カテゴリー「社会」の記事

2008年12月26日 (金)

茂木健一郎 VS. 伊勢田哲治

「日経サイエンス」2月号、さっそく読みましたよ。
いや、伊勢田さん、素晴らしいです。
モギケンに正面から切り込んでます。
これは近来稀にみる痛快事ですね。
伊勢田氏にテレビでの発言について問い詰められて、生命哲学がどうのとか、dankogai並みに斜め上のことを言い出して逃げるモギケン。
モギケンの打たれ弱さがモロに露呈していて、かなり笑えます。
本人を前にしての批判は高橋悠治以来じゃないですかね。
このときも打たれ弱さが出ちゃってて爆笑モノです。

高橋悠治+茂木健一郎:公開トーク『他者の痛みを感じられるか』(8)

菊地成孔との対談ってのもありましたな。

脳ミュージック、脳ライフ

要するに、この人は、調子よく相手を持ち上げてワキアイアイと対談、という手が通じないと全然ダメなんですね。
と言うわけなんで、茂木健一郎に対して含むところをお持ちの有名人の方は、直接会って批判すれば楽勝だと思いますんで、どんどんやってください(笑)。

「茂木健一郎 VS. 伊勢田哲治」と言えば、こんなのもあるそうで。

応用哲学会第一回年次研究大会開催のおしらせ

  2009年4月26日(日)
  京都大学文学部新館第三講義室

  公開シンポジウム 「これが応用哲学だ!」

  パネリスト  伊勢田哲治(京都大学)
         茂木健一郎(ソニーコンピュータサイエンス研究所)
         森岡正博(大阪府立大学)
  司会     戸田山和久(名古屋大学)

なんでまた、応用哲学のシンポジウムでモギケンなんか呼ぶですかね。
哲学者でよってたかってフルボッコにして吊るし上げようっていうんですかね。
「物理出身の”自称脳科学者”のくせに、クオリアとかい言ってんじゃねーよ、哲学をナメんな!」とか。
それはないか。
私としては、そういうのを期待してしまうんですが。
パネリストに森岡正博がいるのがビミョーな感じがしますけど。

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2008年12月17日 (水)

(今回は)「レッテル貼り」ではありません

最後にもう一つだけ。

apjさんの言う「レッテルを貼る奴」の中には私のことも入ってるんじゃないかと思うんですが、注意して読んでもらえば分かるはずですけど、今回の件で私はapjさんの属性や人格を攻撃するようなことは書いてないんですよ。
私の批判の対象は、「apjさん」ではなくて「apjさんの言説」だったのです。

「apjさんへの応答(1-1)」で、「政治的スタンスの問題」と書いたので、apjさんが右寄りだとほのめかしたという風に読んだかもしれませんが、「右寄り」だと断言するようなことはしていません。
私とapjさんの見方の違いは「政治的スタンス」によるものかもしれない、と書いただけです。

「apjさんへの応答(1-2)」にしても、「もし1だったとしたら」「apjさんが「排外主義者」と共通した心性の持ち主であるとみなします」と書いているわけで、仮定法になってますよね。
その上で、

apjさんは、

「排外主義に対して盲目である」

または、

「より自然な他説が存在するのを無視して自説に固執した」

と、ORの形にしているわけで、apjさんが「自説に固執した」と認めれば、「排外主義者」という批判を逃れることができたのです(きっと、認めるつもりはないでしょうけど)。
私はapjさんのことを「排外主義者」とは一度も呼んでいません。
「apjさんへの応答2」はけっこうきつい書き方もしてますが、これだって、批判の対象は、「apjさん」ではなくて「apjさんの言説」です。
そこら辺、けっこう気を使って書いたつもりなんですが、分かっていただけなかったようで残念です。

それにしても、そもそも、レッテルを貼ることって何がまずいんですかね?
正しいレッテルなら貼り付けてもかまわないと思うんですが。
今回はapjさんに対して何らかのレッテルを貼ることはしませんでしたけど、今後もそうだとは限りませんよ。
一貫して「右寄り」の言動をとる人を、私は「右寄りの人」と呼びます。
一貫して「排外主義的」な言動をとる人を、私は「排外主義者」と呼びます。
何か不都合がありますか?

最後に、ジョークを一つ。(inspired by カネゴンさんのところ

「なあ、アヒルのような格好で、アヒルみたいに鳴いてるのがいるんだけど、アレ、何だろう?」
「それはアヒルというものだよ」

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2008年12月15日 (月)

apjさんへの応答(2)

apjさんの新エントリ「レッテルを貼る奴を見ると無条件に攻撃したくなる 」は対話拒否の宣言と受け取りましたので、とてもむなしい気分になっているのですが、当初の予定通り続けたいと思います。

「火中の栗」へのapjさんのコメント。

 言及されているようなので書いておきます。
 私の方のコメント欄の内容があちこち振れたので、余計わかりにくくなっていますが、最初のエントリーを見ればわかるように、「今回、国籍法に反対した人が目立った理由」についての話をしているのであって、「ガキの国籍の話」なんか最初からしていないんですけど。

議論のテーマが違う 」から。

そもそも「ガキの国籍の話」なんかしてなくて、「国籍法改正に反対する人が目立って出てきた理由」の話をしていたのだからレイヤーが違うのは当たり前。国籍法改正の是非については、最初から議論するつもりは全く無かったので、エントリー内にも何も書いていなかったはず。国籍法改正の議論だと勘違いしたコメントに対応していて引きずられたのは私の不手際なので、それを見て国籍法の話だと思われたのなら仕方がないのだけど。

上のapjさんの発言をふまえて、次の論点に移ります。

論点2
apjさんは何を議論していたのか
議論のレイヤーは維持されていたのか。
apjさんの問題設定および議論の進め方に問題はなかったか。

「「国籍法改正の是非」ではなく「国籍法改正に反対する人が目立って出てきた理由」」を議論していたのであって「「ガキの国籍の話」なんか最初からしていない」 と、apjさんは主張されていますが、実際のところはどうだったのでしょうか。

結論を先に言ってしまえば、apjさんのこの主張は認められません。
apjさんは、コメント欄で「国籍法改正の是非」にまで踏み込んだ発言までしています。
また、道徳的な判断や個人的な感情も混入させ、「国籍法改正に反対する人が目立って出てきた理由」の議論から逸脱し、違うレイヤーの議論をゴッチャにしてしまっています。
そもそも、国籍法改正に反対する人たちが国籍法改正をどのように理解していたかを検討することをせずに、「国籍法改正に反対する人が目立って出てきた理由」の検討がまともにできるわけがありません。
「国籍法改正に反対する人が目立って出てきた理由」を議論するためには、「国籍法改正」自体に対する正確な理解が大前提のはずなのに、apjさんはあやふやな理解のまま議論を始めたため、議論を混乱させてしまいます。
その上、apjさんは視野狭窄に陥り、相手のコメントの意図を捉え損ね、的外れな発言を繰り返し、どんどん混乱を拡大させてしまっています。
apjさんは、「国籍法改正の議論だと勘違いしたコメントに対応していて引きずられたのは私の不手際」と、議論が「あちこち振れた」のを偶然の成り行きであるかのように書いていますが、私に言わせれば、これはapjさんがつっこみを誘うような的外れなコメントを繰り返しためであって、必然です。
「ひきずられた」などと言っても、責任を逃れられるわけではありません。

では、apjさんの混乱した議論を実際に見ていきましょう。
以下、引用文中の強調は全て引用者によるものです。

(事例1)
親の責任を問題に

元のエントリが公開されてから半日経過後のapjさんのコメント。
早くもこの時点で、「国籍法改正に反対する人が目立って出てきた理由」を論じることから外れ、国籍法改正自体に触れています。
その上、「バカ親」に対する道徳的な非難の調子が混ざっています。

法改正してまでバカ親のフォロー? (by apj)
sodaさん、

>国籍法の不備により、人生がメチャメチャになる子ども達が現実に沢山いる

 じゃあ、子供を作ることを決めた親の判断について責任を問うことを同時にやらないとやっぱりおかしい。旧国籍法の状況で子供を作れば子供の人生がまずいことになるくらいのことは、大人の頭ならわかりそうなものですよね。承知の上で何でそんなことやったの、と。子供に責任は無いから事後的に救うしかないというのはわかるけど、親にペナルティを与えないまま済ませるのは変でしょう。なし崩し的に数が増えればそのうちオッケーみたいなやり方はどうしても引っ掛かる。

 というか、何で法改正してまでバカ親のフォローをしなきゃならないのか、ってことの方が釈然としない。やって後々まずいことになりそうなことは、避けるのが普通では。
 法改正前に、国籍法との兼ね合いで困ったことになるのが分かっていながら子供を作った親には、「先を見ない考え無しの馬鹿」ってレッテルを存分に貼らせてもらいたいです。

at 2008/12/08 19:46:52

「法改正してまで」という言い方には、apjさんの国籍法改正に関する無理解が露呈しています。

今回の国籍法改正は最高裁で違憲判決によるものです。

e-politics - 国籍法改正

国籍法の法改正が必要な理由
最高裁で違憲判決が出たからです 。最高裁が法律の規定を違憲としたのは、在外邦人の選挙権を制限した公職選挙法を巡る訴訟の判決(05年9月)以来の8件目で、「不合理な差別の救済」という観点からすみやかな法改正が求められています。法改正をしない場合、個別の訴訟に追われたり、立法の不作為を問う訴訟によって損害賠償が認められるケースも予想されます。
→参考資料:最高裁判決(国籍法3条1項違憲訴訟)

国籍法改正が議論の大前提であって、法律の悪用云々は国籍法改正に伴う派生的問題でしかありません。
国籍法改正の背景への理解を欠いたまま、「国籍法改正に反対する人が目立って出てきた理由」を論じようとするのが、そもそも無理だったのです。
「「ガキの国籍の話」なんか最初からしていない」も何も、「ガキの国籍の話」が大前提の議論だったのです。

この時点でapjさん自身が国籍法改正に関する理解を修正していれば、この後の混乱は避けられたかもしれません。
しかし、この後もapjさんの無理解な状態は続きます。

(事例2)
改正に反対

「国籍法に反対した人が目立った理由」について議論していたはずが、apjさんは改正にはっきりと反対を表明してしまいます。

この時期の改正には反対です (by apj)
shunsokuさん、

>入管法の網をくぐって外国人に低賃金労働させていたイチゴ農家とか、まずは日本人側の悪行も見ておいてくださいな。

 報道で知りましたが、まさしく悪行ですよね。他にも、研修生名目で実体が低賃金労働というのもありましたよね。ソースをすぐに引っ張り出せないのですが、賃金払えという提訴も起きていたかと。どんどんやって、入管法の穴を潜って外国人を理由に搾取したって金銭的帳尻を合わせる羽目になるという前例を作ってもらいたいです。
 ただ、悪行かどうかを周囲が知るにあたって、見た目が日本人と区別のつきづらい中国人韓国人だと、発見が遅れそうなので、多少は注意が必要かと(中国韓国を名指しで差別する意図ではなく、外見上日本人と見分けが付きづらいという現実があるので、何か変なことが行われていても気が付きにくいだろうという意味)。

>私は多民族混住社会に賛成ですが、adjさんはどうでしょうか?

 今のところ何とも言えません。自然に穏やかに混住社会が実現するのならいいと思うのですが、それは時期的にかなり先のことではないかと。今焦って混住社会の実現を目指そうとする必要は無いでしょう。
 おっしゃるように、今の状況だと、引用した記事のような子供の国籍取得→母親が来日、ができたとして、じゃあ親がどんな職業に就けるのかというと、低賃金且つ不安定なところでしか働けないのではないかと(日本人女性の平均的な働き方を参考にすれば)。だとすると、日本国民でも一旦低賃金労働者になると、子供に対する教育費を掛けられない結果子供もその層から抜けられないことが懸念されている現状では、雇用が不安定な層を増やすだけですよね。もともと外国人だった人が日本に行くと子供の代まで低賃金労働者のままだ、ということになってしまうのは、健全ではない。
 日本の国土の面積を考えると、今の国民の数は多すぎると思うので、少子化で日本人の数が減ってある程度落ち着いてから、どいう混住社会にするか考えていけば良いと思います。
 最近の混住社会を目指す背景には、少子化が困るからやる、という方向がありそうなんですが、無理に少子化を食い止めようとしても、あまり良い結果になりそうにない。もともと国土に比して人が多すぎる状態を強引に維持しようとしても、長続きはしなさそうです。移民をやった国は経済状況が悪くなると揉めてるし、アメリカだって貧困が広がっているわけで……。だから、もう少し日本の人口の減少が落ち着いてから、どうやって混住社会にするか考えればよいと思います。

at 2008/12/08 21:00:21

「この時期」でなければ、いつ改正すればよいのでしょうか?
改正されるまでの間、子どもの権利はどうなってしまうのでしょうか?
このような発言をすれば、以下のsodaさんのコメントのようなツッコミが入るのは当たり前のことです。

Re: 法改正してまでバカ親のフォロー? (by soda)
> じゃあ、子供を作ることを決めた親の判断について責任を問うことを同時にやらないとやっぱりおかしい

いや、今回のこの法律がまさにそれなんですよ(まだ弱いけど)。

別に日本人どうしだって、結婚せずに子どもを作って、でも認知せずに逃げてしまう男ってのが昔から問題となっていましたよね。

母親が観光ビザ等で入国した外国人の場合、たとえ父親が認知したところで、これまでは国が問答無用で強制送還してしまうため、そういう男は責任逃れができてしまう。国が、そういう男の責任逃れを幇助していた、というところが問題なわけです。

で、子どもが日本国籍を得ることができ、日本に住み続けることができれば、認知した父親には通常の日本の法律により父親の責任(扶養義務)を問えるようになるわけです。

apjさんは、どうも問題を誤解しているように見えますです。

at 2008/12/08 21:10:53

(事例3)
親の責任を問題に

sodaさんのコメントの後も、apjさんは親の責任を問題にし続けます。
子どもの権利の問題だということを、まだ理解してないようです。

どの段階で責任追及するかの問題のような (by apj)
sodaさん、

>母親が観光ビザ等で入国した外国人の場合、たとえ父親が認知したところで、これまでは国が問答無用で強制送還してしまうため、そういう男は責任逃れができてしまう。国が、そういう男の責任逃れを幇助していた、というところが問題なわけです。

 まず、問題の前半。
 観光ビザで入国している外国人女性との間に子供を作る時点で相当に無責任ではないかと。短期間しか日本に居られないのがわかっていて子供を作るわけですから。一方、母親だって無責任ですよね。短期間で国に帰ることがわかっていながら子供を作るわけですから。観光ビザの意味を知らないわけじゃないでしょうし。私が、親の責任とか先を見ないと書いてるのは、親のこの段階の行為です。

>国が、そういう男の責任逃れを幇助していた、というところが問題なわけです。

 こっちは国の問題で、確かにその通りです。
 だから何というか「合わせ技」で責任逃れをしていたことになる。

>認知した父親には通常の日本の法律により父親の責任(扶養義務)を問えるようになるわけです。

 それなら何もしないよりは(制度としては)良さそうですね。しかし、日本でも、離婚して母子家庭になった場合に父親からの養育費の支払いがきちんと行われるケースばかりではないことを考えると、日本の平均的な離婚で生じた母子家庭と同じ条件になる、という結果になりそうですね。

at 2008/12/08 21:26:28

追加:別の展開になりそう (by apj)
 これまでは、認知しても国が追い払ってくれるから恰好だけつけていられたけれど、今後は認知したら確実に扶養義務発生、となると、
認知せずにばっくれようとする父親 vs. 認知をさせようとする母親
の紛争発生の予感が。
 認知って、実質は、どの父親から養育費をぶんどるかを確定させるって意味ですしねぇ。

 本当は、きちんと育てられるということを見越した上で子供を産むというのが、育てる環境の確保という面から見ても望ましいわけで、これまでよりも用心深く先を考える方向に進んでくれると良いのですが。
at 2008/12/08 21:33:46

(事例4)
親の責任を問題に

再び、sodaさんのコメント。
sodaさん、問題の所在を理解しないapjさんにちょっとキレかかっている、と言うか、ほとんど呆れてしまっています。

Re: どの段階で責任追及するかの問題のような (by soda)
> 観光ビザで入国している外国人女性との間に子供を作る時点で相当に無責任ではないかと。

もちろん、そうですよ。
しかも結婚もしないし、それどころか国に強制送還させるに任せるんですから、とんでもなく無責任です。
現実にそういう親が沢山いるからこそ、今回の法律改正が必要になったわけで、そういうコンテキストを無視して議論するのは無意味でしょう。

> 日本の平均的な離婚で生じた母子家庭と同じ条件になる、という結果になりそうですね。

そうです。
それでも、子どもにとっては、強制送還されるよりはずいぶんマシな結果になるケースが多々あることは、前のコメントで参考リンクを張った弁護士の方のブログにある通りです。

改正前の状況は、婚外子差別そのものであり、そういう状況を放置すべきだという人が沢山いること自体が日本人として情けないです。;-/

さすがに、apjさんも、子どもの権利のためだということは理解したように見えますが、「バカ親」に対する道徳的な非難の調子は混ざったまま、と言うより、むしろ強くなっています。

別の無責任も残ってますよね (by apj)
sodaさん、

>現実にそういう親が沢山いるからこそ、今回の法律改正が必要になったわけで、そういうコンテキストを無視して議論するのは無意味でしょう。

 結局、「法律改正してまで馬鹿親のフォロー」に違いはないけど、馬鹿親に尻ぬぐいをさせる方向ということですね。了解です。

 そうすると、東南アジアあたりに出かけていった日本人男性が現地人女性を妊娠させた挙げ句日本に逃げ帰って知らんぷりを決め込むという、別パターンの無責任も蓄積されてきているわけで、こっちはどうすりゃいいんでしょうかね。日本で事を起こすよりも、もうちょっとアクティブに計画的に見えますが……。

 こういうのをきちんと解決してからでないと、とても対等な関係で混住社会の実現なんか無理ではないかと。東南アジア女性相手なら向こうに行ってやりたい放題やっても良い、と考えている無責任な日本人男性が相当数居る状態で混住社会にしたって、うまくいきそうにないです。相手を尊重しなくていい、という価値観が根底にあると、まずうまくいかない。
at 2008/12/08 21:54:18

(事例5)
DNA鑑定

「国籍法改正の是非」ではなく、「国籍法改正に反対する人が目立って出てきた理由」を論じていたはずなのに、DNA鑑定の導入の可否にまで踏み込みます。

法的に義務づけるのは難しいようですけどねぇ…… (by apj)
LiXさん、
 DNA鑑定はあった方が良いとは思うんですよね

 自分の子でもないのに認知せよと迫られて揉めるのは嫌だろうし、逆に、無責任に子供を作った男性にきっちり責任を負わせるという意味でもあった方が間違いがない。法的にやるのは、他とのバランスを考えると難しそうですけどねぇ。

 どっちにしても、信頼を取り戻すのであれば、
・不法就労・不法滞在の徹取り締まり、早期発見と国外退去の徹底。国内で制度を悪用して不法に外国人を就労させた日本人への処罰の徹底。
・滞在許可を出すのは管理可能な人数に止める(増やすなら徐々に)。
・短期のビザで入国して子供を作ったり、短期のビザで海外に行っている間に子供を作るような親には子供の養育の責任を負わせる(妊娠させて知らんぷり、ということができないようにする)。
・外国人を受け入れるのなら、低賃金労働者として受け入れるのではなく、一定以上の収入があって社会保障も一緒に担えるような状態で受け入れるべき(∵ただでさえ国内で不安定雇用されている人が増えて、実質経済難民が発生しつつあるときに、外国人を低賃金労働者として受け入れる余裕があるとは思えないし、さらに難民発生を加速しそうなので)。

基本は、
・ルール違反しない
・ズルしない
でしょうね。
at 2008/12/09 01:39:02

(事例6)
法を守らない人たちへの非難

rnaさんのコメント。

観光ビザの意味とか (by rna)
apjさん:
>>観光ビザで入国している外国人女性との間に子供を作る時点で相当に無責任ではないかと。短期間しか日本に居られないのがわかっていて子供を作るわけですから。一方、母親だって無責任ですよね。短期間で国に帰ることがわかっていながら子供を作るわけですから。観光ビザの意味を知らないわけじゃないでしょうし。私が、親の責任とか先を見ないと書いてるのは、親のこの段階の行為です。<<

今までだって結婚すれば母親は在留資格「日本人の配偶者等」がとれますし、結婚してなくても認知された子を日本で育てる場合は在留資格「定住者」がとれます。観光ビザ(短期滞在ビザ)で入国して不法滞在になった状態からでも他に犯罪に関わったりしていなければ問題なさそうですが。

このへんに色々事例があります。
≫ link here ≪

子供を作る時点では何の問題もないです。子供ができても結婚しない・認知しないのが無責任なのです。そして、当然ですが、それは外国人相手じゃなくても同様です。

at 2008/12/09 03:13:29 

このコメントを受けて、apjさんの、「ルール違反する人」に対する、道徳的感情からくる個人的嫌悪が表明されます。

不法滞在そのものがまずい (by apj)
maさん、

>観光ビザ(短期滞在ビザ)で入国して不法滞在になった状態からでも他に犯罪に関わったりしていなければ問題なさそうですが。

 不法滞在そのものがまずいのではないかと。何日滞在可能です、というのがあらかじめわかっているのに意図的に違反しているわけですから、そういう行き当たりばったりで平気でルール違反する人と同じ社会には住みたくないな、と。
 滞在期間が決まっているのなら、原則としてそのように最初から行動しろ、他の手段で延長しようとするのはやめろ、ということです。不法入国やら不法滞在をしているのなら、それを合法にするために子供を作ろうというのは間違っていると思いますよ。つまりは、行動を自制しろということです。法律の問題ではなく分別の問題だと思いますけど。
 
at 2008/12/09 03:48:29

「平気でルール違反する人と同じ社会には住みたくない」と感じるのはもっともなことではありますが、「国籍法改正に反対する人が目立って出てきた理由」とも「国籍法改正の是非」とも関係ないレベルのお話です。
どんどんレイヤーがずれていってます。

(事例7)
法を守らない人たちへの非難

apjさんは、法を守らない人たちへの非難を続けます。

紛らわしいことをすればそれなりに見られる (by apj)
maさん、

>不法滞在自体はルール違反ですが、在留中に恋愛したり結婚したりすることは別にルール違反じゃないでしょう。

 ってことは、やっぱり早期発見が大事ですね。「在留中」に恋愛したり結婚したりするのはルール違反ではないけど、それが「不法滞在中」にかかってしまえば、やっていることに自覚がないとみなせますし。

>罪を犯した人も同じ社会に住める

 ただし、刑事的責任の追及が終わった後で、ですよね。
at 2008/12/09 10:13:07

(事例8)
在留外国人の意図を詮索

apjさんは、rnaさんの「普通に好きな人ができて結婚するつもりで」という言葉に食いつき、「これをどうすれば検証できるのか」というトンチンカンな議論を始めてしまいます。
もう、わけが分かりません。

どうすれば検証できる? (by apj)
maさん、

>普通に好きな人ができて結婚するつもりで、という状況を想定してます

 これをどうすれば検証できるのか、ちょっと考えてみました。
(略)
 
at 2008/12/09 11:23:10 

(事例9)
親の責任を問題に

kyousumさんが、再び「法律改正してまで馬鹿親のフォロー」というapjさんの発言を俎上に上げます。

Re:思想の問題というよりも、信用されてないだけなんじゃ…… (by kyousum)
apjさんは

>「法律改正してまで馬鹿親のフォロー」

ということをおっしゃるのですが、なぜ親を中心に捉えるのですか?子の国籍取得の問題なのに。

国籍は国と子の間の問題です。親があげたりあげなかったりするものではありませんから、子を中心に考えるべき問題なのです。ですから、「馬鹿親のフォロー」だということにこだわるのはズレています。子どもの権利の問題です。

子どもの権利の問題であることを再度強調されたのにも関わらず、apjさんは、親の責任の問題に固執し続けます。

きっかけを作ったのは誰? (by apj)
kyousumさん、

>親があげたりあげなかったりするものではありません

 ややこしい状況を発生させたのは親ですよね。

>どれも子どもがコントロールできる問題ではないという点では共通しています。

 親にとっても不可抗力な問題と、親がコントロール可能な問題が混じってますよね。

 子供の権利の問題なのはわかってますし、違法ではないのもわかってますが,親の勝手のし放題を容認するのは釈然としません。だから、そこに至るまでの親の行動内容によっては「馬鹿親と呼ばせろ」程度のことは思いますけどね。
at 2008/12/09 11:54:52

本人は分かっていると言っていますが、結局全然分かっていません。

(事例10)
在留外国人の意図を詮索

apjさんのわけの分からない「検証」に、ZZZのつっこみが入ります。

何を検証しているのでしょうか? (by ZZZ)
「普通の恋愛」をしてできた子どもならば日本国籍を与えてよい
母親が滞在許可取得を狙って作った子どもならば日本国籍を与えるべきではない、ということでしょうか?

母親にどのような意図があろうとも、子どもに責任はないはずです。
母親の意図を探ったところで、子どもの扱いを買えることはできないでしょう。

at 2008/12/09 11:39:05

apjさんの答え。

前提が正しいかどうかです (by apj)
ZZZさん、

>「普通の恋愛」をしてできた子どもならば日本国籍を与えてよい
>母親が滞在許可取得を狙って作った子どもならば日本国籍を与えるべきではない、ということでしょうか?

 ではなくて、滞在許可取得のダシに使われているケースが多数とわかった場合は、滞在許可の出し方の方を何とかしろという話になるだろうということです。

 もともと、このエントリーは、出入国管理に対する不信があるのでは?という問題提起で書いてますから、不信があることを裏付けるかどうかという意味での検証になります。
at 2008/12/09 11:57:17

在留外国人の意図を詮索することが、どうして「出入国管理に対する不信があることを裏付けるかどうかという意味での検証」になるのでしょうか?
論理的に破綻しています。

この後もapjさんの支離滅裂な議論は続きますが、そろそろ私もいい加減飽きてきました。

最後に以下の発言を取り上げましょう。

(事例11)
専門家の軽視

問題に関する理解の不足は、専門家の軽視に結びつきます。
いや、専門家の軽視しているから、自らの理解の不足に気づくことができないのでしょうか。
以下の原告関係者を小バカにした物言いに注目してください。

追加です (by apj)
いーぐるさん、
 ところでその原告関係者、今回の私のエントリーのやりとりに反論するとしたら一体何をどう言うつもりなんでしょうかねぇ。面倒くさがってやる気なさそうですが^^;)。
 たとえばこんな内容を示せば私の論に対する反論になるんでしょうか。
・国籍法改正反対はゼノフォビアの人のみによって引き起こされた。
・反対した人の中で、出入国管理に不信感を持っている人などいない。反対理由を述べていることと不信感の存在は関係がない。
・出入国の管理に、一般人が不安を抱くような問題はない。
・私が列挙した管理不行き届きではないかという事例は、実は全て解決済みである。
・入国のハードルは今後上がる予定で、下がるというのは全くの杞憂。

 最後の2つはソースが出てくればOKだけど、それ以外は反論して示そうとしたら逆にぐだぐだになりそうな気がします……。 at 2008/12/09 20:18:19

後半の文章もひどいものです。
誰も「国籍法改正反対はゼノフォビアの人のみによって引き起こされた」と主張してなどいません。
相手の主張を歪曲し、証明のハードルを必要以上に上げてしまうというアンフェアなふるまいです。
その上、相手が馬鹿げた主張をしているかのように見せかけて叩くという意味で、「藁人形論法」でもあります。

また、「反対した人の中で、出入国管理に不信感を持っている人などいない」ことのソースを示すことができるか、などと言っていますが、「関係がない」ことの証明が不可能なのはapjさんも重々承知しているはずです。
これはニセ科学ビリーバーが自説の擁護する際によく使う論法です。
証明が求められているのは、「国籍法改正反対と出入国管理への不信感の関連」を主張するapjさん側です。

最後の一行は、専門家に対する敬意のかけらもない夜郎自大な発言です。

もう、これくらいで十分でしょう。

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2008年12月14日 (日)

apjさんへの応答(1-2)

次に「排外主義」について。

「国籍法改正」反対する人たちの動機に「排外主義」はないのでしょうか?

まずは、札幌国際大学教授の大月隆寛の文章を見てみましょう。

【断 大月隆寛】国籍法「改正」のもたらす未来

(略)
 「過疎」ということが言われ始めたのは高度成長期半ばと記憶します。それから40年あまり、今や「限界集落」と言葉も無残に変わり、「ムラ」は最終的にその姿を消し始めている。「ムラ」を最終的に絶滅に追い込み、「農」に代表される一次生産の場を考えなしにやせ衰えさせ、核家族化と少子化で減った労働力は付け焼き刃の外国人を「新」日本人に仕立てて埋め合わせ、一方、「先住」日本人たちはというと、列島を覆い尽くした「都市」の高度消費社会コロニーにおびえながらたてこもるしかなくなり、老いた少数派になってゆく…考えたくないですが、しかし、この「改正」国籍法後の日本を静かに想像してみると、最悪、そんな近未来すら思い浮かんできます。
 
 「ホワイトアイランド」と呼ばれたのは植民地時代、アフリカ諸国の都市。白人がたてこもるコロニーとしての「都市」と、それを取り巻く現地のネイティブたちという構図で、そこでは文化や民族問題は同時に貧困、階層問題でもありました。それと同様、わが国でも早晩、外国人含めた「新日本人」たちとの間に、「都鄙(とひ)」そして「内地雑居」といった古くて新しい問題が、21世紀的な文脈でもう1度浮上するはず。国籍法「改正」を支持した諸センセイ方、それに対する目算と覚悟はもちろん、おありですよね?(札幌国際大学教授)

国籍法改正が、どうしてこんなスケールの大きな話になってしまうのか、私には理解不能です。
「先住」日本人と「新」日本人という二分法(私には無意味なものとしか思えませんが)は、大月教授の「排外主義」をはっきりと示していると思います。

上品ぶった文章の中に皮肉を利かせてみせる大月隆寛教授に比べると、一般の人々の反応はもっと分かりやすいものです。
apjさんが「思想の問題というよりも、信用されてないだけなんじゃ……」を公開した前日の12月7日のblogを、「国籍法改正」というキーワードでGoogle検索して見てみましょう。

ttp://jyajyamore3rd.at.webry.info/200812/article_4.html
日本終わったな。国籍改悪法が成立したようです。
てゆか。成立した後で報道するマスコミってなんなの?んで改正法成立阻止のためにいろいろ運動してきた人を「右翼」とか「歴史修正主義者」だとか報道してんですけど。お前たちはマスゴミだ。
(略)
恥じるべきは、目の前の利権のために日本国を外国に売り渡す売国奴だ!
葦の小船に乗って全員日本からまとめて出ていけ!!!

ttp://blog.livedoor.jp/samuraiari/archives/51260160.html
繁華街で客を引く外国人娼婦、

そのような者であっても日本人の子供を産みさえすれば日本国籍の名の下に堂々且つ公然たる経済活動が許される!

「日本国籍」というブランドさえあれば、いかなる犯罪に手を染めても決して日本から排除されることはない! 

そうした不良外国人女の背後にいるのが外国人犯罪組織であり暴力団組織である!

裏社会を肥え太らせる改悪国籍法を断固として廃案に追い込め!

ttp://setina.blog24.fc2.com/blog-entry-24.html
賛成した議員は全員氏ね
DNA鑑定必須だって言ってるだろ売国奴

こいつらの生活保護は当然国民に課税されるわけで
外国人生活保護費って確か85k円/月だっけ?
外国人保護するより日本に投資するのが先だろ・・

ttp://qendo18kai.iza.ne.jp/blog/entry/827468
国会議員は、日本国民の国益を守るために存在するのだ。

半島人のために画策する議員は不要である。

ありもしない「強制連行」や公娼制度の中の「慰安婦」の実態を学んでから政策論議してもらいたいと考えるのは老人だけではないのだぞ。

ttp://matukasa.blog32.fc2.com/blog-entry-377.html
結婚がいかにも古臭いしきたりと思われて、離婚が増え、結婚しない若者が増える中、挙句の果てに「両親の婚姻」を外す国籍法改正案が通るなど、政治レベルでも家庭の根底からの破壊するおかしな動きになっている昨今、思わぬところに影響をしてきているのでは・・・?そう感じて仕方が無い今日この頃です。

ttp://blog.goo.ne.jp/syarin_saihakken/e/584015a79e92fdbd6005f99565e8e12b
国家として国民を大事にすることは一理あることだ、
また世界中のことを考えて行動することが大事だというのにも一理ある。
しかし、国民の一部を犠牲にして、わずかな数の外国人を優遇しようといったら
どうだろう。
えらくおかしな主張だと感じる人が多いだろう。
これが、左翼の差別的な平等主義だ。
自分たちにとって都合のいい場所においては
異常なまでに完全でないと納得できない。
しかし、別の場所においてはいかに悲惨な差別が存在したとしても
まったく気にもならない。
だから、左翼は理想を掲げつつ中国共産党と北朝鮮という独裁国家を崇拝し続ける。

ttp://neyama.blog31.fc2.com/blog-entry-785.html
 しかし、問題は「偽装認知」だけではない。まず予想できるのは重国籍の問
題である。国籍法は、重国籍を認めていないが、日本国民と外国人との間に生まれた子どもについては22歳に達するまでに国籍を選択することを定めている。そのため、今回の法改正によって、未成年ではあっても、中国と日本、韓 国と日本のように二つの国籍を持つ、つまり重国籍者が確実に増えることとなる。

(略)

 仮に重国籍が認められれば、当然ながら、成人には参政権も付与される。中国との重国籍者が、台湾と隣接する与那国島や尖閣列島を管轄する石垣市に大量に住所を移して選挙権を行使したら、どうだうろか。また、韓国では対馬(竹島ではない!)が韓国領だとの主張が高まっているが、そんな韓国との重国籍者が対馬市に大量転入したら……こう考えると、恐ろしいものがある。

事実誤認妄想悪意にまみれたこれらの文章に排外主義を見て取ることができないとしたら不思議だと言うしかありません。

このような書き込みが多数存在するにもかかわらず、apjさんが「居もしない排外主義、歴史修正主義者」「思想の問題というよりも、信用されてないだけなんじゃ……」と書くことができたのは何故でしょうか。

考えられるのは、以下の五つです。

1.このような文章を目にしても排外主義とは感じなかった。
2.排外主義だとは思ったが、不法滞在や不法就労に起因するもっともな反応であると考えたので、問題としなかった。
3.たまたま排外主義的な意見を目にすることがなかった。
4.排外主義だとは思ったが、それが「国籍法改正」反対の動機だとは考えなかった。
5.そもそも、世間の反応を調べることをしなかった。

もし1だったとしたら、驚くべき鈍感さだと言わざるを得ません。
他人の排外主義に盲目なのは、自らも排外主義である者でしょう。
私は、apjさんが「排外主義者」と共通した心性の持ち主であるとみなします。

それでは、2はどうでしょうか。
以下のやり取りは、この解釈を裏付けるものように見えます。
kyousumさんのコメント。(at 2008/12/08 09:41:55)

私が見た限りでは、「ハーフの子などどうでも良い。『日本人』の不利益になる改正だから反対」だという意見の人や、「日本が大量に入国してくる外国人で乗っ取られる」といったゼノフォビアに基づくとしか思えない意見の人も見受けられました。「居もしない排外主義」というのは事実誤認と思います。たまたまapjさんが見かけなかっただけではないでしょうか?

上に対するapjさんのコメント。(at 2008/12/08 11:16:40)

>「日本が大量に入国してくる外国人で乗っ取られる」といったゼノフォビアに基づく

 そう考える人が出てくる背景には、不法就労や不法滞在を許さないということをきちんとやってこなかったということがあるのでは。その上、移民可にしようなどという話が出てくるので、さらに不安を煽る結果になっているのではないかと。不法就労や不法滞在の取り締まりをきびしくやって、管理可能な程度に入国のハードルを上げれば、「乗っ取られる」という不安を抱く人は減ると思いますけど。

しかし、この解釈は「居もしない排外主義」という表現を説明していません。
上のapjさんの答えは、「排外主義」が存在するのには理由がある、と言っていることになるわけですから、「居もしない排外主義」という表現とは矛盾します。
apjさんのコメントは、kyousumさんのコメントに対する回答とはなっていないのです。

3はどうでしょうか。
これは、私には考えにくいことです。
私が上に挙げたブログは、「国籍法改正」で検索して100程度見た中から、特にタチの悪いものを取り上げたものです。
apjさんも少し調べてみたら、この手の排外主義的な内容のブログはほぼ間違いなく目に入ったはずだと思います。

では、もし4または5であった場合はどうでしょうか。
apjさんは、「排外主義」と「国籍法改正反対」の結びつきを否定(または軽視)して、「不法滞在や不法就労に対する不安」を「国籍法改正反対」の原因として提示しています。
この二つを、「国籍法改正反対」を説明するための仮説として検討してみましょう。

(仮説1)「国籍法改正反対」は「不法滞在や不法就労に対する不安」によるものである
(仮説2)「国籍法改正反対」は「排外主義」によるものである

まず、(仮説1)から。
これはapjさんの説です。
この仮説は、以下のようなステップに分けることができるでしょう。

(ステップ1)日本では出入国管理が徹底されておらず、不法滞在や不法就労が適正に取り締まられていない
(ステップ2)そのため、多くの人が不法滞在や不法就労に対する不安を感じている
(ステップ3)不法滞在や不法就労に対する不安が「国籍法改正反対」の動きを引き起こしている

この仮説は現実に即しているのでしょうか。
各ステップごとに検討してみましょう。

まず、(ステップ1)はどうでしょうか。
apjさんは、コメント欄(真面目な方の中国人・韓国人だって迷惑 at 2008/12/08 19:27:24)で偽装結婚と偽装認知の事例を提示しています。
これに関しては、私の方で議論する準備ができていないので、ここでは論じません。
とりあえず、これが正しい主張であると仮定しておきます。

それでは、(ステップ2)はどうでしょうか。
不法滞在や不法就労に対する不安を感じている日本人は存在するのでしょうか。

理屈の上では、そのような不安を感じている日本人が存在することは自然なことであると言えるかもしれません。
しかし、apjさんはそのような日本人が実際に存在するという例を一切挙げていません(少なくとも、私が批判を書いた時点では)。

(ステップ3)も同様です。
「不法滞在や不法就労に対する不安が「国籍法改正反対」の動きを引き起こす」ということは、理屈の上では考えられないことではありません(私にはかなり不自然だと感じられますが)。
しかし、apjさんは「国籍法改正反対」を表明している人間が、同時に「不法滞在や不法就労に対する不安」を表明している事例を一切挙げていません

これは、apjさんが、(ステップ1)で偽装結婚と偽装認知の事例を持ち出しているのとは対照的です。

結局のところ、(仮説1)は、理屈の上ではかろうじて成立しているものの、それを裏付ける根拠をapjさんは示さなかった、ということになります。

一方、(仮説2)はどうでしょうか。
こちらも(仮説1)と同様に、ステップに分けて見ましょう。
(ステップ1)「排外主義」が存在する。
(ステップ2)「排外主義」の持ち主にとっては、「国籍法改正」は不都合なものとして受け取られている。
(ステップ3)「排外主義」が「国籍法改正反対」の動きを引き起こしている

これらの各ステップは、上に挙げた複数のブログの例で検証することができます。
これらのブログには、排外主義的な感情のために国籍法改正が否定的に受け止められている様子が容易に見て取ることができます。
よって、「国籍法改正反対」は「排外主義」によるものである、という主張は一定の妥当性を持つと言えるでしょう。
(もちろん、これは「排外主義」以外の要因が存在することを否定するものではありません。念のため。)

そもそも、落ち着いて考えてみれば、「排外主義が存在する」という主張と、「不法滞在やら不法就労に対する不安が存在する」という主張は排他的ではありません。
排外主義的な感情が不法滞在や不法就労に対する不安を強化する、ということも考えられるのですから。
(上に引用したapjさんの発言(at 2008/12/08 11:16:40)も、そのことを指摘しています。)

よって、(仮説2)は(仮説1)を包含する、より強力な仮説だと言うこともできます。それにも関わらず、apjさんは「排外主義が存在する」という主張を退け、自説に固執しました。
他に蓋然性の高い仮説が存在するのを無視して自分の気に入ったリクツに固執するのは、ニセ科学ビリーバーの特徴です。

ここら辺で、私の結論を書いてみましょう。

論点1の結論
「国籍法改正反対」の動きにおける「排外主義、歴史修正主義者」の関わりは無視できないものである。

apjさんは、

「排外主義に対して盲目である」

または、

「より自然な他説が存在するのを無視して自説に固執した」

のどちらかである。

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2008年12月13日 (土)

apjさんへの応答(1-1)

本記事は、apjさんの「思想の問題というよりも、信用されてないだけなんじゃ……」に関して私が書いた記事へのapjさんのコメントに対する応答です。

全部書き上げてから公開しようと思っていたのですが、大分時間がかかりそうなので、書き上げたところから公開していくことにします。
反論等は、できれば全部が公開されてからにしていただければありがたいです。

この記事を読む方へのお断り。
この記事では、私が特に疑問を感じた点に絞って書いていますので、その点を了承願います。
論点は他にも挙げることができると思いますが、議論を発散させたくないので。

では、始めます。

「居もしない排外主義、歴史修正主義者」?

論点1
「国籍法改正」反対者の過大な反応は何によるものなのか?
「国籍法改正」反対への「排外主義」「歴史修正主義」の関わりをどのように捉えるべきなのか?
上記に関するapjさんの判断および、そこに至るまでの手続きは妥当なものだったか?

まずは、発端となったapjさんの記事から、私が最初にひっかりを感じた部分を引用します。
文中の強調は引用者によるものです。

思想の問題というよりも、信用されてないだけなんじゃ……

(略)
 法にのっとった出入国管理が徹底されることが原則なのに、そっちがなかなかうまくいかない状態が長期間続いている。うまくいってないのに、日本に入国する外国人の数を増やそうとしている。このことによって、出入国管理に対する不信感は確実に増大しているはずである。そこに国籍法改正案なんか出したら、反発があるのがむしろ当たり前である。国籍法改正に対する反対が起きたのは政治思想によるものではなくて、これまでの出入国管理のやり方が信頼されていないことが積み重なっていたものが、国籍法をきっかけに出てきたということのように私には思える。
 もし、これまでに、やったもん勝ちにならないような出入国管理が十分に行われ、不法就労やら不法滞在を一掃するだけの実績を上げており、かつそのことが国民に周知されていたならば、国籍法改正が騒ぎになることはなかったのではないか。

 居もしない排外主義、歴史修正主義者などを探す暇があったら、条文通りの出入国の管理を徹底させることを、まずは実行してもらいたい。不法滞在やら不法就労やらを十分取り締まれていない現実があるのに、改正国籍法については悪用はされませんなどと説明したって、信用しろという方が無理である。
(略)

posted at 2008/12/08 04:23:11
lastupdate at 2008/12/08 05:04:59

さて、「居もしない排外主義、歴史修正主義者などを探す暇があったら」という部分は、apjさんも引用している「週刊金曜日」の記事中の以下の部分を受けてのものと思われます。

 民主党の古本伸一郎議員は「真正なる日本人の血統」という言葉を繰り返し、偽装認知防止策を訴えた。質問に立った多くの議員が同様の質問を行なったが、法案は全会一致で可決、参議院へ送付された。
 衆議院で可決されたにもかかわらず、反対派の議員は国会内で反対集会を行なうなど、この法案への反対を訴えていた。その中心メンバーが、平沼赳夫議員や稲田議員、山谷えり子議員ら、歴史修正主義者たちだった。

まずは「歴史修正主義者」について検討してみます。

文中に名前が挙げられた人たちは、「歴史修正主義者」なのでしょうか?
それとも、「歴史修正主義者」ではないのでしょうか?

手近な情報ソースとして、Wikipediaを参照してみましょう。
(Wikipediaの信頼性云々の議論は別のところでやってください。)

Wikipedia -稲田朋美 
Wikipedia -平沼赳夫 
Wikipedia -山谷えり子

上記Wikipediaの記事に目を通しただけでも、稲田と平沼「南京虐殺」や「従軍慰安婦」に関して、特定のスタンスをとっていること、山谷が右寄りの政治家であること、は容易に推測できるでしょう。

わざわざ調べることをしなくても、これらの人たちの名前は新聞やニュース等で目にする機会があるはずです。
最近でも、映画「靖国」に関する騒動が、各メディアで大きく取り上げられましたが、稲田朋美の名前もその中に登場します。
以下はその一例。

映画「靖国」問題、騒動の背景は?

「国籍法改正」反対の動きに、「歴史修正主義者」が関わっていることは明白だと、私は考えます。
もちろん、「国籍法改正」反対したのは、「歴史修正主義者」と呼ばれている人たちだけではなく、田中康夫など、一般には「リベラル」と思われていた者も存在するわけですが、だからと言って、「歴史修正主義者」の関与が否定されるわけではありません.。

私には、apjさんが「居もしない排外主義、歴史修正主義者」と書いた真意がよく分かりません。
私の頭で考え付く解釈は、以下の通りです。

1.そもそも「歴史修正主義者」など存在しない。
  「歴史修正主義者」とは、左翼が勝手に作ったレッテルなので認めない。
  よって、稲田や平沼も「歴史修正主義者」ではない。
2.「歴史修正主義者」は存在し、稲田や平沼も「歴史修正主義者」だが、「国籍法改正」反対との関わりはない。
3.単純に上記の人々が「歴史修正主義者」と言われていることを知らなかった。

1ということであれば、政治的スタンスの問題ということになります。
私自身は「左寄り」の考えの持ち主と自認していますので、今回の件に関するapjさんと私の見方の違いは、政治的スタンスの違いに帰着することになるでしょう。
この場合、ここで「歴史修正主義者」の存在について議論をしても決着がつくことはおそらくないでしょうから、私はこれ以上の議論を望みません。

2は、ちょっと考えにくい解釈です。
稲田朋美や平沼赳夫が歴史修正主義者であることを認めた上で、「国籍法改正」反対への歴史修正主義者の関わりを否定するというのは辻褄が合いません。
この解釈だと、apjさんはちょっと頭が混乱していた、ということになります。

3であれば、最低限の調査もせずに「居もしない排外主義、歴史修正主義者」と書いたことになり、その手抜きぶりを非難せざるをえません。

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2008年12月10日 (水)

火中の栗

例の件だが、コメント欄でやり取りが続いてるけど、apjさんはまだよく分かってなさそう。
増田がこんなこと言ってるんで

ネット右翼を笑えないエセ科学批判の科学者

ようはさ、何だかんだ理屈こねるけど、科学を絶対的真理だとどっかで誤解してて、それがいろんな言説の支えになってて、あげくのはてにエセ科学批判は市民運動みたいな言われ方までされるんだよ。だからさ、こういう人はとっとと切らないといけないんだよ。エセ科学批判する科学者としてはまとも、とかバカなこと言ってないでさ。周回遅れだのなんだのいって、結局なんにも分かってない、議論が実際に反映されてない、いい証拠だよ。エセ科学批判のまともな先生たちは、ここを反省しなきゃならないんだよって、何回いっても分かってもらえそうにないけどね。

ここは、あえて火中の栗を拾いに行って、apjさんをきっちり批判しておこうと思ったのだが、私の言いたいことは、もう書かれちゃってました。

NC-15 ニセ科学批判してる先生の発言がニセ科学信者とさほど変わらない件について

付け加えることないなあ。

要するに、今回の件は

法の瑕疵で法の谷間に落ちちまったガキをどう救済するか。そういうシンプルな話

なんであって

そもそもガキの国籍の話が何故出入国管理の話になるのかわからねえんですけどね。事象のレイヤーが違う話だろ。

おっしゃるとおりでございます。

はてブ経由で知ったのだが、

http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/keijiban/e0010.html
http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/keijiban/e0011.html

これを見ると、昔から変わってないみたいですね。
今回の件も、何でこんなに批判されてるのか分かってないんじゃないかなあ。

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e-politics - 国籍法改正

国籍法改正に疑問を持ってる人は、以下に目を通しておいたらいいんじゃないですか。

e-politics - 国籍法改正

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田中康夫

いやはや。

お友達の浅田彰はどう思ってるんですかね。
次号の「ソトコト」の「憂国呆談」でどう発言するか楽しみ。
東浩紀に続いて、日本のポストモダニストの真価が問われるところですな(笑)。

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2008年12月 9日 (火)

福岡伸一とDNA鑑定

「国籍法改正」で検索して出てくるブログを眺めていって、頭がクラクラしそうになってきております。
そんな中、macskaさんのところで、福岡伸一が、今回の件にからんでいることを知る。

macska dot org in exile

ウーン。
別に間違ったことを言っているわけではないのだが、ビミョーに斜め上を行っちゃってるような。

 その人の出自を探るとか、何か民族性とリンクしているというのは、幻想なんですね。だからやっぱりそこには、DNAをめぐる神話と真実が如実に表れていて。たとえば嫌がるものを無理矢理ね、採取して調べるという点が人権侵害であるということにおいては、指紋を無理矢理押させるのと、無理矢理DNAサンプルを取られるというのは、同じく人権侵害だと思います。ですから、その用途をですね、非常に限定すれば、親子鑑定に使うという点に関しは、有効なツールだとわたしは思いますけれども、そのために、そのことが濫用されないいろいろなバウンダリー・コンディションを整える必要があると思います。

そもそも、今回の件でDNA鑑定を「民族性とリンクして」論じている人間なんているんですかね?
「DNAをめぐる神話と真実」なんて、今回の件とは何の関係もないでしょ。
問題は、「生物学的な親子関係の確認」が法体系の中でどう位置づけられるかと言うことであって。
と言うわけで、以下を参照。

■国籍法改正について語るための基礎知識(3):「DNA鑑定」導入までの5つのハードル

DNA鑑定自体やその濫用が問題なわけじゃなくて、「DNA鑑定の対象を平等原則に反するんじゃないか」ということですね。
その上、衆議院法務委員会で法務省民事局長の以下の発言

偽装認知のためにDNA鑑定すべきじゃないかと、これもよく分かる議論なんですが、実は議員の皆様方ご承知と思いますが、日本の民法の親子関係を決める手続きと言うのは認知で決まる。

そのときにDNA鑑定を出せなんていうことは言わないわけでございます。

ここに家族の情愛で自分の子供だと認知したと言うのだったら、それでとりあえずの手続きを進めて、後でおかしなことがあったら親子関係不存在とかそういうのでひっくり返していく。あるいは嫡出否認なんかでひっくり返していくと。こういう法制度。これが日本の独特の制度でございます。

それを踏まえますとDNA鑑定を最初の認知の段階で持ち込むことになりますと、やはり親子関係法制全体に大きな影響を及ぼすなど、これを私どもとしては考えざるを得ません。

これでも分かるように、「生物学的な親子関係」というものは日本の法制度上の親子関係とピッタリ重なるものではない、と。

だから、この議論に関しては「生物学者」の出番はない。
福岡伸一の言っていることは意味がないのです。
まあ、福岡伸一が悪いと言うよりも、ゲストの「生物学者」にこういう話題を振る、田中康夫と番組側に問題があるんですけどね。
田中康夫にいいように利用されちゃってる福岡伸一もダメだとは思いますが。

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2008年12月 8日 (月)

国籍法改正

国籍法改正の話題は、いくつかのブログでチラチラと目に入ってはいたのだが、ちゃんと読んでおらず、誰がどういう理由で反対しているかもつかめてなくて、「はあ、何かまずいことでもあるんですか?」くらいに思っていたのだが・・・。
色々目を通してみて、驚いた。

何で反対してるんだ!

私には、この法律に反対する合理的な理由が一つも見出せなかったですね。
apjさんも、何かヘンなこと書いてるなあ。

思想の問題というよりも、信用されてないだけなんじゃ……

コメント欄での発言も含めて、サッパリ理解できませんでした。

(追記)
国籍法改正の経緯については、以下の説明が分かりやすくていいですね。

半可思惟  ■国籍法改正について語るための基礎知識(1):違憲判決の図解

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2008年11月28日 (金)

ディスレクシア

このブログで、読字障害に関する本である『プルーストとイカ』のことを書いた矢先、養老孟司がまた馬鹿な発言を。

誤読連発の麻生は「読字障害」? 養老孟司氏が分析

私はこの男を心の底から軽蔑する。
これについては、また後で書く。

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2008年11月23日 (日)

犯罪不安社会

女子小学生に対し「おはよう」と声をかける事件が発生。

11月11日(火)午後4時か午後4時30分ころ、下野市石橋地内の路上において、歩きの男が女子小学生に対し「おはよう」等と声をかける事案が発生。男は、
30?40歳、身長170センチ位、やせ型、髪短め、黒色タートルネック、灰色ベスト、クリーム色ズボン、黒色手提げバッグ所持。〔ワンポイントアドバイス〕知らない
人に声をかけられても相手にせず逃げる、防犯ブザーを鳴らす、すぐに警察に通報する等、ご家庭でもお子さんにご指導願います。(下野警察署)

『犯罪不安社会』そのままの話だ。

日本のどこかで子どもが殺されるような事件が発生すると、メディアの報道を介してそが住民たちにさらなる不安を呼び起こす。その不安がセキュリティのさらなる強化を求め、コミュニティの再生を合言葉に往民たちを防犯活動へと駆り立てる。だが、そのような活動は安全や安心をもたらすものではまったくなく、逆に不審者への脅威に敏感になることでかえって不安を高めてしまう。そして、つねに燻り続けているこの不安の火種が、さらなる凶悪事件とともに燃え上がるのだ。
 こうして社会は不安と治安の終わりなきスパイラルに巻き込まれる。
 まだ遭わぬ犯罪に過度な不安を覚え、そして過剰なまでの警戒態勢を敷くならば、それが解かれる日は決してやってこないだろう。不安に駆動されたセキュリティの推進は、メディアによって日々、供給される恐怖を糧に強化されていくだけだからだ。
 学校で事件が起きれば学校のセキュリティの強化が、通学路で事件が起きれば防犯パトロールの強化が、そして学習塾で事件が起きれば講師採用の基準の強化が……といった具合に、社会のさまざまな場面にセキュリテイが拡散していくのだ。
 

ある防犯パトロール隊のスローガン。
 「不審な行動をとる人を厳しい目で見つけ出し、すばやく警察に通報します」
 こうした言葉が物語るように、防犯パトロールでは不審者という以外、まったく監視する対象が限定されていない。
だが、不審者とは一体、誰のことなのか。
 生活時間帯が多くの人とは異なる職種の人間、失業者やホームレス、精神障害者や知的障害者、在日外国人など、「普通の人」とは異なる生活リズムやスタイルを持つ人びと、結局はこうした者たちが不審者と見なされるのだ。
 それは揃いのジャンパーに身を包み、「防犯」という腕章をつけた善意の住民たちの目に、異質な者として映る者たちでしかない。だが、そうした異質者たちが不審者として、今社会から排除されている。
 治安共同体と呼ぶのがふさわしいコミュニテイ、それこそが現在、私たちが向かおうとしている社会の姿なのだ。

犯罪不安社会 誰もが「不審者」? (光文社新書) Book 犯罪不安社会 誰もが「不審者」? (光文社新書)

著者:浜井 浩一,芹沢 一也
販売元:光文社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

そして、こんな記事も。

外国人客増、5割強が「不安」=「観光庁知らない」6割-政府世論調査
11月23日2時52分配信 時事通信

 日本を訪れる外国人旅行客が増えることについて、5割強の人が治安面で不安に感じていることが政府の「観光立国と観光庁に関する世論調査」で22日、分かった。訪日外国人客(年間)は、2007年に過去最高の835万人を記録。政府は10年までに1000万人に増やすのを目標に誘致活動を進めているが、受け入れ態勢の整備とともに治安対策の強化も求められそうだ。
 調査結果では、外国人客が増えたと感じている人は8割。ただ、外国人客の増加について聞いた質問(複数回答)では、「治安面から不安で、何らかの対策が必要」と答えた人が最も多く53%。「地域社会でトラブルが多くなる」も27%いた。「国際交流が進む」は51%、「地域経済の活性化につながる」は40%だった。

外国人観光客の増加にともなって、犯罪が増えているかどうかの検証もなしに、「不安を感じる」からと言って「治安対策の強化」を求めようって言うんだからおかしな話だ。 

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なんで教訓がいるの?

切込隊長BLOG(ブログ) これほど事後に教訓を残さないテロ事件も珍しい

なんでテロや人殺しにイチイチ教訓がなければいけないのか分からん。

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2008年11月19日 (水)

陳謝してません

「社会常識欠けた医者多い」=麻生首相が発言、すぐに陳謝 

麻生太郎首相は19日、首相官邸で開かれた全国知事会議で、地方の医師不足問題に関連して「社会的常識がかなり欠落している人(医者)が多い。とにかくものすごく価値判断が違う」などと述べた。首相はその後、記者団に「まともな医者が不快な思いをしたというのであれば申し訳ない」と陳謝したが、医師の資質を批判したとも受け取れる発言で、今後波紋を呼びそうだ。(時事通信)

いや、陳謝してないですってば。
こういう風に、政治家が仮定法で何か言ったふりをするっていうのは小泉時代から目立つようになったんだけどさ。
「問題があったのであれば善処する」とか。
「まともな医者が不快な思いをしたというのであれば申し訳ない」っていうのは、単に仮定の話をしているだけであって。
「申し訳ない」と言ったことにはならないんですよ。
「まともな医者が不快な思いをしたというのであれば申し訳ない」、かつ、「まともな医者が不快な思いをした」ということを認める、というのであれば、当然「陳謝します」という結論が出るはずだけど、人間っていうのは論理的に行動するとは限りませんからね。
「まともな医者が不快な思いをしたというのであれば申し訳ない」、かつ、「まともな医者が不快な思いをした」ということを認める、だけど、陳謝するつもりはないっていうこともありえるわけで。
陳謝するつもりがあるなら、単に「申し訳ない」って言えばいいんですよ。

もう一つ、別の解釈をしてみましょうか。
「~であれば」というのは、仮定の話をしているということではなくて、「まともな医者が不快な思いをしたそうで、申し訳ない」という意味で言ったのだ、としましょう。
これならば、一応陳謝したことにはなりますね。
だけど、やっぱり問題は残りますよ。
自分の発言のどこが問題だったのか認識してないってことなんだから。
問題は、「不快な思いをさせた」ってところにあるんじゃなくて、現実認識が甘くて医者を貶めるようなことを言っってしまった、ってところにあるんでしょ。
記者たちがそこを突っ込まないってことは、記者たちも何が問題なのかをちゃんと認識してないってことでしょ。
ただ、「あ、麻生が医者の悪口を言ったぞ」って騒いでるだけってことでしょ。

そういうわけだから、それ以上突っ込んだ質問をしようとしなかった記者たちは全員バカだと思います。

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2008年8月25日 (月)

ウザいオリンピックがやっと終わった

私も疑問を感じます - 非国民通信

『なでしこジャパン』ってそんなに変?   想像力はベッドルームと路上から

私は、スポーツに対する興味がほとんどゼロに近い人間である。
今回のオリンピックも、テレビで観た時間は、全部足しても10分以下だと思う。
何か、欽ちゃん走りの人が世界新を出したというのは知っているが、その映像も見ていない。
私が真剣に観た最後のオリンピックはロス五輪である。
いつの話だよって感じだが。
おまけに、私は、日本が金メダルをいくつ取ろうが、そんなの知ったこっちゃねー、という非国民でもある。
と、予防線を張っておいた上で。

「なでしこジャパン」って、ダッセー

ああ、スッキリした。
前から言いたかったんだけど、いい機会なので、今言ってみました。
「なでしこジャパン」って初めて聞いたときも、何?そのシブがき隊チックなネーミングって思いましたけど。

サムライ・ニッポン   シブがき隊

念のために断っておきますが、これは単なる私の趣味の表明であって、政治的な意図はありません。
「なでしこジャパン」というネーミングが民主的に決められたもの、とか、特定の思想の押し付けかどうか、なんてことは全く興味がありませんので。
スポーツに興味がない人間のタワゴトだと思って、軽くスルーしてください。

サムライついでに言うと、「サムライ・ブルー」っていうのも相当ダサイと思う。

ところで、「○○ジャパン」っていうのは、一体何なんですかねえ。
違和感っていうことでは、こっちの方がよっぽど違和感があるな。
「星野ジャパン」だの「反町ジャパン」だの。
実際にプレイするのは選手だぜ?
選手の主体性は無視ですか?
フツーに「日本代表チーム」って言えばいいじゃん。
他の国って、どうなってるんですかね。
例えば、アメリカの人間が「○○USA!」とか言って自分の国のチームを応援しているところを想像すると、スゲー気持ち悪いんだけど、私だけですかね?

そう言えば、高校野球で監督が変に持ち上げられるのも気持ち悪かったな。
今はどうなのかよく知らないけど、昔の蔦監督とか(また、古いネ)。
それで、組織論なんかに絡めて語られた日にはウザさ倍増。

と言うわけで、ウザいオリンピックがやっと終わって、ホッとしたのですよ。

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2008年7月15日 (火)

事件の意味

内田樹の研究室 コピーキャット社会

私はこの事件についてはすでに数回話しているが、そこで繰り返し述べたのは、これがきわめて「記号的な」事件だ、ということである。
犯人自身が「ワイドショー独占」と書いているように、「この事件は何を意味するのでしょう?」という問いかけがメディアを賑わせることそのものを目的として行われた。
そして、メディアはその目的通りに動かされている。
彼が秋葉原で人を殺したのは、人を殺すことを目的としてではない。(無差別殺人というのは、「殺すことが目的ではない」ということである)。
そうではなくて、「この殺人はいったい何を意味しているのでしょうか?」という問いを人々が立てることである。
つまり、「この殺人はいったい何を意味しているのでしょうか?」という問いを立てた人々は自動的に「事後従犯」となるように犯行は構成されているのである。
私はそれを「悪魔的」なものだと思う。

(略)

コピーキャットによる犯罪の無限の増殖を防ぐために私たちがなすべきことは、事件を「記号的に」解釈することではない。
「記号的に解釈されることをめざしてなされる事件」の発生の構造そのものを解明することである。
では、どうすればいいのかと言われても、私に確たる答えがあるわけではない。
とりあえず私に言えることは、「この事件が意味するものは?」という問いがすでに「事件の一部」をなしているという病識だけは持ち続けなければならないということである。

この人は、彼が秋葉原で人を殺したのは、人を殺すことを目的としてではない、とか、「この殺人はいったい何を意味しているのでしょうか?」という問いを立てた人々は自動的に「事後従犯」となるように犯行は構成されているのである、と言うこと自体が事件を「記号化」し「意味」づけてしまっているということに気付かないのだろうか?
それとも、気がつかないふりをしているだけなのだろうか?

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2008年6月19日 (木)

空騒ぎ

秋葉原の通り魔事件について、個人的な考えを書く。

私がこの事件で情動を揺り動かされるのは、「未来に希望が持てず自暴自棄になった男が無関係な人間を何人も殺した」という事実、その一点による。
私がこの事件について文章を書かなければならないという衝動にかられたのは、事件に対するマスコミの反応があまりにも愚劣なものだったからだ。
犯人が犯行に至るまでの様子をネットで実況したとか、事件が秋葉原で起きた、ということには全く興味がない。
そんなことはどうでもいい。

ネットの書き込みなど、この事件の本質に関係あるとは思えない。
ネット云々は、通り魔事件に識者の分析欲を刺激する目新しい意匠を付け加えるだけのものだ。
ネットに犯行予告が書き込まれて、それを多数の人間がそれを読んだからといって、それがこの事件に新しい様相を付け加えたとは思わない。
ネットで犯人の書き込みを目にした人間も、男の行動に何か影響を与えることができたわけではない。
結局、単なる傍観者に過ぎなかったのだ。
男の行動がネットの向こうにいる人間達を意識したものだったとしても、だからなんだと言うのだろう?
そこにネット社会の新しさやら現代社会の病理やらを読み取るのは自由だが、私はそういう議論には全く関心が持てない。

事件が秋葉原で起きたということも、この事件の本質とは何の関係もない。
「秋葉原の通り魔事件」において、「秋葉原の象徴的意味」に拘るのは、秋葉原に興味がある人間であって、「通り魔事件」に関心を持つ人間ではない。
「秋葉原」という、ある意味で現代日本を象徴する場所で事件が起きたという事実に、過大な意味づけがされてしまっているのではないだろうか。
私は「アキバ」にも「オタク」にも興味がないから、「秋葉原」という場所の象徴性にも、犯人の趣味嗜好にも、全く興味が持てない。

現場に居合わせた人間たちが、ケータイでパチパチ写真を撮っていたことが非難されている。
もちろん、あいつらはクズだ。
(私は野次馬とジャーナリズムの境界などという議論には興味がない。)
だが、そこに現代社会の病理を見る、といった論調に与するつもりはない。
今まで、ああいうことが起きなかったのは、単にそういう道具がなかったからだ。
タイムマシンで江戸時代に行って向こうの人間にケータイを与えたら、きっと同じようなことをするだろう。
いつの時代でも、どこの国でも、物見高くて品性が下劣な人間は存在したのだ。

そもそも私は、犯罪事件が持つ「象徴的意味を読み解く」によって「現代社会のあり方を分析する」、というような行為にいくらかでも意味があるのか、深い不信感を抱いている。
そんなことをしたところで、世の中をより善くするための役に立つとは思えない。
そういうことをするのは、この事件が歴史上の出来事になってしまった未来の人間に任せればよいのだ。

もしかしたら、私はものごとの新しさや特異性に対する感受性が欠如しているのかも知れないが、そうだとしても別に構わない。
空騒ぎにつき合わされるのはウンザリだ。

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2008年6月11日 (水)

「責任」と「原因」

「余計なことはするな」「親が謝罪する必要はない」の補足。

「責任」の議論と「原因」の議論を混同しないことが大切だと思う。
「責任」ということなら、責任は犯人にあるのであって、それ以上の議論は無意味である。
親の責任でもなければ、勤めていた会社の責任でもない。

しかし、「原因」ということであれば、色々と考えられるのであり、一つに絞る必要もない。
会社の仕事に原因があったのかも知れない。
話を大きくすれば、「格差社会」が原因と言えるのかもしれない。
ものごとの原因と言うものは、観点によって違ってくるのであって、どれか一つが本当の原因というわけではない。
とは言え、どのような観点をとっても構わないと言うことではない。
妥当な観点とそうでないものとの区別はあるはずである。
「グロ-バリゼーション」が原因だとするのは、さすがに無理がある。
ゲームや刃物が原因というのも、ほとんど無意味だろう。

気をつけなければならないのは、原因の追求が悪者探しにならないようにすることである。
原因を追究する目的は、世の中を改善することなのであって、悪人を吊るし上げることではない。
あくまでも冷静に現実の分析がなされるべきである。

仮に、「職場の過酷な労働条件」が事件の原因だということであっても、それをもって会社を批判するのには慎重であるべきだ。
会社が過酷な労働条件を雇用者に強いているならば、それ自体を批判するべきであって、今回の事件のような特異な例を前面に押し立てて批判するのは、あまりうまいやり方とは思えない。
「格差社会」が原因だ、とする場合でも同様。
事件を政治的な主張に利用している、などと勘繰られるのはつまらない。
「格差社会」を批判すべき理由は、他にいくらでもあるのだ。

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2008年6月10日 (火)

親が謝罪する必要はない

<秋葉原通り魔>「本当に申し訳ありません」 容疑者両親、謝罪 母は崩れ落ちる
6月10日21時12分配信 毎日新聞

午後7時25分、住民や報道陣約100人が囲むなか、両親はタクシーで帰宅。玄関前で会見に臨んだ。父親は「社会に与えた不安もかなりあったと思っております。本当に申し訳なく思います」と頭を下げた。そして「本日警視庁の事情聴取が終了しました。皆様にお答えできる内容はかなり難しいと思いますが、おわびだけ申し上げます」と毅然とした表情で述べた。

25歳の男がやったことで、親が謝罪する必要などない。

 記者団から「事件を防げなかったのか」などの質問が出たが、父親は「捜査の関係もあり、この場ではお答えできない」。社会的責任を問われると「謝っても謝っても償いきれません。まだ心の整理もついていない」と三度頭を下げた。加藤容疑者については「(取り調べに)正直に述べてくれればと思います」と、原因解明を捜査に託し、約5分で終了した。

何と愚劣な質問だろう。
自分の子供が通り魔になるかもしれないと思いながら、子育てをする親などいない。
私は、容疑者の両親よりも、この記者の方に殺意を覚える。

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余計なことはするな

秋葉原で通り魔事件が起きて、「今後このような事件が起こらないためには何をしたら良いのだろうか」といった議論がマスメディアで活発に行われることになるだろう。
実際、既に刃物やゲームやネットの規制だの、歩行者天国を自粛だの、といった話が出ているようだ。

私の主張は、何もするな、ということだ。
理由?

目の前の「原因」らしきに飛びついて、何らかの「対策」をとったところで無意味だからだ。
刃物を取り上げたところで、次は別のもので事件が起こるだろう。
ゲームやネットが犯人に影響を与えたという合理的な根拠はない。
歩行者天国を自粛して何になる?
池田小学校の事件の10年後に同じような事件が起きて、今度は歩行者天国だった。次がどこで起きるかは分からない。

さっきから、私が「次は」と書いているのが気になる人もいるだろう。
つまらないゴマカシはやめようじゃないか。
同じような事件は、今までも起きてきたし、これからも、また、どこかで起きるだろう。

池田小学校の事件で大騒ぎして、何か一つでも実質的な結論が出たか?
今度の事件も、ひとしきり大騒ぎして、何の結論も出ないだろう。そのうち事件の記憶も薄れた頃に、また同じような事件が起きて大騒ぎするのだろう。

「お前は被害者や被害者の家族に対する同情の気持ちはないのか?」

もちろん、同情している。
だが、私が同情したところで、誰も救われはしない。
深刻ぶって「現代社会の問題点」を論じ、情深い人間のような顔をして被害者の家族に同情してみせたところで、それは本質から目をそらした自己欺瞞に過ぎない。

「それじゃあ何もしないで手をこまねいていればいい、というのか?」

今回のような突出した事件だけに反応して、原因は何だとか、対策はどうだとか、そんな議論は馬鹿げている。
今回の事件が、他の殺人事件や傷害事件と何らかの共通性を持つもので、その中の極端な事例であるならば、この事件だけにとらわれた議論するべきではない。もっと、広い視野に立って考えるべきである。
もし、今回の事件が特異なものであるなら、対策など立てようがない。
この次に起きるのは予想のつかないような事件なのだから。
どちらにせよ、浮き足立って大騒ぎするのは無意味だ。

「何もしないよりも、効果がないとしても何らかの手を打ったほうがよいではないか?」

それじゃあ、例えば、ゲームを一切禁止にしてみたらどうなるか。
ゲームの開発者やゲーム販売店の人間が失業して、生活苦で自暴自棄になったものが通り魔事件を起こすかもしれない。
確率的には、ゲームの影響で人を殺す人間が出てくるというのよりは、こちらのストーリーの方がよほどもっともらしいと私には思えるのだが。
無意味な規制などやらないほうがいいのだ。

もし、何かをしたいというのであれば、ゲームだのネットだの、特定の「原因」を槍玉にあげるのではなく、世の中をもっと住み心地の良いものにするように努力すべきだ。
そのためには、他人を悪意によって傷つけるのをやめ、差別をなくし、なすべき義務を果たし、他人に喜びや楽しみを与えること。
特別なことではない、ごく当たり前のことである。
私が、「余計なことはするな」と言うのは、そういう意味である。
また、経済を活発にし、格差による不公平感を少なくすることも重要だ。
結局のところ、景気が良ければ犯罪に走る原因だって少なくなるのだ。
事件の原因について根拠薄弱な憶測をするよりも、経済の心配をする方がよっぽど意味があると思う。

無意味なきれいごとだ?
迂遠すぎる?
そうかもしれない。
だが、私はこれが本当のことだと信じている。

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2008年5月28日 (水)

ポジティブ教

「ニューズウィーク日本版」5.26号より。

 メールにいちいちスマイルマークの絵文字を入れるようなポジティブ志向の連中には正直イラッとする......。そんなあなたにおすすめなのが、6月に発売されるエイミー・マンのニューアルバム『@#%&! スマイラーズ』だ(記号の部分には、それぞれ好きな罵声を入れていいらしい)。

  アメリカにも「ポジティブ教」が嫌いな人間がいることを確認できてホッした。

 と言うわけで、「ポジティブ教」のカテゴリを追加しました。
 <- <- <-

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2008年5月21日 (水)

出版社と<佐藤優現象>

kmiuraさんから、「佐藤優と<左派の崩壊>」にトラックバックいただいた。

岩波書店における金光翔さんの処遇

「論文の公表後は左遷どころではなく社で問題になって辞めろ、といわれているらしい」とのこと。

岩波書店、腐ってるな。

出版社と<佐藤優現象> ということでは、以下の記事も興味深い。

首都圏労働組合 特設ブログ  「談合」としての<佐藤優現象>

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2008年5月17日 (土)

佐藤優と<左派の崩壊>

「「もう牛を食べても安心か」と「疑似科学入門」」の続きを書く前にネットを巡回していたら、kom’s logで

金光翔さんはこの論文を書いたことで勤め先の岩波で叱責を受け、編集から校正に左遷されているようである

ということを知り、ビックリしている。

左派の失策と<佐藤優現象>

金光翔の論文はこちら。

金光翔「<佐藤優現象>批判」(『インパクション』第160号(2007年11月刊)掲載)

実は、佐藤優に関してはちょっとだけ取り上げようと思っていて、『インパクション』もネタとして買ってあったのだが、このブログは政治的な話題をメインにしていないし、茂木健一郎やら福岡伸一やら江原啓之やらのせいで、そちらにリソ-スを食われてしまって、まだ準備が整っていない。

アンチナショナリズム宣言(cocolog) 続X12 週刊新潮に援護される岩波書店『世界』 佐藤優という泥沼

佐藤の言説は、難解な言葉と権威者からの引用に溢れている。たいした考えもなく行き当たりばったりで言葉を吐きまくる。更に検証不能な体験談などで埋め尽くされている。だから多弁な割に中身は陳腐で平凡。対談相手も見かけだけの佐藤に似たバカだからぼろが出ない。それを編集者や取り巻き達が隠したり賞賛したりして成り立っているのだ。

佐藤優に関しては、上の評言につきると思う。

こんな男と<連帯>しようとするなんて馬鹿げてる。

佐藤優批判に関しては、ネット上の言説も追いかけ切れてないし、私以外に適任の方がたくさんいらっしゃると思うので、あまり力を入れて書こうとは思わないのだが、<自称左派>としては黙ってもいられないので、取り急ぎこのエントリを書いてみた。

岩波書店に関しても、いくつか悪口を書こうとしていたところだったので(政治とは関係ない小ネタですけど)、そちらの方は近日中に。

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2008年5月14日 (水)

統合失調症と「被害者意識」

これはヒドイ。

内田樹の研究室 被害者の呪い
                                           

「被害者意識」というマインドが含有している有毒性に人々は警戒心がなさすぎるように思える。
以前、精神科医の春日武彦先生から統合失調症の前駆症状は「こだわり・プライド・被害者意識」と教えていただいたことがある。
「オレ的に、これだけはっていうコダワリがあるわけよ」というようなことを口走り、「なめんじゃねーぞ、コノヤロ」とすぐに青筋を立て、「こんな日本に誰がした」というような他責的な文型でしかものごとを論じられない人は、ご本人はそれを「個性」だと思っているのであろうが、実は「よくある病気」なのである。
統合失調症の特徴はその「定型性」にある。

まるで、「統合失調症は被害者意識のせいで病気になったのだ」とか「統合失調症は被害者意識があるからダメなのだ」と言っている様に読めてしまう。
統合失調症患者の「こだわり・プライド・被害者意識」は病気の結果であって、「こだわり・プライド・被害者意識」が亢進して病気になるわけではない。
また、統合失調症患者は、「オレ的に、これだけはっていうコダワリがあるわけよ」というようなことを口走り、「なめんじゃねーぞ、コノヤロ」とすぐに青筋を立て、「こんな日本に誰がした」というような他責的な文型でしかものごとを論じられない人ではない。

    症状は患者ごとにかなり多種多様であるし、なかには表面的な症状をほとんど示さない場合もあるので、臨床症状だけから分裂病の診断を下すことはほとんど不可能に近い。しかしよく注意してみると、どの症例にも例外なく認められる共通点が一つある。それは、患者の自己が確実な自己性を有してしないという点であって、これはもちろん彼の幼児期以来の対人関係の持ちかたと関係がある。この不確実な自己性という特徴は、種々の精神症状にも、患者の日常的な意識や行動にも現れて、そこに独特の分裂病的な雰囲気を作り出す。
      
『時間と自己』木村敏 P68    (*1)
 
  これらの本質的に非特異的な臨床症状以上に、自己性の不確実さという分裂病性の特徴をはっきり反映しているのは、患者が日常の対人関係の場面で示す意識の持ちかたや行動の仕方である。それは、一言でいえば「独特の不自然さ」と言ってよいだろう。あるいはブランケンブルクの症例アンネの表現を借りて、「自然な自明性が失われている」と言ってもよい(木村敏地訳『自明性の喪失』、みすず書房)。患者はその対人関係において、相手とのあいだに特有のぎこちなさを感じており、しばしばそれを「間がもたない」、「流れに乗れない」、「なにかずれている」などと表現する。患者は、周囲の人たちや事物の動静を自然にあるがままに受けとることができない。ビンスヴァンガーはこれを「事物のもとに気楽に逗留することができない」という意味での「自然な経験の一貫性の解体」と表現した(新海安彦他訳『精神分裂病』I、みすず書房、七頁)。ミンコフスキーのいう「現実との生命的接触の喪失」(村上仁訳『精神分裂病』、みすず書房、七〇頁)も、結局はこれと同じ事態を指している。
 このような分裂病者のありかたは、彼と個人的に親しく交わろうとするわれわれの心に、それ以外ではまず見られないような特別な印象を呼びおこすことが多い。(略)具体的な印象は患者によってかなりさまざまなニュアンスをおびるが、最も多いのは一種の接近遮断感、あるいは心の不通感とでもいうべき印象だろう。それからまた、患者の中でなにかが絶えず出ずっぱりの本番態勢にあって、つねに一種の近よりがたい緊迫感をただよわせている、という印象もある。患者はいつも真剣で、遊びや余裕に乏しい。仕事や勉強がうまく行かなくてぶらぶらしている患者でも、どこか思いつめて緊張しながら無為の時間を送っている、という感じがある。
 この不自然でゆとりのない内面的世界が、分裂病特有の自己性の不確実さを反映したものだということは、次のような患者たちのことばからも容易に理解できるだろう。例えばある患者は、「自分というものから一刻も眼を離すことができないのです。すこしでも眼を離したら自分がバラバラにこわれてしまいます」と言う。彼は美しいもの、自分をうっとりさせるものを極端に怖れる。それに夢中になると自分が消えてなくなるからである。別の患者は、「いつも気を張っていないと、他人がどんどん私の中に入って来て、私というものがなくなってしまう」と言うし、また別の患者は、「いつも先手先手で考えることに心掛けています。相手に先に読まれたら敗けですから」と言う。
 この先手先手の防禦的姿勢という患者の処世訓は、分裂病者の生きかたを時間的観点から考えて行く上で大きな示唆を与えてくれる。いずれゆっくり考えなければならないことだが、ここですでに、いささかの誤解を覚悟の上で公式化して言ってしまえば、分裂病者はいつも未来を先取りしながら、現在よりも一歩先を生きようとしている、と言ってよい。
 
  同 P70

  統合失調症患者の「こだわり・プライド」は、むしろ「自己性の不確実さ」に対する防衛機制である、とも考えられる。

 分裂病者は一般に現在の自己に対して否定的な態度を取る。
  (略)
 分裂病者の現状否定と未来希求のもう一つの現れとして、その日常的行動における性急さを挙げることができる。分裂病者は待つということを苦手とするようである。入院中の患者が外泊や通院を要求するときの説得困難ないらだちや、しばしば医者の助言を無視して結婚や進学を希望するときの思いつめたあせりぱ、精神科医のだれもが知っていることだろう。ここで患者が真に望んでいるのは、具体的な退院や結婚などのような、予定された将来ではない。むしろ彼らは、未知なるものとしての未来に対して激しい愉悦を示す。結婚しさえすれば、進学しさえすれば、いままでの人生とは根本的に追った未知のなにかが開けてくるだろうと考える。
 未来は、願望や憧れの対象となるだけではなく、もちろん恐怖の対象ともなる。分裂病者が他者を恐れるのは、相手が危険な人物に決まっていて、その手口がわかっているから怖いというのではない。相手がなにをするかわからないから怖いのである。他の精神病にも見られる迫害妄想とは追って、分裂病の迫害妄想では、他者は徹底的に未知なるものとして、未来の化身として怖れられている。
 
  同 P72

  統合失調症患者の「被害者意識」が、内田の言う「被害者意識」とは全く別物であることは明らかだろう。
 
  何にしろ、内田の文章の文脈で統合統合失調症を持ち出す必要性はどこにもない。それどころか、統合失調症を、文脈上ネガティブなものとして利用しているのだから極めて悪質である。

(*1)「分裂病」の語は、原文のままとした。

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2008年5月 1日 (木)

法廷のワイドショー化

「見せる法廷」遺体写真も 裁判員制度へ福岡地検が試行
2008年05月01日03時03分

 福岡地裁で30日に開かれた殺人事件の初公判で、検察側が事件直後の現場や遺体、致命傷になった傷口などの証拠写真を、プロジェクターで法廷に大写しにした。来春始まる裁判員制度を見据えた「見せる法廷」の取り組み。制度開始に向け、さらに証拠の示し方などを検討するという。

(略)

 検察側は傍聴席に向けたモニターに、大量に出血して倒れた男性の遺体や首の傷口、血痕の写真などを次々に映写。犯行状況を詳しく再現した。論告では、現場状況を「血の海」と表現し、「残忍極まりない犯行」として懲役14年を求刑した。

 傍聴した男性の父親は公判で「(写真を)目を開けて見られなかった」と意見陳述した。地検からは事前に、写真の使用の是非などについて意見を聞かれていたといい、公判後の取材に「事件の悲惨さ、犯行の悪質さをよく伝えてくれた」と評価した。

 福岡地検は「裁判員は事実認定だけでなく、量刑判断も担う。起訴状の『刃物で切りつけた』との文言だけでは伝わらない悲惨な実態を伝えようとした。今後も、どの証拠をどの程度まで示すか検討を重ねたい」と話している。

裁判員制度へ向けてこういう取り組みが行われるというのは、嫌な感じがする。
出血の量など、どこにどの程度傷を受けたかで決まるわけで、現場が「血の海」だからといって、「残忍極まりない犯行」だと判断できるのか。
「残忍」かどうかは、前後の状況で判断されるべきであって、現場の視覚的な状況から感覚的に判断されるべきではない。
「傍聴席に向けたモニターに、大量に出血して倒れた男性の遺体や首の傷口、血痕の写真などを次々に映写」「犯行状況を詳しく再現」などというのは、”ワイドショー的””週刊誌的”発想だと思う。

 法廷取材を続ける作家の佐木隆三さんは「裁判員に強い印象を残す点で検察側には有効な手法だろう。厳罰化への懸念など、裁判員への影響を考え、証拠として写真を示すことに慎重な意見もあるが、裁判官と裁判員は対等な立場で評議すべきだ。見るに堪えないものも見ることが、裁くことの重みだ」と話した。

佐木隆三の想像力が週刊誌レベルってことだ。

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2008年4月28日 (月)

macskaさんへの応答

 2点ほど。
 まずは、簡単な方から。

 あ、ひとつだけ。ドーキンスからの引用で「実際のところ、ワラックのこの本につけるのならば、『イスラム穏健派という神話』のほうが適切だったかもしれないが」という部分がありますが、これはおそらく誤訳です。ワラックの主張は「イスラムに穏健派は存在しない(穏健派とされる人たちは実はそれほど穏健ではない)」ではなく、「イスラムは本来穏健な教義を持つ宗教であるという主張は間違っている」というものですから、「穏健なイスラムという神話」と訳されるべきです。

Patrick Sookhdeoの記事を見つけました。

The myth of moderate Islam

そうですね。「神は妄想である」にも引用されていますが

「イスラムは平和」というマントラ(お経)はほとんど1400年時代遅れのものになってしまった。

という一文もあるので、「穏健なイスラムという神話」の方が正しいと思います。

 しかし、ドーキンスが

「テロリズムの真の原因は、国際的な経済体制や過去の植民地主義、貧困や米国の軍事政策である」という主張を否定し

という書き方は、やはりいただけません。
 アメリカとイスラム国家の対立の「原因」として、「 国際的な経済体制や過去の植民地主義、貧困や米国の軍事政策」を無視するのは馬鹿げたことですが、ドーキンスが論じているのは、そのような対立の「原因」ではなく、自爆テロのような過激で狂信的な行動に走らせる「原因」であると解釈するのが自然だと思います。そう解釈すれば、「 国際的な経済体制や過去の植民地主義、貧困や米国の軍事政策」ではなく、宗教を「原因」として論ずるのは、さほど偏った態度とは思えませんし、やはりmasckaさんの書き方は(意図的にではないと思いますが)いささかミス・リーディングだと思うのです。

 
 次。前の文章ではちゃんと書いていなかったことを書きます。
 私がmacskaさんの文章に納得できないものを感じたのは、以下の文章のように、一部の無神論者の非寛容性を強調することによって、「無神論」自体が本質的に非寛容性を持っていると主張しているように見えるというところです。

【引用】
わたしが参加しているグループでも、大統領選挙に出馬しているバラック・オバマ上院議員の話題になったときにこのことは痛感した。そのころメディアではオバマの通っている教会の牧師だった人物の発言が「反米的」として問題とされていた。しかし、その教会が米国で最も悲惨な貧困地域の一つであるシカゴのハイドパークにある、貧しい黒人たちが多く集まる教会であることを考えれば、牧師が米国という国の人種的・経済的な不正義を厳しい口調で糾弾するのはまったく不思議ではない。ところがこのグループの人たちは、「あの牧師は狂っている」「これだから宗教者は」と、まったくその文脈を理解しようともせず、切り捨てるように口にしていた。

こうした政治的傾向は、西欧において近年目立ってきている排外的・不寛容的なリベラリズムの高まりを思い起こさせる。二年前、イスラム教の預言者ムハンマドを風刺したイラスト掲載の是非をめぐりヨーロッパ各地で大きな騒動が起きたことがその典型だが、「言論の自由」のほかにも「男女平等」や「同性愛者の権利擁護」といった美名を掲げつつ、そういった近代的価値観を「理解しない、共有できない」とされたイスラム系移民ら--実際には、そもそも自由や平等の価値がかれらにも対等に適用されているとは言い難い--を排斥しようとする主張は、ヨーロッパにおいて一部のフェミニストや同性愛者の権利擁護運動家らからも挙がっている。
【引用終わり】

【引用】
無神論者たちのふるまいは、信仰者のそれと何ら変わらないのではないか--すなわち無神論者たちは、無神論という新しい宗教の信者であり、その他の宗教の信者と本質的に何ら変わらないのではないか--という問いかけは、多くの人が直感的に感じるものだ。それに対し、いかに「無神論は信仰を否定し、理性による現実把握を推奨しているのだ」と反論しようとも、現実に「原理主義的な」としか形容しようのない無神論者が多くいるのだから、一般にそういう印象を与えてしまうのは仕方がない。
【引用終わり】

【引用】
こうしたユートピア思想と選民思想(自分たちこそ最も優れた人間であるという思い込み)は、わたしが参加しているグループにおいても頻繁に感じた。かれらから見れば、宗教を信仰している人はそれだけでかれらより非理性的であり、冷笑するしかない対象なのだ。このままいくと、迷える子羊=信仰者を救うために無神論の布教活動でもはじめかねない。そうした意識の大部分は、オバマの通っていた教会の牧師が過激な「米国主流社会」糾弾発言を繰り返すのと似たような文脈において形作られたもので、それなりに共感できないことはない。けれど、それが抑圧や貧困に抵抗するために信仰を必要としている人への不寛容に容易に繋がることには懸念を感じる。

しかしヘッジズの指摘はそれだけにとどまらない。かれによれば、ドーキンスら「新しい無神論者」たちは、人間が理性と感性、善と悪、意識と無意識といった矛盾した性質を持ち合わせているものだということを見失っている。そうした矛盾した性質のどちらか一方を強引に抹消しようとしても、その先に待ち受けているのは、ユートピアではなく宗教戦争やスターリニズムのような悲劇でしかない。中願派仏教の観点からも、ヘッジズのこうした人間理解にはとても納得がいく。
【引用終わり】

 また、macskaさんは あとの文章でも

別の機会にきっちり論証したいと思いますが、わたしには「新しい無神論者」の多くは非束縛的価値観を暗黙の前提としているように見えるし、過程における不寛容さや鈍感さはそうした価値観のなせるわざだと思うのです。

と、無神論者の「不寛容さや鈍感さ」を強調しています。

 無神論者の「非寛容性」に対する批判は、よく目にしますが、あまり意味のある批判だと思えません。無神論者が「非寛容」であるとすれば、それは宗教の「非寛容性」に対してです。無神論者が宗教を批判するのは、宗教が(おそらくは本質的に)持つ非寛容性のためであって、無神論者に対して「非寛容だ」と非難するのは、「悲寛容に対して非寛容だ」と非難するようなものだと思います。我々は、非寛容に対しても寛容であるべきなのでしょうか?
 
 無神論者の「非束縛的価値観」云々というのも、私にはよく分かりません。

  Sowell は過去数世紀の欧米政治思想史を遡りつつ、そうした左翼と右翼--と言うより、進歩主義と保守主義と言った方がいい--の対立の由来を、それぞれの陣営が前提とする根本的な人間観・世界観の相違に求める。かれによれば、進歩主義の土台には人間の限りない可能性を信じる「非束縛的」価値観があるとし、政治的・経済的環境さえ正しく整えれば人々はより優れた存在へと向上できる--そして、そのことによってより幸福になれる--という信念を持つ。逆に保守主義は人間は生まれつき与えられた能力や性質に制約されているとする「束縛的」価値観を前提とし、人々を向上させることではなく、それぞれの能力や性質に応じて人々を適切に配置することが政策的目標となる。

  無神論者が既存の価値観(の一部)を否定するとしても、生物学的な制約までは否定しないでしょう。事実、ドーキンスやE・O・ウィルソンのようなダーウィニストは、「生物学的決定論者」と左翼側から批判されたわけです(ドーキンスたちのようなダーウィニストは、現実社会の差別を肯定するような政治的主張をしているわけではありませんから、このような批判は的外れだと思いますが)。「政治的・経済的環境さえ正しく整えれば人々はより優れた存在へと向上できる」と考える「非束縛的価値観」の持ち主という記述は、S・J・グールドやルウォンティンのような生物学者に関してはある程度妥当といえるかもしれませんが、ドーキンスには当てはまらないでしょう。

 また、

ドーキンスら「新しい無神論者」たちは、人間が理性と感性、善と悪、意識と無意識といった矛盾した性質を持ち合わせているものだということを見失っている

というヘッジズの指摘も、無神論者に対する批判としては典型的なものですが、的を射たものとは思えません。ドーキンスは「神は妄想である」において、「宗教のダーウィン主義的な生存価」という観点から、なぜ宗教のような一見不合理で矛盾していると思われるものが存在するのかを検討しているのですから。

 結局のところ、私にはmacskaさんが宗教に関してどういう立場をとろうとしているのか、よく分かりません。キリスト教もイスラム教もダメ、無神論もダメ。となると、「中願派仏教」で行こう、ということなのでしょうか。私には、あまり魅力的な選択とは思えませんね(ナーガルージュナは面白いと思いますが)。全ての人間に「中願派仏教」を押しつけようとすれば、結局、キリスト教やイスラム教と変わらないことになるでしょう。まして、宗教に関しては日本人的なアイマイな立場を取り続けるのが吉だ、というのでは、宗教に対する有効な批判ができるとは思えません。

 とりあえず、私の方は、この件について書くのはこれで終わりにします。
 反論の方はご自由にどうぞ。

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2008年4月26日 (土)

再び「神は妄想である」について

macskaさんが、アメリカの無神論者について書いていて

米国を席巻する「新しい無神論者」の非寛容と、ほんの少しの希望

その中で、リチャード・ドーキンスの「神は妄想である」について触れている部分が変だったので、批判しようと思っていたら、先に弁明されてしまった。

「新しい無神論者」エントリのブクマコメントに一斉お応え

「新しい無神論者」エントリのブクマコメントに一斉お応え(2)

今でもあまり納得し、色々言いたいことはあるのだが、なんだかめんどくさくなってしまったので、手短にすませる。

一番変だと思ったのは最初の文書の以下の箇所。

ドーキンスらによれば、肝心なことは理性を尊重し、根拠の無いことを事実だと信仰しないことだという。たとえばスターリンら共産政権の指導者たちはたしかに無神論者ではあったかもしれないが、恐怖政治や個人崇拝の制度を作り、かれら自身が信仰の対象--理性の審判を受け付けないもの--となってしまったために間違いをおかした。すなわち対象が神であれ指導者であれ問題なのは信仰であり、理性こそ世界のあらゆる問題に対する答えなのだという。

こうしたユートピア思想と選民思想(自分たちこそ最も優れた人間であるという思い込み)は、わたしが参加しているグループにおいても頻繁に感じた。

前半の文章がどうして「ユートピア思想と選民思想」に繋がるのかサッパリ分からない。「理性こそ信頼すべきものである」という主張は、「理性さえあれば理想の社会が築ける」とか「理性を持った者こそが世界の支配者になるべきである」といった主張とは全く別物である。

それから、2番目の文章の以下の箇所。

しかしドーキンスも『神は妄想である』英語版 p.307 でイスラム研究者を引用してコーラン解釈に踏み込み、「穏健なイスラム教という神話」という表現を使っています。また、イスラム教特有の性質ではないにせよ同 p.302-306 では一部の論者がよく言う「テロリズムの真の原因は、国際的な経済体制や過去の植民地主義、貧困や米国の軍事政策である」という主張を否定し、「宗教が」原因であると言っています。

 かなりミス・リーディングな書き方だと言わざるを得ない。日本版の該当箇所の前後を引用するので、ドーキンスの言わんとしたことがどのようなものであるか、各自判断されたい。「神は妄想である」の内容については、私が以前に書いた「池澤夏樹の欺瞞 -ドーキンスを擁護する-」も参照のこと。

 宗教上の信念は、それが宗教上の信念であるというだけの理由で尊重されなければならないという原則を受け入れているかぎり、私たちはオサマ・ビン・ラディンや自爆テロ犯が抱いている信念を尊重しないわけにはいかない。ではどうすればいいのか、といえば、こうして力説する必要もないほど自明なことだが、宗教上の信念というものをフリーパスで尊重するという原則を放棄することである。
それこそが、私がもてるかぎりの力をつくして、いわゆる「過激主義的な」信仰に対してだけでなく、信仰そのものに対して人々に警告を発する理由のIつなのである。「中庸な」宗教の教えは、それ白身には過激なところはなくとも、門を開けて過激主義を差し招いているのである。
 ただここで、宗教上の信念になんら特別なところがあるわけではない、という反論が出てくるかもしれない。自分乃国や民族集団に対する愛国主義的な信条もまた、それ独白の過激主義に都合のいい世界をつくろうとすることがありえる、そうじゃないのか? そう、日本の神風特攻隊やスリランカのタミール・タイガーのように、そういうこともありうるのだ。しかし、宗教上の信念は合理判断を沈黙させるもっとも有効な手段であり、通常、他のあらゆるものに勝つ切り札のように見える。私の思うに、これはもっぱら、死が終わりではなく、殉教者の行く天国はとりわけ栄光に満ちたものであるという、安易で魅惑的な約束のゆえであろう。しかし、宗教上の信念がまさにその本性において、疑問を抱くことを抑圧するというのも、理由の一部になっている。
 キリスト教は、あるいはイスラム教でもまったく同じことであるが、疑問を抱かない無条件の信仰こそ美徳であると、子供たちに教える。こと信仰の問題に関しては、自分が信じていることを論証する必要はなし。もし誰かが、それは自分の信仰の一部であると宣言すれば、その社会の残りの人間は、同じ信仰を持っていようが、別の信仰を持っていようが、あるいは無宗教だろうが、根深い慣習によって、疑問を発することなくそれを「尊重」するよう強いられる。ただしそれは、世界貿易センタしビルの破壊、あるいはロンドンやマドリードの爆破事件などにおける犬虐殺という形でその信仰が表明される目がこないかぎりのことである。そういう事態が起きたいま、この過激主義が「真の」信仰からの逸脱であると説明するために、聖職者や「共同体の指導者」 (ついでながら、誰が彼らを選んだのか?)たちが雁首を揃えて、白分たちはかかわりがないとしう大合唱がなされている。しかし、もし信仰が客観的な正当化の理由を欠き、何か逸脱かについていかなる明白な基準ももたないのであれば、そもそも信仰の逸脱なるものがなぜ存在しうるのか?
  10年前のこと、イブン・ワラックはその『なぜ私はイスラム教徒でないか』というすばらしい本の中で、深い学識をもつイスラム学者としての立場から、同じような論証をおこなった。実際のところ、ワラックのこの本につけるのならば、『イスラム穏健派という神話』のほうが適切だったかもしれないが、その表題は、もっと最近の《ロンドソ・スペクテーター》紙(二〇〇五年七月三〇目付け)に掲載された別の学者、イスラム教学・キリスト教学研究所所長のパトリック・スツクデオの記事の実際の表題として用いられている。「現代のイスラム教徒の圧倒的多数は、暴力に頼ることなく生活を送っており、コーランは方々から寄せ集めた選集のようなものである。もしあなたが平和を求めるなら、平和的な詩句を見つけることができる。もしあなたが戦争を求めるなら、好戦的な詩句を見つけることができる」。
  (略)      
 より一般的に言えば(そして、これはイスラム教だけでなく、キリスト教にも同じようにあてぱまる)、本当の意味で有害なのは、子供に信仰そのものが美徳であると教えることである。信仰は、それがいかなる正当化の根拠も必要とせず、いかなる議論も許さないという、まさにその理由によって悪なのである。子供に、疑問を抱かない絶対的な美徳であると教えることは、彼らに--手に入れることがむずかしくないいくつかのその他の要素が与えられれば--、将来のジハードまたぱ十字軍のための潜在的な凶器となるべく育つ素地を与えることにほかならない。(略)

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2008年4月25日 (金)

聖火と非聖火のあいだ

 科学書としては異例のベストセラーとなった、「聖火と非聖火のあいだ」から引用する。
 科学者が書いたとは思えない、文学的香気溢れる文章を堪能してもらいたい。

  よく私たちはしばしば聖火を受け継ぐとき、「お変わりありませんね」などと挨拶を交わすが(交わさないか)、数秒ほど会わずにいれば、分子のレベルでは聖火はすっかり入れ替わっていて、お変わりありまくりなのである。かつて聖火の一部であった原子や分子はもうすでに聖火の内部には存在しない。

  聖火とは何か?それは受け継がれる火である。私たちは聖火をそのように定義した。
  ならば聖火はまったく不変で、ギリシャで点火されて中国に着くまで、同一な原子で構成されたまま不動なのだろうか。そうではない。その内部では常に分子と原子の交換がある。

 秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない。

 聖火とは動的平衡にある流れである。

 聖火という名の動的な平衡は、それ自体、いずれの瞬間でも危ういまでのバランスをとりつつ、同時にギリシャから中国までを一方的にたどりながら折りたたまれている。 これを乱すような政治的介入を行えば、動的平衡は取り返しのつかないダメージを受ける。
  私たちは、欽ちゃんの走りの前に跪く以外に、そして欽ちゃん走りのありようをただ記述すること以外に、なすすべはないのである。それは実のところ、あの少年の日々からすでにずっと自明なことだったのだ。
 

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2008年3月20日 (木)

家族で殺しあう日本?

Apemanさんのところの記事の関連で。

岩見隆夫「サンデー時評」のインチキ

 で、何かその手のデータを以前見たことがあるなと思い、本を探して見つけたのが以下のデータ。『進化と人間行動』(長谷川寿一 長谷川眞理子)より。

Data_3

 図7.4の円グラフは,1972年のデトロイトと1955年の日本,そして1990~94年の日本全体における殺害者と被害者の関係を分類した結果を示しています.デトロイトでは,被害者は知人,見知らぬ人,家族・親族の順になっていて,血縁者間の殺人は全体の8%程度にすぎません.ところが1955年の東京と1990~94年の日本全体では,血縁者殺人がそれぞれ約40%と約25%を占めています.とくに1955年では,血縁者を殺した件数が,知人殺しとほぼ同じくらいもありました.

  岩見隆夫の理屈だと、1990~94年の日本と比べると1955年の日本は「家庭は崩壊どころか、事件の現場」だった、ということになる。
  さらに、岩見の理屈だと、1955年の日本も1990~94年の日本も、1972年のデトロイトと比べると「恐ろしい社会」だ、ということになってしまいますな。
 
注1)『進化と人間行動』のデータは、1955年のものが「780件分の判例資料」、1990~94年のものが「警視庁の犯罪統計(3000件以上)」と、出所が異なるので、その点は留意が必要かも。
注2)上記のデータは、血縁淘汰の観点から、血縁者どうしが殺しあうことは実際には少ない、ということを論じている箇所で提示されており、上での議論とは異なる文脈で使われているということも断っておく。
注3)同書では、日本は他の先進国と比べて母親による嬰児殺しが多い、という事実も示されており、「血縁者間の殺人」のデータを解釈する際は、その点にも留意する必要があると思われる。 

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2008年2月24日 (日)

養老孟司の支離滅裂発言

 というわけで、前の続き。「週刊文春」2006.1.6号の「女性・女系天皇 識者14人 私はこう考える」という記事から、養老孟司の発言。

賛成とか反対ということではなくて、本当は何も言いたくありませんな。この特集もそうですが、そもそも天皇家について、気軽に論じていいものか。天皇陛下のためにと、大勢の人が死んでいったことを、私はまだ記憶している世代です。

「天皇陛下のためにと、大勢の人が死んでいったことを記憶している」ということと、「天皇家について、気軽に論じていいものか」ということが、どう繋がるのかサッパリ分かりませんな。むしろ、「大勢の人が死んでいったことを記憶している」世代の人間こそ、活発に議論すべきだと思うのだが。

現代人はなんでも言葉にできると信じています。昨今の「女帝」に関する議論も、それは言葉です。しかし、天皇とは日本の伝統そのものであり、伝統とは安易に言葉に表現しがたいものでもあります。

伝統っていうのは、言葉によって受け継がれるものだと思うのだが。言葉なしでどうやって伝統を受け継ぐことができるんだ?「日本書紀」や「神皇正統記」をどう考える?

メディアの言葉とは、勝手の「国体」が現在では国民体育大会を意味するようになるくらい、いい加減なもの。

養老先生、その例えってチョットどーよ。もしかして、笑わそうとしてる?

皇室典範に関する有識者会議も、ルールがなければやっていけない、逆にルールさえ決めれば問題は解決という、現代人の悪癖がモロに出てませんか?たとえばここ十年で法律は山ほどできましたが、それでわれわれの生活がよくなり、ものをちゃんと考えるようになりましたか?

天皇の存在によって、われわれの生活がよくなり、ものをちゃんと考えるようになりましたか?

必要に迫られるまでじっとしていることも、人生の知恵のひとつです。必要に迫られれば、しばしば解決策は明らかになるからです。皇太子さまが即位されてから、後嗣を公に決めても遅くはない。

「必要に迫られるまで」戦争を終わらせようとしなかったから、アメリカに原爆を落とされてしまったのだが。

なぜいま結論を急ぐのか、その説明が不足だから、余計な議論が起こるのでしょう。

「気軽に論じるな」という一方で、「説明不足」を問題にするの?

公とは古くは天皇「家」という意味です。家制度を消した憲法のもとで、天皇家のあり方を考えるのはむずかしい。

憲法に「家制度」を書き込めって言うの?それって、「ルールさえ決めれば問題は解決という、現代人の悪癖」じゃないの?そもそも、「憲法」って「言葉」そのものでしょうが。「伝統」とか「憲法」とか、「言葉」の問題であるものを、「言葉はいい加減だから無意味」と、「言葉」で批判するって、どーよ。養老先生、なんかヘンだと感じなかった?

本来は天皇家のお話し合いで決めるべきことでしょうが、これ以上は私の言うべきことではないと思います。

「天皇家のお話し合い」は「言葉」じゃないのかね。それとも「天皇家」の「言葉」は、我々下々の人間の「言葉」とは別物だってこと?

最後に一言。 「養老先生、正気ですか?」

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「天皇家」は「神」である

 Apemanさんのところに書いたコメントの続き。長くなるので、こっちに書く。
  日本において、(ドーキンスが「神は妄想である」で批判しているのと同じ意味で)「神」にあたるものは何か、というと、やはり「天皇家」ということになると思う。「宗教」と名が付くからといって、神道の神や仏様のことだという風に考えると、ドーキンスの批判は、日本においてはあまり意味のないものになってしまう。「欧米は一神教で非寛容だからな。日本は”八百万の神”で、寛容だからあんまり関係ないや」という、ノーテンキな態度は、実際にネット上でもよく見かけるのである。
  現在においても「天皇家」が日本における「神」である、ということの証左は、「皇室典範」問題のときの”文化人”の反応である。今となっては、何の騒ぎだったんだという感のある「女性・女系天皇」の議論だが、振り返って見てみると、なかなか面白いのだ。
  というわけで、「週刊文春」2006.1.6号の「女性・女系天皇 識者14人 私はこう考える」という記事から、いくつか”識者”の発言を見てみよう。ちなみに、この記事での”識者”は、倉田真由美(ここでは取り上げないが)まで含む、非常にレンジの広いものである(笑)。

徳岡孝夫
 私は「天皇」という存在に、古代から続き、これからも永遠に続いていく日本の「家長」を感じています。これは心のありようで、理屈で判断できない。(略)
 
伊藤理佐
 「なんとなく反対」です。論理とか理屈よりも先に、「百二十五代」も続いてきたのに、もったいない!という気持ちがどうしても前に出てしまう。(略)

 
林真理子
 天皇という存在は、日本人の精神性に深く関わりあっていて、女性・女系天皇は、その部分を否定するものだと思います。それを認めたらなんの”有難味”もなくなってしまう。
  皇室に”改革”なんて必要ないんです。女性・女系天皇に賛成する人たちは相撲の土俵に女たちを上がらせられないのはなぜだ、と言っているのとまったく同じ。天皇とは、日本だけにしかいない、簡単に割り切れない、神がかった摩訶不思議な存在なんです。だから、”有難味”がある。
  (略)

  私は、これまで続いてきた男系は続けるべきで、どうしても繋がらなかったら、いっそのこと廃止するしかないと思う。このまま、皇室への尊敬や”有難味”がなくなってしまえば、それもやむを得ないのかもしれません、悲しいけれれど。 

  さて、私の言いたいことが分かっていただけただろうか。そろいもそろって「理屈ではない」ということを強調しているのが、実に興味深い。「神様」や「仏様」にだってこんな態度はとらないだろう。
  (ところで、上の林真理子の発言は、考えてみたら、とんでもない”不敬”発言だな。有難味がなくなったら、天皇家の意味がない、男系が途絶えたら天皇家廃絶もやむなし、っていうんだから。これで、公に「女性・女系天皇」が認められたら、林真理子はどういう態度をとったのだろうかと思うと、議論がウヤムヤになってしまったのが残念ですな。)
 
  上の発言のほかに、養老孟司の支離滅裂発言が非常に面白いのであるが、あまりにもツッコミどころ満載なので、別項を立てて扱う。

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