カテゴリー「社会」の記事

2008年7月15日 (火)

事件の意味

内田樹の研究室 コピーキャット社会

私はこの事件についてはすでに数回話しているが、そこで繰り返し述べたのは、これがきわめて「記号的な」事件だ、ということである。
犯人自身が「ワイドショー独占」と書いているように、「この事件は何を意味するのでしょう?」という問いかけがメディアを賑わせることそのものを目的として行われた。
そして、メディアはその目的通りに動かされている。
彼が秋葉原で人を殺したのは、人を殺すことを目的としてではない。(無差別殺人というのは、「殺すことが目的ではない」ということである)。
そうではなくて、「この殺人はいったい何を意味しているのでしょうか?」という問いを人々が立てることである。
つまり、「この殺人はいったい何を意味しているのでしょうか?」という問いを立てた人々は自動的に「事後従犯」となるように犯行は構成されているのである。
私はそれを「悪魔的」なものだと思う。

(略)

コピーキャットによる犯罪の無限の増殖を防ぐために私たちがなすべきことは、事件を「記号的に」解釈することではない。
「記号的に解釈されることをめざしてなされる事件」の発生の構造そのものを解明することである。
では、どうすればいいのかと言われても、私に確たる答えがあるわけではない。
とりあえず私に言えることは、「この事件が意味するものは?」という問いがすでに「事件の一部」をなしているという病識だけは持ち続けなければならないということである。

この人は、彼が秋葉原で人を殺したのは、人を殺すことを目的としてではない、とか、「この殺人はいったい何を意味しているのでしょうか?」という問いを立てた人々は自動的に「事後従犯」となるように犯行は構成されているのである、と言うこと自体が事件を「記号化」し「意味」づけてしまっているということに気付かないのだろうか?
それとも、気がつかないふりをしているだけなのだろうか?

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2008年6月19日 (木)

空騒ぎ

秋葉原の通り魔事件について、個人的な考えを書く。

私がこの事件で情動を揺り動かされるのは、「未来に希望が持てず自暴自棄になった男が無関係な人間を何人も殺した」という事実、その一点による。
私がこの事件について文章を書かなければならないという衝動にかられたのは、事件に対するマスコミの反応があまりにも愚劣なものだったからだ。
犯人が犯行に至るまでの様子をネットで実況したとか、事件が秋葉原で起きた、ということには全く興味がない。
そんなことはどうでもいい。

ネットの書き込みなど、この事件の本質に関係あるとは思えない。
ネット云々は、通り魔事件に識者の分析欲を刺激する目新しい意匠を付け加えるだけのものだ。
ネットに犯行予告が書き込まれて、それを多数の人間がそれを読んだからといって、それがこの事件に新しい様相を付け加えたとは思わない。
ネットで犯人の書き込みを目にした人間も、男の行動に何か影響を与えることができたわけではない。
結局、単なる傍観者に過ぎなかったのだ。
男の行動がネットの向こうにいる人間達を意識したものだったとしても、だからなんだと言うのだろう?
そこにネット社会の新しさやら現代社会の病理やらを読み取るのは自由だが、私はそういう議論には全く関心が持てない。

事件が秋葉原で起きたということも、この事件の本質とは何の関係もない。
「秋葉原の通り魔事件」において、「秋葉原の象徴的意味」に拘るのは、秋葉原に興味がある人間であって、「通り魔事件」に関心を持つ人間ではない。
「秋葉原」という、ある意味で現代日本を象徴する場所で事件が起きたという事実に、過大な意味づけがされてしまっているのではないだろうか。
私は「アキバ」にも「オタク」にも興味がないから、「秋葉原」という場所の象徴性にも、犯人の趣味嗜好にも、全く興味が持てない。

現場に居合わせた人間たちが、ケータイでパチパチ写真を撮っていたことが非難されている。
もちろん、あいつらはクズだ。
(私は野次馬とジャーナリズムの境界などという議論には興味がない。)
だが、そこに現代社会の病理を見る、といった論調に与するつもりはない。
今まで、ああいうことが起きなかったのは、単にそういう道具がなかったからだ。
タイムマシンで江戸時代に行って向こうの人間にケータイを与えたら、きっと同じようなことをするだろう。
いつの時代でも、どこの国でも、物見高くて品性が下劣な人間は存在したのだ。

そもそも私は、犯罪事件が持つ「象徴的意味を読み解く」によって「現代社会のあり方を分析する」、というような行為にいくらかでも意味があるのか、深い不信感を抱いている。
そんなことをしたところで、世の中をより善くするための役に立つとは思えない。
そういうことをするのは、この事件が歴史上の出来事になってしまった未来の人間に任せればよいのだ。

もしかしたら、私はものごとの新しさや特異性に対する感受性が欠如しているのかも知れないが、そうだとしても別に構わない。
空騒ぎにつき合わされるのはウンザリだ。

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2008年6月11日 (水)

「責任」と「原因」

「余計なことはするな」「親が謝罪する必要はない」の補足。

「責任」の議論と「原因」の議論を混同しないことが大切だと思う。
「責任」ということなら、責任は犯人にあるのであって、それ以上の議論は無意味である。
親の責任でもなければ、勤めていた会社の責任でもない。

しかし、「原因」ということであれば、色々と考えられるのであり、一つに絞る必要もない。
会社の仕事に原因があったのかも知れない。
話を大きくすれば、「格差社会」が原因と言えるのかもしれない。
ものごとの原因と言うものは、観点によって違ってくるのであって、どれか一つが本当の原因というわけではない。
とは言え、どのような観点をとっても構わないと言うことではない。
妥当な観点とそうでないものとの区別はあるはずである。
「グロ-バリゼーション」が原因だとするのは、さすがに無理がある。
ゲームや刃物が原因というのも、ほとんど無意味だろう。

気をつけなければならないのは、原因の追求が悪者探しにならないようにすることである。
原因を追究する目的は、世の中を改善することなのであって、悪人を吊るし上げることではない。
あくまでも冷静に現実の分析がなされるべきである。

仮に、「職場の過酷な労働条件」が事件の原因だということであっても、それをもって会社を批判するのには慎重であるべきだ。
会社が過酷な労働条件を雇用者に強いているならば、それ自体を批判するべきであって、今回の事件のような特異な例を前面に押し立てて批判するのは、あまりうまいやり方とは思えない。
「格差社会」が原因だ、とする場合でも同様。
事件を政治的な主張に利用している、などと勘繰られるのはつまらない。
「格差社会」を批判すべき理由は、他にいくらでもあるのだ。

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2008年6月10日 (火)

親が謝罪する必要はない

<秋葉原通り魔>「本当に申し訳ありません」 容疑者両親、謝罪 母は崩れ落ちる
6月10日21時12分配信 毎日新聞

午後7時25分、住民や報道陣約100人が囲むなか、両親はタクシーで帰宅。玄関前で会見に臨んだ。父親は「社会に与えた不安もかなりあったと思っております。本当に申し訳なく思います」と頭を下げた。そして「本日警視庁の事情聴取が終了しました。皆様にお答えできる内容はかなり難しいと思いますが、おわびだけ申し上げます」と毅然とした表情で述べた。

25歳の男がやったことで、親が謝罪する必要などない。

 記者団から「事件を防げなかったのか」などの質問が出たが、父親は「捜査の関係もあり、この場ではお答えできない」。社会的責任を問われると「謝っても謝っても償いきれません。まだ心の整理もついていない」と三度頭を下げた。加藤容疑者については「(取り調べに)正直に述べてくれればと思います」と、原因解明を捜査に託し、約5分で終了した。

何と愚劣な質問だろう。
自分の子供が通り魔になるかもしれないと思いながら、子育てをする親などいない。
私は、容疑者の両親よりも、この記者の方に殺意を覚える。

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余計なことはするな

秋葉原で通り魔事件が起きて、「今後このような事件が起こらないためには何をしたら良いのだろうか」といった議論がマスメディアで活発に行われることになるだろう。
実際、既に刃物やゲームやネットの規制だの、歩行者天国を自粛だの、といった話が出ているようだ。

私の主張は、何もするな、ということだ。
理由?

目の前の「原因」らしきに飛びついて、何らかの「対策」をとったところで無意味だからだ。
刃物を取り上げたところで、次は別のもので事件が起こるだろう。
ゲームやネットが犯人に影響を与えたという合理的な根拠はない。
歩行者天国を自粛して何になる?
池田小学校の事件の10年後に同じような事件が起きて、今度は歩行者天国だった。次がどこで起きるかは分からない。

さっきから、私が「次は」と書いているのが気になる人もいるだろう。
つまらないゴマカシはやめようじゃないか。
同じような事件は、今までも起きてきたし、これからも、また、どこかで起きるだろう。

池田小学校の事件で大騒ぎして、何か一つでも実質的な結論が出たか?
今度の事件も、ひとしきり大騒ぎして、何の結論も出ないだろう。そのうち事件の記憶も薄れた頃に、また同じような事件が起きて大騒ぎするのだろう。

「お前は被害者や被害者の家族に対する同情の気持ちはないのか?」

もちろん、同情している。
だが、私が同情したところで、誰も救われはしない。
深刻ぶって「現代社会の問題点」を論じ、情深い人間のような顔をして被害者の家族に同情してみせたところで、それは本質から目をそらした自己欺瞞に過ぎない。

「それじゃあ何もしないで手をこまねいていればいい、というのか?」

今回のような突出した事件だけに反応して、原因は何だとか、対策はどうだとか、そんな議論は馬鹿げている。
今回の事件が、他の殺人事件や傷害事件と何らかの共通性を持つもので、その中の極端な事例であるならば、この事件だけにとらわれた議論するべきではない。もっと、広い視野に立って考えるべきである。
もし、今回の事件が特異なものであるなら、対策など立てようがない。
この次に起きるのは予想のつかないような事件なのだから。
どちらにせよ、浮き足立って大騒ぎするのは無意味だ。

「何もしないよりも、効果がないとしても何らかの手を打ったほうがよいではないか?」

それじゃあ、例えば、ゲームを一切禁止にしてみたらどうなるか。
ゲームの開発者やゲーム販売店の人間が失業して、生活苦で自暴自棄になったものが通り魔事件を起こすかもしれない。
確率的には、ゲームの影響で人を殺す人間が出てくるというのよりは、こちらのストーリーの方がよほどもっともらしいと私には思えるのだが。
無意味な規制などやらないほうがいいのだ。

もし、何かをしたいというのであれば、ゲームだのネットだの、特定の「原因」を槍玉にあげるのではなく、世の中をもっと住み心地の良いものにするように努力すべきだ。
そのためには、他人を悪意によって傷つけるのをやめ、差別をなくし、なすべき義務を果たし、他人に喜びや楽しみを与えること。
特別なことではない、ごく当たり前のことである。
私が、「余計なことはするな」と言うのは、そういう意味である。
また、経済を活発にし、格差による不公平感を少なくすることも重要だ。
結局のところ、景気が良ければ犯罪に走る原因だって少なくなるのだ。
事件の原因について根拠薄弱な憶測をするよりも、経済の心配をする方がよっぽど意味があると思う。

無意味なきれいごとだ?
迂遠すぎる?
そうかもしれない。
だが、私はこれが本当のことだと信じている。

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2008年5月28日 (水)

ポジティブ教

「ニューズウィーク日本版」5.26号より。

 メールにいちいちスマイルマークの絵文字を入れるようなポジティブ志向の連中には正直イラッとする......。そんなあなたにおすすめなのが、6月に発売されるエイミー・マンのニューアルバム『@#%&! スマイラーズ』だ(記号の部分には、それぞれ好きな罵声を入れていいらしい)。

  アメリカにも「ポジティブ教」が嫌いな人間がいることを確認できてホッした。

 と言うわけで、「ポジティブ教」のカテゴリを追加しました。
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2008年5月21日 (水)

出版社と<佐藤優現象>

kmiuraさんから、「佐藤優と<左派の崩壊>」にトラックバックいただいた。

岩波書店における金光翔さんの処遇

「論文の公表後は左遷どころではなく社で問題になって辞めろ、といわれているらしい」とのこと。

岩波書店、腐ってるな。

出版社と<佐藤優現象> ということでは、以下の記事も興味深い。

首都圏労働組合 特設ブログ  「談合」としての<佐藤優現象>

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2008年5月17日 (土)

佐藤優と<左派の崩壊>

「「もう牛を食べても安心か」と「疑似科学入門」」の続きを書く前にネットを巡回していたら、kom’s logで

金光翔さんはこの論文を書いたことで勤め先の岩波で叱責を受け、編集から校正に左遷されているようである

ということを知り、ビックリしている。

左派の失策と<佐藤優現象>

金光翔の論文はこちら。

金光翔「<佐藤優現象>批判」(『インパクション』第160号(2007年11月刊)掲載)

実は、佐藤優に関してはちょっとだけ取り上げようと思っていて、『インパクション』もネタとして買ってあったのだが、このブログは政治的な話題をメインにしていないし、茂木健一郎やら福岡伸一やら江原啓之やらのせいで、そちらにリソ-スを食われてしまって、まだ準備が整っていない。

アンチナショナリズム宣言(cocolog) 続X12 週刊新潮に援護される岩波書店『世界』 佐藤優という泥沼

佐藤の言説は、難解な言葉と権威者からの引用に溢れている。たいした考えもなく行き当たりばったりで言葉を吐きまくる。更に検証不能な体験談などで埋め尽くされている。だから多弁な割に中身は陳腐で平凡。対談相手も見かけだけの佐藤に似たバカだからぼろが出ない。それを編集者や取り巻き達が隠したり賞賛したりして成り立っているのだ。

佐藤優に関しては、上の評言につきると思う。

こんな男と<連帯>しようとするなんて馬鹿げてる。

佐藤優批判に関しては、ネット上の言説も追いかけ切れてないし、私以外に適任の方がたくさんいらっしゃると思うので、あまり力を入れて書こうとは思わないのだが、<自称左派>としては黙ってもいられないので、取り急ぎこのエントリを書いてみた。

岩波書店に関しても、いくつか悪口を書こうとしていたところだったので(政治とは関係ない小ネタですけど)、そちらの方は近日中に。

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2008年5月14日 (水)

統合失調症と「被害者意識」

これはヒドイ。

内田樹の研究室 被害者の呪い
                                           

「被害者意識」というマインドが含有している有毒性に人々は警戒心がなさすぎるように思える。
以前、精神科医の春日武彦先生から統合失調症の前駆症状は「こだわり・プライド・被害者意識」と教えていただいたことがある。
「オレ的に、これだけはっていうコダワリがあるわけよ」というようなことを口走り、「なめんじゃねーぞ、コノヤロ」とすぐに青筋を立て、「こんな日本に誰がした」というような他責的な文型でしかものごとを論じられない人は、ご本人はそれを「個性」だと思っているのであろうが、実は「よくある病気」なのである。
統合失調症の特徴はその「定型性」にある。

まるで、「統合失調症は被害者意識のせいで病気になったのだ」とか「統合失調症は被害者意識があるからダメなのだ」と言っている様に読めてしまう。
統合失調症患者の「こだわり・プライド・被害者意識」は病気の結果であって、「こだわり・プライド・被害者意識」が亢進して病気になるわけではない。
また、統合失調症患者は、「オレ的に、これだけはっていうコダワリがあるわけよ」というようなことを口走り、「なめんじゃねーぞ、コノヤロ」とすぐに青筋を立て、「こんな日本に誰がした」というような他責的な文型でしかものごとを論じられない人ではない。

    症状は患者ごとにかなり多種多様であるし、なかには表面的な症状をほとんど示さない場合もあるので、臨床症状だけから分裂病の診断を下すことはほとんど不可能に近い。しかしよく注意してみると、どの症例にも例外なく認められる共通点が一つある。それは、患者の自己が確実な自己性を有してしないという点であって、これはもちろん彼の幼児期以来の対人関係の持ちかたと関係がある。この不確実な自己性という特徴は、種々の精神症状にも、患者の日常的な意識や行動にも現れて、そこに独特の分裂病的な雰囲気を作り出す。
      
『時間と自己』木村敏 P68    (*1)
 
  これらの本質的に非特異的な臨床症状以上に、自己性の不確実さという分裂病性の特徴をはっきり反映しているのは、患者が日常の対人関係の場面で示す意識の持ちかたや行動の仕方である。それは、一言でいえば「独特の不自然さ」と言ってよいだろう。あるいはブランケンブルクの症例アンネの表現を借りて、「自然な自明性が失われている」と言ってもよい(木村敏地訳『自明性の喪失』、みすず書房)。患者はその対人関係において、相手とのあいだに特有のぎこちなさを感じており、しばしばそれを「間がもたない」、「流れに乗れない」、「なにかずれている」などと表現する。患者は、周囲の人たちや事物の動静を自然にあるがままに受けとることができない。ビンスヴァンガーはこれを「事物のもとに気楽に逗留することができない」という意味での「自然な経験の一貫性の解体」と表現した(新海安彦他訳『精神分裂病』I、みすず書房、七頁)。ミンコフスキーのいう「現実との生命的接触の喪失」(村上仁訳『精神分裂病』、みすず書房、七〇頁)も、結局はこれと同じ事態を指している。
 このような分裂病者のありかたは、彼と個人的に親しく交わろうとするわれわれの心に、それ以外ではまず見られないような特別な印象を呼びおこすことが多い。(略)具体的な印象は患者によってかなりさまざまなニュアンスをおびるが、最も多いのは一種の接近遮断感、あるいは心の不通感とでもいうべき印象だろう。それからまた、患者の中でなにかが絶えず出ずっぱりの本番態勢にあって、つねに一種の近よりがたい緊迫感をただよわせている、という印象もある。患者はいつも真剣で、遊びや余裕に乏しい。仕事や勉強がうまく行かなくてぶらぶらしている患者でも、どこか思いつめて緊張しながら無為の時間を送っている、という感じがある。
 この不自然でゆとりのない内面的世界が、分裂病特有の自己性の不確実さを反映したものだということは、次のような患者たちのことばからも容易に理解できるだろう。例えばある患者は、「自分というものから一刻も眼を離すことができないのです。すこしでも眼を離したら自分がバラバラにこわれてしまいます」と言う。彼は美しいもの、自分をうっとりさせるものを極端に怖れる。それに夢中になると自分が消えてなくなるからである。別の患者は、「いつも気を張っていないと、他人がどんどん私の中に入って来て、私というものがなくなってしまう」と言うし、また別の患者は、「いつも先手先手で考えることに心掛けています。相手に先に読まれたら敗けですから」と言う。
 この先手先手の防禦的姿勢という患者の処世訓は、分裂病者の生きかたを時間的観点から考えて行く上で大きな示唆を与えてくれる。いずれゆっくり考えなければならないことだが、ここですでに、いささかの誤解を覚悟の上で公式化して言ってしまえば、分裂病者はいつも未来を先取りしながら、現在よりも一歩先を生きようとしている、と言ってよい。
 
  同 P70

  統合失調症患者の「こだわり・プライド」は、むしろ「自己性の不確実さ」に対する防衛機制である、とも考えられる。

 分裂病者は一般に現在の自己に対して否定的な態度を取る。
  (略)
 分裂病者の現状否定と未来希求のもう一つの現れとして、その日常的行動における性急さを挙げることができる。分裂病者は待つということを苦手とするようである。入院中の患者が外泊や通院を要求するときの説得困難ないらだちや、しばしば医者の助言を無視して結婚や進学を希望するときの思いつめたあせりぱ、精神科医のだれもが知っていることだろう。ここで患者が真に望んでいるのは、具体的な退院や結婚などのような、予定された将来ではない。むしろ彼らは、未知なるものとしての未来に対して激しい愉悦を示す。結婚しさえすれば、進学しさえすれば、いままでの人生とは根本的に追った未知のなにかが開けてくるだろうと考える。
 未来は、願望や憧れの対象となるだけではなく、もちろん恐怖の対象ともなる。分裂病者が他者を恐れるのは、相手が危険な人物に決まっていて、その手口がわかっているから怖いというのではない。相手がなにをするかわからないから怖いのである。他の精神病にも見られる迫害妄想とは追って、分裂病の迫害妄想では、他者は徹底的に未知なるものとして、未来の化身として怖れられている。
 
  同 P72

  統合失調症患者の「被害者意識」が、内田の言う「被害者意識」とは全く別物であることは明らかだろう。
 
  何にしろ、内田の文章の文脈で統合統合失調症を持ち出す必要性はどこにもない。それどころか、統合失調症を、文脈上ネガティブなものとして利用しているのだから極めて悪質である。

(*1)「分裂病」の語は、原文のままとした。

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2008年5月 1日 (木)

法廷のワイドショー化

「見せる法廷」遺体写真も 裁判員制度へ福岡地検が試行
2008年05月01日03時03分

 福岡地裁で30日に開かれた殺人事件の初公判で、検察側が事件直後の現場や遺体、致命傷になった傷口などの証拠写真を、プロジェクターで法廷に大写しにした。来春始まる裁判員制度を見据えた「見せる法廷」の取り組み。制度開始に向け、さらに証拠の示し方などを検討するという。

(略)

 検察側は傍聴席に向けたモニターに、大量に出血して倒れた男性の遺体や首の傷口、血痕の写真などを次々に映写。犯行状況を詳しく再現した。論告では、現場状況を「血の海」と表現し、「残忍極まりない犯行」として懲役14年を求刑した。

 傍聴した男性の父親は公判で「(写真を)目を開けて見られなかった」と意見陳述した。地検からは事前に、写真の使用の是非などについて意見を聞かれていたといい、公判後の取材に「事件の悲惨さ、犯行の悪質さをよく伝えてくれた」と評価した。

 福岡地検は「裁判員は事実認定だけでなく、量刑判断も担う。起訴状の『刃物で切りつけた』との文言だけでは伝わらない悲惨な実態を伝えようとした。今後も、どの証拠をどの程度まで示すか検討を重ねたい」と話している。

裁判員制度へ向けてこういう取り組みが行われるというのは、嫌な感じがする。
出血の量など、どこにどの程度傷を受けたかで決まるわけで、現場が「血の海」だからといって、「残忍極まりない犯行」だと判断できるのか。
「残忍」かどうかは、前後の状況で判断されるべきであって、現場の視覚的な状況から感覚的に判断されるべきではない。
「傍聴席に向けたモニターに、大量に出血して倒れた男性の遺体や首の傷口、血痕の写真などを次々に映写」「犯行状況を詳しく再現」などというのは、”ワイドショー的””週刊誌的”発想だと思う。

 法廷取材を続ける作家の佐木隆三さんは「裁判員に強い印象を残す点で検察側には有効な手法だろう。厳罰化への懸念など、裁判員への影響を考え、証拠として写真を示すことに慎重な意見もあるが、裁判官と裁判員は対等な立場で評議すべきだ。見るに堪えないものも見ることが、裁くことの重みだ」と話した。

佐木隆三の想像力が週刊誌レベルってことだ。

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2008年4月28日 (月)

macskaさんへの応答

 2点ほど。
 まずは、簡単な方から。

 あ、ひとつだけ。ドーキンスからの引用で「実際のところ、ワラックのこの本につけるのならば、『イスラム穏健派という神話』のほうが適切だったかもしれないが」という部分がありますが、これはおそらく誤訳です。ワラックの主張は「イスラムに穏健派は存在しない(穏健派とされる人たちは実はそれほど穏健ではない)」ではなく、「イスラムは本来穏健な教義を持つ宗教であるという主張は間違っている」というものですから、「穏健なイスラムという神話」と訳されるべきです。

Patrick Sookhdeoの記事を見つけました。

The myth of moderate Islam

そうですね。「神は妄想である」にも引用されていますが

「イスラムは平和」というマントラ(お経)はほとんど1400年時代遅れのものになってしまった。

という一文もあるので、「穏健なイスラムという神話」の方が正しいと思います。

 しかし、ドーキンスが

「テロリズムの真の原因は、国際的な経済体制や過去の植民地主義、貧困や米国の軍事政策である」という主張を否定し

という書き方は、やはりいただけません。
 アメリカとイスラム国家の対立の「原因」として、「 国際的な経済体制や過去の植民地主義、貧困や米国の軍事政策」を無視するのは馬鹿げたことですが、ドーキンスが論じているのは、そのような対立の「原因」ではなく、自爆テロのような過激で狂信的な行動に走らせる「原因」であると解釈するのが自然だと思います。そう解釈すれば、「 国際的な経済体制や過去の植民地主義、貧困や米国の軍事政策」ではなく、宗教を「原因」として論ずるのは、さほど偏った態度とは思えませんし、やはりmasckaさんの書き方は(意図的にではないと思いますが)いささかミス・リーディングだと思うのです。

 
 次。前の文章ではちゃんと書いていなかったことを書きます。
 私がmacskaさんの文章に納得できないものを感じたのは、以下の文章のように、一部の無神論者の非寛容性を強調することによって、「無神論」自体が本質的に非寛容性を持っていると主張しているように見えるというところです。

【引用】
わたしが参加しているグループでも、大統領選挙に出馬しているバラック・オバマ上院議員の話題になったときにこのことは痛感した。そのころメディアではオバマの通っている教会の牧師だった人物の発言が「反米的」として問題とされていた。しかし、その教会が米国で最も悲惨な貧困地域の一つであるシカゴのハイドパークにある、貧しい黒人たちが多く集まる教会であることを考えれば、牧師が米国という国の人種的・経済的な不正義を厳しい口調で糾弾するのはまったく不思議ではない。ところがこのグループの人たちは、「あの牧師は狂っている」「これだから宗教者は」と、まったくその文脈を理解しようともせず、切り捨てるように口にしていた。

こうした政治的傾向は、西欧において近年目立ってきている排外的・不寛容的なリベラリズムの高まりを思い起こさせる。二年前、イスラム教の預言者ムハンマドを風刺したイラスト掲載の是非をめぐりヨーロッパ各地で大きな騒動が起きたことがその典型だが、「言論の自由」のほかにも「男女平等」や「同性愛者の権利擁護」といった美名を掲げつつ、そういった近代的価値観を「理解しない、共有できない」とされたイスラム系移民ら--実際には、そもそも自由や平等の価値がかれらにも対等に適用されているとは言い難い--を排斥しようとする主張は、ヨーロッパにおいて一部のフェミニストや同性愛者の権利擁護運動家らからも挙がっている。
【引用終わり】

【引用】
無神論者たちのふるまいは、信仰者のそれと何ら変わらないのではないか--すなわち無神論者たちは、無神論という新しい宗教の信者であり、その他の宗教の信者と本質的に何ら変わらないのではないか--という問いかけは、多くの人が直感的に感じるものだ。それに対し、いかに「無神論は信仰を否定し、理性による現実把握を推奨しているのだ」と反論しようとも、現実に「原理主義的な」としか形容しようのない無神論者が多くいるのだから、一般にそういう印象を与えてしまうのは仕方がない。
【引用終わり】

【引用】
こうしたユートピア思想と選民思想(自分たちこそ最も優れた人間であるという思い込み)は、わたしが参加しているグループにおいても頻繁に感じた。かれらから見れば、宗教を信仰している人はそれだけでかれらより非理性的であり、冷笑するしかない対象なのだ。このままいくと、迷える子羊=信仰者を救うために無神論の布教活動でもはじめかねない。そうした意識の大部分は、オバマの通っていた教会の牧師が過激な「米国主流社会」糾弾発言を繰り返すのと似たような文脈において形作られたもので、それなりに共感できないことはない。けれど、それが抑圧や貧困に抵抗するために信仰を必要としている人への不寛容に容易に繋がることには懸念を感じる。

しかしヘッジズの指摘はそれだけにとどまらない。かれによれば、ドーキンスら「新しい無神論者」たちは、人間が理性と感性、善と悪、意識と無意識といった矛盾した性質を持ち合わせているものだということを見失っている。そうした矛盾した性質のどちらか一方を強引に抹消しようとしても、その先に待ち受けているのは、ユートピアではなく宗教戦争やスターリニズムのような悲劇でしかない。中願派仏教の観点からも、ヘッジズのこうした人間理解にはとても納得がいく。
【引用終わり】

 また、macskaさんは あとの文章でも

別の機会にきっちり論証したいと思いますが、わたしには「新しい無神論者」の多くは非束縛的価値観を暗黙の前提としているように見えるし、過程における不寛容さや鈍感さはそうした価値観のなせるわざだと思うのです。

と、無神論者の「不寛容さや鈍感さ」を強調しています。

 無神論者の「非寛容性」に対する批判は、よく目にしますが、あまり意味のある批判だと思えません。無神論者が「非寛容」であるとすれば、それは宗教の「非寛容性」に対してです。無神論者が宗教を批判するのは、宗教が(おそらくは本質的に)持つ非寛容性のためであって、無神論者に対して「非寛容だ」と非難するのは、「悲寛容に対して非寛容だ」と非難するようなものだと思います。我々は、非寛容に対しても寛容であるべきなのでしょうか?
 
 無神論者の「非束縛的価値観」云々というのも、私にはよく分かりません。

  Sowell は過去数世紀の欧米政治思想史を遡りつつ、そうした左翼と右翼--と言うより、進歩主義と保守主義と言った方がいい--の対立の由来を、それぞれの陣営が前提とする根本的な人間観・世界観の相違に求める。かれによれば、進歩主義の土台には人間の限りない可能性を信じる「非束縛的」価値観があるとし、政治的・経済的環境さえ正しく整えれば人々はより優れた存在へと向上できる--そして、そのことによってより幸福になれる--という信念を持つ。逆に保守主義は人間は生まれつき与えられた能力や性質に制約されているとする「束縛的」価値観を前提とし、人々を向上させることではなく、それぞれの能力や性質に応じて人々を適切に配置することが政策的目標となる。

  無神論者が既存の価値観(の一部)を否定するとしても、生物学的な制約までは否定しないでしょう。事実、ドーキンスやE・O・ウィルソンのようなダーウィニストは、「生物学的決定論者」と左翼側から批判されたわけです(ドーキンスたちのようなダーウィニストは、現実社会の差別を肯定するような政治的主張をしているわけではありませんから、このような批判は的外れだと思いますが)。「政治的・経済的環境さえ正しく整えれば人々はより優れた存在へと向上できる」と考える「非束縛的価値観」の持ち主という記述は、S・J・グールドやルウォンティンのような生物学者に関してはある程度妥当といえるかもしれませんが、ドーキンスには当てはまらないでしょう。

 また、

ドーキンスら「新しい無神論者」たちは、人間が理性と感性、善と悪、意識と無意識といった矛盾した性質を持ち合わせているものだということを見失っている

というヘッジズの指摘も、無神論者に対する批判としては典型的なものですが、的を射たものとは思えません。ドーキンスは「神は妄想である」において、「宗教のダーウィン主義的な生存価」という観点から、なぜ宗教のような一見不合理で矛盾していると思われるものが存在するのかを検討しているのですから。

 結局のところ、私にはmacskaさんが宗教に関してどういう立場をとろうとしているのか、よく分かりません。キリスト教もイスラム教もダメ、無神論もダメ。となると、「中願派仏教」で行こう、ということなのでしょうか。私には、あまり魅力的な選択とは思えませんね(ナーガルージュナは面白いと思いますが)。全ての人間に「中願派仏教」を押しつけようとすれば、結局、キリスト教やイスラム教と変わらないことになるでしょう。まして、宗教に関しては日本人的なアイマイな立場を取り続けるのが吉だ、というのでは、宗教に対する有効な批判ができるとは思えません。

 とりあえず、私の方は、この件について書くのはこれで終わりにします。
 反論の方はご自由にどうぞ。

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2008年4月26日 (土)

再び「神は妄想である」について

macskaさんが、アメリカの無神論者について書いていて

米国を席巻する「新しい無神論者」の非寛容と、ほんの少しの希望

その中で、リチャード・ドーキンスの「神は妄想である」について触れている部分が変だったので、批判しようと思っていたら、先に弁明されてしまった。

「新しい無神論者」エントリのブクマコメントに一斉お応え

「新しい無神論者」エントリのブクマコメントに一斉お応え(2)

今でもあまり納得し、色々言いたいことはあるのだが、なんだかめんどくさくなってしまったので、手短にすませる。

一番変だと思ったのは最初の文書の以下の箇所。

ドーキンスらによれば、肝心なことは理性を尊重し、根拠の無いことを事実だと信仰しないことだという。たとえばスターリンら共産政権の指導者たちはたしかに無神論者ではあったかもしれないが、恐怖政治や個人崇拝の制度を作り、かれら自身が信仰の対象--理性の審判を受け付けないもの--となってしまったために間違いをおかした。すなわち対象が神であれ指導者であれ問題なのは信仰であり、理性こそ世界のあらゆる問題に対する答えなのだという。

こうしたユートピア思想と選民思想(自分たちこそ最も優れた人間であるという思い込み)は、わたしが参加しているグループにおいても頻繁に感じた。

前半の文章がどうして「ユートピア思想と選民思想」に繋がるのかサッパリ分からない。「理性こそ信頼すべきものである」という主張は、「理性さえあれば理想の社会が築ける」とか「理性を持った者こそが世界の支配者になるべきである」といった主張とは全く別物である。

それから、2番目の文章の以下の箇所。

しかしドーキンスも『神は妄想である』英語版 p.307 でイスラム研究者を引用してコーラン解釈に踏み込み、「穏健なイスラム教という神話」という表現を使っています。また、イスラム教特有の性質ではないにせよ同 p.302-306 では一部の論者がよく言う「テロリズムの真の原因は、国際的な経済体制や過去の植民地主義、貧困や米国の軍事政策である」という主張を否定し、「宗教が」原因であると言っています。

 かなりミス・リーディングな書き方だと言わざるを得ない。日本版の該当箇所の前後を引用するので、ドーキンスの言わんとしたことがどのようなものであるか、各自判断されたい。「神は妄想である」の内容については、私が以前に書いた「池澤夏樹の欺瞞 -ドーキンスを擁護する-」も参照のこと。

 宗教上の信念は、それが宗教上の信念であるというだけの理由で尊重されなければならないという原則を受け入れているかぎり、私たちはオサマ・ビン・ラディンや自爆テロ犯が抱いている信念を尊重しないわけにはいかない。ではどうすればいいのか、といえば、こうして力説する必要もないほど自明なことだが、宗教上の信念というものをフリーパスで尊重するという原則を放棄することである。
それこそが、私がもてるかぎりの力をつくして、いわゆる「過激主義的な」信仰に対してだけでなく、信仰そのものに対して人々に警告を発する理由のIつなのである。「中庸な」宗教の教えは、それ白身には過激なところはなくとも、門を開けて過激主義を差し招いているのである。
 ただここで、宗教上の信念になんら特別なところがあるわけではない、という反論が出てくるかもしれない。自分乃国や民族集団に対する愛国主義的な信条もまた、それ独白の過激主義に都合のいい世界をつくろうとすることがありえる、そうじゃないのか? そう、日本の神風特攻隊やスリランカのタミール・タイガーのように、そういうこともありうるのだ。しかし、宗教上の信念は合理判断を沈黙させるもっとも有効な手段であり、通常、他のあらゆるものに勝つ切り札のように見える。私の思うに、これはもっぱら、死が終わりではなく、殉教者の行く天国はとりわけ栄光に満ちたものであるという、安易で魅惑的な約束のゆえであろう。しかし、宗教上の信念がまさにその本性において、疑問を抱くことを抑圧するというのも、理由の一部になっている。
 キリスト教は、あるいはイスラム教でもまったく同じことであるが、疑問を抱かない無条件の信仰こそ美徳であると、子供たちに教える。こと信仰の問題に関しては、自分が信じていることを論証する必要はなし。もし誰かが、それは自分の信仰の一部であると宣言すれば、その社会の残りの人間は、同じ信仰を持っていようが、別の信仰を持っていようが、あるいは無宗教だろうが、根深い慣習によって、疑問を発することなくそれを「尊重」するよう強いられる。ただしそれは、世界貿易センタしビルの破壊、あるいはロンドンやマドリードの爆破事件などにおける犬虐殺という形でその信仰が表明される目がこないかぎりのことである。そういう事態が起きたいま、この過激主義が「真の」信仰からの逸脱であると説明するために、聖職者や「共同体の指導者」 (ついでながら、誰が彼らを選んだのか?)たちが雁首を揃えて、白分たちはかかわりがないとしう大合唱がなされている。しかし、もし信仰が客観的な正当化の理由を欠き、何か逸脱かについていかなる明白な基準ももたないのであれば、そもそも信仰の逸脱なるものがなぜ存在しうるのか?
  10年前のこと、イブン・ワラックはその『なぜ私はイスラム教徒でないか』というすばらしい本の中で、深い学識をもつイスラム学者としての立場から、同じような論証をおこなった。実際のところ、ワラックのこの本につけるのならば、『イスラム穏健派という神話』のほうが適切だったかもしれないが、その表題は、もっと最近の《ロンドソ・スペクテーター》紙(二〇〇五年七月三〇目付け)に掲載された別の学者、イスラム教学・キリスト教学研究所所長のパトリック・スツクデオの記事の実際の表題として用いられている。「現代のイスラム教徒の圧倒的多数は、暴力に頼ることなく生活を送っており、コーランは方々から寄せ集めた選集のようなものである。もしあなたが平和を求めるなら、平和的な詩句を見つけることができる。もしあなたが戦争を求めるなら、好戦的な詩句を見つけることができる」。
  (略)      
 より一般的に言えば(そして、これはイスラム教だけでなく、キリスト教にも同じようにあてぱまる)、本当の意味で有害なのは、子供に信仰そのものが美徳であると教えることである。信仰は、それがいかなる正当化の根拠も必要とせず、いかなる議論も許さないという、まさにその理由によって悪なのである。子供に、疑問を抱かない絶対的な美徳であると教えることは、彼らに--手に入れることがむずかしくないいくつかのその他の要素が与えられれば--、将来のジハードまたぱ十字軍のための潜在的な凶器となるべく育つ素地を与えることにほかならない。(略)

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2008年4月25日 (金)

聖火と非聖火のあいだ

 科学書としては異例のベストセラーとなった、「聖火と非聖火のあいだ」から引用する。
 科学者が書いたとは思えない、文学的香気溢れる文章を堪能してもらいたい。

  よく私たちはしばしば聖火を受け継ぐとき、「お変わりありませんね」などと挨拶を交わすが(交わさないか)、数秒ほど会わずにいれば、分子のレベルでは聖火はすっかり入れ替わっていて、お変わりありまくりなのである。かつて聖火の一部であった原子や分子はもうすでに聖火の内部には存在しない。

  聖火とは何か?それは受け継がれる火である。私たちは聖火をそのように定義した。
  ならば聖火はまったく不変で、ギリシャで点火されて中国に着くまで、同一な原子で構成されたまま不動なのだろうか。そうではない。その内部では常に分子と原子の交換がある。

 秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない。

 聖火とは動的平衡にある流れである。

 聖火という名の動的な平衡は、それ自体、いずれの瞬間でも危ういまでのバランスをとりつつ、同時にギリシャから中国までを一方的にたどりながら折りたたまれている。 これを乱すような政治的介入を行えば、動的平衡は取り返しのつかないダメージを受ける。
  私たちは、欽ちゃんの走りの前に跪く以外に、そして欽ちゃん走りのありようをただ記述すること以外に、なすすべはないのである。それは実のところ、あの少年の日々からすでにずっと自明なことだったのだ。
 

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2008年3月20日 (木)

家族で殺しあう日本?

Apemanさんのところの記事の関連で。

岩見隆夫「サンデー時評」のインチキ

 で、何かその手のデータを以前見たことがあるなと思い、本を探して見つけたのが以下のデータ。『進化と人間行動』(長谷川寿一 長谷川眞理子)より。

Data_3

 図7.4の円グラフは,1972年のデトロイトと1955年の日本,そして1990~94年の日本全体における殺害者と被害者の関係を分類した結果を示しています.デトロイトでは,被害者は知人,見知らぬ人,家族・親族の順になっていて,血縁者間の殺人は全体の8%程度にすぎません.ところが1955年の東京と1990~94年の日本全体では,血縁者殺人がそれぞれ約40%と約25%を占めています.とくに1955年では,血縁者を殺した件数が,知人殺しとほぼ同じくらいもありました.

  岩見隆夫の理屈だと、1990~94年の日本と比べると1955年の日本は「家庭は崩壊どころか、事件の現場」だった、ということになる。
  さらに、岩見の理屈だと、1955年の日本も1990~94年の日本も、1972年のデトロイトと比べると「恐ろしい社会」だ、ということになってしまいますな。
 
注1)『進化と人間行動』のデータは、1955年のものが「780件分の判例資料」、1990~94年のものが「警視庁の犯罪統計(3000件以上)」と、出所が異なるので、その点は留意が必要かも。
注2)上記のデータは、血縁淘汰の観点から、血縁者どうしが殺しあうことは実際には少ない、ということを論じている箇所で提示されており、上での議論とは異なる文脈で使われているということも断っておく。
注3)同書では、日本は他の先進国と比べて母親による嬰児殺しが多い、という事実も示されており、「血縁者間の殺人」のデータを解釈する際は、その点にも留意する必要があると思われる。 

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2008年2月24日 (日)

養老孟司の支離滅裂発言

 というわけで、前の続き。「週刊文春」2006.1.6号の「女性・女系天皇 識者14人 私はこう考える」という記事から、養老孟司の発言。

賛成とか反対ということではなくて、本当は何も言いたくありませんな。この特集もそうですが、そもそも天皇家について、気軽に論じていいものか。天皇陛下のためにと、大勢の人が死んでいったことを、私はまだ記憶している世代です。

「天皇陛下のためにと、大勢の人が死んでいったことを記憶している」ということと、「天皇家について、気軽に論じていいものか」ということが、どう繋がるのかサッパリ分かりませんな。むしろ、「大勢の人が死んでいったことを記憶している」世代の人間こそ、活発に議論すべきだと思うのだが。

現代人はなんでも言葉にできると信じています。昨今の「女帝」に関する議論も、それは言葉です。しかし、天皇とは日本の伝統そのものであり、伝統とは安易に言葉に表現しがたいものでもあります。

伝統っていうのは、言葉によって受け継がれるものだと思うのだが。言葉なしでどうやって伝統を受け継ぐことができるんだ?「日本書紀」や「神皇正統記」をどう考える?

メディアの言葉とは、勝手の「国体」が現在では国民体育大会を意味するようになるくらい、いい加減なもの。

養老先生、その例えってチョットどーよ。もしかして、笑わそうとしてる?

皇室典範に関する有識者会議も、ルールがなければやっていけない、逆にルールさえ決めれば問題は解決という、現代人の悪癖がモロに出てませんか?たとえばここ十年で法律は山ほどできましたが、それでわれわれの生活がよくなり、ものをちゃんと考えるようになりましたか?

天皇の存在によって、われわれの生活がよくなり、ものをちゃんと考えるようになりましたか?

必要に迫られるまでじっとしていることも、人生の知恵のひとつです。必要に迫られれば、しばしば解決策は明らかになるからです。皇太子さまが即位されてから、後嗣を公に決めても遅くはない。

「必要に迫られるまで」戦争を終わらせようとしなかったから、アメリカに原爆を落とされてしまったのだが。

なぜいま結論を急ぐのか、その説明が不足だから、余計な議論が起こるのでしょう。

「気軽に論じるな」という一方で、「説明不足」を問題にするの?

公とは古くは天皇「家」という意味です。家制度を消した憲法のもとで、天皇家のあり方を考えるのはむずかしい。

憲法に「家制度」を書き込めって言うの?それって、「ルールさえ決めれば問題は解決という、現代人の悪癖」じゃないの?そもそも、「憲法」って「言葉」そのものでしょうが。「伝統」とか「憲法」とか、「言葉」の問題であるものを、「言葉はいい加減だから無意味」と、「言葉」で批判するって、どーよ。養老先生、なんかヘンだと感じなかった?

本来は天皇家のお話し合いで決めるべきことでしょうが、これ以上は私の言うべきことではないと思います。

「天皇家のお話し合い」は「言葉」じゃないのかね。それとも「天皇家」の「言葉」は、我々下々の人間の「言葉」とは別物だってこと?

最後に一言。 「養老先生、正気ですか?」

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「天皇家」は「神」である

 Apemanさんのところに書いたコメントの続き。長くなるので、こっちに書く。
  日本において、(ドーキンスが「神は妄想である」で批判しているのと同じ意味で)「神」にあたるものは何か、というと、やはり「天皇家」ということになると思う。「宗教」と名が付くからといって、神道の神や仏様のことだという風に考えると、ドーキンスの批判は、日本においてはあまり意味のないものになってしまう。「欧米は一神教で非寛容だからな。日本は”八百万の神”で、寛容だからあんまり関係ないや」という、ノーテンキな態度は、実際にネット上でもよく見かけるのである。
  現在においても「天皇家」が日本における「神」である、ということの証左は、「皇室典範」問題のときの”文化人”の反応である。今となっては、何の騒ぎだったんだという感のある「女性・女系天皇」の議論だが、振り返って見てみると、なかなか面白いのだ。
  というわけで、「週刊文春」2006.1.6号の「女性・女系天皇 識者14人 私はこう考える」という記事から、いくつか”識者”の発言を見てみよう。ちなみに、この記事での”識者”は、倉田真由美(ここでは取り上げないが)まで含む、非常にレンジの広いものである(笑)。

徳岡孝夫
 私は「天皇」という存在に、古代から続き、これからも永遠に続いていく日本の「家長」を感じています。これは心のありようで、理屈で判断できない。(略)
 
伊藤理佐
 「なんとなく反対」です。論理とか理屈よりも先に、「百二十五代」も続いてきたのに、もったいない!という気持ちがどうしても前に出てしまう。(略)

 
林真理子
 天皇という存在は、日本人の精神性に深く関わりあっていて、女性・女系天皇は、その部分を否定するものだと思います。それを認めたらなんの”有難味”もなくなってしまう。
  皇室に”改革”なんて必要ないんです。女性・女系天皇に賛成する人たちは相撲の土俵に女たちを上がらせられないのはなぜだ、と言っているのとまったく同じ。天皇とは、日本だけにしかいない、簡単に割り切れない、神がかった摩訶不思議な存在なんです。だから、”有難味”がある。
  (略)

  私は、これまで続いてきた男系は続けるべきで、どうしても繋がらなかったら、いっそのこと廃止するしかないと思う。このまま、皇室への尊敬や”有難味”がなくなってしまえば、それもやむを得ないのかもしれません、悲しいけれれど。 

  さて、私の言いたいことが分かっていただけただろうか。そろいもそろって「理屈ではない」ということを強調しているのが、実に興味深い。「神様」や「仏様」にだってこんな態度はとらないだろう。
  (ところで、上の林真理子の発言は、考えてみたら、とんでもない”不敬”発言だな。有難味がなくなったら、天皇家の意味がない、男系が途絶えたら天皇家廃絶もやむなし、っていうんだから。これで、公に「女性・女系天皇」が認められたら、林真理子はどういう態度をとったのだろうかと思うと、議論がウヤムヤになってしまったのが残念ですな。)
 
  上の発言のほかに、養老孟司の支離滅裂発言が非常に面白いのであるが、あまりにもツッコミどころ満載なので、別項を立てて扱う。

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