江原啓之批判の途中なのだが、「江原啓之」でblog検索をしていたら、ものすごく不快な文章にぶつかってしまったので、一旦中断して、これを書かなけらばならない。
瀬名秀明の時空の旅
菊池さんに対しては、複雑な気持ちがありますね。私が『パラサイト・イヴ』でデビューしたころ、菊池さんは仲間たちとウェブ掲示板の書き込みをしていて、そこで私を嘲笑していました。あの掲示板はミトコンドリアを擬人化している、という批判の代表格だったのではないかな。『パラサイト・イヴ』が映画化されることが決まったときは、「ミトコンドリアはかぶり物でやるのか」と嘲笑し合っていましたね(この発言自体は菊池さんのものではありません)。
だから私は、菊池さんがニセ科学批判における笑いの効用を説いても、容易に信用することはできません。ニセ批判には笑いを浴びせよう、それが最大の批判効果をもたらす、という主張は、ときに怖ろしい凶器となることを知っているからです。相手を見くだすことで、自分を安全な高みに置き、自分を優位に立たせる、そのために嘲笑う。私はデビューして13年の間で、この習慣がSF業界に驚くほど浸透していることを知りました。菊池さんの中にもそういう感覚がいくらか残っていると私は感じます。(略)だからニセ科学批判の手段として、相手を笑うということには、私は真っ向から異を唱えたいと思います。あなたがもし、あるとき突然、人から誤解のもとに嘲笑されたらどうしますか? その心の痛手は、本当に大きいものです。だからどんなときでも人を嘲笑してはいけない。笑う人は他人から笑われるということを肝に銘じておいた方がいい。笑いたいなら権力そのものを笑えばいい。
大の大人が何甘ったれたこと言ってるんだ、というのが率直な感想である。瀬名は自分の作品が嘲笑されたことを根にもっているようだが、嘲笑だって批評のうちである。レベルが低い作品に対しては、嘲笑をもって批評するのも正しい態度の一つである。自分の作品はそんなレベルの低いものではない、誤解されている、というならそう反論すればいいだけであって、嘲笑したこと自体を非難するのは筋違いだ。「笑いたいなら権力そのものを笑えばいい」などと大層なことを言っているが、要は自分は笑われたくないというだけのことだろう。
瀬名は「ミトコンドリアはかぶり物でやるのか」という言葉にこだわっているようだ。私は『パラサイト・イヴ』は読んでいないが、おおよその内容は知っているつもりである。「ミトコンドリアを擬人化している」という批判は、おそらく正当なものだろうと思うし(村上龍と浅田彰も同じような批判をしていたはずである。別に村上と浅田が読み手として信頼できるというつもりはないが)、その表現として「ミトコンドリアはかぶり物でやるのか」という言い方をするのは、多少口汚くはあるが、批評の範囲内のものとして許されると思う。そもそも、雑誌や本の上での批評ならともかく、掲示板での書き込みなら、この程度の口汚さは普通のもので、この程度の言葉で大騒ぎする感覚は私には理解できない。 (もちろん人情としては理解できるが、そんな感情を表に出すな、ということである)
もうひとつ、SF業界に根強く残っている悪癖は「謝罪しない」ということです。私はこれでもデビューしていくらか人生経験を積み、自分が悪かったと思うことには謝罪できる心を持てるようになってきました。私は菊池さんに対して、自分が行き過ぎた言葉を過去に述べたことについては頭を下げて謝っています。しかし菊池さんはどうでしょう。他人が謝ることでまだ勝ち負けを決めているのでは。汚い言葉を自分で使っていたと感じたときは、お互いにこれからは謝ることにしませんか。
バカバカしい。謝罪などしなくて当たり前だ。こんなことでイチイチ謝罪が必要だなんてことになったら、批評など成り立たない。
瀬名に対しては、以下のマンガを捧げよう(buyobuyoさんのマネです)。
『エスパー魔美』「くたばれ評論家の巻」である。
こうして見ると、藤子・F・不二雄はやっぱり偉大だな。おそらく藤子も評論家にけなされて腹が立ったことがあったのだろうが、それを昇華して、人を感動させる作品にしてしまったのだから。
瀬名の文章の後半については、過去にkikulog等で議論されていることだから、ここでは議論しない。ただ、瀬名の「私たちが物事を信頼してゆくためには、実験しかない」という考えは、科学に対する考えとしてはあまりに素朴すぎるのではないか、とだけ言っておく。
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