2点ほど。
まずは、簡単な方から。
あ、ひとつだけ。ドーキンスからの引用で「実際のところ、ワラックのこの本につけるのならば、『イスラム穏健派という神話』のほうが適切だったかもしれないが」という部分がありますが、これはおそらく誤訳です。ワラックの主張は「イスラムに穏健派は存在しない(穏健派とされる人たちは実はそれほど穏健ではない)」ではなく、「イスラムは本来穏健な教義を持つ宗教であるという主張は間違っている」というものですから、「穏健なイスラムという神話」と訳されるべきです。
Patrick Sookhdeoの記事を見つけました。
The myth of moderate Islam
そうですね。「神は妄想である」にも引用されていますが
「イスラムは平和」というマントラ(お経)はほとんど1400年時代遅れのものになってしまった。
という一文もあるので、「穏健なイスラムという神話」の方が正しいと思います。
しかし、ドーキンスが
「テロリズムの真の原因は、国際的な経済体制や過去の植民地主義、貧困や米国の軍事政策である」という主張を否定し
という書き方は、やはりいただけません。
アメリカとイスラム国家の対立の「原因」として、「 国際的な経済体制や過去の植民地主義、貧困や米国の軍事政策」を無視するのは馬鹿げたことですが、ドーキンスが論じているのは、そのような対立の「原因」ではなく、自爆テロのような過激で狂信的な行動に走らせる「原因」であると解釈するのが自然だと思います。そう解釈すれば、「 国際的な経済体制や過去の植民地主義、貧困や米国の軍事政策」ではなく、宗教を「原因」として論ずるのは、さほど偏った態度とは思えませんし、やはりmasckaさんの書き方は(意図的にではないと思いますが)いささかミス・リーディングだと思うのです。
次。前の文章ではちゃんと書いていなかったことを書きます。
私がmacskaさんの文章に納得できないものを感じたのは、以下の文章のように、一部の無神論者の非寛容性を強調することによって、「無神論」自体が本質的に非寛容性を持っていると主張しているように見えるというところです。
【引用】
わたしが参加しているグループでも、大統領選挙に出馬しているバラック・オバマ上院議員の話題になったときにこのことは痛感した。そのころメディアではオバマの通っている教会の牧師だった人物の発言が「反米的」として問題とされていた。しかし、その教会が米国で最も悲惨な貧困地域の一つであるシカゴのハイドパークにある、貧しい黒人たちが多く集まる教会であることを考えれば、牧師が米国という国の人種的・経済的な不正義を厳しい口調で糾弾するのはまったく不思議ではない。ところがこのグループの人たちは、「あの牧師は狂っている」「これだから宗教者は」と、まったくその文脈を理解しようともせず、切り捨てるように口にしていた。
こうした政治的傾向は、西欧において近年目立ってきている排外的・不寛容的なリベラリズムの高まりを思い起こさせる。二年前、イスラム教の預言者ムハンマドを風刺したイラスト掲載の是非をめぐりヨーロッパ各地で大きな騒動が起きたことがその典型だが、「言論の自由」のほかにも「男女平等」や「同性愛者の権利擁護」といった美名を掲げつつ、そういった近代的価値観を「理解しない、共有できない」とされたイスラム系移民ら--実際には、そもそも自由や平等の価値がかれらにも対等に適用されているとは言い難い--を排斥しようとする主張は、ヨーロッパにおいて一部のフェミニストや同性愛者の権利擁護運動家らからも挙がっている。
【引用終わり】
【引用】
無神論者たちのふるまいは、信仰者のそれと何ら変わらないのではないか--すなわち無神論者たちは、無神論という新しい宗教の信者であり、その他の宗教の信者と本質的に何ら変わらないのではないか--という問いかけは、多くの人が直感的に感じるものだ。それに対し、いかに「無神論は信仰を否定し、理性による現実把握を推奨しているのだ」と反論しようとも、現実に「原理主義的な」としか形容しようのない無神論者が多くいるのだから、一般にそういう印象を与えてしまうのは仕方がない。
【引用終わり】
【引用】
こうしたユートピア思想と選民思想(自分たちこそ最も優れた人間であるという思い込み)は、わたしが参加しているグループにおいても頻繁に感じた。かれらから見れば、宗教を信仰している人はそれだけでかれらより非理性的であり、冷笑するしかない対象なのだ。このままいくと、迷える子羊=信仰者を救うために無神論の布教活動でもはじめかねない。そうした意識の大部分は、オバマの通っていた教会の牧師が過激な「米国主流社会」糾弾発言を繰り返すのと似たような文脈において形作られたもので、それなりに共感できないことはない。けれど、それが抑圧や貧困に抵抗するために信仰を必要としている人への不寛容に容易に繋がることには懸念を感じる。
しかしヘッジズの指摘はそれだけにとどまらない。かれによれば、ドーキンスら「新しい無神論者」たちは、人間が理性と感性、善と悪、意識と無意識といった矛盾した性質を持ち合わせているものだということを見失っている。そうした矛盾した性質のどちらか一方を強引に抹消しようとしても、その先に待ち受けているのは、ユートピアではなく宗教戦争やスターリニズムのような悲劇でしかない。中願派仏教の観点からも、ヘッジズのこうした人間理解にはとても納得がいく。
【引用終わり】
また、macskaさんは あとの文章でも
別の機会にきっちり論証したいと思いますが、わたしには「新しい無神論者」の多くは非束縛的価値観を暗黙の前提としているように見えるし、過程における不寛容さや鈍感さはそうした価値観のなせるわざだと思うのです。
と、無神論者の「不寛容さや鈍感さ」を強調しています。
無神論者の「非寛容性」に対する批判は、よく目にしますが、あまり意味のある批判だと思えません。無神論者が「非寛容」であるとすれば、それは宗教の「非寛容性」に対してです。無神論者が宗教を批判するのは、宗教が(おそらくは本質的に)持つ非寛容性のためであって、無神論者に対して「非寛容だ」と非難するのは、「悲寛容に対して非寛容だ」と非難するようなものだと思います。我々は、非寛容に対しても寛容であるべきなのでしょうか?
無神論者の「非束縛的価値観」云々というのも、私にはよく分かりません。
Sowell は過去数世紀の欧米政治思想史を遡りつつ、そうした左翼と右翼--と言うより、進歩主義と保守主義と言った方がいい--の対立の由来を、それぞれの陣営が前提とする根本的な人間観・世界観の相違に求める。かれによれば、進歩主義の土台には人間の限りない可能性を信じる「非束縛的」価値観があるとし、政治的・経済的環境さえ正しく整えれば人々はより優れた存在へと向上できる--そして、そのことによってより幸福になれる--という信念を持つ。逆に保守主義は人間は生まれつき与えられた能力や性質に制約されているとする「束縛的」価値観を前提とし、人々を向上させることではなく、それぞれの能力や性質に応じて人々を適切に配置することが政策的目標となる。
無神論者が既存の価値観(の一部)を否定するとしても、生物学的な制約までは否定しないでしょう。事実、ドーキンスやE・O・ウィルソンのようなダーウィニストは、「生物学的決定論者」と左翼側から批判されたわけです(ドーキンスたちのようなダーウィニストは、現実社会の差別を肯定するような政治的主張をしているわけではありませんから、このような批判は的外れだと思いますが)。「政治的・経済的環境さえ正しく整えれば人々はより優れた存在へと向上できる」と考える「非束縛的価値観」の持ち主という記述は、S・J・グールドやルウォンティンのような生物学者に関してはある程度妥当といえるかもしれませんが、ドーキンスには当てはまらないでしょう。
また、
ドーキンスら「新しい無神論者」たちは、人間が理性と感性、善と悪、意識と無意識といった矛盾した性質を持ち合わせているものだということを見失っている
というヘッジズの指摘も、無神論者に対する批判としては典型的なものですが、的を射たものとは思えません。ドーキンスは「神は妄想である」において、「宗教のダーウィン主義的な生存価」という観点から、なぜ宗教のような一見不合理で矛盾していると思われるものが存在するのかを検討しているのですから。
結局のところ、私にはmacskaさんが宗教に関してどういう立場をとろうとしているのか、よく分かりません。キリスト教もイスラム教もダメ、無神論もダメ。となると、「中願派仏教」で行こう、ということなのでしょうか。私には、あまり魅力的な選択とは思えませんね(ナーガルージュナは面白いと思いますが)。全ての人間に「中願派仏教」を押しつけようとすれば、結局、キリスト教やイスラム教と変わらないことになるでしょう。まして、宗教に関しては日本人的なアイマイな立場を取り続けるのが吉だ、というのでは、宗教に対する有効な批判ができるとは思えません。
とりあえず、私の方は、この件について書くのはこれで終わりにします。
反論の方はご自由にどうぞ。
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