や偏見とは反對のものであるべき哲學の基本的な條件である。深さに至つては、學び得るといふものではない。深さといふものは、結局、人間の偉さであると思ふ。それ以外深さうに見えるものはペダントリ乃至センチメンタリズムに過ぎぬ。深さといふものは學問を媒介とする學問以上の人間修業によつておのづから出てくるものである。單なるペダントリ乃至センチメンタリズムに過ぎぬいはゆる深さに迷はされることなく、それを突き切つてゆくところに哲學的精神がある。明晰な書物はつねに有益であるが、深さうに見える書物は學問にとつて有害なことが多い。眞の深さについていへば、哲學することは眞の人間になることである。そしてすべての人間がめいめい獨自のものであるやうに、深さもそれぞれ獨自のものである。一般的な深さといふものを私は信じない。もし何かそのやうなものがあるとすれば、それは明晰に直觀され、明晰に思考され得るものでなければならぬ。

 茂木健一郎と福岡伸一批判として使えるな。

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犬のクオリア?

ニコラス・ハンフリー「喪失と獲得」より。

 哲学者たちは、この領域における慎重な定義の必要性に対して著しく鷹揚である-あるいは、最近ではそうなっている。人々が自らの感覚体験を心の中で示すときに問題になっているものが何であれ、哲学者たちは、それを「現象的特性」「どのようなものであるか」「意識的な感情」といった用語をやりとりする-あたかも実証主義哲学が苦労して勝ち取った教訓をけっして学んだことがないかのように。とりわけ、使われすぎている用語「クオリア」は、確かに少なくとも一度は、何か貴重なことを意味するというメリットがあったが(たとえ、おそらくは空虚なものであったにせよ)、現在では、漠然と主観的で定性的などんなものにも使われるナンデモアリの用語として、広汎に使われている。
  p86
 
  (略)一方で、心理学者たちは、哲学者から借用した生半可な言葉遣いを採用して、イヌの写真を見るときの「イヌのクオリア」の知覚といった複合概念について、あまりにも無頓着におしゃべりしすぎる。こうしたカテゴリーの誤りが続くかぎりは、私たちは降参したほうがよさそうだ。
  p90

  ニコラス・ハンフリーが茂木健一郎を知っているとは思えないが(「イヌのクオリア」うんぬんはラマチャンドランのこと)、茂木健一郎にもピッタリ当てはまる批判である。茂木なんか「長嶋茂雄のクオリア」だの「志向性クオリア」とか言ってるもんなあ。信じられない。

喪失と獲得―進化心理学から見た心と体 Book 喪失と獲得―進化心理学から見た心と体

著者:ニコラス ハンフリー
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